龍より乙女へ、想いを託す




 土佐・高知城下に、“仁王”と呼ばれる人物が居た。
 身長五尺八寸(約一七五センチメートル)、体重三十貫(約一一二キログラム)。剣術・馬術・弓術・水泳に長け、弱い者いじめをしている者を見つけると例え相手が複数人であろうと助ける胆力と圧倒的な強さを兼ね備えていた。
 武芸だけでなく書道・和歌・舞踊・三味線など風雅の道にも通じており、文武両道で知られる有名人だった。
 徳川幕府が開かれて二百五十年以上が経過して世は大いに乱れている昨今、こうした人物こそ先の読めない時代に求められていた。
 ただ惜しむらくは……彼女の性別が最大の障壁だった。世が違えば歴史に名を遺す人物になっていたかも知れない。
 坂本乙女。それが“坂本家の仁王”と呼ばれ秘かに恐れられた彼女の名前である。



《龍より乙女へ、想いを託す》



 慶応三年(西暦一八六七年、以下西暦省略)十月某日。土佐城下・高知の町は京から届いた報せに大きく揺れていた。
 去る十月十三日、幕府の呼び掛けに応じ二条城へ出仕してきた大名達を前に、時の将軍・徳川慶喜《よしのぶ》は「大政を奉還する」と宣言したのだ。これまでは国家元首の帝に代わり将軍・幕府が国の政《まつりごと》を担ってきたが、慶喜はこの権利を帝へ返上しようというのである。徳川幕府が開かれてから、いや、武家勢力が国の統治を行うようになった鎌倉幕府が開かれて以来、約七百年に渡り続いてきた体系が根底から引っ繰り返ろうとしていた。将軍を頂点にして国全体の政は幕府が、地方の政は藩が治める制度が常識として備わっていた全ての人々を驚愕させる大事件で、その衝撃は計り知れなかった。
 大政奉還の報せは程なくして高知まで伝わってきた。高知城には土佐藩第十六代当主の山内豊範《とよのり》が居たが、実権は先代当主で“四賢候《しけんこう》”の一人に挙げられる山内容堂《ようどう》が握っており、豊範はお飾りに過ぎなかった。その容堂は現在京にあり、大政奉還の報せが高知に届くと特に武士階級の間で動揺が広がった。
 武士の世がなくなる怖さ、今まで以上に先行きが不透明になる不安、明日からどう過ごせばいいか分からない困惑……様々な感情が城下に渦巻いていた。その影響は乙女が暮らす坂本家にも及んだ。
 坂本家は豪商才谷屋の分家で、郷士《ごうし》(下士《かし》)の身分ながら裕福な家だった。坂本家の当主である長兄・“権平”直方《なおかた》は難しい顔をしたまま固まり、高松順蔵に嫁いでいた長姉・千鶴も実家を訪れたものの茫然としていた(次姉の栄は病により既に他界)。
 一方で、三女の乙女はというと――自室に籠もり、一人浮き浮きとした表情をしていた。
 乙女という名は、本名ではない。本来の名は“留《とめ》”だが、名の前に“お”と付けた上で“乙女”と|充《あ》てたのである。男勝りな性格で並の男にも勝るとも劣らない強さから一部で“仁王”と女性に付けるには少々可哀想な綽名《あだな》で呼ばれていたのもあり、少しでも女らしくなってほしい願いも込めて“乙女”にした……と推察される。
(――やった。本当にやったな、龍馬)
 四つ下の弟に、乙女は心の中で讃《たた》える。乙女にとって、“龍馬”直柔《なおなり》はただの弟ではなかった。
 母・幸《こう》は龍馬を生んで暫くすると床に臥せるようになり、乙女が十四歳の時に死去。他の姉達は既に嫁いでいたことから、乙女が母代わりとなってまだ幼い龍馬を育てた。当時の龍馬は気弱で泣き虫、おまけに夜尿症《やにょうしょう》もあり、近所の子ども達からいじめられていた。そんな龍馬を乙女は自ら剣術を叩き込み、夜中には厠《かわや》へ連れて行くなど、一人前の武士になれるように厳しく育てた。
 その結果、龍馬は夜尿症を克服するなど徐々に自信をつけ、乙女に鍛えられた剣術もめきめきと上達し、十七歳になると江戸へ剣術修行に行く事を許されるまで腕を上げた。身長も六尺(約一八二センチメートル)と非常に大柄に成長したのと龍馬自身に剣術の才能があったのもあるが、乙女が心を鬼にして厳しく接していなければ才能が開花していたか分からなかった。龍馬はこの剣術修行から大きく羽ばたいていく事となる。
 そこまで振り返った乙女は、文机の前に座ると文箱《ふばこ》を開く。文箱に収められていたのは、沢山の手紙。
 龍馬は筆まめな性格で、時々手紙を送ってくれた。この当時、江戸と大坂で手紙を送る際に一番安くても三十文掛かるが、江戸と高知となるともっと高くなる。流石に頻繁にとはいかなかったが、数ヶ月に一度の割合で送ってきた。その内容は北辰一刀流の小千葉道場での出来事や江戸での暮らし、さらに女性関係まで多岐に亘《わた》った。身内贔屓《びいき》かも知れないが、龍馬は意外とモテるのだ。普通なら隠しておきたい恋愛事を明かしたのも、それだけ龍馬が乙女を信頼している裏返しとも言える。
 高知を出て江戸に着いた龍馬は、程なくして世間を大いに揺るがす大事件が起きる。嘉永《かえい》六年(一八五三年)六月三日、相模《さがみ》国浦賀沖に突如四隻《せき》の艦船が姿を現したのだ! この艦船は亜米利加《アメリカ》のペリー提督が日本の開国を求める為に来航したのだが、二百年以上も鎖国政策を続けてきた日本の民は初めて目の当たりにする巨大な蒸気船や洋式帆船に度肝を抜かれた。この時、江戸に滞在していた龍馬も品川の沿岸警備に駆り出されている。
 安政《あんせい》元年(一八五四年)、一年間の剣術修行を終えて土佐へ帰国した龍馬は絵師の河田小龍《しょうりょう》の元を訪ねるようになった。小龍は天保《てんぽう》十二年(一八四一年)一月に高知沖へ漁に出たが漂流し、後に亜米利加の捕鯨船に保護されて渡米した中浜万次郎(ジョン万次郎)が土佐に帰ってきた時に自宅へ寄宿させ、その際に万次郎から聞いた亜米利加での話をそのまま書き記した上で自らの挿絵を入れた『漂巽紀略《ひょうそんきりゃく》』全五巻を完成させた人物で、万次郎から話を聞いている小龍から龍馬は少しでも海外の情報について知ろうとしていた。ただ、この当時の龍馬は開国派という訳ではなく、黒船来航という衝撃的な出来事から異国への興味関心から出た行動だった。
 安政三年(一八五六年)九月、龍馬は藩から認められて再び江戸へ剣術修行に赴いた。翌安政四年(一八五七年)に一年の期間延長も許されたのもあり、小千葉道場の塾頭を任されるまでに腕を上げた。この年の九月、目的を達成した龍馬は土佐へ帰国した。
 黒船来航以降、外国人排斥を主張する攘夷《じょうい》派と諸外国と交流すべきとする開国派で意見が二分していたが、時の帝である孝明《こうめい》天皇が攘夷の意思を持っていたのもあり攘夷を叫ぶ者が優勢だった。この流れに対し、時の大老・井伊直弼《なおすけ》は自らの考えに反発する者達を弾圧。対立する派閥の大名を蟄居《ちっきょ》幽閉させ、攘夷派の志士を多数捕縛・斬首するなど、厳しく処罰した。この一連の弾圧は後に“安政の大獄”と呼ばれた。
 しかし、安政七年(一八六〇年)三月に直弼は江戸城へ出仕する際に桜田門外で殺されると、土佐でも尊王攘夷の風が吹き始める。文久《ぶんきゅう》元年(一八六一年)、上士《じょうし》の武市《たけち》“半平太”瑞山《ずいざん》が自らの考えに近い者達と共に“土佐勤王党”を立ち上げ、龍馬もこれに加わった。志《こころざし》を同じくする者達と関わっていく中、龍馬の中で“藩”という枠に縛られずに活動したい気持ちが徐々に芽生え始めた。同志が続々と脱藩していく動きに、龍馬は自分もそうした選択を真剣に考えた。ただ、脱藩という行為は犯罪に当たり、本人が捕らえられた場合には斬首されるだけでなく残された家族にも累《るい》が及ぶ可能性があった。坂本家に咎《とが》が及ぶのを恐れた権平は龍馬の脱藩を阻止すべく佩刀《はいとう》を取り上げ、家族や親戚に龍馬が怪しい動きをしないか警戒するよう強く求めた。武士の魂というべき刀を没収されて困っていた龍馬に手を差し伸べたのは、母代わりとして育ててきた姉の乙女だった。秘かに蔵へ忍び込んで坂本家の家宝である『肥前忠広』を拝借すると、龍馬に旅立ちの餞別《せんべつ》に渡したのである。長い間一番近くで接してきたからこそ、龍馬の気持ちを察した上で背中を押した形だった。文久二年(一八六二年)三月二十四日、龍馬は土佐から旅立った。
 脱藩した龍馬は八月に江戸へ上ると、剣術修行で世話になった小千葉道場に一先《ひとま》ず滞在することとなった。小千葉道場の主・千葉定吉《さだきち》の息子の千葉重太郎《じゅうたろう》もまた攘夷派の人間で、重太郎と共に幕府内でも指折りの開国論者である勝“麟太郎《りんたろう》”海舟《かいしゅう》を斬ろうと屋敷を訪れた。しかし、逆に海舟から日本を取り巻く世界情勢と四方を海に囲まれた日本における海防の重要性を説かれ、感銘を受けた龍馬はそれまでの攘夷派から考え方をガラリと入れ替えた。文久三年(一八六三年)三月二十日付で乙女に宛てた手紙の中で海舟の事を『日本第一の人物』と激賞しており、龍馬が如何《いか》に心酔していたかが窺い知れる。この後、龍馬は神戸に開設される『海軍操練所』の準備に奔走し、自らも操練所で操船術を学んでいくこととなる。
 同年五月十七日付で乙女に宛てた手紙の中で、当時の龍馬はこう綴《つづ》っている。
『(前略)この頃は軍学者勝麟太郎大先生の門人となり、殊の外かわいがられ候《そうろう》(中略)すこしエヘンに顔をし、ひそかにおり申し候。エヘン、エヘン』
 文中で“エヘン”と記しているのが、得意満面に胸を張っている龍馬の姿を容易に想像が出来る。龍馬の人間性をよく表している点だと思う。
 勝の下で充実した日々を送っている龍馬とは対照的に、地元・土佐や日本国内の情勢は決して穏やかとは言えなかった。土佐藩では開国派の参政・吉田東洋が文久二年四月八日に何者かによって暗殺され、その後は藩内で急速に勢力を伸ばしつつあった土佐勤王党が実権を掌握した。だが、安政の大獄で科せられた謹慎が解けた山内容堂は自らが頼みとしていた東洋暗殺の下手人探しから尊王攘夷を掲げる過激な思想を持つ勤王党の締め付けに乗り出した。また、全国的に攘夷の機運が高まる中で孝明天皇や攘夷派の公卿達の圧力もあり、幕府は遂に文久三年五月十日に攘夷決行を各藩に通達。これを受け、尊王攘夷の色が濃い長州藩が馬関《ばかん》(現在の下関)の海峡を通過する外国籍の船に攻撃を開始したのだ! 朝廷の圧力に屈する形で攘夷決行を命じたものの、幕府としては諸外国との外交関係に亀裂が入るのを恐れて実際に決行する事を望んではいなかった。幕府の意向に反する形で行われた長州藩の蛮行に、被害を受けた外国船の修理を幕府が請け負うという相反する対応をとった。この弱腰な対応について龍馬は大いに嘆き、同年六月二十九日付で乙女に宛てた手紙の中で『(前略)右申所《もうすところ》の姦吏《かんり》を一事に軍いたし打ち殺、日本を今一度洗濯いたし申し候』と記している。
 龍馬の脱藩の罪は海舟から容堂へ不問とするよう働きかけ、文久三年二月に許された。ただ、翌文久四年(一八六四年)二月に土佐への帰国命令が出たが、勝の元で働きたい龍馬はこれを無視。結果、二度目の脱藩となった。
 元治《げんじ》元年(一八六四年、二月二十日に改元)五月二十一日、それまで私塾扱いだった神戸海軍操練所が正式に開所されたが、同年六月五日の池田屋事件で操練所の塾生が含まれていたり七月十九日に勃発した禁門の変で朝敵となった長州藩の元藩士が塾生に名を連ねているなど、幕府の施設ながら倒幕派の志士が多く在籍していた。この事を重く捉えた幕府上層部は、十月二十二日に操練所の責任者である海舟を江戸へ召喚する命令を出し、十一月十日に海舟の軍艦奉行を解任した。幕府内で最も海防を重要視していた海舟の失脚により操練所は後ろ盾を失い、元治二年(一八六五年)三月十二日に操練所は閉鎖に追い込まれた。
 操練所の閉鎖で行き場を失った形の龍馬だったが、“捨てる神あれば拾う神あり”の諺《ことわざ》がある通り、新たな支援者が現れた。薩摩藩である。
 薩摩藩は先代の島津斉彬《なりあきら》の代に藩政改革を推し進め、赤字体質からの脱却に成功させ諸藩に先駆けて近代化に尽力した。斉彬は安政五年(一八五八年)七月に急逝したが、その跡を継いだ久光《ひさみつ》(当主の座は久光の子・茂久《もちひさ》が継いだが、実権は久光が握った)も斉彬の路線を継承した。しかし、文久二年八月二十一日に江戸から京へ向かう途上の相模国生麦村で偶然遭遇した数名の英吉利《イギリス》人を殺傷する事件を起こしたのをきっかけに、翌文久三年七月には英吉利艦隊が鹿児島湾に攻め込む“薩英戦争”に発展した。この戦闘で薩摩方は英吉利方の艦船一隻を大破・二隻を中破させたが、薩摩方は砲台や弾薬庫に相当な被害を出しただけでなく鹿児島城下の約一割を焼失する大損害を被《こうむ》った。結果的に痛み分けとなったものの、薩摩藩内に『攘夷は非現実的』『海防、特に蒸気船や洋式帆船の重要性』をまざまざと痛感させられることとなった。
 また、島津斉彬は“四賢候”の一人にも名を連ねるなど幕府内で影響力を持つようになり、それは久光の代になっても変わらなかった。文久三年八月十八日に過激な攘夷派公卿とそれに関わりが深かった長州藩を朝廷から追放した『八月十八日の政変』では、親藩で京都守護職の会津藩・松平|容保《かたもり》と共に薩摩藩は主導的役割を果たし、禁門の変やその後に行われた第一次長州征討では幕府軍の主力として長州藩と戦っている。
 龍馬は薩摩藩や長崎の商人の支援を受け、慶応元年(一八六五年、四月七日に改元)閏五月に操練所の一部の元塾生達と一緒に“亀山社中”を長崎で設立。社中とは組合や結社などの意味で、亀山社中はこの当時日本ではまだ稀少だった蒸気船や洋式帆船の操船術を活かして商業活動を展開していこうとしていた。言わば日本初の商社となった訳だが、こうした背景には坂本家が元は豪商の家系で幼少期から商いの現場や船の荷揚げなどの光景を龍馬自身が目にしていた事が大きく作用した……と考えるのが自然だろう。
 慶応元年九月九日付で乙女と乳母のおやべに宛てた手紙には新たに設立した亀山社中について沢山書かれていた……訳ではなかった。社中についても少し触れられていたが、大半は最近気になっている“おりょう”という女性について記されていた。おりょうの人となりや逸話などを事細かに書かれており、龍馬がその女性についてどれだけ気に掛けているかが窺える。
 この頃、龍馬は秘かに壮大な計画の実現に奔走していた――薩摩藩と長州藩の同盟締結である。
 薩摩藩は先述した通り、斉彬の代から急速に近代化を推進させ、影響力が低下してきた幕府を支える有力勢力である。一方の長州藩は現当主の毛利敬親《たかちか》(元治元年八月までは慶親《よしちか》)の藩政改革と吉田松陰を始めとした有能な志士を多数輩出しており、薩摩藩に匹敵する程の実力を有していた。ただ、この両藩の間には埋めがたい溝が広がっていた。文久三年の『八月十八日の政変』から禁門の変、第一次長州征討と薩摩藩は先頭に立って長州藩に刃[やいば]を向けてきた。長州藩からすれば薩摩藩は仇《かたき》も同然、恨み骨髄に徹する心境だ。幕府は倒幕派の志士を未だ多く抱える長州藩を滅ぼしたい考えだったが、龍馬はこの国の将来を担うであろう優秀な人材の宝庫である長州藩を潰すのは国益にならないと思い、何とか薩摩藩と手を結んでもらうべく元土佐藩士の中岡“慎太郎”道正と共に尽力していくこととなる。
 長州藩は幕府から海外の商人との取引を禁じられていたが、龍馬の発案もあり薩摩藩名義で海外製の最新鋭の武器や蒸気軍艦の購入に成功。長崎から長州までの輸送は亀山社中が引き受けた。その返礼として、薩摩で不作となっていた米を長州から送っている。こうしたやりとりの積み重ねで蟠《わだかま》りは少しずつ氷解していき、両者の実力者である西郷“吉之助”隆盛と桂“小五郎”孝允《たかよし》の会談までこぎつけた。慶応二年(一八六六年)一月二十二日、薩摩藩の重役である小松“帯刀《たてわき》”清廉《きよかど》の京都屋敷にて、龍馬が立会人となり西郷と桂の間で六ヶ条の条文が結ばれ、晴れて“薩長同盟”と呼ばれる関係が成立した。
 悲願の同盟締結を実現させた龍馬だったが、お祝い気分に浸っている時間は短かった。締結から日付が変わった一月二十三日、龍馬が京都滞在中の定宿としていた寺田屋に、伏見奉行所の捕吏《ほり》が急襲。寺田屋で働いていたおりょうの機転で逸早《いちはや》く気付いた龍馬は護衛の三吉“慎蔵”時治と共に応戦、その後寺田屋を脱出して薩摩藩邸に逃げ込んだ。
 辛くも難を逃れた龍馬だったが、寺田屋での交戦時に左手を斬られた傷が思いの外深かったことから、おりょうを連れて薩摩で療養する運びとなった。薩摩藩邸で祝言を挙げたおりょうと一緒に、一時の休息を得た。慶応二年五月、龍馬は活動を再開。六月七日から始まった第二次長州征討では龍馬も長州方として参戦し、蒸気軍艦を操り長州勢の勝利に貢献している。この年の十二月四日付で乙女に宛てた手紙には寺田屋襲撃の話から薩摩でのおりょうとの生活、長州での戦いや世話になった西郷吉之助の事まで多岐に亘る内容が掛かれていた。特に、おりょうと一緒に登った霧島山の話では絵図入りで紹介していた。
 年が明けて、慶応三年(一八六七年)一月。龍馬は土佐藩の参政・後藤“象二郎《しょうじろう》”正本《まさもと》と長崎で会談。薩摩や長州だけでなく幕府や他藩の要人・グラバーを始めとした日本国内外の商人とも繋がりがあり、蒸気船や洋式帆船の操船術も有している龍馬は土佐藩にとって非常に有益な存在だったこともあり、脱藩の罪を再び赦《ゆる》された。土佐藩では勤王党弾圧の後から近代化に乗り出したものの、先行する薩摩藩や長州藩と比べるとかなり遅れをとっており、龍馬を土佐藩に戻すことで挽回しようとしていた。慶応三年四月、亀山社中は土佐藩の関連団体となり、名称も“海援隊”に改めた。同じ頃、大洲《おおす》藩が所有していた蒸気船“いろは丸”を借り受けた海援隊は、四月十九日に長崎から大坂へ向けて出航したのだが、四日後の四月二十三日に事件が起きる。瀬戸内海を航行中だったいろは丸は、前方からやって来た紀州藩籍の軍艦“明光丸”と衝突。明光丸の方が圧倒的に大きかった為にいろは丸は沈没してしまったのだ。この事故に対して紀州藩は幕府に裁定を仰ごうとしたが、龍馬は日本に持ち込まれたばかりの『万国公記』を元に「非は紀州藩側にある!」と主張。最終的に紀州藩から賠償金七万両を支払わせる事で決着した。
 慶応三年六月二十四日付で乙女と乳母のおやべに宛てた手紙には、妻であるおりょうとの生活や乙女が欲しがっていた拳銃は「やめておいた方がいい」と宥めたりする内容のものだった。この時、薩長両藩で討幕の機運が高まってきたが、武力衝突による国力低下を避けたい龍馬は平和的解決策として大政奉還の案を象二郎を通じて幕府に薦めている真っ最中で、乙女にはそうした政治的な文言は殆ど書かれていなかった。
 それから龍馬から手紙は届いていなかったが……大政奉還の話が土佐まで伝わってくると『この話には土佐藩も一枚嚙んでおり、発案者の一人には坂本龍馬も含まれている』という噂も一緒に流れてきた。
(あの泣き虫だった龍馬が、こんな大きな事をするなんて……)
 乙女は誇らしいと思うと同時に、感慨一入《ひとしお》だった。
 自らは安政三年(一八五六年)に医者の岡上《おかのうえ》樹庵《じゅあん》と結婚。並の男性を上回る体格に男勝りな性格の乙女を龍馬以外の家族親戚は「嫁の貰い手はいるだろうか?」と気を揉んでいたという。樹庵との間に赦太郎・菊栄の一男一女を生んだが……夫の浮気や家風の違いなどもあり夫婦仲は決して良くなく、慶応三年に離婚。乙女は実家に戻っていた。乙女は夫婦仲の悪さを龍馬に手紙で漏らしており、相当悩んでいたみたいだ。
 乙女自身「自分が男だったら……」と思った事も一度や二度で済まない。龍馬から送られてくる手紙で綴られている活躍を思えば、余計にその気持ちが強くなる。しかし、一方で龍馬だからこそ、今日《こんにち》まで飛躍を遂げたのだと捉えている自分も居た。昔ながらの仕来《しきた》りに反発を覚えながらも汲々《きゅうきゅう》と受け入れてしまっている自分に、龍馬のような大それた事は出来なかった。
 暫く感動に浸っていた乙女だったが、ふと別の事に考えが及んだ。
(これから、龍馬はどうなっていくのだろうか?)
 大政奉還の陰の立役者となった龍馬の将来について、乙女は疑問を抱いた。
 龍馬が手紙の中で紹介していた西郷吉之助や小松帯刀、後藤象二郎はこの先この国の舵取りを担っていく人物になるだろう。しかし、龍馬はそうした道に進むとは思えなかった。正確に言えば、想像がつかない。龍馬は“偉くなりたい”とか“政でこの国を動かしたい”といった欲は薄く、今回の大政奉還の献策も“戦で国力が削がれるくらいなら”という気持ちで動いたに過ぎない。それに、そうした気持ちが強いのならば、二度目の脱藩はしていないだろう。藩に求められる形で戻るよう促されたのだから、藩に戻ればそれなりの処遇はあったと思われるのだが、龍馬は安定より冒険を選んだ。中枢を上り詰めたい人間なら、まずしない選択である。
 そんな事を考えながら、乙女は龍馬から送られてきた手紙を読み返す。すると、龍馬が目指す方向性を示す文言が目に留まった。
(……蝦夷《えぞ》、か)
 幾つかの手紙の中に、“蝦夷”の可能性について好意的に述べていた。
 曰く、『蝦夷には未開の地が広大に残されている』『我が国とは異なる品々があり、交易を盛んにすれば儲かるかも知れない』『いつか蝦夷の地に行ってみたい』……まるで商人みたいな言い草である。事実、龍馬は実際に訪れた事のある北添佶摩《きつま》から蝦夷の可能性について話を聞いていたり、元治元年六月には恩師の海舟に蝦夷開拓と通商すべきと説いている。
 けれど、これこそ龍馬が本当にやりたい事なのかも知れない、と乙女は思った。
 龍馬がまだ幼い頃、乙女は龍馬を連れて才谷家や港によく連れて行った。その時の龍馬は目をキラキラと輝かせ、商船に乗ったり商いのやりとりを眺めていたりしたものだ。恐らく、龍馬の中にも商人の血が流れているのだと思う。国を動かすよりも、海に出て交易をしたい気持ちが強いのだ。だからこそ、神戸海軍操練所が閉鎖された後に亀山社中を設立し、名を海援隊に改めてからも商業活動を継続している。亀山社中の資金繰りは厳しいと乙女への手紙でも明かしていたのに海援隊でも続けたのは、やはり龍馬の意向が強く働いたと考えるのが自然だ。
 武士らしくないけれど、龍馬らしい。乙女は素直にそう思った。
 次に手紙が来たら、きっと今回の事について書いてくれるだろうな。それも、自慢気に。乙女はその手紙が届くのを、今から心待ちにしていた。

 慶応三年十一月下旬。乙女は、坂本家の縁側で魂が抜けたように虚空《こくう》を眺めていた。
 それは、坂本家の主である権平の異変から始まる。
 城に出仕していた筈の権平が顔を真っ白にして昼過ぎに帰って来ると、玄関に着くなりへたりこんでしまった。明らかに様子がおかしかったので権平の妻・千野《ちの》や乙女が駆け寄ると、権平は唇を震わせながら言った。
「龍馬が……殺された……」
 権平の口から明かされた、衝撃の内容。それを聞いた乙女は、頭が真っ白になった。
 俄かには信じられなかった。約一月前、大政奉還という大仕事を成し遂げたあの龍馬が、まさか殺されるなんて。龍馬自身も剣の腕が立つし、危険を察知する勘も鋭かった。龍馬が度々活動していた京には不逞浪士を厳しく取り締まる新選組が目を光らせていたが、龍馬は捕縛されたり斬られたりしなかったのも、こうした危険察知能力に長けていた事が大きかった。
 だが、権平が語る内容に、乙女も龍馬の死を事実と受け止めざるを得なくなった。
 去る、十一月十五日。京・近江屋に潜伏していた龍馬の元に、同志の中岡慎太郎が訊ねてきた。普段は万一の逃亡の事も考えて土蔵で過ごしていたが、三日程前から風邪を引いてしまい事件前日から母屋の二階で療養していた。
 龍馬は慎太郎と話をしていたが、夜になって一階の玄関で大きな物音がした。下には用心棒で付き人を兼ねる元力士の山田藤吉《とうきち》が居たので龍馬は「ほたえな! (土佐弁で“騒ぐな”の意味)」と叫んだ直後――抜刀した四人の刺客が部屋に雪崩れ込んできた! 突然の襲撃に龍馬も慎太郎も応戦出来ず、切り刻まれてしまった。
 この凶行に近江屋の家族は一階の奥に居て無事だったが、助けを呼ぶ事は出来なかった。頃合を見計らって近江屋の主人が土佐藩邸へ駆け込み、一報を受けた土佐藩士は直ちに現場へ向かった。ちょうどその頃、龍馬から「軍鶏《しゃも》を買ってきて欲しい」と頼まれた付き人の菊屋峰吉が近江屋へ戻り、事件が発覚した。
 土佐藩士や峰吉が駆け付けた時には、既に龍馬は亡くなっていた。全身を膾《なます》切りにされ、頭も割れ顔も判別がつかないくらい酷い有様だった。残りの二人はまだ息をしていたので懸命な治療が行われたが、十六日には藤吉が、十七日には慎太郎が息を引き取った。
 龍馬の凶報は大急ぎで国元の土佐にも送られたが、何分距離があったが為に遅れて届けられた次第だ。
(龍馬……)
 愛おしい弟が死んだと聞かされても、乙女は涙が出なかった。多くの人が龍馬の死を目撃しているのだから事実なのだろうが、乙女自身がその目で確かめてないので現実感が全く湧かなかった。
 もしかしたら、明日にでも「よ、元気にしちょったか?」と坂本家に顔を出してくれるかも知れない。乙女の夫婦仲の悪さを揶揄《からか》ってきそうだが、「もう別れた」と言い返したらどういう反応をするだろうか。「そうじゃったか!」と驚くか? いや、寧《むし》ろ「乙女姉にはちと難しかったか」と腹を抱えて笑いそうだ。
「……龍馬」
 その名を、声に出してみる。心の中の龍馬はこちらを向いて微笑んだ。
 そうだ。龍馬はいつも笑っていた。それも、楽しそうに。幼い時はよく泣いていたけれど、成人してからの龍馬は泣いたり怒ったりする姿をあまり見た覚えが無かった。可笑《おか》しな事があればゲラゲラと笑い、自分が熱中している時はウキウキとしながら熱く語り、嬉しい事があれば自分事のように喜んだ。
 脱藩してからは会えなかったが、代わりに送られてくる手紙の文字が龍馬の心をよく体現していた。龍馬の筆遣いは実に活き活きとしていて、文字から龍馬の楽しさや熱意が伝わってくる気がした。離れ離れではあるけれど、心と心で繋がっていたのだ。
 龍馬の事を想い返していると、楽しかった想い出がどんどん溢れてくる。
「りょうまぁ……」
 乙女はもう一度その名を呼ぶが、その声は湿り気を帯びていた。直後、乙女の瞳から一粒の涙が零《こぼ》れる。
 そこから先は、言葉にならなかった。乙女の双眸《そうぼう》から次々と大粒の涙が溢れ出す。
 もう一度だけ、会いたい。龍馬が今までやってきた事、これからやりたかった事を、思う存分に聞きたい。あの人の心をくすぐるような笑顔を、また見たい。それが二度と叶わないのが、悔しくて悔しくてたまらなかった。
 部屋の中に、乙女が啜《すす》り泣く音だけが木霊《こだま》した。

 慶応三年十二月上旬。大政奉還を宣言した徳川慶喜だったが、武力による討幕を目指していた薩長はその手を緩めたりはしなかった。それどころか、国元から秘かに兵を呼び寄せるなど、討幕に向けた準備を着々と進めていた。例えるなら“嵐の前の静けさ”、そんな感じだ。
 土佐藩内でも「薩長に与《くみ》するべきだ!」とする意見と「徳川家に付き従うべきだ!」とする意見があり、領内は揺れていた。薩長派は海援隊と似た時期に設立された“陸援隊”を支持する人々、徳川派は幕府の立場を重んじる山内容堂公の考えに近い人々だ。龍馬や中岡慎太郎が薩長と関係が深く土佐藩もこの両藩に接近していたので土佐藩も討幕の動きに同調すべきだと主張する者が居る一方で、徳川家には並々ならぬ恩義がありこれを倒そうとする動きがあるなら断固対抗すべきだと主張する者もあり、それぞれが政局の中心地である京へ向かおうとしていた。
 以前までの乙女なら、こうした動きを敏感に察知して血が騒いだのだが……今はまるで関心が湧かなかった。
 龍馬は「あまり政に口を出すのはよろしくないのでは?」と釘を刺しながらも、姉の性格をよく分かっているからか自らの仕事について手紙で赤裸々に綴ってくれた。もし男に生まれたなら有名な志士になっていたかも知れない乙女に、退屈な日常を少しでも忘れられるよう龍馬は敢えて刺激的な内容を送っていた可能性が高い。特に、結婚してからは自分らしく生きられなかったから。
 あの日を境に、乙女の中の時間は止まったままだ。龍馬を失った傷心はまだ癒えず、胸に空いた穴は塞がっていなかった。
 今日も縁側に座り、空を流れていく雲をただなんとなく眺めていた乙女だったが……。
「坂本さーん、いらっしゃいますかー?」
 玄関から、誰かが呼ぶ声が聞こえた。義姉の千野は出掛けており、この家には乙女しか居ない。気乗りしないが乙女は応対の為に立ち上がる。
 乙女が玄関に向かうと、町飛脚の人が待っていた。
「こちらに坂本乙女さんはいらっしゃいますか?」
「えぇ、私がそうですが……」
 乙女宛ての荷物とは珍しい。基本的に家主の権平宛てのものが殆どで、乙女宛ては龍馬くらいしかなかった。
 そう思うと、涙腺が緩みそうになる。最近は龍馬の足跡に触れただけでも涙が溢れそうになるので、なるべく考えないようにしていたのに。
 町飛脚の人は手紙を取り出すと、送り主の名前を確認する。
「えぇっと……長崎の“才谷梅太郎”さんからですね」
「――んなバカな!!」
 送り主の名を聞いた乙女は、反射的に大きな声を上げてしまった。
 才谷家は坂本家の本家であるが、乙女の知っている限りでは皆土佐に住んでいる。長崎に親戚は居ないし、そもそも“梅太郎”という名前の人は居ない。
 そして、乙女が驚いた理由はもう一つ。――生前、龍馬が使っていた偽名だったからだ。
 龍馬が志士として名が知られるようになると、幕府に害を及ぼす危険人物として警戒の対象になった。その為、ある時期から変名を用いるようになったのだ。先に触れた慶応元年九月九日付で乙女と乳母のおやべ宛ての手紙では“西郷伊三郎”の差出人名を用いており、薩摩藩の大物・西郷吉之助の縁戚のように装っている。“才谷梅太郎”もそうした偽名の一つだったが……龍馬が死んだ今、この名義で送られてくる事がまず有り得ないのだ。
 突然大声を出されてビックリした町飛脚の人は勿論そうした事情を知らないので困惑した表情を浮かべた。自分が間違ってないか再び手紙を確認してから、おずおずと声を掛ける。
「はぁ……しかし、確かにこの通り」
 差し出された手紙を引っ手繰《たく》るように受け取った乙女は、真っ先に送り主の名を見る。……確かに、長崎の才谷梅太郎と書かれていた。
 乙女は咳払いを一つすると、それまでの事は何も無かったかのように落ち着いて対応する。
「……失礼しました。お勤め、ご苦労様です」
 町飛脚の人は何か見てはいけないものを見たように「はぁ……」と返すと、軽く会釈をしてからそそくさと退散していった。
 あの人には悪いことをしたな、と思う一方で、乙女は胸がときめくのを表に出さないようにするだけで精一杯だった。筆跡を目にした瞬間、確信した。――これは間違いなく、龍馬の字だった。

 居ても立っても居られず、一目散に自分の部屋に戻った乙女はすぐに手紙の封を開いた。
『拝啓、驚かせて申し訳ありません。一つ言っておきますが、これは化けて書いた訳ではありません。足も二本、しっかり付いています。乙女姉に見せられないのが残念でなりません』
 入りの部分でそう述べている。自らが幽霊でない事を“足も二本、しっかり付いています”と例えているのが、実に龍馬らしい。
 まず触れたのは、やはり一番気になっている事についてだった。
『あの日、慎太郎は用心棒で付き人の市丸を伴ってやって来ました。市丸は元力士で体格だけなら自分そっくりな男でした。中岡と話をしていると市丸が頻《しき》りにくしゃみをするので訊ねてみたら「風邪気味だ」と答えたので、「こりゃいかん。体は大事にしないといかん」と私が羽織っていた上着をとりあえず着せ、私は市丸へ着せる為の綿入れを土蔵へ取りに行きました。土蔵に着くと、何故か急にひどい悪寒に襲われたので少し休んでいたら、母屋の方で何やら騒がしくなりました。暫くして悪寒も収まったので土蔵を出ようとしたら、階段をバタバタと複数人が降りてくる音が聞こえてきました。上に居るのは慎太郎と市丸の二人だけ、明らかに人数が合いません。何者か分からぬ者達が外へ出たのを確かめてから土蔵を出て母屋に戻ると、階段下に藤吉が背中から斬られて倒れていました。これは只事ではないと二階へ上がると、慎太郎と市丸が膾切りにされていました。慎太郎は辛うじて息をしているものの、市丸の方は人相が分からないくらい酷い傷で既に亡くなっていました』
 偶然が幾つも重なった結果、龍馬は奇跡的に難を逃れたようだ。顔が分からなくなるくらい滅茶苦茶にされていたら、身に付けている服や体格で誰かを判断するしかない。体調を気遣って貸した羽織や体つきで、市丸を龍馬と勘違いしたのだろう。
『私の代わりに亡くなった市丸には申し訳ないが、“坂本龍馬”という人間が死んだ事は私にとって好機だと思いました。私が本当にやりたい事から遠ざかる一方、やりたくない仕事ばかり増えていました。国を動かす仕事はやりたい者がやればいい、私は海に出たいのに、そうさせてくれなかった。色々な人の恨みを買い、または今後の政で邪魔になると考える者も少なくない。正直、窮屈な思いをしていました。おかしな話かも知れませんが、私が死んだ事で私は様々なしがらみから解き放たれました』
 龍馬は薩長同盟や大政奉還の実現などに尽力してきたが、自らの存在感を高めたり人より偉くなりたいとは微塵も思っていなかった。諸外国が日本を虎視眈々《こしたんたん》と狙っている中、この国の未来を守りたい。その一心で動いていただけだ。本当なら小難しく面倒な仕事は全て放り出して、船を使って海外を含めた交易をしたかった。それを一日も早くやりたいが為に、不本意ながら龍馬は奔走していたに過ぎない。薩長を結ばせたのは幕府にこの国の舵取りを任せるには不適当だから、大政奉還を進めたのは国を二分する戦を避けるのと幕府内の有能な人物の喪失を防ぐ為。ただ、討幕派にも佐幕派にも利する龍馬の行動は、龍馬の事をよく知らない人から見れば“一貫性のない奴”と反感を買っていた。そして、幕府を討つ手助けをしたとして幕府側から狙われ、武力で幕府を討つつもりだった薩長からはその好機を潰したとして恨まれ、両方から命を狙われる材料はあった。どの派閥が刺客を送り込んだかは分からないが、龍馬の存在を邪魔とも危険とも捉える人物が居たことは確かだ。
 しかし、世間的に龍馬は非業の死を遂げた。これにより、龍馬の足枷となっていた縛りは全て消え、一人の人間として自由に生きられるようになった。
『私を殺したい程に憎んでいる者も居ますが、それ以上に私を好いてくれる人は大勢居ます。そうした人の援助を受け、これからは好きな事をやりたいと思います』
 討幕派にも佐幕派にも人脈を持ち、様々な大仕事を成し遂げてきたのは、運や実力以上に龍馬の人柄によるものが大きい。相手の懐に入るのも上手だし、真面目な話をすれば何とも言えない説得力があり、それでいて諧謔《かいぎゃく》のある言葉で場を和ませる事も出来て、性格的にちょっと抜けているところがあるのも美徳として受け止められる。天性の人たらしと言ってもいい。
 龍馬が亀山社中を設立したのは薩摩藩が金を出したが、それ以上に長崎の商人達の資金援助や協力があったからだ。商人は武士以上にお金の扱いに厳しい。成功するかどうか分からない社中に多くの商人が助力したのは、それだけ龍馬という男に惹かれたからに他ならない。
『この国の膿《うみ》はある程度出し終えましたので、私の役目はこれまで。今後は交易でこの国を豊かにしていく一助を担っていく所存。姉不孝の段、何卒お許し下さい』
 そして、文章の最後はこう締め括られていた。
『最後に。この文は読み終えたら必ず燃やして下さい。私が生きていると分かると色々不都合があります故。最後の最後まで面倒をかけさせて申し訳ありません。姉上も、どうかお体にお気をつけて』
 一番端には、龍馬の花押が記されている。活き活きとした筆遣いは、最初から最後まで健在だった。
 一番最後まで読み終えた乙女は、ゆっくりと手紙を畳んで懐に仕舞う。それから台所の火打石を持ってくると、自分の部屋の火鉢に手紙を置き、火打石で火を起こす。石同士を打って出た火花が手紙に点くと、小さな炎がゆっくりと燃やしていく。その様を乙女はじっと見つめていた。
 やがて、手紙は跡形もなく灰になってしまった。それでも、万一の事がないように手紙の灰を火箸でかき混ぜて、元の灰と見分けがつかないようにした。
(……さよなら、龍馬。達者でね)
 全てを終えた乙女は、空に向かって心の中で龍馬に別れを告げる。その表情は、実に晴れ晴れとしていた。

 龍馬が亡くなった翌年の慶応四年(一八六八年)三月、長州に居たおりょうが土佐の坂本家へやって来た。権平夫婦と折り合いが悪く三カ月程で退去しているが、後年おりょうは「乙女さんにはよくしてもらった」と語っている。
 乙女は暫く坂本家で暮らしていたが、後に長姉・千鶴の次男・坂本直寛《なおひろ》と一緒に暮らすようになる。晩年、乙女は“独《どく》”と改名。その理由については、明らかになっていない。明治十二年(一八七九年)、死去。享年四十八。
 この後、直寛は明治三十年(一八九七年)に北海道へ移住する事となるが、もしかしたら乙女から龍馬の蝦夷に対する思いを聞いていたのかも知れない。

 余談ではあるが……これは歴史の教科書に載ってないような話。
 明治期、北海道と日本各地を蒸気船を使って交易をする商人が居たそうな。大柄なその男は、和人でもアイヌでも分け隔てなく接して多くの人々から愛されたという。男には若干の訛りが混じっていたが、どこの地方のものかは分からなかったとか。
 その男が誰なのか。知る術はなかった――。

 (了)



 この作品は、『小説家になろう』で開催されていました“公式企画・秋の陣(お題:手紙)”の参加作品になります。
 この後書きを読まれるということは、全部読んだと判断してネタバレOKと判断させて頂きます。

 秋の陣の開催告知と共にお題も発表され、“手紙”となりました。……最初、このお題を見た時には“元亀三年、武田信玄が朝倉義景に督戦を促す手紙”がまず浮かび、次に“慶長五年、直江兼続が徳川家康に出した書状(直江状)”が浮かびましたが、前者は今現在書き進めている小説と時代が被るので却下、後者は決め手に欠けるので保留してました。
 何にしようかと考えていると、ふと“坂本龍馬が坂本乙女に出した手紙”というシチュエーションが浮かびました。色々と調べてみたら龍馬は筆まめな人物で、特に乙女へ宛てた手紙が一番多いとか。私自身、幕末ものは今まで書いた事が無かったので、これに決めました。
 執筆を開始したのは今月1日からでしたが、最初の方はなかなか筆が進みませんでした。第一目標は本日(22日)の投稿、最悪でも期日までの投稿を目指していましたが、思うように書けないので「これは22日に間に合わないな」と覚悟もしました。しかし、月の中頃からようやく進むようになり、19日の午前中に元原稿が完成。それからパソコンへ打ち込み作業を開始し、昨日全ての作業が完了しました。

 最大の決め手となったのは、“龍馬は実は生きていた”という筋ですね。
 異世界転生や前世の記憶を引き継ぐ系、チートものやifもの(特に“史実では死んだ人物が実は生きていた”系)にあまり興味がない私ですが、坂本龍馬に関しては例外でした。実際に商業作品でも龍馬生存説に基づいた小説も発売されており、私自身も何冊か読んだ経験があります。何故例外かと言えば、“龍馬自身に国を動かす野心に乏しく、仮に生きていたとしても歴史に大きな影響は与えない”というイメージがあるからです。
 人生初のifもの(史実変更)になりましたが、いかがだったでしょうか? ……自分の中では結構大きな挑戦だったので、「面白かった!」「楽しかった!」等々のコメントを頂戴出来ると大変嬉しいです。

 今作はかなりインパクトの強い(?)オリジナル要素を含んでいますが、前々から触れている現在進行形で書き進めている小説から、かなりオリジナルな展開が多くなっております。この作品に関しては元々史料が乏しく、従来の“なるべく史実に近い”というスタイルが難しかった事情があり、オリジナルの展開で補完するスタイルになりました。幸い、アイディアに詰まる事はなく次々とプロットが浮かんでおり、結果として今までの私の作品と比べるとかなり攻めた内容になっています。
 茶道の世界で“守破離”の言葉がありますが、今回の作品は“破”に当たる作品になります。ハガレ〇の世界で例えるなら“理解”“破壊”“再構築”ですね。……さて、ハ〇レンで例えたはいいけれど若い方にそもそもハガ〇ンは通じるのでしょうか。それはともかく、私の作品が良くなっているのか悪くなっているのかはまだ掴めていませんが、読者の皆様が面白いと思って頂けるよう重ねて精進していく所存です。

 長々と書き連ねてしましましたが、今作『龍より乙女へ、想いを託す』を読んで、少しでも「面白かった!」と思って頂けると作者冥利に尽きます。



(2022.10.24. up.)

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