私の帰る場所






 ネオン煌めく歓楽街。人は本能的に闇を嫌がるので光のある方へと誘われるままに流れていく。故に、どんなに夜が更けてもゴールデン銀座には人が絶えることはない。
 このような街のことを俗に“不夜城”と表すが、その通りだと思う。遠景のビルが摩天楼のように映り、ネオンの光が幻想的な雰囲気を醸し出している。
 街角の隅でポツリそんなくだらないことが頭を過る。
 人が大勢集まる場所こそ仕事をしていく上で重要な場所だと考えている。予想外の収穫を拾うこともあるし、思わぬ人と巡り合うこともある。ただ、今晩は残念ながら空振りのようだ。
 通りを歩いている人を眺めていても、仕事に繋がるような匂いは一向に感じられなかった。泥酔してアルコールの割合が多い息を吐いている者ならそこら中に転がっているが、時には酒の勢いで絡んでくるので鬱陶しい上に迷惑だ。
 ベロベロになるまで酔っ払った人間が闊歩していても平気なことを喜んでいいのか、それとも仕事がないことを嘆けばいいのか。
 ふと腕時計に視線を落とす。八時四十分。まだ夜も更けてきたばかりだが、今日は潮時だと思った。何かあればあちこちに貼ってある網に引っかかるだろうし、無駄に時間を潰していても仕方ない。こんな時は大人しく引き揚げるのが懸命だ。
 本音を言えば無駄だと分かっていても帰るより繁華街に留まる方が良い。人が活動している時間が仕事の時間であることに加えて、夜の方が得られる物が大きくて多い。
 だからこそ可能な限り仕事以外の時間を削った。生きていく上で必要な睡眠も食事も極力避けた。そんなことをしていたら倒れるのではないかと指摘する人もいたけど、人間とは不思議な生き物で一つのことに熱中していたら他のことが気にならなくなって、多少無茶をしても体へ影響を感じない。
 一日の大半を仕事に費やす日々が常態化していたので早めに切り上げる今日の方が違和感を覚える―――尤も、今は仕事以外に楽しみがあるのだが。
 欲望渦巻くゴールデン銀座からの帰り道、コンビニに立ち寄った。私もご他聞に漏れず都会のオアシスに癒しを求めてしまうのか、と思うと少しおかしく感じた。幾つか食べたい物を見繕ってから再び帰りの途につく。
 今の住居は繁華街からも大通りからも程近い距離にあるアパート。正直な所、滞在する時間も少ないので雨風が凌げて横になれる程の広さがある格安の場所ならどこでも構わないのだが。そのため“家”より“拠点”と呼んだ方が相応しい。
 ポケットに手を突っ込んで鍵を引っ張り出す。鉄製の無機質な物体を鍵穴に刺して捻ると難なく開錠したので扉を開けると、中から光が零れ出てくる。
 奥から駆けてくる音が耳に入り、直後に懐へ小柄な緑の固まりが飛び込んできた。
 「おかえりなさい!!リンお姉様!!」
 「ただいま。茜」
 呼びかけると体にぴったり密着して隠れていた顔が上に向き、視線が合う。すると向日葵のようにパッと明るい笑顔が花開いた。この笑顔が無性に可愛い。茜の笑う顔を見れば溜まった一日の疲れも一瞬で吹き飛ぶ。
 胸の高さにある茜の頭を優しく撫でると、一本だけぴょこんとアンテナのように立っている髪が静かに右へ左へ揺れる。茜もまた幼子のように気持ち良さそうに身を委ねている。
 背丈や仕草、加えて童顔なことで小学生と言われても一切疑いを持たないが(本人はかなり気にしているので指摘すると顔を膨らませて怒るが、その姿もまた愛くるしい)、茜は立派な高校生だ。この部屋で暮らしているが、血縁関係はない。
 さて、何故見ず知らずの他人と同じ屋根の下で生活しているのか。それには少し深い事情がある。キッカケは茜が“お兄ちゃん”と慕っている、一人の男だ。



 それは突然の呼び出しだった。
 かなり昔からの付き合いを重ねている彼から「頼みたいことがある」と神妙な口調の電話が入った。仕事で懇意にしているが、そんな声を聞いたのは初めてだった。
 余程重要な案件なのかと聞いている私も緊張が走った。とりあえず時間を作って指定された場所へ赴くと、そこには緊張した面持ちで彼が待っていた。影に隠れて幼い女性が不安そうな様子でこちらを眺めている。
 何故そんな幼女を連れているのか理解に苦しんだ。もしかしてロリコンなのかな?と半分本気で疑ったが、彼の様子にそんな気配は見られない。
 すると本題を単刀直入に切り出してきた。
 「この子を預かってくれないか」
 聞けば自分の住んでいる場所は寮なので匿うことも一緒に住むことも出来ない。そこで信頼できる相手にこの子を預けたいのだ、と。
 その唐突すぎる申し出に一瞬だけ思考が止まり、その次には彼の無責任な発言に憤りを覚えた。有力なビジネスパートナーでなければこの場で張り倒していたが、それは辛うじて堪える。
 どうして私が面倒を見なければいけないのよ。思わず口にした言葉に対して、彼ははっきりと答えてくれた。
 「信頼している君なら安心して預けられる」
 一挙に噴き出した感情もその真っ直ぐな瞳に吸い込まれ、勢いを削がれてしまった。彼はそういうオーラというか説得力が備わっている。
 信頼というのは一つ一つ手積みで小石を積み上げていくのと同じだが、ふとした拍子でこれまで重ねてきたものが一瞬の内に瓦解してしまう脆さがある。おまけに互いが同じ時間をかけて積み上げても、人によってその高さが異なるのだ。
 見ることも触れることも出来ないので確かめることも困難という厄介な物にも関わらず、一切の迷いも駆け引きも存在していなかった。自信に満ち溢れた姿勢に―――折れた。
 「……分かったわ」
 だが、引き受けたものの不安はある。私自身が人と一緒に暮らした経験がないのだ。幼少期の頃から一人で過ごしてきた私が、果たして同じ屋根の下で生活を共にすることが出来るのだろうか。
 そしてここまで少女は一切言葉を発することなく、不安そうな表情でじっと私のことを見つめている。初対面の人と接するのが苦手なのかも知れないが……それにしても怯えや恐れの色が異様に濃い。
 小さい子と接する機会があまりないので、どうすればいいのだろう。
 「私は、リン。お名前は?」
 「……高坂茜です。よろしくお願いします」
 少女はボソボソと風が吹いただけで立ち消えそうな声で自分の名前を喋った。関係を構築していく上で図々しく自分の土俵に土足で上がってくる輩も腹立たしいが、なかなか上がって来ないのも扱いが難しい。
 彼は再三再四「茜を頼む」と頭を下げて公園を後にした。アパートまでの道中でも茜は一切自分から喋ろうとしなかった。
 暗闇の中でも茜の表情には恐怖と不安が滲み出ているのが一目で分かる。感情も欲求も全て自分の中に押し殺しているのだ。その姿勢は既に自制と呼ぶレベルを遥かに超えている。
 ―――彼が信頼する人間に託したい気持ちも、何となく察した。このまま茜を放置していたら、いつか必ず抑制し続けた感情がパンクしてしまうだろう。
 これまで人並みの生活を過ごしてきたことはないけれど、引き受けた以上は彼の信頼に対して全力で応えたい。
 扉の鍵を開けて猫の額程度の玄関で靴を脱ぐ。そこから真っ暗闇な中を慣れた歩みで少し進んで壁に取り付けてあるスイッチを押す。
 すると一瞬の内にパッと明るくなって部屋の全貌が照らし出される。……我ながら殺風景な景色だと改めて感じる程、何もない部屋が目の前に広がっていた。
 簡易ベッドが部屋の隅に一つ、それと座卓と小さな箱くらいの大きさのテレビがあるくらい。あとは台所に冷蔵庫が申し訳程度に置いてある。自炊は仕事が忙しいので何が入っているか定かではないのが自分でも恐ろしい所。
 本当に、食べて寝るだけの部屋なのだ。唯一生活感を感じられるのは、食べ終わったコンビニの弁当の空き容器や紙パック飲料がゴミ箱で山になっていることか。
 ふと気が付くと茜はまだ扉の外に立っていた。入っていいか遠慮していた訳でもない。私の了解を得ず部屋に立ち入ることすら恐れていたのだ。
 別に部屋へ上がるのに一々許可を取り付けるつもりなど毛頭ないが、それを口にすると茜は今以上に萎縮してしまうので呑み込む。そして「おいで」と優しく声をかけると、オズオズと室内へ足を踏み入れた。
 手招きをしても一定の距離を保って離れている。こちらから近付けばその場から動かないので距離を詰められるが、自分の意思というものを全て押さえ込んでいるのは本当にやり辛い。
 対応に四苦八苦していていると、クライアントの依頼で追っている仕事の時間が迫っていた。
 「これから出掛ける用事があるから、先に寝ていて。あのベッドもそうだけど、部屋にある物は好きに使って構わないから。お風呂も入っていいわ。それと、ご飯は買い置きのカップ麺とか冷蔵庫の中に何かあるから、適当に食べておいて」
 とりあえず思いつく限りのことは全て言っておいた。茜が不安に感じないよう、変に遠慮しないよう細心の注意を払い言葉を選びながら。でも私が居なくなった後どうなるか心配で仕方がなかった。
 部屋の端っこでじっとしている茜に後ろ髪を引かれる思いで扉を閉め、再び暗闇の中へ溶けていった。

 翌日昼前。不眠不休で動いて仕事が一段落した所でアパートへ戻ってきた。
 さて気になるのは茜のこと。扉を開けてみたら昨晩のまま固まったまま、なんてことが有り得そうで怖い。
 恐る恐る玄関を開けてみると―――想像していた景色とは全く異なる状況が目に飛び込んできた。
 まず最初に気付いたのは真正面に洗濯物が干されていたこと。ふと目線を下げればフローリングも雑巾がけをしたみたいで、艶やかに輝いている。
 思えば自堕落と言われても反論の仕様がない程に、無関心だった。埃だらけでも気にすることなく、山積みの洗濯物も『いつかやればいい』と後回しにして。
 肝心の茜は何処に居るのか。ふと浴室に目をやると、袖をまくって一生懸命に掃除をしている茜の後ろ姿があった。一つのことに没頭しているその顔はとても輝いていて、初めて人間らしい表情をしていると感じた。
 「あ……おかえりなさい」
 気配を察知した瞬間、茜の表情が変わった。『怒られるのではないか』顔にはそう書かれていた。
 「すみません、勝手なことをしてしまって……何かやらないと、って思って、ちょっと片付けてみました。その……迷惑、だったでしょうか?」
 迷惑な、はずがない。お世辞にも人が住めるような環境ではないから掃除をした、ということは叱られることでも怒られることでもないのだ。
 目の前にいる少女からヒシヒシと伝わってくる負の感情に、一つ気付かされたことがある。
 「ううん、とんでもない。貴女には感謝してるわ」
 物心がついた頃から家族と過ごしたという記憶は一切ない。でも、なんとなく分かる。
 一度作業の手を止めさせて、私の前に座らせる。「怒らないから。殴らないから」優しく、そして諭すように声をかけると、茜は何があるのかと不安そうな表情を浮かべる。
 「彼から貴女を預かった瞬間から私の家族だと思っているわ。だからそんなに怯えないで。今日から貴女の帰る場所はここだから、貴女の居場所はここにあるから、自分のやりたいようにやっていい。もし何か聞きたいことがあったら遠慮なく聞いて。これ、約束ね」
 警戒している相手の心を開かせるには、まず自分から。特に深く傷ついている茜には、そのことを充分に伝えないといけない。
 ちょっと嘘はあるけれど本音をありのまま言葉にした。変に遠慮していたら余計なことで気を遣ってしまい、いつか疲れた心は二度と修復出来ない状態まで壊れてしまう。
 だからこそ感謝の意思を伝え、約束という形でキッカケを作った。
 「はぁ……すみません」
 「それと、もう一つ。貴女、何か悪いことした?」
 私の問いに少し間を置いて、首を静かに横へ振る。
 当然だ。この部屋に来て茜がやったのは、溜まっている洗濯物を洗濯して、汚れていたので掃除をしたこと。それは決してやってはいけないことではない。
 即ち、“謝る”ことが心身に染み付いているのだ。一種の自己防衛として備わったものかも知れないが、これは良いこととは限らない。自分の感情を偽って蓋をしている以上、心に負担がかかる。
 悪いことをしていないのに謝ることは自分を過小評価することに繋がるし、それが原因で余計なトラブルに巻き込まれる危険も高まる。
 「これからは悪いことをしていないのなら謝らない。もし貴女が間違っていたら、その時は私が言ってあげるから、その時は謝って。約束その二」
 外の世界で生活をしていると、時には自分の思いを曲げなければいけない時もある。辛いことも沢山待っている。
 だから、せめて部屋に居る時は、楽にしてもらいたい。ここには理不尽な暴力を振るう人も、理由もなく怒鳴りつける人も、いない。伸び伸びと自由に羽を広げて休んでもらいたい。
 「分かった?―――茜」
 敢えて距離を縮めるため、名前で呼んでみる。サラリと言うつもりが一拍の間が空いてしまったが直に慣れる、と思う。
 いきなり名前で呼ばれた茜は少し戸惑った表情を見せていたが、やがて笑って「はい」と控え目に返事をした。その瞬間、私と茜の間が少しだけ近付いた気がした。
 なんだ、そんな顔も出来るんじゃない。その屈託のない笑顔が今でもしっかりと私の記憶に刻み込まれている。



 今では私の帰りを天真爛漫な表情で迎えてくれる。この部屋に来た直後のようなオドオドした様子はすっかり影を潜めた。時々暴走することもあるけれど、あんな陰鬱な顔を見せるくらいならこっちの方が断然いい。
 ふと部屋の中から美味しそうな香りが漂ってくる。何の匂いかなと台所を眺めれば、コンロに一つ大きな鍋が座っている。
 「今日はお兄ちゃんも寄ってくれるみたいなのでシチューにしてみました」
 「そうなの。茜の料理はいつも美味しいから楽しみね」
 彼もその後も頻繁に茜の様子を見に訪ねてくる。仕事が立て込んでいて多忙を極めるにも関わらず、どうにか暇を見つけて顔を出していた。その度に茜は喜んで、さながら三人家族の様相を呈す。
 ……家族、か。
 これまで一人で生きていて、今後ずっと孤独を貫くとばかり思っていた。だから今の状況を未だに信じられない自分がいる。
 頼りになるのは自分一人。守るものが出来れば弱くなる。そうとばかり考えていた。
 でも、今は違う。守るものがあるからこそ、強くなれる。
 それに―――帰って明かりが点いて誰かが待っている、そんな些細な温もりが、非常に心地いい。
 「お姉様、早く早く」
 急かす茜に手を引かれ、光が満ち溢れる室内へと導かれる。
 この生活がどれほど続くか分からないけれど、可愛らしい妹と二人で紡ぐ温かい気持ちに今は浸ることにする。





   END


 『海の見える高台の家』開設10周年記念小説、第一弾。
 実は他の小説の方が先に原稿は完成していましたが、こちらは短めだったのでパソコンでは第一号に。

 本当はこの小説、構想していた作品の頭の部分でした。『序章』、『話の入り』的な位置づけで、この後に本編へと続いていく予定でした。
 ですが『思った以上に文章量が多くなったこと』や『頭の部分にしては完成度が高い』と判断して、分離してみました。
 ちなみに本来書くはずだった作品は一切手付かずの状態で本末転倒な結果に……。機会があれば書いてみたいですね。

 リンと茜が出会ったキッカケは8主なしには語れませんが、リンと茜の関わりについてあまり本編では触れられませんでした。
 ですが、8以降のリンを見ていると茜のことを意識しているのは明らかであり、親密な関係があったことが伺えます。
 一方でリン自体も謎に包まれており、8主とどういう経緯で知り合ったのか等々も分からないままです。
 一応それも大まかに筋が組み立っているので、機会があれば書いてみるかも知れません(二回目)



 (2013.09.13. up.)

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