プロ野球チーム『大神ホッパーズ』と違法サイボーグの関わりがあるとのタレコミがあり、野球選手として潜入操作を始めて数ヶ月。わかっていたことだが、かなり疲労が蓄積されている。
元々が違法サイボーグを取り締まる政府直轄の治安機関(通称CCR)に所属する組織員で、野球に関する知識も技術も一切持ち合わせていない。銃火器の扱いや徒手格闘は職業柄日常的に訓練しているが、スポーツとなると勝手が違う。
おまけに慣れない環境の中で極めて自然に野球選手を“演じる”必要性があり、精神的にもキツイ面がある。心の底から野球選手になりきれていない部分もある。
まぁ、元々体を動かすことに関しては嫌いではない。白瀬や隊長などバックアップ体制もしっかりしているので不安は全くない。あとは個人レベルで解決に向けて邁進していけばいい。
練習から寮に帰る途中で街中の一角に人だかりが出来ていた。
周囲は閑静な住宅街で普段は人影も少ない。それが今晩は警官ばかりが集まって異様な雰囲気を醸し出している。
何か事件の予感がするが、その光景を目にしてから血が騒いで落ち着かない。確証はないが大勝負の時の勘はよく当たる。
喧騒に紛れ込んで現場へと近付いていく。忙しなく動いている警官の顔には緊張の色が滲んでいる。
もしかしたら違法サイボーグと関係があるかも知れない。万が一武装したサイボーグが出てくれば手に負えられない事態になりかねない。
こちらも携行しているのは短銃のみで防弾チョッキなど防具類も一切なし。博打にしては非常に分が悪い賭けだ。
「いたぞ!」
静寂を打ち破る男の声。一斉に警官は周りを見回して何かを捜し始める。そして黒い影が屋根の上を伝っていくのを視界の端で捉えた。
あれは……人か?暗くて詳細は掴めないが、どうやら厳重な警戒を布いているのはこれが目的のようだ。尤も、逃げられては意味が無いが。
ようやく黒い影に気付いた警官の一人が声を上げる。間髪入れず大型照明がその正体を暴き出す。
照らし出されたのは濃紺のマントに赤い薔薇の飾りをつけた、ど派手な格好をした姿だった。
「月夜に散り行く赤い薔薇“怪盗レッドローズ”参上!」
なんとも恥ずかしい格好だ。センスの欠片さえ感じられない。
確かに華やかな怪盗には不釣合いな服装が相場と決まっている(?)けれど、あれでは単に派手なだけでファッション性など皆無だ。違った意味で度肝を抜かれてしまった。
反面ホッと息をついている自分がいる。多分俺が追っている事件とは関係が無さそうだ。
「今宵もこのルナストーンの欠片を戴いていく」
ルナストーン?宝石か何かか?残念ながら貴金属の類とは縁がないので知識が全くない。
管轄外なので様子見することにした。目の前で人様の物を盗んでいく輩がいるのに捕まえようともしないのは倫理的にどうかと思うが……。
下で警官達がどうやって捕まえるか右往左往している間に怪盗は姿をくらませてしまった。相手に翻弄され続けて地団太を踏んで悔しがるが、もう少し対策を打てただろうとは外部から見た判断。
今夜はなかなか面白いショーが見れたと思えば苦にならない。満月が闇夜を照らす中、再び寮へ帰ろうと足を踏み出した。
靴先に何かが当たって地面を滑るように転がっていく。石ころではなく人工的に作られた物っぽい。
気になってそれを拾い上げてみると、ブローチだった。アンティーク調のデザインが施されて掌に収まるサイズの物だ。
ブローチを身につける趣味はないが拾った以上貰っておくことにした。胸ポケットにブローチをしまって、今日の晩御飯の献立を予想しながら寮へと歩いていった。
【可憐な赤い薔薇】
私にはお気に入りの場所がある。都会にあっても遮るモノが殆どない、月を見るには絶好のポイントだった。
その場所で月を眺めていたら辛いことや悲しいことも吹っ飛んでしまうから。それに……ここは私にとって思い入れのある大切な場所。
一緒に月を見ていたら時間は瞬く間に過ぎ去っていく。通り過ぎていった時間の分だけ、想いが重ねられていった。
けれど……その人もいつの間にか私の前から消えてしまった。あんなに愛し合っていたはずなのに、突然いなくなるなんて今でも信じられない。
もしかしたらこの場所に戻ってきているかな、と思って来てみたければやっぱり誰もいなかった。このまま帰るのも寂しいので月をぼんやりと眺めていた。
と、足音が近付いてくる。誰だろう。私達以外でここに来る人なんてそんなにいないのだけど。
「えっ」
訪れた人の顔に思わず声が漏れた。まさか……辰也が現れるなんて。
夢じゃないのか。私は幻覚を見ているのか。
じっと目を凝らして辰也の顔を確かめたが、面影こそ似ていたが別人だった。勘違いとは言え落胆の気持ちが心を包む。
だが悪い人ではなさそうだった。話をしていると不思議と色々なことが口から出てきて、ちょっと落ち着けた。
思えば辰也ともこんな感じに話をしていたな。私が一生懸命言いたいことを話して、それを笑って辰也が聞いてくれた。
そして知らない人は時間が来たと言って立ち去っていった。せめて名前だけでも聞いておけば良かったと思ったが、ここに来ればまた会えような気がした。
万年最下位争いを演じているホッパーズではあるが、例えテロで多くの主力選手を欠いていたとしても新人選手が簡単に一軍に上がれる程甘くはない。
特に俺は野球に対する経験の蓄積が他の選手と比べて著しく低い。コーチからも「お前は身体能力だけで野球をしているが、もっと技術を磨けば上を目指せる」と指摘されている。
だからこそ野球選手になるべく他の選手よりも何倍も練習に勤しんだ。夜にこっそり寮を抜け出して自主練習も行っている。
夜に公園で一人黙々とバットを振るのは、明るい間にコーチや選手がいる環境とはまた違っていた。余計なことを考えず無心になれる気がして、集中して練習しているように思える。
そんな秘密の練習後、最近になって立ち寄る場所が一つ出来た。
バットを担ぎながらクールダウンを兼ねてランニングして辿り着いたのは、ビルの合間にあるちょっとした空き地。寮への帰り道にあるのを偶然見つけたのだ。
汗を拭いながら足を踏み入れると、今晩も先客がいた。前会った時と同じように月を眺めていた。
そこに立っていたのは赤い髪の可愛らしい女の子。恐らく俺と一回り程離れているかな?
振り返るとにこやかな笑みを浮かべて「こんばんは」と挨拶をしてきた。こちらも会釈を返す。
「そういえば貴方はこんな夜中に何をしているのですか?」
「あぁ、そこの公園で素振りをした帰りさ。なんだか眠れなくってね」
「野球ですか……」
野球のフレーズを耳にした途端、今までの笑顔が一瞬の内に消えてしまった。
何か嫌な思い出でもあったのかな。気分を害したことを謝ると、彼女は大袈裟に手を振って否定した。まさか自分のせいで場の空気が悪くなってしまったことに恐縮しているのがよくわかる。
そしてポツリと物憂げな表情を浮かべた理由を話してくれた。
「実は―――私の好きな人も野球選手だったんです」
聞けば彼女の好きな人は半年前に事故で亡くなったのだとか。そのため野球のことが話題になると自然と亡くなった彼の顔が思い浮かぶらしい。
まだ悲しみが癒えず、好きな人と一緒に見ていた月を一人で見ている。その気持ちを察すると、こうして五体満足で野球が出来ることが凄く喜ばしいことだと思えてくる。
重苦しい雰囲気に堪えかねて彼女は先日会った時に出来なかった自己紹介をしてきた。
“紺野美空”。なかなかいい名前じゃないか。
時計を見たら寮の門限が迫ってきたので帰ることにした。一人残って月を眺め続けている美空ちゃんの横顔が、どこか寂しそうだったのが印象的だった。
何回かいつもの場所で会って一緒に月を見て過ごす日が続いたある日、美空ちゃんが一人で泣いているところを目撃した。
俺の姿を見て咄嗟に涙を払って何事もなかったかのように振舞ったが、明らかに様子がおかしかった。思い切って聞いてみると、ここは美空ちゃんと好きな人との思い出の場所だと語ってくれた。
あんな辛そうな顔をされて放っておけない。悩んでいることや辛いことがあったら相談してくれと、俺の電話番号を美空ちゃんに教えておいた。
すると美空ちゃんは一方的に教えられたことが不服だったみたいで、俺の携帯電話を有無を言わせずに掠め取ると自分の番号を打ち込んで俺に返してきた。
「こんな簡単に自分の番号を教えたらいけないよ」と嗜めたら「時々番号を変えるからいいんです」とイタズラっぽく笑ってきた。それは良いことなのか悪いことなのか。それとも俺はからかわれているのか?
何はともあれお互いの電話番号を交換した。美空ちゃんから見ればちょっと長く生きている先輩が、困ったことがあったら相談に乗ってあげるからね。
電話番号を交換してから時々美空ちゃんを遊びに誘っている。顔を合わせて他愛も無い話をすることでストレスが少し解消するし、一人よりも二人で遊んだ方が楽しい。……俺の周りには生憎遊びに誘えそうな相手がいないこともあるが。
ちなみに美空ちゃんは20歳らしい。普通自動車の運転免許も取れるしお酒も飲める年齢だったなんて全然わからなかった。
月の光に照らし出された彼女は俺の目から見れば中学生にしか見えなかった。あんな遅い時間にあの年代の子どもが出歩いていることに対して注意しないといけないと思っていたが。
つい美空ちゃんが幼く見えたことを口に出してしまい、彼女の機嫌を損ねてしまった。どうやら見た目はコンプレックスみたいだ。
……でも好きな色が原色系だったり好みの味が子どもっぽさが残っていたり。おまけに俺が“美空ちゃん”と呼んでも怒らない。うーん、女性の感性はわからん。
服のポケットが振動して着信を知る。ディスプレイに表示されたのは、つい先日電話番号を交換した相手だった。
あれから何回か遊びに連れて行ってもらっている。見ず知らずの男にふらふら近寄っていいの?と心配する人もいるけれど、多分あの人は大丈夫。辰也に面影が似ているから。
私のことを心配してくれて凄く嬉しいけれど、所々で私を子ども扱いしているのが気に食わない。
ムキになって反論すると余裕のある笑みを浮かべてあしらう姿がまた腹が立つ。そりゃ貴方の方が先輩で身長も一回り程違うけれど、れっきとしたレディなんだからね。
貴方といるのも楽しいけれど、やっぱり私には辰也が一番みたい。
辰也。私、あなたが言っていたことを試してみる。もしも成功したら……私の前に来て褒めてほしいな。
『ごめんなさい、明日はどうしても外せない用事がありますので』
電話口から聞こえてくる美空ちゃんの声が、いつもよりも元気がない。
気分転換も兼ねて遊びのお誘いを電話でしてみたが、用事が入っているのであれば仕方がない。また別の日に誘うことにしよう。
とは言え俺の方も美空ちゃんと会う為に時間を作ったのだが見事にフラれてしまった。試合も練習もない完全なオフも貴重だが、断られることを想定していなかった。
しょうがないので久しぶりにCCRの本部に行ってみることにする。こっちの訓練も定期的にしないと感覚が鈍るから。
やはり銃の精度が落ちていた。外れこそないものの中心からズレて当たっているものが多い。
射撃の腕に関してはどうしても此処に来ないと行えないのだが、色々あって射撃場に足が向かない。そもそも副業の方が忙しくなってきたので本部にも顔を出せない状況なのだが。
「あらあら、そんな腕で大丈夫なの?」
この憎まれ口を直接聞くのは久しぶりだな。
後ろに立っているのは白瀬。主に俺のバディとして組んでいる相手だ。現在は俺の潜入操作の後方支援を行っている。
銀色の髪を短く刈り上げて灰色のスーツに身を包んでいるが、れっきとした女性である。口は悪いが腕は確かで頭も切れる。
「最近野球ばかりしていたから撃ち方も忘れてしまったんじゃないかって心配していたよ」
「うるせぇ」
明らかにからかっている白瀬をあしらいつつ、片付けに取り掛かる。これ以上下手な腕前を披露していたら何を言われるかわかったもんじゃない。
「……で、何か掴めた?」
先程とは少しトーンを落とした話し方。射撃場には二人しかいないが仕事の話となると無意識の内に声を潜めてしまうのは職業病みたいなものだ。
俺に対して白瀬が言う仕事が何を指しているかはわかっている。ホッパーズの潜入操作の件だ。
懐疑的な見方をしていたのは俺の方だった。偶然捕まえたサイボーグ同盟の一員が持っていたカプセルからホッパーズに違法サイボーグが潜伏している可能性が浮上したのだ。
半年の間ずっと野球選手として活動していたが手応えは全くなし。そろそろ引き上げるべきではと進言した時に、突如ホッパーズの選手が乗ったバスが爆発する事件が発生。
その後大きな変化はないもののホッパーズ内部にサイボーグ同盟の関与があることは決定的だった。無論継続捜査として野球選手を続けている。
白瀬の方も俺とは別の方面から調べてくれているが、どうやら進展はないみたいだ。
「ある程度怪しい人物は絞れてきた」
俺の言葉に固唾を呑んで見守っていた白瀬に若干表情の変化が見られる。
ただ無策に野球をしていた訳ではない。ホッパーズに所属する選手やコーチ、および関係者の身辺をそれとなく調べてみた。
大神選手は父がオオガミグループの総帥である会長なので有り得ない。倉刈君はコーチの証言から確証を得られた。湯田君は多分サイボーグじゃない……はず。
俺だって野球ばかりやっていた訳じゃないんだぞ。言葉には出さないが胸を張って意思表示してみる。
それでも懐疑的な視線を浴びせかけてくる白瀬。確かに有力な情報とは自分でも思っていないけれどさ。
「ふーん、アンタも頑張っているんだね」
意味ありげな笑みを浮かべてクルリと回転して背中を向けた。
「今夜は月が綺麗だけど、帰り道は気をつけてね」
言いたいことを言って白瀬は射撃場から出て行った。
本当におせっかいな奴だな。夜道を襲われても返り討ちに出来る程の力はあるのに。
―――月が綺麗、だと。
そういえば美空ちゃんを誘って断られたのも、満月の日だった。あの日は一人で月を肴にして一人酌で過ごしていたから覚えている。
急いで資料室に駆け込む。あらゆる情報が入ってくるCCRの本部には多種多様な出来事が保管されている。
数多ある情報の中から求めていた情報を探し当てるのに時間はかからなかった。
キーワードは“怪盗レッドローズ”。あんなド派手な登場をしていれば警察無線に掴まらないはずがない。
案の定だった。満月の夜の日に必ず“怪盗レッドローズ”は出現している。しかも最近になって活動が活発化されている。
これらの情報を整理すると一つの結論が浮かび上がってきた。が、これをどう解明すればいいか、今の俺にはわからなかった。
私の心に空いた穴を埋められるのは、やっぱり辰也しかいない。
今夜もいつもの衣装に身を包み、仕事をこなしていく。狙いはルナストーン。それを7つ集めればどんな願いでも叶えられる、という代物。
いくら警察が私を捕まえようと躍起になっても、これは辰也を取り返すために引けない戦いなのだ。
鮮やかに夜空を舞っている自分の姿に時々酔いしれそうになることがある。まるで舞台の上に立つ主演女優になったような気持ちに。
そして今日こそお縄を頂戴しようと待ち構える包囲網を易々と潜り抜け、やや拍子抜けしていたところに人影を見つけた。
おかしなことに屋根の上に堂々と立っているではないか。なんだあの人は、変人なのか。
遠目でよく見えないが、何か手にしているように見える。じっと目を凝らして何を持っているか確かめると―――それは紛れも無く拳銃に違いなかった。
サングラスにスーツという出で立ちは明らかに警察の人間ではない。それなのに銃を携帯しているなんておかしいよ。
―――ダン、ダン、ダン
乾いた音が三つ耳に届いたと感じた時にはマントに穴が開いていた。既に銃弾は私を掠めて過ぎ去っている。
これはマズイ。
瞬時に判断した、というより私の勘が逃げるよう心の中で警鐘を鳴らしている。踵を返して即座に逃げる。
飛ぶように屋根伝いに逃走するが、何故か発砲してきた男は私の後を追う素振りすらしない。怪しい。
次の建物に飛び移ったと同時に影が行く手を遮る。銀髪の女性の手元には先程と同じく銃が握られていた。
数ヶ月前からCCR本部に幾つかのタレコミが入ってきた。
『ルナストーンばかり狙う怪盗がいる』
実は類似した事例はCCRで掴んでいた。この事案は違法サイボーグが深く関与していることが認められていて、しかもその人物はサイボーグ同盟の関係者だと睨んでいる。
だが突如行方を眩ましてしまい、こちらとしても打つ手がなかった。そこに飛び込んできたのが怪盗騒ぎである。
この件に対してCCRは灰原隊長をリーダーとして怪盗レッドローズ掃討部隊が即席で作られた。戦闘のプロで構成された中に私こと白瀬もメンバーに入っていた。
普段は後方支援が中心だが実務の方もトップレベル。あのバカが身体能力の面でずば抜けているのでトップこそ譲ったけれど、適正や冷静な判断能力という点で実戦で活躍するタイプだと褒められた。
今回の特別編成では見事実働部隊入りを果たせた。あとは結果を残すだけ。
その千載一遇の好機が目の前に飛び込んできた。標的が私の方に向かってきたのだ。
銃口を向けた途端、視界から対象が消えた。そして次の瞬間には真っ黒な空が目の前に広がっていた。
突き飛ばされたのだ。私が軽量かも知れないが相手も相当力があるのだと推測される。
そして私のことなど気にする素振りを見せることなく一目散に逃げていく標的。
「イタタ……逃がしてたまるか!」
瞬時に態勢を立て直して脇腹に蹴りをお見舞いする。
苦悶の表情が顔に浮かぶ。骨が何本か折れただろうし、内臓も損傷しているに違いない。
相手は無残にも、まるで羽を奪われた鳥のように真っ逆さまに落ちていった。あの様子ならば急いで追いかけなくても問題ない。焦らず慎重に相手を追い詰め、息の根を止めればいい。
銃声を耳にした瞬間、美空ちゃんの顔が脳裏に浮かんだ。
マズイ。このままだと手遅れになる。
直感的に音がした方向へと走り出した。咄嗟に簡易無線のチャンネルを探す。
『……目標は見つかったか』
この声は灰原隊長。先程の発砲音は隊長だったのか。
そもそも今晩はそんな大きなミッションがあるとは聞いていない。隊長が直接現場に出てきていることを鑑みれば、極秘任務に違いない。
『対象は現在繁華街の路地を逃走中と思われます』
繁華街の路地。あの場所は建物が密集していて昼間でも薄暗くて道幅も狭い。逃げ込むのに格好の場所だ。
だが相手よりも先に見つけたいこちらとしても不利なことに変わりは無い。一刻も早く美空ちゃんを見つけなくては。
駆けた。無造作に置かれたポリバケツを飛び越え、悠然と歩いている野良猫を追い越して、猪のように突っ走った。
どこだ、どこにいる。
暗闇の中、ドサリと遠くで音がした。何かが倒れたにしては妙に軽い。重力に抗ったような、そんな感じの音だ。
考えるよりも先に走り出していた。空のダンボールに当たったがそんなの関係ない。今はあの音の場所に行くことだけが最優先事項だ。
微かに聞こえる呻き声、衣擦れ音。蹲っていたのは紛れも無く美空ちゃんだった。
こちらに向けられた視線は怯えと恐怖が綯い交ぜになっていた。幸いにも俺の姿をその瞳で確認すると消え去ったが。
だが状況は切迫している。発見した直後から比べれば表情が弛んだものの、体力はかなり衰弱している上に息遣いが荒い。
「た、助けて……」
喉の奥から絞り出した言葉を俺に伝えると、ガクリと落ちた。一刻も早く手当てをしなければ。
……そうしたいのは山々だがこちらに向かって近付いてくる足音がある。
追っ手か?今の状態を相手に見られれば確実に殺られる。
恐らくあちら側は美空ちゃん以外に誰かいることを知らないはずだ。ならば、ここは敢えて先手を打つ。
CCRは特殊な任務上、超法規的処置で銃の所持及び発砲は罪に問われない。潜入捜査に従事している現在でも変わらない。
だが今の状況は明らかに任務遂行のために銃を使っていない。始末書なんか過去に何枚も書いてきたから怖くない。
こちらに向かって歩いてくる者に対して銃口を向ける。暗闇に立つ相手もこちらの殺気を察知して瞬時に銃を構える。
黒一色に染まって相手の顔を拝むことが出来なかったが徐々にぼんやりと相手の顔が滲んでくる。それが奇妙なことに見覚えがあるような気がする。
(―――白瀬、か?)
闇に浮かぶ銀髪の人物はCCRの同僚である白瀬に違いなかった。
眼光は獲物を追い詰める獣のように鋭いことが普段と異なるが、確かにその顔はいつも見ている白瀬の顔だった。
それにしても何故白瀬が美空ちゃんを追いかけているのか。今は俺の後方支援だと話していたはずだが。
鉢合わせした白瀬も銃を構えているのが俺とわかると、拍子抜けしたように全身から滲み出ていた緊張感が一瞬の内に弛んでしまった。
いるはずのない人間がいたことについて問い質すことなく、再び来た道を戻っていった。
とりあえずは急場を凌いだ。だがそれよりも美空ちゃんの衰弱が気懸かりだ。一刻も早く処置を行わないと絶命する危険さえある。
ガックリと動かない美空ちゃんの体を抱きかかえると一目散に闇の中へ飛び込んだ。躊躇いなど微塵もない。暗闇よりも美空ちゃんを失う方がよっぽど怖いから。
『白瀬、状況を報告しろ』
聴き慣れた声が無線から聞こえてくる。今回の極秘任務遂行のリーダーであり、直属の上司である灰原隊長だ。
まさか「見逃した」なんて口が裂けても言えるはずがない。ましてやアイツと遭遇した、なんてことも。
あの場に居たのはアイツと標的と私だけ。事実と異なるデタラメを報告しても見破られるはずがない。
「標的を見失いました」
……これもこれで私のマイナス評価になるんだけどな。追いかけておいて見失うなんてプロ失格。
その報告を聞いても無線機の向こう側にいる灰原隊長は叱責も落胆もなかった。若干の間を置いて『どう思う』とだけ質問してきた。
灰原隊長は元々寡黙なので言葉は少ない。感情が表に出ることも滅多にないポーカーフェイスで淡々と話す姿を今は頼もしく思える。
何を指しているかはすぐにわかった。これくらいのことを瞬時に理解出来なければこんな仕事は勤まらない。替えは掃いて捨てる程いるのだから。
「サイボーグではありませんね」
標的と直接交戦したのは奇しくも白瀬一人。接触することにより判明する事実も沢山ある。
「最初の接触で脇腹に蹴りを一発入れましたが、その時に骨が砕ける感覚がありました」
接触した場面を冷静に分析して導き出された結論を端的に述べる。サイボーグではないことは自分の中では間違いない事実と捉えていた。
だって違法サイボーグならあんな簡単にやられるはずがないんだもの。骨がなくて物足りないくらいだ。
「……相手に装甲があれば砕けていたのはお前の足だぞ」
白瀬の推理に違いはないと思う。だが一歩違えば怪我をしていたのはお前の方だぞ。
そう言いたげな声色が核心を突かれた。「はい、今後は注意します」とだけ返事をしておいた。
お叱りを終えたところで灰原隊長は捜査員全員に撤収命令を出した。
この判断はおかしいと感じた。(見失ったと偽った情報で報告したものの)撤収するには早すぎると思ったからだ。
普段ならば見つかるまで徹底的に炙り出すのに今日はあっさりと引き下がるなんて。
「ヤツはこのあたりに潜んでいます。もう少し待てば必ず動き出すと思いますが?」
だが灰原隊長は全くブレることはなかった。
「必要ない。あれはニセモノだ」
ニセモノ……?サイボーグではなかったけれど偽物と言うのもおかしな話だ。
色々と思うところはあったが、指示に従い帰還することにした。本当に気になるのなら調べてみればいいのだから。
後ろから聞こえてくる足音。周囲は闇に包まれていて追いかけてくる人の姿は全く見えない。
だが、その足音は不安でたまらない。私を捕まえに来た何かが、無性に怖い。
必死に逃げた。息が苦しくなるくらい懸命に走った。足が絡まって転んでも、胸が詰まる程息苦しくなっても、無我夢中で暗闇の中を駆けていった。
それでも足音は精一杯の抵抗など気にすることなく近付いてきた。私の真後ろに来た瞬間、闇の中から手が伸びて私の腕を掴む。
片腕だけではない。次々と伸びてきた何本もの手は私の体をがっちり掴んで自分達の方に引きずりこもうとする。
ヤバイヤバイヤバイ―――
「う……うわあああっ!」
絶叫と共に光が飛び込んできた。
窓から柔らかな朝の光が差し込んでいる。白いシーツに包まれたベットの上で寝ていたみたいだ。
物があまり置かれていないものの、生活している感じはある。その部屋の間取りや窓から見る風景に思い当たる節はないが。
あれ?昨晩の私って……?
ルナストーンを奪ったところまでは順調だったけれど、いきなりサングラスをかけたスーツの男に撃たれて。
訳もわからないまま逃げていたら突然現れた銀髪の女に脇腹蹴られて、それでも必死に逃げて。
路地裏で動けなくなっていたらあの人がやってきて、それから意識を失って。
「おはよう」
不意に声をかかり、そちらを向いてみると微笑を浮かべたあの人だった。状況を掴めない私に、わかりやすく丁寧に説明してくれた。
それによると、あの場で気絶してしまった私を安全と思われる球団寮へ運び込んだらしい。
「チームのみんなには秘密だから声を小さくしてくれるとありがたい」
球団寮に女性を連れ込むと後々面倒なことになるから、と苦笑いしていた。
自らも巻き込まれる危険を顧みず、私を匿ってくれたことは素直にありがたかった。でも、この人の甘えにいつまでも乗っかる訳にもいかない。
簡潔に感謝の言葉を述べて退室しようと体を少し動かした瞬間―――痛みが体を走った。
「……応急処置はしておいたけれど肋骨が二本折れているよ」
私が気を失っている間に手当てまでしていたのか……ん、手当て?
治療テープを巻いただけ、という文字通り応急処置であることには違いない。
それよりも問題なのは、治療に際して確認なく乙女の裸をその眼で視認したことだ。
「なっ……い、いや!助けようとする一心でそんな雑念が入る余地はなかった!」
顔を真っ赤にして反論する当たり、そういう意図はなかったことを確信した。と同時に年上ぶっている割には案外ウブなんだなと意外な発見で少し得した気分になった。
しかし精神的な余裕も長くは続かなかった。
昨晩は何故あんな場所にいたのかと聞いてきたのだ。最も聞かれたくない部分にカウンターで切り込んできた以上、なんとか誤魔化すしかない。
「イタタタタ……早く病院に行かないと」
やはり手っ取り早くこの場から逃れるためには、痛がることに限る。
心配するこの人をさっさと撒いて、とりあえず退散することにした。これ以上ここにいたら根掘り葉掘り聞き出されることになりかねない。
次の満月の夜。俺は高級住宅街の一角で誰かが来るのを待っていた。
時折通り過ぎていく人は「あの人何しているのかしら」と不思議そうな表情をしながら立ち去っていく。確かに、今晩ここに現れるという保障はない。少なくとも二つの掌に収まる程度の場所が確認されている。
だが、俺は今晩ここから動かない。今日この場に来ることを確信しているから。
痛い視線を浴びようと、気の毒そうな表情を浮かべられても、俺は耐えられる。きっと来るから。
夜も更けて満点の星空が上空一面に散りばめられた頃、屋根の上に人影を感じた。
睨んだ通りだ。
「そこまでだ、怪盗レッドローズ」
濃紺のマントに大きな赤い薔薇の髪飾りという派手な出で立ち。長身の緑髪。巷を賑わせている、怪盗レッドローズ。
資料の通りだ。尤も、俺は一度この眼で目撃しているので確認する必要もないのだが。
一方レッドローズは俺がここにいることをわかっていないみたいで驚いている様子だ。
幸いなことに警官はこの場にはいない。周囲にもいる気配はない。どうやら張り込みの場所が外れたようだ。こっちにとっては好都合な条件だ。
「この前あれだけ怖い目に遭ったのにまだ懲りないのかい?今度は肋骨だけでは済まないぞ」
初対面の人物であれば何を言っているのかわからないだろうが、怪盗レッドローズは俺の言葉を全て呑み込んでいた。
そして突如現れた乱入者にも関わらず、それ程警戒心を抱いている風には見えなかった。それは即ち、ある程度面識があることを意味する。
「ルナストーンだけを盗む怪盗レッドローズは一年間だけ全く現れなかった時期がある。俺の推理だと、その間に中身が入れ替わったんじゃないかと思う」
怪盗レッドローズの軌跡を改めて見直してみた。その中で疑問を抱いたのが、謎の空白期間が存在していることだった。
今と同じようにルナストーンだけを狙った怪盗が人々の注目を集めたが、突然行方を眩ませてしまったのだ。そして一年という間を空けて前触れなく復活。
自らが名乗り出ているので同一犯と思われるかも知れないが、何か裏があると俺は読んだ。
「つまり……最初のレッドローズがいなくなった後で、美空ちゃん、キミが後を引き継いだんだ!」
満月の夜に限り用事がある、満月の夜に現れるレッドローズ、そして前回の満月にボロボロな姿で倒れていた美空ちゃん。
そこから導き出される結論は……美空ちゃんと怪盗レッドローズが同一人物ということ。
全ての推論を話し終えてから暫く静寂が二人の間に流れたが、口を開いたのはレッドローズの方だった。
「そうよ、私は美空よ……最初のレッドローズは辰也。私の恋人だったわ」
普段の美空ちゃんと喋り方が違う。正対している美空ちゃんの口調は男っぽい印象を受ける。まるで演劇の男役を演じているようだ。
衣装が変わったことで人格が変化しているのか?
「運の悪いことに、最後の事件で盗みに入った相手が銃を持っていたの。撃たれて川に落ちて、それっきり」
淡々と過去を話す美空ちゃん。その瞳に果たして俺は映っているのだろうか。
「彼の意思を継いだのか」俺の問いに頷いた。
「辰也は言ってた。ルナストーンを八つ集めるとどんな願い事でも叶うって。だから……それで辰也を」
それは夢物語だ。
話を聞いている内に、無性に悲しくなってきた。最後まで聞こうと思っていたがつい思っていたことを滑らせてしまった。
どんなことをしても死んだ人は決して戻ってこない。神様に祈ろうと、現在の技術を全て持ち寄っても、それは叶えられない願いだ。
だからこそ、今を生きている人のことが心配で仕方がない。
物語に出てくる怪盗はどんなピンチでも見事に切り抜けられるかも知れない。しかし、現実はそんなに甘くは無い。
この前だって一歩間違えれば命を落としていたのだ。銃に撃たれるか、決して軽くはない怪我が元になるか、それ以外の要因か。
精一杯に、俺の気持ちを伝えた。二人の間に幾許かの距離が隔てていたとしても、決して届かない距離だと思わないから。
けれど、今の美空ちゃんには俺の声が耳に入ってないようだった。
「……あなたには、あたしの気持ちなんてわからない。それに、手に入れたルナストーンは七つ。あと一つ、一つだけなのよ」
そのために危険を冒すのか。それほど死んだ彼とやらに会いたいのか。
―――俺のことはどうでもいいのか
「俺は君のことが好きだ!」
心に秘めていた思いを口にしたら、思っていたよりも大きな声になっていた。残響がゆっくりと木霊となって広がっていく。
近所迷惑?睡眠妨害?そんなの関係ない。
「辰也というヤツのことを俺は知らないが、それでもこれだけは言える。俺の方が君を幸せに出来る!」
自信を持って言える。俺なら君を幸せにしてみせる、と。
失われた恋人を追いかけていても戻ってくるはずがない。気持ちを理解できなくて当然だ。
今の君を見ていたら不安で不安でたまらない。いつ怪我をするか、命を落とすかと思うと落ち着いていられない。
だからこそ、危険を顧みず火の中に飛び込んでいくのはやめてほしい。愛しい君が傷つく姿を見たくないから。
どれ程の時間が経過したのだろうか。あれから時間が止まったかの如く、二人はその場で立ち尽くしていた。
迫力に押されたのか、突然の愛の告白に戸惑っているのか、美空ちゃんから言葉は出てこなかった。
「……ありがとう。でも、ごめんなさい」
短い言葉だけ残して、美空ちゃんはその場から立ち去っていった。今晩のところはルナストーンを盗むのを諦めてくれたみたいだ。
だが、これで全てが解決した訳ではない。まだ美空ちゃんの中に昔の想い人が生き続ける限り、必ず怪盗レッドローズとして登場するだろう。
それだけは阻止しなくては。
必死になって思考を巡らせていく過程で、一つの事案を思い出した。
すかさず携帯電話を取り出して短縮ダイアルのボタンを押した。呼び出し音が幾つか聞こえてから電話口の向こう側にいる相手が電話に出た。
「こちら本部」
感情の抑揚を極力抑えた、仕事向きの聞き慣れた声。電話の応対に当たっていたのは白瀬だった。
何故あの日、白瀬は怪盗レッドローズを追いかけていたのか。CCRはあくまで違法サイボーグの摘発することが目的であり、犯罪者を取り締まる組織ではない。
白瀬の話によると、以前上川というA級違法サイボーグがルナストーンだけを狙って活動していたため、怪盗レッドローズが上川と同一人物の疑いがあり今回出動したのだ。
しかし結果は空振りに終わった。怪盗レッドローズと接触した案件を総合的に判断した結果、違法サイボーグではないという結論に達した。
さらには逃走を図ろうとした白瀬を屋根の上から体当たりで突き落とそうとしたため、反撃して脇腹に蹴りを入れたという。
ここで疑問が生まれた。白瀬は女性とは言え上背はそんなに低くない(それでもCCRのエージェントから比べれば低い方の部類に入るが)。普段は後方支援に廻っているが前線に出ても遜色ないレベルの体術は会得している。
一方の怪盗レッドローズこと美空ちゃんは子どもと見間違う程の小ささ。これまで接してきて、見た目以上の力を発揮したことはない。
それにも関わらず、白瀬が美空ちゃんに押し切られた、というのだ。双方を知っている自分から考えれば有り得ない話だ。
一応確認のため白瀬に聞いてみたところ「怪盗レッドローズは私よりちょっと背が高かった」と答えた。目測を誤るようなヘマをしないので信憑性の高い話ではあるが、俄かに信じがたい。
……いかん、頭が混乱する。ひとまず帰って一度状況を整理することにした。
東の空が白くなってきて、闇は居場所を求めて影へと逃げていく。明るくなって姿が薄れた月の下、ゆっくりと寮へ向けて歩みだした。
あれほど情熱的に想いを伝えられたことは今まで経験したことがなかった。
正直彼の勢いに心が揺れてしまった。私には辰也という大切な人がいるにも関わらず、だ。
そして徐々に辰也と共に過ごしてきた中で育まれてきた思い出が薄らいでいることに、最近気付いた。
懸命に思い出そうとするが、なかなか浮かんでこないのだ。辰也の顔だけは鮮明に覚えているのに、何をしたか、どんな言葉を交わしたか、どこに行ったか、ということが全く心の中に映らないのだ。
彼と一緒に過ごしてきたから上書きされた?そんなはずはない。
それなのに、どうして私の中から辰也との思い出が消えていくのか?
このままだと辰也と結ぶ細い糸が突然プッツリと切れてしまうのではと危惧する。
ねぇ……辰也、どうしてなの?答えてよ―――
あれから美空ちゃんとは連絡が取れない。
潜入捜査も疎かに出来ないため必死にやりくりしながら時間を作っているが、どれも肩透かしを喰らっている。電話は常に留守電だし、美空ちゃんがどういう行動をしているのかさっぱり検討がつかない。
そうしている間にも月齢はどんどん満ちていく。月が満ちれば間違いなくルナストーンを狙ってどこかの家へ忍び込むだろう。
阻止しなくてはいけない。腹の底から湧きあがる震えが、美空ちゃんの身に何か起こるのではないかと予感に思えてならない。
だが一体どうすればいいのか。
ルナストーンのある家を捜す?誰が所持しているか不明だし、広い範囲に分散されていて効率的ではない。
一軒に的を絞って待ち伏せしてみる?この前は成功したが今回も会えるとは限らない。
打開策を見出せないまま刻々と時間が過ぎていく。
些細なことでもいい。美空ちゃんに繋がる手がかりさえあれば―――
無事にルナストーンを回収することが出来た。あまりに事が上手く運びすぎて拍子抜けするくらいだった。
彼が危惧していた怖い人達も出てこなくて本当に良かった、と心の底から思えた。万が一、あの連中が再び現れたら彼が言う通り無事では済まなかった。
これで願い事が叶う。そして辰也に会える!
……あれ?待ち遠しい瞬間が今目の前に迫っているはずなのに、なんだか嬉しくない。まるで胸にポッカリと穴が空いたような気分。
これからどうしようか。ルナストーンを集めるという目的は達成したのでやることがなくなっちゃった。明日から何しようかな。
考えを廻らせるもののモヤモヤとして一向に答えが見当たらない。
そんな時だった。遠くでドアが動く音が聞こえた。一瞬にして空想の世界から現実に引き戻される。
「誰っ!?」
この場所のドアは金属製で風などで開く可能性はゼロに近い。にも関わらず開いたということは、人の手で開けられたということ。
警察か、この前の怖い人達か。自然と警戒心が高まる。
「……オレだよ」
懐かしい声。ブルーのコートに身を包み、緑色に染まった髪の毛、端整な顔立ち。
その人こそルナストーンに願いを託してまで会いたかった、辰也本人であった。
本当に私の前に現れるなんて。夢みたい。ルナストーンで願いが叶ったのだ。
私が一人で有頂天になって喜んでいるのとは対照的に、辰也はあくまで冷静だった。
「いや、願いが叶うのはこれからなんだぜ」
辰也が何を言っているのか私には理解できないが、辰也さえいれば何もいらない。
そうか、そういうことか。
いなかった間の空白を埋めるために、いっぱいいっぱい思い出を作るんだ。楽しいことを二人で共有して、同じ時を過ごす。これこそ私が望んでいたことなのだ。
感情を抑えきれず、思っていることを辰也に伝えた。すると「嬉しいことを言ってくれるな」と喜んでくれたみたいだ。
すると辰也は私のルナストーンを貰っていいかと聞いてきた。私の願いは叶ったので、集めてきたルナストーンは必要ない。これでまた一緒にいられるのなら、惜しくはない。
差し出したルナストーンを持ってきた鞄に入れた辰也は私に感謝の意を伝えてきてくれた。
「おっと、それからもう一つ」
「なぁに?」
甘い、ふわふわとした幸せな一時。何も考えられない。
普段は無表情とか言われていても、今は自然と笑みが零れてくる。だって私はとっても幸せなんだもん。
「お前の命もくれや」
えっ……
辰也、何を言っているの?
ふわふわと宙に浮いているような気分から一気に叩き起こされて、目の前の光景に我が目を疑った。
銃をこちらに向けて、冷ややかな笑みさえ浮かべている辰也が立っていた。
一体何を言っているの?恋人だよ?ずっと会えなかった大切な人とようやく再会出来たのに、何故貴方は銃を構えているの?
ねぇ、答えてよ辰也―――
何も答えない。何も喋らない。代わりにゆっくりと引き金を引いていく。
次の瞬間、けたたましいガラスの割れる音が室内に響いた。
あまりの衝撃に耳を両手で覆い、目を塞いでしまった。そんな状況で聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。
「美空ちゃんから離れろ!」
辰也が予想外の闖入者に銃口をそちらに向けた。その隙に若干の距離を取る。
だが意識は私の方に向いていないみたいで、少し離れたことに気付いていないみたいだった。嬉しくもあり、悲しくもあるが。
そして冷めた表情を崩さないで口を開いた。
「……おやおや、派手な登場だね。王子様かい?」
何故あの人がここに……?目の前で起きている経緯についていくのがやっとだった。
もう何がなんだかわからない。一体どうなっているの―――
きっかけはブローチだった。
部屋の片隅に飾られた、オブジェと化していた一つのブローチ。拾い物だがアンティーク調のデザインが気に入って保管していたのだ。
時代を感じさせるワインレッドで彩られたブローチは薔薇を模っており、奇しくも初めて怪盗レッドローズと遭遇した際に拾った物だった。
怪盗レッドローズ。薔薇の形をしたブローチ。もしかすると……これが答えを導き出してくれるかも知れない。
すぐさま白瀬に連絡を取って、ブローチの流通経路を調べてもらった。
その結果、全国に流通される大量生産品ではなく、生産・加工を一つの会社で行っていた。さらに、その会社は既に倒産していて商品は市場に流通しておらず、工場は無人のまま放置されていることが判明した。
間違いない。今晩、彼女はそこにいる。
そして、黒幕も同時に姿を現す。なんとしても美空ちゃんを救わないと。
「黒幕がいることはわかっていたからな」
キョトンとした表情で聞いている美空ちゃんには酷な話かも知れない。だが、今この場で真実を明かさなければならない。
突然入ってきた俺を見ても、目に見えて動揺は見せていない。一定の距離を保ちながら銃口をこちらに向けて泰然と立っている。
「怪盗レッドローズはどうして満月の晩にしか現れないのか。どうしてあんな派手な服を着ているのか。どうして警官達は……小柄な君を見て女性だと疑わなかったのか」
警察の捜査資料に目を通してみたが、犯人像については女性であることを感じさせる文章は一つも存在していなかった。
長身、ど派手な格好、満月の夜にしか現れない。この点から月齢に関係する職業を必死になって捜しているようだった。
これらの点について警察側としては犯人に結びつく重要な手がかりと考えただろう。特に身長と現れる日に関しては関連性があると踏んで躍起になっていた。
だが、着眼点がズレていると思った。無意味にも思える衣装こそが、怪盗レッドローズの秘密を紐解く、重要なカギだと考えた。
そして満月の夜に現れる怪盗レッドローズと美空ちゃんが同一人物にも関わらず、印象がガラリと変わるカラクリ。満月というのも一つのファクターと捉えれば。
「代わりにオレが言ってやるよ」
上川がその表情に嘲笑を浮かべながら、揚々と語り始めた。
コスチュームは必要な物だった。例え身長が高くても体格まで露見すれば女性と疑われる可能性があったから。
美空は普通の女性だ。当然のことながら力も弱い。だが満月の夜だけは豹変することが出来る。
そもそも怪盗レッドローズは小柄ではないので美空を見ても怪盗レッドローズとはわからない。
導き出される答え、即ち特異体質を体内に有しているのだ、と。
暗示にかかりやすく、それに伴って肉体的変質が起きるのだ。例えるならば満月の夜に変身する狼男だ。
コスチュームと満月は他の存在を演じるために必要な要素だったのだ。潜在的な能力を100%開花させるためには別の人格になりきる必要があったためだ。
しかし上川の暗示は長続きしないという欠点を抱えていた。その欠点を補うために思いついたのが、満月の夜に現れる怪盗レッドローズだった。
『満月の夜にしか現れない怪盗』という一種子どもが好きそうな設定ではあったが、それは美空の中で上手くフィットした。
全てを語り終えて上川は下品な高笑いを上げた。その声が虚しく工場の中に響いていく。
それでも美空ちゃんは何を言っているのか全然理解出来ていなかった。その場でただ茫然と立ち尽くすしかなかった。
恐らく状況を上手く呑み込めず思考が働いていないのだろう。無理もない。愛する人に裏切られ、命まで奪われる危険に晒されて、自分も気付いていない秘密を暴露されたのだ。精神状態は芳しくなくてもおかしくない。
「ところで、どうしてオレがお前に真相をペラペラと喋ると思うか?―――真相を言っても、お前はオレに逆らえないからさ」
上川が美空ちゃんの眼を直視する。その強い眼差しから逸らそうとする素振りを見せない。
いけない。叫んだが時既に遅し。瞬く間に美空ちゃんの瞳は虚ろになって焦点が定まらなくなってしまった。
そして美空ちゃんは犬のように両膝をついて動かなくなってしまった。完全に犬になりきっている。
流石はA級の違法サイボーグ。短時間の間に相手を催眠状態に陥れることが出来るとは。
「オレはCCRにやられて怪我が治るまでの間、しばらく潜伏していた。ところが驚いたことに、こいつが勝手にレッドローズを再開してやがった」
傍らに寄り添う美空ちゃんの頭を撫でながら、不思議そうに話した。教える義理などないが、何も喋れない美空ちゃんに代わって説明した。
「お前が初代レッドローズで、死んだ恋人だと思い込んでいたよ。恐らくお前の暗示で混乱した記憶を繋ぎ合せて、そういう話に摩り替えたんだ」
「ははは、うれしいねぇ。用済みだと思っていたが、もうしばらく可愛がってやってもいいかもな」
美空ちゃんが上川のことを予想以上に想っていたことに対して嬉しいと口にはしたが、その言葉には感情は一切入っていない。まるで本当に愛玩動物に接しているような態度だ。
気に入らないな。散々操り人形として利用した挙句に、利用価値が無くなれば問答無用に切り捨てる。心の底から怒りが湧き上がってくるのが自分でも解る。
「……さてと、美空。アイツは敵だ。始末しろ」
命じられた美空ちゃんは一心不乱に突っ込んできた。今の美空ちゃんに理性など存在しない。主人の言うことに対して忠実に従う犬だ。
だが。
飛び掛ってきた美空ちゃんを優しく抱きとめ、少々強引ではあるが床に座らせた。すると猛犬の勢いはすっかり消えうせ、可愛らしい子犬へ変貌を遂げた。
優しく頭を撫でてあげると自分から体を擦り寄せてくる。なんとも可愛らしい光景だ。
「何っ?!簡単に押さえつけただと?!」
信じられないものを見たという顔をして上川は驚きの声を挙げた。
確かにこの特異体質は厄介ではある。だが、根本的なことに上川は気付いていない様子だった。
「あのなぁ……いくら肉体的潜在能力を100%解放するって言っても、元がこんなに小さい子だから結果は目に見えてるだろうが!」
鍛え上げられた肉体を持つ人の潜在的な力を引き出せば脅威ではあるが、美空ちゃんのような体では到底人を倒せるほどの力を引き出すことは不可能に近い。
引き出す潜在的能力は人それぞれ異なる。ベースとなる力が違えば、当然上乗せされる力にも差が生じる。
催眠や洗脳をするだけで全ての人間が強くなれると勘違いしていた上川の、大きな過ちである。
「だ、だが美空を押さえつけているその状態では動けまい」
動揺を悟られまいと必死に堪える上川であったが、先程まで勝ち誇っていた頃の頭の切れ味は戻っていない。
確かに今は美空ちゃんを抱えていて自由に動くことは難しい。そこを狙われれば、訓練を積んでいるエージェントであろうと無傷ではいられない。
案の定、上川は戦力的に弱い美空ちゃんに照準を合わせて銃を向けた。
その引き金を引く前に、二発の銃声が工場内に響いた。
携帯に着信があったのは午前中だった。その日は非番でのんびり惰眠を貪るつもりだったのに邪魔が入りムカついたが、ディスプレイに表示された名前を見て気分が変わった。
こっちの番号を教えたにも関わらず、滅多にかかってこないアイツからの着信だった。
「もしもし……」
物珍しさに電話を取ってみたが、よくよく考えてみればデートのお誘いなどあるはずはないことを今更ながら思い出した。
こっちがいくら好意を表に出しても気付いてくれなかった。おまけに勝手に彼女(と思われる女性)まで作るなんて、一体何様のつもりなんだか。
布団に潜りながら若干の後悔を胸に秘めつつ、相手の出方を伺う。
「頼みたいことがある」
受話器の向こうから入ってくる声に当初は五月蝿いと感じたものの、いつもと様子がおかしい。
単刀直入に要件を切り出すのは普段と同じ。だが、その声が切迫した状況にあると感じられた。
この人は裏表のない性格だと重々承知している。ゴチャゴチャした駆け引きとは無縁で煩わしく感じている節さえある。
だから私は惹かれたのだ。私にはないものを持っている彼に。
いつの間にか布団から出て携帯電話でやり取りをしながら身支度を整えていた。いきなり呼び出したのだから昼ご飯は彼が奢っても罰は当たらない、と頭の中で計算していた。
待ち合わせの場所に到着すると開口一番にブローチを差し出してきた。時代を感じさせるワインレッドの薔薇で、なかなかセンスのいい一品だ。
女心のわかっていない彼から連想されないアイテムから推察されるのは、何か重要な手がかりの可能性。
「これの流通経路を調べて欲しいんだ」
やっぱりそうだった。
ここで色々理由をつけて断っても良かったが、生憎頼られると弱い方だ。自分の性格が少しだけ恨めしい。
ブローチを預かって、そのまま職場に直行して流通経路を調べた。非番の時でも仕事をしていることも多いので特に詮索されることなく、ブローチの出所を掴むことが出来た。
その結果を彼に伝えたら、工場に行くと言い出した。何を気にしているか知らないが、普段以上に冷静さを欠いている彼を放っておいたら大変なことになる。
一応潜入捜査でチームを組んでいるので「万が一のことがあってもいけないから」と難癖をつけて同行することにした。
結果、上川が潜んでいたアジトを見つけ出すことに成功した。相手はA級に相当する凶悪な違法サイボーグ。コイツを捕まえれば大手柄だ。
ところが、一人の少女が上川の元から離れようとしない。息を潜めて様子を伺っていたが、口封じのために抹殺しようと銃を構える。
後先考えず彼は突っ込んだ。結果的にその場で少女が撃たれることはなかったが、身の安全が確保されていないことに変わりは無い。
あとはタイミングを見計らって、私も突入する。優秀なエージェントであったとしてもA級を一人で片付けられる程、彼は強くないのだから。
一人だと油断しているところに鉛弾をお見舞いしてあげた。致命傷を与えられなかったものの、皮下部に隠されていた催眠装置を破壊することに成功した。
これで相手お得意の催眠暗示は使えない。
「くそっ!」
上川は窓を蹴破って工場から脱出した。また地下に逃げ込む寸法なのだろうが、何度も逃がしてはCCRの名が廃る。
「えぇと……その子はアンタに任せちゃっていいのかな?」
飼い犬のように懐かれているアイツは役に立たない。このまま放っておいて上川が復讐にも来られればこちらの落ち度になる。
この場の選択としては、私が上川を追いかけて後は任せるのが一番妥当だと思った。
本当はあまり任せたくないんだけどね。
決して口には出さず、とびっきりの笑顔を振りまいてその場を後にした。
何故俺に対して笑顔を見せたのだろうか。理解に苦しむが、ひとまず当面の危機から脱した。
白瀬がいなければ今頃俺か美空ちゃんのどちらかが撃たれていただろう。タイミング良く突入してきた上に見事な射撃を浴びせてくれた白瀬には心から感謝だ。
「とっくに暗示は解けてるだろ?」
胸の中でじっと瞼を閉じていた美空ちゃんが、ゆっくりと目を開けた。
「……辰也は、私の恋人じゃなかったんですか?全部そう思い込まされていただけなんですね?」
「美空ちゃ―――」
「だって!」
俺が声をかけようとした途端、美空ちゃんの瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
「だって、あの人のこと覚えているけど、あの人との思い出が何も浮かんでこないんだもの。こんなのって酷すぎるよ……」
『辰也』から『あの人』に変わった。確実に上川のコントロール下から脱出していることを強く感じられる。
だが、催眠状態から解かれることは俺達が考える以上に辛いことだ。愛する者に裏切られ、人間に対して不信感を抱かせる。
俺はカウンセリングの知識など持ち合わせていない。自分の感情をコントロールできない程度の人間だが、自信を持って言えることがある。
泣きじゃくる美空ちゃんにはっきりと告げた。
「俺との思い出はあるだろ?」
あ!と大きな声を挙げた。俺は美空ちゃんを強く抱きしめた。
「全部悪い夢だったんだ。もう一度、本物の思い出を作ろうよ」
中身のない思い出など、ただの夢に過ぎない。悪い夢はいつか人間の記憶から消えていくから、空いた部分を沢山の楽しい思い出で埋め合わせればいい。
これからは二人で一緒に遊んで、同じ時間を過ごして、笑って生きていきたい。俺は心の底からそう願っていた。
それは美空ちゃんも同じことを考えていたみたいだ。明確な返事はないが、俺にはわかる。それだけで充分だ。
そして一度は止まった涙が、また決壊して滂沱となって頬を伝っていった。
「おいおい、ここは泣く所じゃないだろ」
胸の中で泣きじゃくる美空ちゃんを再び抱きしめ、今この腕の中にある幸せをじっくりと噛み締めていた。
美空ちゃんの嗚咽が静かに木霊する中で、ゆっくりと時間だけが過ぎていった。
それから、俺は機会を見つけてこれまで以上に美空ちゃんと遊ぶようになった。
心の傷は決して浅くはないが、少しずつではあるが笑顔を見せてくれるようになってきたのが好材料だ。
元旦の初詣で俺が射的で高得点を叩き出したらムキになった美空ちゃんが俺と同じ点数になるまで粘り続けたこともあった。
冬のドライブで海岸線に行き、誰もいない砂浜に二人で色々と語り合ったこともあった。
クリスマスに会った時に「ノリが悪い」と指摘されて年甲斐もなくはしゃいだら「はしゃぎすぎですよ」と窘められたこともあった。
一つずつではあるが、俺と美空ちゃんの間で楽しい時間を共有していった。
この幸せな時間がずっと続けばいいのに。切に願ってはいたが、平穏な日々はそう長くは続かなかった。
ホッパーズの潜入捜査が最終局面を迎えていた。
親会社であるオオガミが今季限りでのホッパーズ解散を発表。それに伴い一時は空中分解寸前まで追い込まれたが、過去に優勝したことにより解散が中止される事案があったことから、チーム一丸となって優勝を目指すことで一致した。
快進撃の裏側ではサイボーグ同盟の暗躍があったが、俺の活躍により徐々にサイボーグ同盟を追い詰めていった。
そして、サイボーグ同盟を壊滅させると共に所属しているCCRに疑問を抱く。
CCRは政府の秘密機関として設けられたサイボーグ対策室として、日夜増えつつある違法サイボーグの摘発を行う組織だと思っていた。
だが実情は全く異なっていた。世界的大企業であるオオガミが、自らの研究所から脱走したアンドロイドを捕獲して秘密裏に始末する、ただの私兵軍団であった。
国民の生活を脅かす違法サイボーグから守る、強い正義感を抱いて任務に当たっていた俺としては、到底受け入れがたい現実であった。
この歪んだ実態を告発してCCRを潰す。世界の並み居る大企業と対等に渡り合えるオオガミが、足元を脅かしかねない反逆を、許してくれるはずがない。危険を伴うのは承知済だ。
材料は独力で揃えた。が、真実を伝えるにはもう少し説得力のある材料を加えておきたい。
白瀬ならわかるかも。俺は密かに白瀬と会う約束をした。
人目につかない立体駐車場を待ち合わせ場所に指定したが、念のため盗聴器などの類がないか確かめておいた。ここで話が漏れたら元も子もない。
そして到着した白瀬にCCRの実態を説明した。最初の方はあまりの衝撃に驚いていたものの、自らが所属する組織への裏切りではないかと憤りの姿勢を見せた。
しかし、俺にとって重要なのは「その組織に正義があるかないか」である。クロと判断した以上は茶番に付き合わされるのはゴメンだ。
半ば開き直った態度を見て、白瀬は呆れながら呟いた。
「……そういうことは、あなたの後ろにいる隊長にまず相談すべきじゃないかしら」
CCRの中で最も強い隊長が、俺の後ろにいる。味方であれば頼もしい上司であるが、いざ敵に廻るとなるとこれ程厄介な相手はいない。
そんな相手に背後を取られているなんて想像しただけでも背筋が凍る思いだ。
得物は刀。その切れ味は分厚いコンクリートであろうと野菜を切っているように容易く切り裂いてしまう。一太刀浴びれば致命傷は必至。
いや銃という可能性もある。刃であれば相手が避けることも考慮しなければならない。前方に注意を向けている相手ならば外すことなど有り得ないからだ。
―――白瀬の言うことが本当ならば、の話だが。
自信を持って白瀬を注視した。何故ならば俺の後ろで足音がしなかったからだ。
CCRの同僚からは注意力散漫だと言われることもあるが、会話している最中でも周囲の音に気を配ることくらい出来る。動揺を誘おうと試みたが、その程度のことで怯む程臆病ではない。
「……ふーん、この程度の引っ掛けじゃ無理みたいね。銃を抜きなさいよ」
何故だ。何故、大義もない組織に属することを選ぶのか。
戦わなければならない理由を問うてみた。すると白瀬は「ずっと前から知っていた」と答えた。
ますますもって理解に苦しむ。全てを知っている上で組織に従うなんて、俺には到底出来ない話だ。
この組織に正義など存在しないと訴えたら、一笑に付された。そんなことなど興味がない、ただ生き残りたいと。
……ここまで話し合ってきたが、どうやら俺と白瀬は解り合えないようだった。互いに銃を抜き、構えた。
ヒュッ
俺の視界を横切る物体。罠か!と身構えた瞬間、その物体は白瀬の手の甲を直撃した。
かなり強い衝撃だったみたいらしく、白瀬の表情が苦痛で歪む。その拍子に銃を取り落とした。
一体誰が。投げられた方向を向いてみると、思わぬ伏兵が潜んでいた。
「満月の夜に咲く赤い薔薇、怪盗レッドローズ参上!」
見る人物の目を引く派手な格好、翻るマント、奇抜なサングラス、そして緑髪に留められた薔薇の髪留め。それは正しく怪盗レッドローズ本人であった。
一体……何でここにいるんだ、美空ちゃん!
近頃、彼の様子がおかしい。なんとなく、必要以上に私に対して気を遣っているような気がする。
凄く人間味溢れる人なのは出逢った当初からわかっていた。そして、大人びているものの嘘をつくのは苦手なのは最近知ったこと。
きっと心配されたくないのだ。自分が抱えているもののせいで、私に迷惑がかかることを。
一つ一つ、些細なことではあるが、私と彼との間には楽しい出来事が積み重なってきた。
けれど。
彼が抱えている苦しみを、少しでも分かち合えたら。苦しい時には私を頼って欲しい。そういう気持ちが日に日に強まっていった。
辰也のせいで悲しみのどん底に突き落とされた私を救ってくれたのは彼だった。今度は私が彼を助ける番だ。
その日、偶然にも彼が立体駐車場に入っていくのを目撃した。さらにその後、以前辰也との経緯で会った銀髪の女性が同じ場所に入っていった。
……言葉に言い表せないけれど、何か途轍もなくイヤな予感がする。こっそり中に入り様子を伺うことにした。
いざとなれば念のため持ってきておいたコスチュームに身を包んで応戦すればいい。あの日以来封印していた怪盗レッドローズの出番がないことを、ただ祈るのみだ。
「いつかのキツイ一撃のお返しをさせてもらったよ」
銃を抜いた瞬間、咄嗟に足元に落ちていた石を拾って彼女に目掛けて投げたら見事に命中した。
自分が思っていた以上に威力があったみたいで、彼女の手は赤く腫れ上がってしまった。これで銃を撃つことは出来なくなった。
だが対峙した二人は互いに矛を収めるようなことはしなかった。
片手で使えない状況にも関わらず彼女は反対側の手を用いて彼に襲い掛かった。彼もまた素手で迎え撃つが、分が悪いと見た彼女が一旦間合いを置いた。
その隙に彼は銃を構えるが、今目の前で展開される光景に私の頭がついていかない。
何故だ。何故二人は戦っているの。
「美空ちゃん!狙撃されない場所に急いで隠れるんだ!」
茫然と立ち尽くす私を呼び覚ますように大声で指示をする。
「でも彼女には銃もないしさっきの一撃で片手が……」
「白瀬はいざという時のために予備の銃を持っているし、俺達は片腕でだって相手を倒せる。必要になれば噛み付いてでも相手を倒せるように訓練を受けているんだ!」
私の視界に入ってくる世界全てが映画の中のワンシーンであるかの錯覚を覚えた。でも、今起こっていることは現実だ。
正直リアリティに欠けていたが、彼の言うことには説得力があった。一度彼女と対峙しているから嘘でもハッタリでもないことは解った。
これじゃ……戦うために生まれてきた、人間のようで人間ではない何かではないか。
「バケモノとでも言いたいか?―――その通りなんだよ」
そうこうしている内に彼女が銃を構えて撃ってきた。だらしなくぶら下がる片腕が、見ていて痛々しかった。
これが片腕一本なのかと思えるくらい、状況は一進一退の攻防を繰り返していた。
放置された車はあっという間に蜂の巣となりスクラップと化した。次々と銃痕が生まれていき、その勢いは留まることを知らない。
事の成り行きを、じっと見つめるしか出来なかった。誰の目から見ても私が場違いだということは明らかなのだから。
それでも。それでも、決して目を逸らさなかった。銃撃で受けた痛みも、流れ出る鮮血も、必至の形相で戦っている二人の姿も、その眼に焼き付けていく。
いつ、どうなって、終末を迎えるのか見当がつかない。普通の生活を送っている一般人で、こんな非現実な毎日を送っている二人の考えなどわかるはずがないのだ。
どれ程の時間が過ぎていったか定かではない。結末はあっという間に迎えてしまった。
そこら中が穴だらけになった無残な光景となって、彼が放った一発の銃弾が彼女の持つ銃を弾いたのだ。その間隙を突いて一気に彼女との差を詰めた。激戦を物語るように彼の肩は大きく上下に揺れ動いていた。
「やめて!」
咄嗟に彼と彼女の間に割って入った。突然の出来事に彼は目を丸くした。
着ていた衣装は勝負がついたと判断できた段階で脱ぎ捨てた。こんな大事な時に自分の中に秘められている力を使いたくなかった。素の自分で彼を納得させたかった。
「もうこの人は戦えません」
はっきり告げると彼は反論してきた。
「いや、見逃すわけにはいかない。白瀬を見逃してCCRに連絡されたら、俺だけじゃなくて美空ちゃんも狙われるんだぞ」
「構いません!」
彼は私の身を案じてくれているが、ここで引く訳にはいかない。
「それより聞いてください、貴方は決してバケモノなんかじゃありません!」
キョトンとした表情で私の顔を見つめる彼。
何を言っているのか理解できないかも知れない。けれど私は自分の思いを自分の言葉で伝えたい。
「私はよく知っています。貴方は私に本物の思い出をくれた……優しい人です。だから、貴方はこの人を本当は撃ちたくないはずです!撃とうとしているのは、自分のことをバケモノだと思いたいからです!」
こんな大声を出したのはいつ以来だろうか。多分彼と出逢ってからは一度もないはずだ。
辰也のことを忘れられず失意の中にいたこともあって、思いっきり笑ったりすることが少なかった。声を出すことも億劫になり、いつも小声で話していた。
心の底からの叫びを耳にして彼はギョッとした顔をした。私が言っていることに核心を突かれたことも含めて。
無意識の内に自分は普通の人ではなく戦うために生まれてきたバケモノだと思い込んでいることを、今初めて知った。このままだと彼が遠くに行ってしまいそうで、怖かった。
「私の場合はそれがコスチュームであり、怪盗レッドローズという人格でした。貴方の場合、それは……命がけの世界に生きているという言い訳で、本来とは違う自分を演じているんじゃないんですか!」
暫しの間、無音の世界が広がった。やがて彼は納得したように重い口を開いた。
「―――やれやれ、わかったよ」
銃を収め、険しい顔をして私の話を聞いていた彼は一転して砕けた笑顔を見せてくれた。
「俺も洗脳されてのかもな……とは言え、その怪我だ。美空ちゃん、白瀬のことは頼んだよ」
何処に行くのと訊ねたら「まだやり残すことがある」と言い残して、怪我をした彼女を託してその場を後にした。
任された以上、しっかりと責任を持って手当てをしなければならない。それに、この命は私が救ったも同然だ。彼女がどう思っているかは別にして。
「……情けをかけたつもりかしら」
取り残された状況で、彼女が私にこう投げかけた。重傷を負っている身でありながらその瞳の強さは失われていない。
生かしておくと無事では済まない。必ず彼とまとめてあの世に送ってあげるから。口を開かなくても思っていることはヒシヒシと伝わってくる。
それに対して私は何も言わなかった。真っ直ぐに睨みつけてくる彼女の視線から目を外さなかった。視線を逸らしたら負けだ、と思ったからだ。
女性二人の睨み合いは互いの信念のぶつけ合いだった。実際に戦えば負けるであろうが、心の強さは彼から教わった。
そして、折れたのは彼女の方だった。
溜め息を一つ吐いてからの彼女の瞳は、幾分か敵意が和らいだように感じた。
「見た目以上に勇気があるのね、お嬢ちゃん」
「わ……私、お嬢ちゃんじゃありません!」
若干からかい気味に話すその一言が無性に腹が立った。
彼だったらムキになって反論する私のことを笑いながら「大人の女性だったね」だと言ってくれるだろう。そしてまた彼女も、同じような反応だった。
「あはははははっ!あたしを笑い殺す気なの?」
どうやら思わぬ反撃だったみたいで笑いのツボを刺激したみたいだ。身を捩って笑い転げる彼女の姿を見て余計に怒りが増幅される。
動けないことをいいことに包帯で傷口をきつく締め上げた。そんな些細な反撃も平気な顔をして甘んじて受ける辺り、彼と似ているように思える。
一通り手当てを済ませると彼女は自分の力で立ち上がった。決して浅からぬ傷で到底歩くことすらままならないはずの彼女は、よろめきながら歩き出した。
「グッバイ、勇敢なリトル・ガール」
捨て台詞を残して、その場から立ち去っていった。そして彼女は最初から最後まで私の手を借りることを拒んでいた。
もしかしたら、彼女も彼に想いを寄せていたのかも知れない。例え相手が誰であろうと恋敵に対して意地を張りたいものだ。それは同時に私のことを大人の女性であると認めてくれたことになる。
遠くに消えていく彼女の背中を見ながら、彼女の優しさを一人で噛み締めていた。
隊長との激戦を制した俺は、無事美空ちゃんの元に生還した。ボロボロになって帰って来たことに泣き笑い入り混じる表情で迎えてくれた。
こうして俺のCCRでの日々は終わりを告げて、プロ野球選手とオオガミに対抗するエージェントという二つの顔を持つ生活へと変わった。
最初から最後まで自分の信念を曲げずに通したことは、大きな自信と誇りとなって残った。これこそがヒーローの証なのだろう、と自分勝手に思ってみる。
相変わらず平穏かつ退屈しない日常を過ごしていく中で、この不安定な立場を楽しめそうだ。
そうそう、変わったことが一つある。美空ちゃんが時々怪盗レッドローズとして、オオガミとの戦いに手助けしてくれるようになったのだ。
何度か危ない橋を渡ったこともあったけれど、徐々に俺のパートナーとして頼れるようになってきた。
一方で美空ちゃんは色々な面で俺を支えてくれる。休日に公園へ一緒に出かけたり、自宅で美味しい手料理を作って俺の帰りを待っていてくれる。
二人の間にはいつの間にか沢山の思い出が生まれた。そして今後も積み重なっていくことは間違いない。
どうやら非凡と平凡が混在する日常が彼女の性格に合っているみたいだった。とても楽しそうな表情を浮かべる彼女の姿を見ていて、なんだか頼もしくもあり、元気が湧いてくるように思えた。
今日もまた、可憐な赤い薔薇は活き活きと咲き誇る。
『可憐』と『薔薇』は相容れない言葉?いいえ、違います。
見た目は幼く映るかも知れませんが、彼女はれっきとしたレディなのですから。そんな彼女には赤い薔薇がきっと似合うことでしょう―――
END
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