狼は一人がお好き

　その日、白瀬芙喜子は酒を飲んでいた。
　普段からアルコール類は飲まない方で、時々誘われた時にお付き合い程度に軽いお酒を数杯飲むだけに留めていた。ちなみにこれまでで酒に酔ったことはほとんどないから、多分お酒に強い方だと自分では分析している。
　だが今日は無性に飲みたくなった。仕事が終わると、高級ホテルの最上階にあるバーへ直行した。
　店内は照明を抑えて180度ガラス張りのオシャレな造りになっている。カウンターも180度ぐるりと囲むような形で、テーブルには大理石を使ってあるので高級感が溢れている。
　窓の外には闇夜一面に色とりどりの宝石が広がっている光景を一望できる。街を彩る様々な色のネオンや車のライト、低層ビルの光も高層ビルの上から眺めたらロマンティックになるのねといつも心の中で毒づいている。
　そして窓際の席には綺麗なお召し物に身を包んだ男女が眼下に広がる光景を見ながら優雅な一時を過ごしている。馬子に衣装とはよく言ったものだ、冴えない男もこの場では何割か増して格好良く見える。
　いつ来ても似たような光景が目に飛び込んでくるので、いつも美しい景色を背中に向けてカウンターで一人飲んでいる。
　最初はカクテルっぽいものを頼んだのは覚えているが、それから先何を頼んだかは全く記憶にない。ひたすら煽るように飲んでいることだけは確かだった。
　バーテンダーもこの手の客には慣れているのか、白瀬の乱暴な飲み方に注意するでもなく、ジロジロと不審そうな目で見るでもなく、ただ静かにアルコールを出していた。
　ふと腕時計を覗いてみたら時計の針は11時を少し廻っていた。あぁこんな時間かとふと視線を横にやるとウィスキーがロックで入っていた。多分薄めていない。
　グラスに触れて少し揺らしてみた。グラスの中に浮かんでいる氷がカランカランと澄んだ音を鳴らす。
　意味もないが頬をカウンターの上に乗せてみた。火照った頬に大理石の冷たさがじんわりと伝わってきて気持ちがいい。そしてグラス越しに見える世界は琥珀色に包まれていた。
　（なんでアイツの顔が浮かんだんだろうか）
　ぼんやり淡い茶色く染まった世界を眺めていたら、ふと彼のことが頭に浮かんだ。
　彼の職業は野球選手だけれども、それは表向きの顔で本当の職業は政府系秘密機関サイボーグ対策室（CCR）の工作員。現在とある案件でプロ野球の大神ホッパーズに潜入操作を行っている。
　近年科学技術の進歩により、体の一部を機械化するサイボーグ技術を受ける人が増えてきている。その中でも武器を隠したり常人では考えられないような力を発揮する違法サイボーグによる犯罪が急増しており、対策は急務であった。
　ただ普通の人と比べて特別変わったところがあるわけではないのでサイボーグを一般社会の中で見分けるのは困難に近かった。だが、そんな危険性を持った人間が普通に生活していることが世間に知れたら社会は大混乱に陥ってしまう。
　そんなサイボーグに対抗するために組織されたのがCCRであった。政府系の特殊機関として違法サイボーグを取り締まり、元の人間に戻す活動を行うことが目的で組織された。
　体の中に武器を仕込んでいたり強力な力を持っている違法サイボーグに対抗するため、常時武器携行の許可や囮捜査の適用など措置が取られている。摘発からアフターフォローまで一括して行う機関は珍しいが、その危険性を鑑みた場合必ずしもそうだとは言い切れない。
　そして白瀬もまたCCRの組織員だ。彼を後方から全面バックアップしている身である。
　身体能力はずば抜けて高い彼なのだが、如何せん感情的になりやすいという致命的な欠点があった。良く言えば人間味溢れる人物、悪く言えば感情に流されやすいということだ。
　……そういう人間らしさが強いところに惹かれているのかも知れないが。
　「お客様」と声をかけられた。酔い潰れて寝てしまったと勘違いされたらしい。
　顔を持ち上げて周囲を見渡すと、未だにカップル達が外を見ながらデートを楽しんでいる。見ているコッチはそんなカップル共とは違ってイライラするだけなのだが。
　帰ろう。こんな場所に居ても退屈だし。グラスの中に残っているブランデーは勿体無いので一気に飲み干す。
　カウンターの席から立ち上がろうとしたが、ふらっと頭が揺れてよろめいた。足元が覚束ない。やはり今日は長居しすぎたと痛感した。
　改めてカウンターに腰掛けると店員が「タクシーをお呼びしましたので、暫くお待ち下さい」と言ってきてくれた。普段なら余計なお世話だと断るのだが、今日は素直に甘えることにした。
　タクシーが到着するまでの間に会計を済ませたが、合計金額が50万を超えていた。CCRからは十分すぎるくらいの給料は貰っているし、普段使い道もないから時々散財しても特に痛手にならない。
　その後店員は親切にもタクシーが到着した入り口まで付き添ってくれた。私は半分倒れこむように席に寝転がったが、その時店員は運転手に対して一枚の切符を渡していた。
　特に私は気にするでもなく、自宅の場所をそれなりに伝えてタクシーを発車させた。
　真夜中の都会は渋滞もなくスムーズに流れて、ちょっと現実と夢の間を行き来していたら家に到着していた。
　私はタクシー代を払おうとカバンの中から財布を出そうとしたが運転手から断られた。なんでも「あの店から『ツケにしておいて』と言われているから、払わなくてもいい」とのこと。
　だが私としては得したという気持ちよりも、なんだかあの店に借りを作ったような気持ちが強いのであまり良い気分ではなかった。どうも人に借りを作ることは個人的に嫌いだった。
　今度あの店に行ったら今日払ってもらったタクシー代以上に飲み食いしてやる。そう心に誓った。





　　　　　【狼は一人がお好き】





　部屋に帰ると真っ先に風呂場へ駆け込んだ。既に夜も大分更けているがこのまま寝るのもなんだか人間的に終わっているような気がするのでシャワーを浴びる。
　着替えを用意したら適当に脱ぎ捨てて、そのまま風呂場に入って蛇口を捻る。温かいお湯が霧雨のように降り注いで肌や髪を濡らす。
　立ち昇る湯気で鏡が曇りだしたが、その鏡に映るのは普段とは違って髪を下ろした白瀬の姿があった。
　（―――残念、か）
　正直に言えば今目の前にいる白瀬は嫌いだった。妙に女の子っぽいところがあって自分が弱いように見えるからだ。
　だからこそ普段は髪を上げて少しでも強く見せるように心がけていた。周囲が男だらけの環境で、女である自分が負けないように。
　けれど、そんな嫌いな自分を他の人に見せてしまったことがある。彼だ。
　あの日白瀬は偽のプロ野球選手として苦労している彼の心理カウンセリング（と称した気分転換のお誘い）のために街で待ち合わせをしていた。出掛ける時に外は晴れていたので傘は持っていかなかった。
　これが結果的に裏目に出た。通り雨に遭ってしまい、濡れ鼠のように全身ずぶ濡れとなってしまった。当然髪型も崩れてしまい、路地裏に隠れていたところを目敏く彼に見つかってしまった。
　みっともない姿を見られて恥ずかしかったが、私の姿を見た彼は最初「男の子みたいだ」と言って爆笑した。笑われて余計に恥ずかしさが増して顔が真っ赤になった。
　だが彼はその後にこう言った。今の可愛い姿がなかなか見れないのは「残念」だと。それ以来、髪を下ろした自分の姿を鏡で見る度にあの時の彼のことが思い浮かぶように刷り込まれてしまった。
　彼に良い様にあしらわれたのも気に食わないが、無意識に彼が浮かんでくるように仕組まれたのも恨めしい。反面、少しだけ髪を下ろした自分の姿が好きになった。
　色々と思い耽っていたが、それらを全て振り払うように蛇口をキュッと締めた。濛々と立ち込める白い湯気に息をフゥと吹いたら若干曇りが取れて霞にかかっていたタイルの色が一瞬鮮明に映った。



　翌日。昨晩は大量のアルコールを摂取して酩酊状態になったにも関わらず昨日と全く変わらない白瀬の姿がCCR本部にあった。二日酔いとも無縁らしくケロリとしていた。
　サイボーグ対策室には少人数で構成された隊で構成されており、白瀬は灰原隊長の下で働いている。
　この灰原が属する隊というのは違法サイボーグの検挙率がトップを誇る精鋭であった。無論実績があるということは最前線で活動していることの裏付けでもある。
　黒駒部長が一応頭として存在するが、黒駒は直接前線に出る訳ではない。実際には灰原が現場に出て指揮を執っており、隊員からの信頼は厚い。
　そして白瀬もまた灰原を全面に信頼していた。危険を厭わず常に最前線で戦う姿勢には共感を覚えるからだ。
　「……白瀬、ホッパーズの件で何か動きは？」
　白瀬がパソコンに向かっていると灰原から話しかけてきた。画面を見つめながら「特には」と素っ気無い返事をすると、灰原も画面を覗き込む。
　ホッパーズにサイボーグの影が見え隠れし始めたのは2年前に遡る。
　別件で捜査をしていた彼が偶然にもプロ野球球団であるホッパーズに関するデータを持ったサイボーグの捕縛に成功した。
　ホッパーズは近年急成長を遂げた大神グループが数年前にモグラーズを買収して誕生したチームである。軍事面や医薬品事業が好調で、日本のみならず世界的に知名度のある会社であった。
　前身モグラーズ時代には何回か日本一を経験したことがあるが、ここ最近は成績が低迷。スポンサーが変更するのと同じくチーム名も変わったという訳だ。
　そのサイボーグが持っていたデータを解析すると、ホッパーズ内部に違法サイボーグの選手と関連する情報が出てきたのだ。プロ野球界にまで違法サイボーグが蔓延していると判断した部長は、身体能力の高い彼を野球選手に偽装して潜入捜査を行うことを決定。
　ホッパーズ関係者と極秘に打ち合わせを行い“ドラフト外で入団した選手”ということでホッパーズに入ることになった。勿論実際に入団するまでの間に野球の基礎知識をみっちりと彼に叩き込ませた。
　春季キャンプまでは何も起こらなかったが、オープン戦途中で一軍選手が乗ったバスが爆破されるという事件が発生。テロも辞さない違法サイボーグ集団・サイボーグ同盟が関わっているということが判明したことにより、彼にかけられる期待はさらに大きくなった。
　水面下で様々なテロ未遂行為があったが、彼の活躍によって実行に移されることはなかった。これだけでも大手柄と言ってもいいが、まだ事件は終わった訳ではない。
　潜入捜査は3年目に入り、事件は長期化の様相を呈してきた。事件解決に向けて最大限努力している（彼は年々捜査よりも野球に打ち込んでいる気がしないでもないが）のだが、サイボーグ同盟も尻尾を掴ませてくれない。
　「最近こちら側の支部が奴等の標的になっている。注意するに越したことが無いが……」
　最近サイボーグ同盟の犯行と思われるCCR支部へのテロ行為が頻発している。幾つかフェイクの物件も用意しているのだが、奇妙なことに最近はフェイクに引っかからないので警戒を強めている。
　「そういえば定時の報告は？」
　ふと腕につけている時計に目線を落とす。彼から定時連絡の時間が過ぎていた。
　野球選手として生活をしている彼であったが、毎日一回必ず本部に報告することを義務付けていた。状況確認もあるのだが、彼の安否を確かめるという重要な意味を持っている。
　特に彼はサイボーグ同盟からは特に目をつけられている存在。テロを未然に防いだ経歴もある上に昨年末に発生したサイボーグ同盟グループによるロボット工場拠点を単身で乗り込んで壊滅状態にさせた。標的にされてもおかしくない。
　「彼から昼頃連絡があり、私用により連絡が少し遅れるとのことです」
　咄嗟についた嘘だが、灰原は特に気にするでもなく他の場所へ移っていった。
　ここ最近彼からのお誘いが、ない。
　潜入捜査を開始した当初は慣れない環境に苦労しているのか頻繁に連絡を取ってきた。当然と言えば当然か。
　野球をすることが大好きな連中が四六時中好きなことをやっている人が大人数で共同生活をしている環境に簡単に適応できる人間などいるはずがない。しかも体育会系で上下関係も厳しい世界なのだから余計に辛い。野球が好きでなければ苦痛に感じるだろう。
　よく連絡してくれることは頼られていることの裏返しだ、と勝手に解釈していた。きっかけは何であろうと、親しくなることは嫌じゃなかった。
　ガサツで、感情的で、自分勝手な性格で組織員としては最悪だけれど、そんな彼に惹かれていった。恋愛対象として入っていないはずなのに、妙に馬が合うのが不思議で仕方なかった。
　けれど、彼は私から離れていった。元々付き合っていた訳ではないので別れたとも思っていないし、彼自身もそういう風には全く思っていなかっただろう。
　それなのに心に穴が空いてヒューヒューと風が入ってくる、この気持ちはなんだろうか。言葉では言い難い複雑な気持ちである。
　もう一度腕時計に視線を落とす。あと数分で日付が変わってしまう。
　プロ野球選手として潜入捜査に入った彼のことをまだサイボーグ同盟はCCRの組織員と判断していないようだった。それにプロ野球選手という公的な職業の人物を理由なしに攻撃することがないことはわかっていたが、連絡がないことに不安が募る。
　隊長には上手く言い繕ったが、一度心の中に芽生えた不安の種はなかなか消えない。白瀬の指は知らず知らずの内に彼の番号を押していた。
　1コール、2コール……呼び出し音が白瀬の鼓動をどんどん早めていく。祈るような気持ちで彼の無事な声が電話口から聞こえるのを待つ。
　プツッと反応があった。機械的に続いていた呼び出し音が止まった。
　『はい？』
　電話口から彼の声が届いた。声の様子から無事なようである。
　ホッと胸を撫で下ろしつつ、相手にこちらの気持ちを悟られないように「なんだ無事じゃない」と言っておく。本当は心配で心配でたまらず、心臓の鼓動もまだ激しいが。
　「定時報告の時間とっくに過ぎてるわよ」
　『え？　……もうそんな時間か』
　彼はやや驚いたような様子だった。まるでそんなに時間が過ぎているとは思っていなかったかのように。
　そんな間の抜けた声を聞いて心配していた自分が馬鹿馬鹿しく思えてきた。なんでアンタの心配をしてあげなきゃあげないのか、という思いが徐々にこみ上げてきた。思わず溜め息が出てしまった。
　「あんたがどんな女と付き合おうと知ったことじゃないけど、色ボケして失敗しないようにね」
　『おいおい、森さんは関係ないだろ』
　こちらの強い口調に少しムッとしたのだろうか。やや苛立った様子の声が電話口から聞こえてきた。
　しかしわかりやすい男である。姿が見えなくても彼がどんな顔をしているのか目の前に見えるようである。
　「ふーん……今の彼女、森さんって言うんだ」
　ちょっとからかい気味に電話口の彼に応答した。思ってもないところで彼女の名前が出てきたので儲け物である。
　しかしちょっとイタズラが過ぎたみたいで、彼は一方的に『こちらは状況変化なしだ、切るぞ』と言って電話を切ってしまった。
　ツーツーと回線が切れた音がする。もう彼には私の声は聞こえない。
　ひとまず彼の無事は確認できた。隊長にこのことを報告すれば今日はもう帰ってもいいだろう。
　（森さん、か）
　もう一度彼の口から出てきた彼女と思われる人の名前を口の中で呟いた。幸いなことに周囲に人がいないので私の独り言を耳にする人はいない。
　また心がキュンとなった。これが知らない森という名前の女への嫉妬なのか、彼を奪ったことが悔しいのか、それとも別の何かなのかはわからない。ただ、自分でもおかしいと思ったことだけは確かだ。



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　これでかれこれ2年の付き合いになるのか。
　偽りの記憶を植え付けて偶然の再会を装い彼に近付いた。幸いにも彼は何の疑いもなく私を受け入れてくれた。
　私、森友子を。
　そして私はサイボーグ―――彼とは敵対関係にある。彼はサイボーグ達を狩る側、私はCCRから逃げる側。
　多分CCRから見れば私は危険人物なのだと自分でも思う。だって私は他人の記憶を操作できるのだから。
　記憶という情報は実に不確定な要素が多い。その主たる要因は全て過去の出来事を蓄積していることにある。過去の出来事は忘れ去られることもあれば、別の情報によって変えてしまうことだって出来る。
　過去の出来事を忘れるということは莫大な情報量を整理するために人間が身につけた防衛措置だと聞いている。それでもキッカケを与えれば失われた記憶を取り戻すことも可能である。
　だが意図的に、しかもキッカケを作らないで他人の思うままに記憶をすり返ることが出来るならばどうなるか？そんなことをされてしまえば相手の思うままに情報が操作できる。
　3年前のある日、サイボーグ同盟のリーダーが突然私を呼び出してこう告げた。
　「とあるCCR組織員から情報を集めてきてもらいたい」
　中学時代の同級生になりすまして対象者に近付いて、記憶を操作して情報を聞き出してほしいというものだ。
　当然のことながら非常に高いリスクと背中合わせの任務である。もしも私がサイボーグ同盟の一員とわかればその場で射殺されるかも知れないからだ。
　街中で平然と人が殺されたとしても、相手が『この人は凶悪なサイボーグだ』と言い触らせば罪にはならない。警察も裏でCCRとつながっているから役に立たない。
　そして繁華街で彼を待ち伏せして、久しぶりの再会という形で彼に接触を試みた。あっさりと受け入れられてこちらが拍子抜けしたくらいである。
　私が埋め込んだ嘘の思い出を彼は懐かしそうな表情をして聞いているのを見たら、少し胸が痛んだ。本当に何の疑いもなく信じ込んでいるのである。後ろめたくないと言えば嘘になる。

　こういうのはスイートハニー作戦とでも呼ぶべきなのだろうか。異性を誘惑して、情報を引き出す作戦。
　必要であれば肌を合わせることも躊躇わないと言われているが、私にはそこまでの勇気も覚悟もない。そんな映画の中のスパイになれるはずがない。
　サイボーグ同盟の一員だけれども、戦闘能力はそこら辺に転がっている一般人と等しい。人の記憶を変える程の暗示能力以外は普通の人と全く変わらない。
　ただそれがあるのとないのとで住んでいる世界が違う。追われて、追い詰められて、いつまで生きれるかもわからない。
　一部の戦闘能力に特化した過激な強化人間や今の状況を打破しようと色々画策している人達とは違う。私達は普通に暮らしたいだけなのに。
　……だから、いつ私の身元が割れるか心配で怖い。表面上では平気な顔をして楽しんでいるように振舞っているけれど、いつサイボーグだと知られるかわからない。
　そして今日も彼に会う。彼はまだ私のことを知らない。本当の私を知らない―――



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　またやられた。未明に入ってきた情報にCCR本部に緊張が走る。
　ここ数ヶ月の間CCRの拠点が襲撃される事件が頻発しており、今回もまたサイボーグ同盟からの攻撃だと思われる襲撃により拠点を急襲された。
　幸いにも今回は怪我人こそ出なかったものの、大切な情報を相手に渡すまいと拠点を爆破したため、少なからず影響が出るものだと思われる。
　だが、この襲撃に関して疑惑が持ち上がっている。
　サイボーグ達を狩る立場にあるCCRはサイボーグ同盟から目の仇にされていることは重々承知している。幾つかダミーの情報を流し、誘き寄せられたサイボーグ達を一掃出来るように万全の支度も整えていた。
　しかし、最近の襲撃はそんなトラップを見透かしているかの如く正確かつ効率よく動いている。情報管制は厳しく相手に洩れないよう最大限配慮しているつもりのはずなのに、どこからか情報が流出している恐れがあるのだ。
　それが内部の者が意図的に相手に情報を渡しているのか、それとも情報統制に穴があるのかはまだ不明だ。だからこそ今回の一件は機密に関わる一大事だと捉えられていた。
　（何かがおかしい……）
　白瀬は騒然とする本部で一人あらゆる可能性を考えた。
　内通者。情報を相手に流すという意味での内通。しかしリスクが大きい割に得られるメリットがない。それに身元不明な人間を内部に入れる程CCRという組織は甘くはない。
　内部の裏切り。CCRに対して何らかの恨みや憎しみからの犯行。そんな人間が機密性の高い情報を得られるような位置にまで行くまで時間がかかるし、効率も悪い。
　情報の傍受。有り得るかも知れない。電気信号化された言葉や文字を見たり聞いたり出来るサイボーグがいる可能性も捨てられない。
　しかし膨大な情報量の中から欲しい情報を見つけられるだけの正確さがあるのか？ここには内部の人間だけではなくて外部にいる組織員の情報まで詰まっているのだ。
　さらに言えば現在扱われているサイボーグのパーツに、そのような特殊かつ危険な機械はまだ開発されていないという確たる情報もある。超能力であれば別だが、そんな連中はサイボーグ同盟にはいないことは既にわかっている。
　とするならば……考えられるのはアレしかない。
　整然とデスクに座っている灰原隊長の前に白瀬が立つ。その姿を一瞥するが言葉はない。
　「隊長、少しお話が」
　サングラス越しの隊長の眼に白瀬の姿が映る。白瀬は大きく息を吸い込み、自分の意見を述べた。
　考え出した末の結論。隊長は首を振った。GOサインだった。



　効果はすぐに現れた。ダミートラップとして仕掛けていた拠点にサイボーグ同盟からの襲撃。見事撃退に成功した。
　外部に出ている捜査員全員に別々の拠点を教え、どの拠点が襲われるか試したのである。
　もしも万が一引っかからなければ内部の犯行もしくは情報の漏洩、引っかかった場合にはその捜査員から情報が洩れているということ。
　そして情報漏洩の根幹も判明した。今回襲われた島木原ビル5Fという情報を直接伝えたのは白瀬本人だから誰だかすぐにわかった。
　その時電話口にいたのは、彼だった。

　彼はすぐに本部に飛んできた。情報が彼から洩れていることを告げると、驚いた表情を浮かべた。
　「俺から情報が洩れてる！？」
　「そうだ。外部で活動中の全捜査員に別々の拠点を連絡して、どこが襲撃されるか調べた」
　黒駒部長が淡々と事情を説明する間も状況を上手く呑み込めていない様子だった。
　意図的に情報を流していたとしたら事実の重大さを認識しているはずだし、顔色も真っ青になっているはずだ。だが、それらしき兆候は見られない。
　通信が傍受された可能性や自分に身に覚えがないことを殊更強調しているところを見ると本人は気付いていないところで洩れていた可能性が考えられる。
　そうでなければ彼は内通者として処罰を受ける立場にある。組織を揺るがした罪は重大なので命はないものと考えなければならない。
　本部にいる人間から冷たい視線に晒されていることに気付いた彼は激昂した。あらぬ罪を被せられていると主張するが、信じる者は誰もいない。
　そんな彼に隊長はいつまでも冷静だった。
　「……心当たりをよく考えろ」
　隊長に諭されてようやく今まで機関銃のように自分の正当性を振り撒いてきた口を閉じ、じっと考え込んだ。瞼も閉じてこれまでの自分について真剣に考えているようであった。
　感情的にならなければ組織員としては非常に優秀な部類に入るのに、彼は感情を捨てきれない。冷静に物事を分析する能力にも長けているが持ち前の人間味溢れる性格のせいで減殺されていることに気付いていない。
　多分彼はシロだ。白瀬はそう感じた。
　私は人間的な彼と違って機械的に物事を判断できる。自分の心情も、相手の心の動きも、全てゼロにして考えられる。
　だが、果たして彼はどういう行動に出るか。我を通して自らの正当性を説き続けるのか、それとも心当たりを見つけることが出来るか。これは彼という存在に大きく関わる重大な岐路でもある。
　もしも先程までと同様に自分の正当性を必死に言い続ければ、彼はそれだけの人物だったと見なされて組織からの信頼は地に堕ちる。それは捜査員失格の烙印を押されたも同然だ。
　だが……ここでもしも可能性を見出せたならば、彼は優秀な人材だと改めて評価されるだろう。
　暫しの間沈黙が流れて、ふっと彼の瞼が開いた。
　「ひとつ、思い当たることがあります。でも、これは俺に任せて下さい」
　彼の視線は隊長に注がれていた。一点の曇りもないその眼差しで。
　黒駒部長が彼に任せられないとばかりに反対したが、隊長はこの一件を彼に一任した。
　それだけ聞いて彼は早々と本部を後にした。その背中には迷いが見えない。そう白瀬の目には映った。



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　何度か彼の過去を巡って危ない場面があった。本当に覚えていたことを彼は口にしたが、私にはわからない。だって偽りの過去だから、私は彼の知っていることは見てもいないし聞いたこともない。
　その都度無理矢理話を終わらせようとした。結局彼が折れる形で話が続くことはなかったけれど、内心私はドキドキしていた。
　けれど、私は彼のことを情報を聞き出すだけのドライな関係に見れなくなった。
　初めて会った時から彼は懐をオープンにして私を迎えてくれた。何回か会っていく内に、自分の心が彼に惹かれていくのがわかった。
　任務とは言え、人並みに生活できる楽しさや喜びを感じることが出来た。公園でのんびりしたり、二人で昔のことを思い出しながらアイスを食べたり、一緒に映画を観たり、ドライブに出掛けたり。
　……二人をつなぐ思い出が偽物なのはちょっと心が痛んだ。ありもしない過去を共有しても、なんだか借り物みたいで寂しい気持ちになった。
　そして彼から情報を聞き出す時は本当に辛かった。彼は気付かない内に秘密を聞き出されて、それが敵方に流れているなんて思ってもいないだろう。
　けれども、いつしか過去に頼らなくても二人で寄り添える時間が増えてきた。私の心の奥底に潜んでいる不安も恐怖も彼の大きな懐に入れば全て溶けてしまうような気がした。
　私は板挟みになっていた。また新たな苦悩の種を植え付けられて、もがき苦しんでいた。彼に打ち明けることも出来ず、解決の糸口も見えないまま。

　そんな中、彼が会おうと言ってきた。表の顔が野球選手なので会える時間は限られているし、彼のチームは優勝争いを演じているので簡単に時間が作れないことはわかっていた。
　約束の時間から少し早めに待ち合わせの公園に着いたが誰もいなかったので、近くのコンビニに行ってアイスを買ってくることにした。
　9月になったとは言っても夜でもまだまだ暑いから、こんな時は冷たいアイスを食べながらまったり過ごすに限る。スティック状のアイスを二人分購入して公園に戻った。すると彼は背中を向いて私が来るのを待っていた。
　「よ！」と元気よく彼に言ったらこちらが思ってた以上に驚いたらしくプリプリと怒ってしまった。
　そんな彼をなだめるように「アイス食べる？」と差し出すとコロッと笑顔になった。近くのベンチに座ってアイスの味を堪能する。
　「のどかね……」
　「うん。前にもこうして公園に来たよな」
　前に来た時も、こうして彼が待っているところを驚かして、アイスを渡して仲良く食べたのだ。その時も中学の時の思い出話で盛り上がったけれど、彼の覚えている話半分に私の作った話半分で少し複雑だった。
　「そうね、平和よね……ああ、平和が一番いいわ」
　「どうってことない話題で楽しんだり怒ったりできる、今の世の中が一番いいよ」
　「そうね、普通なことが出来るのが一番よね。最近そう思うようになったわ」
　他愛もない会話だが、普通ではない私にしてみればその普通なことの大切さが身に染みて実感できる。こうして二人並んでアイスを食べながら笑い合えることが素晴らしいことを。
　「あぁ、そうさ……なぁ、友子」
　「なあに？」
　「お前やめないか？」
　え、と声が出てしまった。それから彼は表情を変えずに「俺から情報を引き出すのは」と続けた。
　心臓がドキリと跳ねた。彼はわかっていないはずの出来事を、何故彼が知っているのか。何を言えばいいのかわからず困惑する私を見て彼は表情を和らげた。
　「とっくにバレてるんだよ。お前、サイボーグだろ？」
　違うと否定しようとするが、動揺を隠し切れず言葉が上手く出てこない。そして何事もなかったかのように、私の持っているアイスが溶けていることを指摘してきた。
　慌てて手に持っているアイスを口に咥えて前を見据えるが、彼は一人で喋り始めた。
　強力な暗示能力を持った機械があること、その機械は小型化されてサイボーグの体内に隠すことが可能なこと、そして偽の過去の思い出ならば細かい部分まで決めなくても会話で誘導できることを淡々と話していた。
　けれど私を気遣ってか、面と向かって話している訳ではなかった。私が彼の顔を見れないことをわかって、敢えて独り言のように勝手に話しているのだ。
　そんな彼の優しさが今まで私の中にあった自責の念を増幅させた。全てを悟られてしまった以上、私は二度と普通の生活を送ることは許されないだろう。
　「……私をどうするつもり？」
　ようやく絞り出した私の言葉。やっと彼の顔を見ることが出来たが、まだ直視することは出来なかった。
　すると彼は私の肩を掴んで俯いていた私の顔を彼と直視できるようにした。
　そして私の瞳を見つめて「俺はお前が好きだ」とはっきりと宣言した。そして「守ってあげたい」と。
　彼の真っ直ぐな気持ちをぶつけられて、またしても私は言葉を失った。私は彼を裏切っていたのだ。中学の同級生という過去は作り物のでっちあげだということも知っているのに。
　私が過去の話について聞いてみたが彼は「過去は関係ない」と一蹴した。そして「お前はいいやつだよ」と柔らかな笑みを湛えて言ってくれた。
　一度に沢山の情報が頭に入ってきて、もう何がなんだかわからなくなってきていた。
　私は彼を騙していた。彼も私が騙していたことを知っている。私がサイボーグであることも知っている。
　それら全部をひっくるめて、私のことを愛していると言っている。遠まわしな表現など一切なく、ただ真っ直ぐな彼の言葉が次々と津波のように押し寄せてきた。
　「なぁ、俺と一緒に逃げないか？ずっとお前を死ぬまで守ってやるよ」
　彼の瞳の中にずっと私が映っている。今まで見せたことのないくらいに真剣な眼差しで、私を見ている。
　（逃げる、誰から？さっき彼は私を守ると言ってくれた。私を守るということは……CCRから？）
　全てが繋がった瞬間、彼の意図することがようやく掴めた。
　多分彼はここに来る前に胸に決意を秘めて今日という日を迎えたのだろう。全てをかなぐり捨てる覚悟を。
　「そんな……ダメよ……できないわ……」
　（貴方は今いる組織から抜け出す気なの。私一人を守るために。私一人のために彼は命を危険に晒すというの）
　彼は全てを犠牲にしてまで私を守ってくれるのかと思うと、胸が苦しくなる。まだ私にはそこまでの覚悟がなかった。
　そんな私の沈んだ表情を見て彼もまた悲しそうな表情を浮かべていた。
　「俺じゃダメか？それとも信用できないのか？」
　私は心の中で大きく首を振った。
　（ダメじゃない。貴方はとても頼りになる人。だから私は貴方に惚れたのだ。
　信用できないはずがない。だって貴方は私を信じているじゃない。
　私がサイボーグであっても貴方は私を受け入れてくれた。偽りの過去も全て呑み込んでくれたのに）
　「そんなことない、だけど……」
　言葉が後に続かない。色々と言いたいことが頭に浮かんでいるけれど、それを上手く言葉にすることが出来ない。
　いつまでも何も言わずにモジモジしていると、「じゃあ、決まりだ」と彼はニッコリ笑った。
　急なプロポーズで、はっきり言えばまだ戸惑いや信じられない気持ちで一杯である。けれど、それ以上に私は嬉しかった。
　彼の心から喜んでいる姿を目にして、私も覚悟を決めた。が。
　「待って……やらなきゃいけないことがあるの。それが終わるまで待って」
　彼は既にやるべきことを全て終わらせているのだろうが、私にも私なりに準備がある。それをやらないと、逃げられない。
　「それはいつ？」
　「10月の2週目」
　サイボーグ同盟のメンバーが10月の2週目に集まる用事がある。全員とまではいかなくても大多数の記憶を変えれば、恐らく私に危害が及ぶことはないはずだ。
　「なんだ、シーズン終了後じゃないか。ちょうどいい、俺もペナント途中で抜けなくて済む」
　その後彼はホッパーズの公式戦最後の試合が終わった翌日にこの公園のこの時間に待ち合わせることを約束した。
　私が「日本シリーズは？」と問い返すと、彼は想定していなかったみたいでキョトンとした顔をしていた。今ホッパーズは優勝できる位置にあり、優勝すれば日本シリーズに出場することも出来るのだ。
　そんなちょっと抜けている彼の姿を見ることが出来て、自然と笑みがこぼれた。どうせやるなら最後までやってきて、と彼の背中を押した。
　すると彼は今日一番の笑顔で「日本一になってお前と一緒に逃げるぞ」と高々と宣言した。私もそれに元気よく頷いた。
　彼は念を押すように私に向かって「お前が誰であれ、俺はお前のことが好きなんだからな！」と改めて言ってくれた。
　別れ際彼は必ず迎えに来ると約束してくれた。私も彼との約束を果たせるよう、強く自分の心に誓った。

　そして静かに時は流れた。
　連絡は再会するまで取らないことに決めた。下手に連絡を取り合って足がついても嫌だから。
　会えなくて寂しくても、去年のクリスマスに彼から貰ったプラチナのブレスレットを撫でればスーッと不安が消えていった。私だけのサンタクロースから貰ったプレゼントの効果は絶大だった。
　今も彼は戦っている。私も頑張らないと彼に会わせる顔がない。
　あとは早く彼と会って、どこかへ逃げたい。一日一日その思いが強くなっていった。



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　サイボーグ同盟のメンバーが10月第2週に集まるという情報が入ってきた。幾つかのルートを通じて確認をとったところ、まず間違いないとのことだった。
　今年一年は特にやられっぱなしだったのでこの機会を逃さずにはいられなかった。今回一気にサイボーグ同盟のメンバーを一網打尽に出来る絶好のチャンスでもある。
　外部に出ている全捜査員はもちろんのこと、本部にいる組織員も動員して大規模な攻撃に打って出ることが決まった。当然私もそのメンバーに入っているが、彼はホッパーズが優勝したので今回外すことにした。
　場所は繁華街の一角にあるテナントビルの地下。そのビルにサイボーグ同盟の一員と思しき人物が地下へ入っていく光景も目撃されており、近隣を警戒する捜査員から手配中のサイボーグを発見したとの報告もある。
　突入は全員が集まって少し経ってから。灰原隊長を中心にした精鋭部隊が突入、一人も洩らさず徹底的に叩く方針だ。
　だが私はその精鋭部隊の中に含まれていなかった。身体能力も戦闘能力も悪くないのに外された。多分女性だからだろう。内心忸怩たる思いである。
　配置されたのは地下通路。万が一サイボーグが逃げてきた場合には即刻確保しろと厳命されている……生死は問わないのだが。
　ただ、配置された場所には自分以外誰もいなかった。襲撃部隊に多くの人員が割かれたこともあるが、白瀬の能力をそれだけ認めている証拠だと一人勝手に解釈した。
　流石に10月も半ばだけあってひんやりとした空気が充満していた。薄手のコートでは寒かった。
　ちらりと時計を見る。そろそろ突入の時間だ。
　バン、ダダダダダッ。地下道の奥から銃声が聞こえる。銃声に爆発音も混じっているから、相当激しい戦闘になっているのだろう。
　安全圏にいて何も出来ない自分が歯痒い一方で、もしもその場に私がいたとしたらと考えたら興奮する自分がいた。果たして自分はどこまでやれるのか、と。
　色々と想い耽っていると、遠くでドアが開く音がした。出来る限り音を殺しているが、足音が近付いてくる。
　瞬間的に敵が来ると判断した。背筋に緊張が走る。
　その音はやがてはっきりと耳に入るくらい確かな音となり、遠くに人影を確認することが出来た。
　「止まりなさい」
　奥から歩いてくる謎の人に対して銃を構える。サイボーグであれば問答無用に、撃つ。
　あちらから歩いてきたのは女性だった。私の姿を見ると笑顔を見せて突如歩み寄ってきた。
　「あぁ、助かりました！」
　ぇ？と戸惑う私に彼女はさらに続けた。
　「私はサイボーグに捕まって人質になっていたんです」
　そんな情報あったっけ……確かあの場所にはサイボーグ同盟のメンバーしかいないはずだったけれど。
　いや、そういえばそんな話もあったような気がする。メンバーの中に混じって人質がいたという話をおぼろげながら思い出した。
　そうだとしたら辛かっただろう。一刻も早く安全な場所まで連れて行かないと。構えていた銃を下ろす。
　「ええと……あなたの、お名前は？」
　「森です、森友子」
　彼女ははっきりと答えた。
　人質の名前は森友子。人質の名前、森友子。人質、森。
　「……森？」
　確か彼が付き合っていた彼女の名前は森さんと言っていた。
　付き合い始めたのは定かではないが、ホッパーズに潜入操作を始めてから。
　彼が森さんと付き合うようになってからこちら側の拠点が襲撃される事件が起こり始めた。
　そして情報が洩れている原因が彼だと知らされて、彼は思い当たることがあると言っていた。
　それから拠点が襲われることはピタリと止んだ。
　「ああ……なるほど」
　これらの情報を総合して導き出される結論はただ一つ。
　「……そうやって、あの人もたぶらかしていたのね」
　スーッと銃を持つ腕が上がる。銃口は目の前にいる女性に向けられる。
　森と名乗る女性は驚いた表情をした。だが向けられた銃口から彼女が逃れる時間はあまりにも少なすぎた。
　躊躇なく引き金を引いた。外すことのない至近距離。ダンダンダンダンと四発の銃声が地下道に響いた。

　それまで効いていたはずの催眠術がその時だけは通用しなかった。彼女は間違いなく私をサイボーグ同盟に捕まっていた人質だと判断していた。
　しかし、私の名前を耳にした途端、目の前にいた女性の瞳が豹変した。その表情には殺意すら浮かんでいた。
　一度下ろされた銃は極めて自然に私の方向に向けられ、逃げる間もなく発砲された。
　彼女は笑っていた。笑っていたけれど、背筋がゾクゾクとするような、とても恐ろしい顔をしていた。
　私は何をしたのか覚えていない。撃たれると判った瞬間瞼を閉じた。照準を合わされて外すことのない近距離から発射され、もう二度とあの人に会えないことを覚悟した。
　……
　……　……
　……　……　……
　痛くない。撃たれたのにどこも痛くない。
　そーっと瞼を上げていくと、そこには紛れも無く銀髪のスーツ姿をした女性が立っていた。銃を構えて。
　だが、先程のような殺意を含んだ眼ではなかった。見る者を怯えさせるような冷笑も消えている。
　何がなんだかさっぱりわからずキョトンとしている私に対して、依然として険しい表情で銃口をこちらに向けている女性。
　ここにいるということはCCRの捜査員だということはわかる。逃げる直前にCCRの襲撃だと誰かが叫んでいた。そして私が人質ではなくサイボーグだと確信して発砲した。　
　けれど、何故当てなかったのか。確実に私に対して照準を合わせていたし指呼の距離なので避けようにも避けられなかった。
　「……一つ、答えて」
　相変わらず銃をこちらに向け、彼女は私に問いかけてきた。
　「どうしても彼に会いたいの？」

　我ながら馬鹿な質問だな、と思った。何故この言葉が出てきたのか未だに自分でも信じられない。
　こうやって騙していたんだと悟った瞬間この女を撃たないと気が済まないと思った。迷いなく引き金を引いた。自分の手で人を殺めることに対して抵抗などない。
　だが、弾は一発も彼女の体に当たらなかった。掠りもしていなかった。
　何故か。わからない。
　アンタもそんなキョトンとしてないで。私だってわかんないんだから。
　ようやく質問の意味を理解したらしく、彼女は力強く頷いた。私を見据えるその眼差しに迷いなどない。
　これが本当の気持ちなんだろう。這い蹲ってでも、泥に塗れても、彼女は彼に会いに行くであろう。そしてどんな姿であれ彼は彼女を受け止めるはずだ。
　真っ直ぐな気持ちの者同士の絆がとても眩しく見えた。自分の感情を素直に出せない自分にとってそれは羨ましくもあり、妬ましくもあった。
　そしてふとベッタベタな恋愛映画のワンシーンが頭に浮かんだ。
　二人の恋に最大の障害として立ちはだかる悪役が二人の仲を引き裂こうとするが、二人は愛の力でそれを乗り越えるという在り来たりなシーンを。
　そういう甘い恋愛映画は苦手だった。色々と毒づきたくなる上に全身痒くなってたまらない。特に他人ならば余計にそう感じる。
　もう色々と考えるのが馬鹿馬鹿しくなってきた。
　私は銃を下ろすと、とりあえず彼女の腕にあったブレスレットを有無を言わさず取り上げた。
　余程大切な品物らしいので恐らく彼から貰ったプレゼントなんだろうと推察するがそれも黙殺する。これくらいの意地悪をしても罰は当たらないだろう、というイタズラ心も若干入っていた。
　返して欲しそうな目をしていたが「どうしても彼に会いたいんでしょう？」と言うと彼女は何も言わなかった。大切なブレスレットを胸ポケットにとりあえず押し込んでおく。
　ここからは私と彼女の共同作戦である。
　地下道を出ると近寄ってくる捜査員に彼女がサイボーグ同盟の人質であることを告げ、彼女も捜査員に対してそのように印象づける催眠をかける。誰も彼女がサイボーグだと疑うことなくその場を立ち去ることが出来た。
　人質の安全確保と称してその場から離れて、彼女に身の危険が及ばない安全な場所に匿うことにした。まぁ、匿うと言っても私の部屋なのだが。
　そして何食わぬ顔で現場に戻る。地下のアジトはCCRによる掃討作戦の際に自爆して跡形も無く吹っ飛んでいたので、彼女が死んだと印象づけるための偽装工作として現場で偶然ブレスレットを拾ったという風を装う。
　後から連絡をうけて本部に飛ぶように駆けつけた彼の瞳に映った彼女のブレスレットは衝撃的だっただろう。実際そのブレスレットを見て明らかに動揺しているみたいだったが、敢えて知らないフリをしておく。
　今下手に彼女が生きていることがバレたら間違いなく彼女は殺される。CCRの誰かに。だからこそ彼女が死んだことを印象づけておく必要があった。

　日本シリーズを優勝に導いたその夜、私は彼に呼び出された。それも人目を憚るかのような場所に。
　彼が切り出したのはCCRの正体についてだった。
　以前にも彼は正義感に駆られて大神の地下工場に潜入して、そこでアンドロイドを作っている光景を目撃している。それから世界的大企業である大神グループに対して不審に思っていたのだろうが、まさかそのようなところまで調べるとは思ってもいなかった。
　CCRは政府の秘密機関ではなくホッパーズの親会社である大神グループの非合法組織であること。連携している警察にも大神グループの協力者が存在していてCCRの活動を容認していること。
　装備品は大神グループに属している軍事用品を扱うゾウソウ工業の試作品から提供を受けていること。そしてCCRの予算も同じ会社から全て出されていること。
　そしてCCRの目的は大神のアンドロイド工場から逃げ出したアンドロイドやサイボーグを処分するための組織であり、それは武装した非合法組織が一企業の利益のために活動していることを意味していた。
　……もっとも、私はそのことについて既に知っていたのだが。3年も前に。
　本部で情報を取り扱う立場にあったので自力で真相に辿り着くことが出来た。けれど、その事実を仮に知ったとしてもそのこと自体が大した問題ではないと捉えていた。
　これだけの情報を何処でどのようにして掴んだのか知らないが、チマチマとしたことが苦手な彼にしては上出来な結果だと内心思った。そして、この情報を複数のマスコミにリークすると彼は言った。
　組織に対する裏切りではないかと問い詰めると彼は騙されて利用された相手は忠義を尽くす相手ではないと返ってきた。彼の決心は固いようである。
　「……そういうことは、あなたの後ろにいる隊長にまず相談すべきじゃないの？」
　彼の後ろに隊長はいない。
　振り向いたところをがら空きになった背中を後ろから銃で撃つ。
　卑怯じゃない。これは手段だ。目的のためならば手段など選んでいられない。
　だが彼は意外にも冷静だった。足音がしないので俺の後ろには誰もいない、と。
　流石は私も認めた優秀な捜査員だ。こういう時の勝負勘は強い。だからこそプロ野球選手として活躍できたのかも知れない。
　私は銃を構えた。組織のために今この場で彼を殺さなければならない。そうしなければ組織は間違いなく崩壊する、と判断した。
　しかし彼は私が銃を構えても丸腰のままであった。そして私に対して戦わなければならない理由を訊ねてきた。
　ここで私は既にCCRという組織がどういう組織なのか知っていたことを彼に告げた。今のCCRが政府の秘密機関だろうが大神の手先だろうが私には問題ではなかった。
　私の回答に彼はそこに正義はないと真面目くさった顔で言ってのけた。
　正義。私は笑ってしまった。
　人それぞれの価値観によって正義という物差は変わってくるのだ。故に正義という言葉ほど曖昧な秤はない。
　彼は今まで行ってきた行動は全て自分の正義に則って行動してきたと言わんばかりの顔をしていた。そして今まで信じてきた組織に裏切られたので、今度は正義の心で組織を潰すと言う。
　どうやら私と彼との間に決定的な価値観の違いがあったようだ。だからこそ彼に近付きたいと思いはしたがそれ以上に進歩しなかったのだろうと痛感した。
　そう考えるとなんだか急に馬鹿馬鹿しく思えてきた。私は銃を下ろして彼に背中を向けた。
　私の豹変ぶりに戸惑いを見せていたので「撃ちたければどうぞ」と言ってやった。無抵抗な人間に対して発砲することのない彼の性格をわかっていての発言だった。
　それが吉と出るか凶と出るかはわからない。だが彼は彼の正義に従って行動している。何を言っても無駄だと思った。

　翌日、隊長が何者かの手によって殺された。発見されたのは港の倉庫裏。現場はあちこちに銃痕が残る凄惨なものだったと聞いている。
　CCRのトップである灰原隊長が殺されたことにより、CCRという組織は瀕死の状態に陥った。その後週刊誌にCCRの実態が暴露される記事が掲載されたのが致命傷となり、CCRは大神グループ会長の指示により解体され、事実は闇に葬られることになる。
　もっとも私は灰原隊長が彼に敗れたことでCCRを去った。もうCCRという組織に魅力を感じなかったからだ。




　日本シリーズが終わってから暫く経って、夜の公園に彼の姿があった。ここ数日寒いにも関わらず毎日同じ時間に公園を訪れているらしい。
　ちなみに数日前に彼はホッパーズから電撃移籍という形でチームを去っている。大方秘密を知りすぎている存在が大神グループであるホッパーズにいることに対して危機感を抱いたための措置なのだろう。
　ホッパーズのチームメイトが偶然通りかかり、彼が頻繁に夜の公園に来ている理由を訊ねるとこう言ったらしい。
　「ちょっと中学の時の知り合いと待ち合わせをしてるんだけど、そそっかしいヤツだから多分日にちを間違えたんだろう」
　中学時代の知り合いとは言わずもがな彼女のことを指している。彼は律儀にも日本シリーズが終わってからずっと待っていたらしい。
　もう追われることのない彼女を連れて公園に来てみたが、彼女は彼と再会することに躊躇しているようであった。
　私が会いに行かないのかと訊ねると彼女は「あたしと会わない方があの人は幸せなんじゃ……」と言い出す始末。折角助けたのに当の本人がこれなんだからたまったもんじゃない。
　彼から見えない位置でコソコソしている姿を見ているとなんだかイライラしてきた。私は思い切って彼女の背中をドンと押してあげた。
　いきなり後ろから押されておっとっととつんのめるように彼の目の前に登場した。
　どうやら彼女は再会した時に何を言えばいいのか考えていなかったようだった。ちょっと言い淀んだ後に何事もなかったかのように「よ、元気？」と声をかけた。
　待ち焦がれた彼女との再会に感極まったものがあったのだろう。彼は彼女の姿を見た途端抱きついて、それはそれは熱い接吻を交わした。
　こっそり隠れて見ているこっちが逆に恥ずかしくなってきたので邪魔者はとっとと退散することにした。これだからハッピーエンドというものは苦手なのだ。私には眩しすぎる。



　私は行きつけのバーに直行した。今日という日ほど酒に溺れたいと思った日はなかった。
　席について早々にマスターに「タクシーを手配しておいて」と宣言した。ついでに前の時に払い損ねたタクシー代を今日の分と合わせてちょっと多めに渡しておいた。
　「ご注文は」と聞いてきたので「とりあえず強い酒を」と注文した。あんなラブラブぶりを見せつけられたら飲まずにはいられない。
　かしこまりましたとばかりにマスターはボトルの封を開けた。この店で一番アルコール度の高い酒なのだろうが銘柄や種類はほとんど知らないのでわからない。
　「二人の未来に乾杯」
　窓の外に映るロマンチックな夜景に向かって一人杯を乾杯した。そうしたい衝動に駆られた。特に意味は無い。
　そして一気に酒を飲み干した。喉が焼ける程熱い。だが、私にはこれくらいがちょうどいいのかも知れない。

　どうも私は一人でいるのが合っているみたいだ。誰かの力を借りようとか支えてもらおうなんて気持ちはとことんない。
　周りを見渡せばカップルと思われる男女が周囲の視線を気にせずイチャイチャしている。私にはああいう光景は耐えられない。
　私は一匹狼として生きる。群れることを嫌う狼は一人でいる方がちょうどいいみたいだ。





　　　END