時は永禄三年五月十九日。
木瓜の印が入った旗を背中に背負った一団が淡々と行軍している中、男は一人だけ浮いていた。
兵達の多くが徴兵された足軽で支給された胴丸を着用して陣笠を被って歩いている。手にしている武器も徴兵された際に渡された得物を持っている。
統一された装いの集団が粛々と行軍する中、一点だけ異なれば嫌が応にも目を引く。大体は同じ集落で集まっているので顔なじみの者同士で固まっているが、その者は他の者と打ち解けようとする気配は全く見られない。
手にする槍は三間半という長さで朱色、身に着けている鎧も朱や黒が目立つ華美な出で立ち。そして男は一人だけ尋常ではない闘気を全身から発していた。
そんな異様な雰囲気のある男に対して気軽に話しかけようと話しかける者はおらず、周囲とは距離を置かれていた。
だが、男はそんな扱いをされていても微塵として気にしていなかった。寧ろ、この戦に全てを賭けることのみに集中していた。
(必ずや功を挙げて帰参してやる……!!)
その男は単なる足軽でもなければ戦の度に雇われる浮浪者の類でもない。暦とした侍“だった”者である。
今は故あって織田に属していないが、つい昨年までは実力のある侍しか選ばれない赤母衣衆の筆頭にあった人物。主君の信長からもその性格を愛され、順調に出世街道を走っていた。
その男の名前は、前田利家。この時、齢二十一。織田家において『槍の又左』と呼ばれた剛の者である。
*
尾張荒子を領する土豪・前田利昌の四男として生まれたが、家は長男の利久が継ぐ事が既定事項となっていた。
この当時、家を継ぐ者は武芸や教養などを徹底的に叩き込まれるが、それ以外の兄弟に関しては嫡男を支える家臣と見做されてあまり力を入れられないことが多かった。
力や歴史のある家に生まれれば他の家へ養子に出されることもあったが、勢力も家柄もない前田家ではそういう縁の話もない。
利家(幼名・犬千代)もまた同じで、武芸のいろはや文字の読み書きなどは教えられてもそれ以上のことは与えられなかった。
(自分は期待されていない……)
家族や親戚、家に仕える者達、家臣達に囲まれながらも子どもながらに冷めた気持ちで幼少期を過ごした。
齢十二を数える頃になると、背丈は並の大人よりも抜きん出るくらいに大きくなり、槍の鍛錬を怠ることなく続けてきたので筋力もついて一人の若武者として成長を遂げていた。
しかし心の空いた空洞は埋まらず満たされない気持ちのまま無為無策のまま時間が流れていくのが苦痛でたまらなかった。
穴埋めの為に人目を引くような色鮮やかな色の衣装を身に纏い、三間の長い槍を手に持ってふらふらと街中を彷徨うことが多くなった。細身長身である上に端整な顔立ちだった為に犬千代の姿を目にした若い女子は黄色い歓声を上げ、『傾奇者』の評判が広がった。
一方で犬千代の奇抜な行動や服装を快く思わない者も少なからず存在しており、因縁をつけられて頭に血が上って喧嘩に発展することも度々。見た目だけで近づいて来る者を相手にしている自分がなんだか惨めに思うこともあった。
そんな状況を一変させたのが、誰でもない信長だった。
ある時、いつものように街を歩いていると不意に声がかかった。
「お前。なかなか見所がある奴だな」
あまりに不躾な言い様に若干ムッとしながら声の方向を向くと、そこには自分よりももっと奇抜な恰好をした男が立っていた。
片方の肩は諸肌を晒し、髪の毛は茶筅にまとめ、腰には幾つもの小さな袋がぶら下げられている。背後には似たような年代の若者が二人ほど控えている。
犬千代もその存在は噂程度に聞いていたが、まさか自分の目の前に現れるとは夢にも思っていなかった。
今、尾張で最も勢いのある織田信秀の嫡男・織田信長。
その評判は凄まじく、尾張はもとより隣国の美濃や三河、遠く駿河にまで“うつけ”であると響いている男である。
「名前は?」
「……犬千代」
相手は見た目こそ奇抜な恰好をしているが、中身は織田家の御曹司。問われたので一応答える。
すると信長は淀みなく口にした。
「あぁ、前田の所の倅か」
瞬時に名前が出てきたことに驚きを隠しきれなかった。
前田家は織田に仕えているものの譜代の直参ではなく、接点も乏しい。当主や嫡男なら覚えられていても、家督を継がない者のことなど気にも留めていないのが普通だ。
何故自分の名前を知っているのか、全く見当がつかなかった。
「どうして、某の名を?」
「『前田の所の倅は傾奇者』と有名だからな。ま、俺ほどではないが」
確かに見た目だけで言えば信長の方が常識から逸脱した服装をしている。
「尾張の国は俺の庭みたいなものだからな。大概の事なら頭に入っている」
そう言って頭を指でコンコンと軽く叩く。簡単に言っていたが、尾張という国は決して狭い訳ではない。
目を点にしていると、信長が問いかけてきた。
「まさか俺が本当に“うつけ”だと思っていたのか?」
単刀直入に問われて「いや、その……」と口篭っていると、「やはりな」と分かったような顔になった。
「火打石や銭を袋に入れて腰にぶら下げておけば両手が空いて他のことに使える、寒中水泳は体力をつけることと忍耐力を養うこと、合戦ごっこは用兵術の実践や兵の心の動きを読むこと、そして何より―――」
信長は一旦言葉を区切ると意味ありげに口元に笑みを作った。
「“うつけ”を演じていれば、誰も警戒などしない。一見すると常人には理解出来ないから『あぁ、また阿呆なことをなさる』で終わる」
……心の底から目の前に居る信長という男に敬服している自分がいた。
形は型破りながら、一つ一つの行動は全て理に適っていた。昔からの慣習や決まりごとに囚われず、効率や効果を追い求める姿勢はなかなか出来るものではない。
「では、その恰好は?」
「これは趣味だ」
しれっと言ってのける辺り、気持ちの構造が違うようだ。育ちや家柄とかは関係なく、その才能は稀代の英雄か奇人のどちらか。
けれど―――そんな信長に惹かれている自分が居た。
「犬千代よ。中途半端に傾いて楽しいか?」
急に真顔で核心を突かれ、返事に窮した。
親兄弟から見向きもされず、周囲からも相手にされない。
そんな自分が嫌になるから人と違う道を歩んでいるものの突き抜けられず悶々と日々を送る毎日。
楽しいはずがない。
「……貴方様に何が分かるのですか」
視線を下に落としながら不貞腐れた声で返す。
今、尾張国で最も力のある織田家に生を受け、当主・信秀の後を継ぐ存在とされている信長。それなりに歴史を持っているだけではなく、兵力も経済力も群を抜いている。生まれた時点で犬千代とは何もかも違っていた。
だが、信長は犬千代の言葉にも平然と反論する。
「俺はお前が思っている程に恵まれた境遇ではないぞ」
顔を上げると真正面に見据える信長の姿。
「母は弟可愛さのあまり蔑んでいるし、家臣達も俺の上っ面しかしか見てないから信用されてない。期待してくれているのは父御くらいだ」
淡々と語るその表情には、暗い感情がとても色濃く出ていた。
誰も認めてくれない。本当の姿を見ていない。まるで―――自分と同じ、いやもっと辛い境遇ではないか。
「嘆いていても状況は変わらない。恨んでも仕方ない。ならば前を向いて己を貫くしかない。……犬千代よ」
「はっ」
尊大な物言いに思わず家臣になったような礼をとる。
「明日から俺についてこい。退屈な思いをさせることは決してない」
信長からの誘いに一も二もなく快諾した。
以降、信長の気まぐれに振り回される日々となったが、宣言した通り“退屈な思い”は良くも悪くも感じることは無かった。
時に白い眼で見られることはあっても、面白く、楽しく、そして何より一日一日が充実して濃密な時間を過ごすことが出来た。
天文二十年、正式に信長の小姓として仕えることとなる。継子ではない犬千代の小姓抜擢は破格の待遇と言っても過言ではない。
翌年には信長に従って初陣を経験。初めて戦に出た者は間近で先程まで隣で談笑していた同朋が冷たくなる残酷な現実や目の前で繰り広げられる生死のやりとりに怖気づいたり吐き気を催したりする者が多い中、犬千代は傲然と敵に立ち向かい首級一つを挙げた。
戦が終わった後に陣中で対面した信長は紅潮させ喜びを満面の笑みを湛えて出迎えた。
「でかしたぞ!!犬千代!!初陣で首級を挙げるとは大した奴だ!!」
普段発することのない大きな声で賞讃されると、周囲からは祝福の眼差しを送られた。
自分の活躍が認められ、評価され、誰かを喜ばせることがこんなに素晴らしいことなのか。人生で初めて感じる充足感に身を震わせる思いだった。
初陣の後、信長や同僚の薦めもあり元服。名前を又左衛門利家と改める。
それからは人が変わったように励んだ。短気は鳴りを潜め、武勲を挙げるべく日夜槍の腕を磨き続けた。全ては初陣で感じた喜びを再び味わう為に。
以後も戦の度に活躍を遂げ、永禄元年にはこれまでの功績が認められ新たに作られた赤母衣衆の筆頭に任じられた。信長直属の親衛隊的位置づけの筆頭格に指名されたのは正に期待の現われでもあった。
さらに同年には才色兼備で性格も良しと評判のまつと結婚。
自分の人生を賭せるだけの働き場を与えられ、素晴らしい嫁を貰えた。過去を思えば夢にも考えられなかった状況だ。
今後さらに自分の人生を変えてくれた信長の為に励む―――はずだった。
翌永禄二年。利家は一つ悩みを抱えていた。
他人からすれば「何だそんなことか」と一蹴されるような小さい悩みではあったが、利家にすれば重大事である。
その原因は、笄。
犬千代を名乗っていた頃の名残から未だに見栄えを気にする癖があり、その中でも特にお気に入りの品が愛妻まつから送られた笄だった。
銀で作られた精巧な拵えで気に入っているというのもあるが、自分の愛する妻が見立てた上で贈ってくれたということが加わって特に愛用している品であった。
常日頃から肌身離さず持ち歩いていたのだが、ある日その笄が自分の手元にないことに気付いた。
はてどこかで落としてしまったか……。そうだったら自分の不徳の致す所と割り切れたのだが、事はもっと複雑であった。
数日後、城へ出仕すると一人の男が自分の笄を朋輩に自慢している姿を偶然目撃してしまった。
その相手は、拾阿弥。
茶坊主として信長の身の回りの世話をしている男で、細やかな心遣いが出来るとして主人には気に入られていた。
が、それはあくまで信長の前だけの姿。自分よりも格や年が下の者に対しては途端に横柄な態度を取る。おまけに手癖も悪いと評判もある。
最初は拾阿弥に返すよう迫ったが「これは拾った物だ」と嘘をつかれた。次に信長へ直談判したものの「分かった、分かった」と本気で取り合ってくれない。
挙句の果てには拾阿弥が周囲に対して「利家は私の持ち物を羨ましがって『自分の物だから返せ』と偽る卑しい男」と話している始末。
理不尽に自分を貶める発言をしている拾阿弥に対し、遂に最後の手段を取ることにした。
決意を胸に城へ出仕して中庭で待っていると、廊下をするすると拾阿弥が歩いてきた。
「拾阿弥殿」
その姿を眼にした利家が声をかける。
「これはこれは利家様、私に何か御用でしょうか?」
まるで今気付いたと言わんばかりに人を小馬鹿にした態度で中庭へ降りてくる。人を見下した目も癪に障る。
主人お気に入りという自負が本来あるべき姿以上に捉えているのだろうが、ありありと見せ付ける姿勢に嫌悪している同僚も数多く居る。
尊大な物言いに腹が立ったが大事の前の小事。ぐっと堪え、穏やかな表情を浮かべながら話しかける。
「先日からお話しておりますが……貴殿が拾ったと申されている笄をお返し願えないでしょうか?あれは妻から贈られた品で大切な物なのです」
下手に出ると拾阿弥は「ふん」と鼻を鳴らして呆れ気味に答える。
「利家様。何度も申し上げていますが、城中にてお拾い致した物で御座います。この笄が利家様の物と確たる証がない以上、お返しする訳には参りません」
『いい加減諦めたらどうなんだ』と顔に書いてあるが、こればかりは引き下がれない。
相手が認めない以上、こちらだって考えがある。
「拾阿弥殿、実は某宛にこのような文が届きまして」
懐から取り出したのは一通の文。差出人の名前はない。一体何をするのかと様子見の拾阿弥は涼しげな顔を崩さない。
文を広げて中身を読み上げる。
「『利家様にお伝えしたき儀がありましたので文を認めました。去る日、城の片隅において拾阿弥様が何かこそこそと隠れて何かされているのを目撃致しました。暫くして拾阿弥様は何事も無かった風を装いその場を後にされましたが、気になって拾阿弥様がおられた場所を探ってみたところ、笄につけられていた碧色の飾りが落ちていた』と」
「馬鹿な!?あの笄についていた飾りの色は燃えるような朱色だっ―――」
慌てて言葉を飲み込んだが、時既に遅し。
「どうして笄の飾りが朱色であったとご存知で?今お持ちの笄にはそのような飾りなどないはずですが」
咄嗟に逃げようとする拾阿弥の腕を掴み、強引に引き戻す。その勢いに負けて拾阿弥は尻餅をついた。
披露した文は何も書かれてない偽物。揺さぶりをかけるための小道具に過ぎない。
「……騙したな!!」
顔を真っ赤にして怒る拾阿弥だがそれ以上に憤怒の表情を浮かべている利家。
「騙したも何も、お前が持っている笄はそもそも某の物。恐らく殿との引見の際に刀を預けた際に掠め取ったのだろう」
「人を盗人呼ばわりする気か!!」
往生際の悪いことで、まだ盗んだ事実を否定する拾阿弥。唾を飛ばして必死の反論を試みるが利家の感情を逆撫でさせるだけだ。
「この事は既に殿の耳に入っている。今露見した事も後々ご報告する。大人しく沙汰を待つことだな」
突き放した言い方をすると、途端に拾阿弥の顔が変わった。
「……やはり名前は変わっても犬は犬だな。ご主人に気に入られたい為に懸命に尻を振るか」
瞬間、利家の顔つきが変わる。
信長は戦国武将の嗜みとして衆道の気があり、夜な夜な見目麗しい若い男を寝床に招いているらしい。
その対象の一人に利家も含まれており、そういう関係にあったのではないかと一部で噂になっていた。
利家自身が力のない土豪の四男にも関わらず異例の出世を遂げていることに加えて主君との間柄が他の者と比べて親密だったことから、そういう疑いを持っても不思議でない。
だが信長の人事評価は恣意を挟まない公平公正な評価であり、利家の立身出世は己が手で掴み取ったものである。
にも関わらず、拾阿弥は暗に体を売って関心を買ったと示唆したのだ。これは利家にとって最大級の侮蔑に等しかった。
眦を決して、刀の柄に手をかける。しかし拾阿弥は一向に解さず言葉を続ける。
「おぉ、怖い怖い。これだから躾のなってない犬は野蛮で困る」
ひしひしと伝わる殺気に怯えまいと必死の抵抗だったのかも知れないが、その言葉は火に油を注ぐだけだった。
利家が手をかけた刀を抜き様に袈裟懸けで斬り付ける。拾阿弥は何が起きたか理解出来ぬまま、膝から崩れるように地に伏して再び動くことは無かった。
拾阿弥の傷口からは血が流れ、利家の足元に真っ赤な水溜りが生まれた。
怒りのまま我を忘れて拾阿弥を切り殺してしまった利家は暫しその場で呆然と立ち尽くしていた。やがて時が経つにつれて興奮が収まり、冷静な思考が戻っていく。
自分の仕出かした事の大きさが徐々に気付いてきた頃、思わぬ方向から声が上がった。
「利家!!」
目を向けると、そこには憤怒の表情を浮かべる信長の姿。恐らく廊下を渡ってきた所に血塗れの刀を持って立っている利家の姿と横たわる拾阿弥の姿を見て、何があったかすぐに理解したのだろう。
いくら禍根があるとは言え城中での刃傷沙汰。おまけに拾阿弥は信長様お気に入りの茶坊主。怒り心頭になるのも無理はない。
佩刀を掴んで一直線に廊下を突き進んでくる信長。怒りに狂った姿を目の当たりにした利家は死を覚悟した。
(殿の手にかかって死ぬのも本望……)
諦めに近い感情で身を委ねる利家。だが、思わぬ所で事態は急変する。
「お待ち下され、殿!!」
大股で歩く信長の前に一つの影が割って入る。大柄な体が廊下に座して信長の進路を塞ぐ。
「どけ権六!!どかねば斬るぞ!!」
青筋を立てて強い口調で脅す信長に対して、権六と呼ばれた男は微動だにせず胸を反らせて対峙する。
その男の名は柴田勝家。先代の信秀から仕える重臣で、武勇で鳴らした男である。
「殿、利家がこれだけの騒ぎを起こしたのは何か理由があってのこと。もしこれより先に行きたければ、この権六を斬り捨ててからにして下され!!」
幾多の戦で修羅場をくぐり抜けてきた勝家の気迫に圧される信長。その一瞬の間を見逃さなかった。
「行け!!利家!!」
戦場で鍛えた腹の底から発せられた銅鑼声で、利家は我に返った。後を振り返らず一目散に駆け出した。
勝家が時間を稼いでいる間に無我夢中で走った。何度か足がもつれて転んだりもしたが、前だけ向いて懸命に駆けた。追っ手が来てないと分かったのは、城を出てからの事だった。
拾阿弥斬殺を機に、利家は浪人の身となった。
一時の感情に任せて起こした過ちではあったが、利家に対して同情的な意見は多かったと噂には耳にしていた。しかし城の中の雰囲気だけで信長の勘気が解けるはずもなく、これまで織田家で積み上げてきたものを全て霧散してしまった。
住まいも城の中の長屋から清洲の街中にある長屋へと移り、扶持も失ったので生活も苦しくなってしまった。
それまで親しく付き合っていた朋輩達は腫れ物に触りたくないと言わんばかりに離れていき、破格の出世を遂げて持て囃していた実家も掌を返したように知らん振りを決め込んだ。
こんな状況でも唯一の救いなのは、愛妻まつが気丈に振舞ったことか。
「何も心配いりません。きっと戻れる日が来ると信じていますので、それまでの辛抱です」
利家のやったことに対して非難せず、苦労していることに対して皮肉も愚痴も口にせず、笑顔を浮かべて明るい表情のまつの姿に、内心拝む気持ちだった。
だが目的も意義も見出せずにただ月日を浪費していく生活に戻ってしまい、これから何を目指せばいいか分からず利家は途方に暮れる気分になることもあった。
またいつか、信長様の下で働きたい。充実した瞬間を、喜びを、生き甲斐を、もう一度味わいたい。ただそれだけを切に願ったが、果たして叶う日が来るのか不安だった。
一日が過ぎ、一月が過ぎ、あっという間に一年の月日が過ぎていった。
永禄三年、五月初旬。利家の姿は清洲近郊にある林の中にあった。
「やっ!!」
己の瞳に映し出した実体のない敵に目掛けて掛け声と共に槍を繰り出す。穂先が相手を貫いた。
槍の稽古に打ち込んでいる時だけ、不安を忘れることが出来る。負の感情から逃げるように鍛錬に励んだ。
精神が揺らいでいると動きに直結する。迷いがあれば真っ直ぐ槍を繰り出せないし、不安があれば穂先が安定せず手元が狂う。だから無心で突く。余計な感情を排除して、目の前の敵と対峙する。それが例え幻であったとしても。
静寂に包まれる中でただ一人、黙々と汗を流す。いつか訪れるであろうその日に備えて。
「ただいま帰った」
仮の住まいに戻ると、草鞋が一足増えている。来客か。
自分の草鞋を脱いで家に上がると、足音で気付いたのか来客と思しき人の声が上がる。
「又左、ようやく帰ってきたか。待ちくだびれたぞ」
自分の家でもないにも関わらずまさか女房よりも先に気付くとは……おまけに声も無駄に大きい。
だが、その遠慮の無さも不思議と好意的に受け止められるのは持ち前の底抜けに明るい性格が成せる技であろう。
声の聞こえた縁側の方にまで進むと、やけに皺の多い小柄な男が座っていた。一見すると人の大きさをした猿ではないかと見間違うが、歴とした人である。
「久しいな、藤吉郎」
男の隣に腰掛けた。確かに、風が吹き抜けて心地いい。
藤吉郎は信長の側近くに仕える小者だが、利発で機転が利く上に陽気な性格だったので特に気に入られていた。
元々は尾張中村の百姓の生まれで織田家に入った当初は下働きばかりしていたが、その器量を信長に見出されて色々な仕事を任されるようになった。
身分に差はあったが何かと気が合い、互いに“又左”“藤吉郎”と気安く呼び合う仲になった。「猿と犬なのに仲が良い」とからかわれることもあるが、あまり気にならなかった。
織田家から追放されて疎遠になった者が多い中、藤吉郎は今でもこうして時々訪ねて来てくれる。
「今日は如何した?織田家で何かあったのか?」
水を向けると、それまでの朗らかな表情から一転して藤吉郎の顔つきが険しくなった。
それだけで悪い知らせがあると察せられる。胸の中で早鐘が鳴り止まない。
「駿河の今川が遂に動き出した」
神妙な面持ちで口にした言葉に、聞いていた利家の肌が粟立つ。
今川家は駿河・遠江・尾張の隣国である三河の三ヶ国を治める大名。特に現在の当主である今川義元は武田・北条との三ヶ国同盟締結に尽力したり三河を併呑したりするなど、その功績から“海道一の弓取り”の異名で知られていた。
また鎌倉時代から代々続く名家で、京への憧れを強く抱いていた。尾張にも幾度か侵攻を試みたが、戦上手の信秀がその度に退けていた。
これまでは領地拡大を目的として尾張に攻め込んできたが、今回は事情が異なる。本気で上洛を目指すべく腰を上げたのだ。
今川義元、齢四十二。武将としても脂の乗り切った頃で、北信濃の奪取に情熱を注ぐ武田と関東制覇を目指す北条は自らの領国を脅かす心配は皆無。全軍を遠路行軍させるだけの経済力と環境が揃い、全力を挙げて上洛を目指した。
一方の尾張は信長の手によって統一されたものの一枚岩とは言い切れず、信長の器量に対して疑問を抱いている武将も少なからず存在している状況。
正に織田家存亡の危機が間近に迫っていた。
「その総勢、四万は下らないと聞いている。城内は悲観的な見方をする者も多く居るが、殿は決して諦めておらぬ」
「……しかし、今の某は織田から追われた身。果たして参陣して良いものか」
まだ信長から許しを得ておらず、もし仮に戻ったと分かればその場で手打ちにされても不思議ではない。
そんな杞憂を藤吉郎は一蹴した。
「心配ござらん。今の殿はそんな些事に構っている暇などないですので」
ばっさり斬り捨てられて若干ムッとしたが、気にせず藤吉郎は言葉を続ける。
「今必要なのは信の置ける者。もし又左に参陣する気があるならこの藤吉郎が手引きしましょう」
信長の側近くに仕え、何事にも目端が利く藤吉郎ならば利家一人くらい潜り込ませることなど容易いだろう。
だが、主君の逆鱗に触れた者を何の許しもなく戻すことに加担したとなると、その処罰は藤吉郎にも及ぶ可能性もある。
「……どうしてそこまでして某を戻そうと?」
信長の不興を買う事がどれだけ恐ろしいことか身近に居る藤吉郎ならば自分の体で知っているはずだ。
癇癪を起こせば殴ったり物を投げる折檻を加え、利家自身はその場で斬り捨てられそうになった。その怒りが己に及ぶのを厭わない理由が見当たらない。
すると藤吉郎はさらりと言ってのけた。
「何、又左から受けた恩に比べればこれくらいお安い御用じゃ」
「恩?」
何かあったかと小首を傾げていると間を置かず答えてくれた。
「ほら、儂に初めて声をかけてきてくれた時のこと」
藤吉郎に指摘されてようやく思い出した。覚えてないのも当然だった。利家からすれば大したことをしていないからだ。
・ ・ ・
それは藤吉郎が織田家に仕え始めて間もない頃の話。
信長の為に昼夜関係なく駆け回っていたが、あまりの忠勤ぶりに先輩達からあまり快く思われてなかった。
自分達が楽をする為に新顔の藤吉郎に仕事を押し付けて遠くから眺めてヒソヒソと陰口を叩いていて憂さ晴らしをしていた。
「猿はちと目障りだな。あれだけ働かれては我々が仕事をしてないと疑われてしまう」
「そういう所に気配りが利かないところが気に喰わぬ。人間様を出し抜こうなど百年早いわ」
「まぁ見た目が猿だからな。頭も人間様に及ばないのだろうな」
「あんな醜い姿をしているのに殿の覚えが良い。あれは人として見ているのではなく愛玩として扱われている証」
そこへ偶然通りかかった利家の耳に下働きの男達の陰口が届き、一喝した。
「黙れ!!あ奴は殿の為に全身全霊で尽くしている。馬鹿にしている暇があるならあ奴以上に働いて示してみせよ!!」
筋道の曲がったことが大嫌いな利家の喝に先輩達は反論することも出来ず、すごすごと退散していった。
そして汗を垂らして利家の前を通り過ぎようとしている所を呼び止めた。
「お主、名は?」
「へい。猿と申します」
整った身形をした偉丈夫に声をかけられ、藤吉郎は快活に応える。だが利家の顔は何故か険しいままだ。
「……猿という名前ではなかろう」
「いや〜。儂の姿が猿に似ていることから皆『猿、猿』と呼ばれているので自分から猿と名乗っております。その方が覚えやすいでしょうし」
道化て話す藤吉郎に対して利家は一切表情を崩さず一喝した。
「愚か者。お主は例え猿に似ていようが暦とした人であることに違いない。お主のように才覚ある者が己を安く売ってどうする。そんなことをしていればいつまでも他の者から侮られたままだぞ」
思わぬ指摘に言葉を失ったのは藤吉郎の方だった。
人から押し付けられた仕事もやればその分出世が早くなる。猿と侮蔑に近い言葉をかけられても笑顔で対応してきた。
けれど、それは今の身分で終わりたくないという気持ちの裏返しである。
もっと上を目指したい。もっと殿に認められたい。もっと殿の役に立ちたい。大事の前の小事と割り切って名前を敢えて捨てた。
だが、利家に指摘されて初めて気が付いた。猿と呼ばれ続けても軽い扱いをいつまでも受けるだけで、結果的には自分の為にならない。
「……お侍様、ありがとうございます。藤吉郎、お侍様のお言葉を胸に刻んで今後働いていきます」
頭を深々と下げる藤吉郎に利家はひらひらと手を振った。
「藤吉郎、か。しかと覚えたぞ。骨身を惜しまず尽くす姿はきっと殿にも伝わる。周囲の雑音は気にせず励め」
そう言うと利家はさっと立ち去っていった。遠ざかっていく背中に向けて藤吉郎は再び頭を下げて感謝の意を示した。
・ ・ ・
「あぁ、そういえばそういうこともあったな」
指摘されてようやく利家は思い出した。自分の中では当たり前のことをしたまでで、特別何かした訳でもないから忘れていた。
しかし、藤吉郎はそう思っていなかったようだ。
「又左があの時しっかり言ってくれなかったら、儂はまだ扱き使われる身分にあったかも知れない。己を過小に見せないことの大切さに気付いたからこそ、今の儂がある」
静かに語るその表情には心の底から感謝している気持ちが滲み出ていた。
「これは儂なりの恩返しだ。また日が近づいたら知らせる」
用件を言い終えると藤吉郎はさっと腰を上げて、別れの言葉もそこそこに立ち去っていった。
つい先程まで藤吉郎が座っていた所にふと手を置いてみる。まだ仄かに温もりを感じるが、不思議と自分の心にも温もりを感じていた。
その夜。まつは家計を援けるため内職に精を出す中、利家は昼間のことを今一度思い返していた。
「旦那様、如何しました??」
いつもと様子が違う利家にまつは作業の手を止めて訊ねるが生返事を繰り返すばかりで一向に埒が明かない。
何か深刻な悩みでも抱えているのではないか、と不安になっている所に木戸がコツコツと叩かれる。
陽も沈んで大分経つのに誰だろう。まつは立ち上がって玄関へ向かう。
「はい、何方でしょう?」
問いかけるが返事はない。不審に思ったが戸を少しだけ開けて外を覗く。
暗闇の中に、髭を蓄えた大男が無言で立っていた。
「夜分遅くに申し訳ない、ご内儀。火急の用で利家に会いたい」
最初は強面な印象が強くて一歩引いたが、よくよく目を凝らすと知った人物であるのが分かった。
「畏まりました。では中へ……」
大男は人目を避けるようにさっと中へ入る。大柄な体ではあるが動きは俊敏で隙がない。
誰か訪ねてきたと気付いたらしく利家は顔を上げる。そこへ来客者が部屋へ入ってくるが、その姿を見て言葉を失った。
「柴田様……」
「息災であったか、利家」
蝋燭に照らされていたのは、織田家の重臣・柴田勝家。拾阿弥の件では体を張って利家を逃がしてくれた恩人で、今生きているのも勝家のおかげだ。
その大恩人が人目を忍んで訪ねて来るとはどのような用件か。居住まいを正して勝家の言葉を待つ。
「利家よ。近々戦がある。それも大戦が、な」
既に藤吉郎から聞いているので無言を貫くが、勝家の方はそれを緊張のせいだと受け止めて話を続ける。
「織田の総力を挙げて迎え撃つつもりだが太刀打ち出来るか分からん。力を貸して欲しい」
「しかし某は殿の逆鱗に触れた身でありますが―――」
藤吉郎の時と同様に不安を口にすると、勝家は毅然とした態度で断言した。
「心配するな。殿に知られぬよう配慮するし、伝手はある」
戦時平時問わず頼れる存在で家中の信頼もある勝家の頼みなら受け入れる家臣も少なくない。
主君の目に触れることなく同朋の組に紛れ込ませることも容易いだろう。
「どうして勝家様は某を……」
「さぁな。だが―――暮らし向きは決して楽とは思えぬな」
目を落とした先には、途中となっていたまつの内職仕事の跡が。慌てて片付けようとしたが、勝家は手で制した。
そして膝を立ててゆっくりと立ち上がり、はっきりとした口調で告げた。
「利家よ。此度の戦において殿を見返してやれ。お前の働き場は織田家にしかないことを示してみせよ」
詳細は日が近づいたら知らせる、と言い残して脇目も振らず帰っていった。幾度の渡る勝家の好意に、勝家の背中へ向けて深く頭を下げた。
まつは見送りの為に玄関まで付き添ったが、帰り際にポツリと勝家が呟いた。
「ご内儀。利家はああ見えて不器用な奴。末永く支えてやってくれ」
「お任せ下さい。私はそういう所も惚れて夫婦の契りを結びましたので」
自信満々に返されて勝家は口元に笑みを浮かべ、闇の中へと消えていった。
一方、一人だけ部屋に残った利家は腕組みをしたまま考え込んでいた。
気持ちは固まっている。しかし、果たしてそれでいいのかという迷いが消えない。
そこへまつが戻ってきた。
「旦那様」
俯く利家の向かいに座り、その顔を両の手でそっと持ち上げる。
「貴方のやりたいようになさいませ。私は何があってもずっと付いて参ります」
頬に感じる柔らかな温もりと真っ直ぐ見つめる瞳に、利家の気持ちもようやく固まった。
どうなるか分からない先のことばかり気に取られて本質を見失っていた。大事なのは、混じり気のない感情に対して正直になること。
「……済まぬ。必ず本懐を遂げてみせる」
己の居場所を自分の手で取り戻す。もう、何の意義もないまま時を過ごすのは勘弁だ。
支えてくれる人、助けてくれる人、追うべき人。全ての人に報いるべく、死力を尽くす。
*
勝家の手引きにより、今川方の前線である中島砦への奇襲部隊に加わった。
部隊を率いるのは織田家に仕えていた頃に赤母衣衆と対に組織された黒母衣衆の筆頭に任じられて競い合っていた佐々成政の兄、政次。
温厚な性格で部下の面倒見もいいが、密かに利家を自らの部隊に引き入れた際も、政次自ら近づいてきて「頼みにしておるぞ」と直接声をかけてくれた。
中島砦には今川軍の先鋒が既に到着しており、政次は出端を挫いて進軍の勢いを少しでも食い止めようという意図があった。
ただ、政次率いる部隊を圧倒的に上回る数の兵が既に砦へ入っていると思われ、極めて厳しい戦いになることが予想される。
しかし、利家には関係ない。帰参が認められるくらいに目覚しい活躍をすることしか考えていなかった。
相手に気付かれぬよう息を殺して砦に近づく。どうやらこちらの動きはまだ相手に勘付かれてないらしく、見張りの兵は居るものの警戒は緩い。
政次は意を決して命を下した。
「突撃ー!!」
次の瞬間、大勢の男達の咆哮が辺りに響き渡る。我先にと砦へ目掛けて狂った猪のように突進していく。その群れの中に利家の姿もあった。
突如姿を現した軍勢に今川方は迎え撃つ準備が整ってないらしく、兵が狼狽してあたふたするばかりで反撃してくる気配が見えない。
これは好機とばかりに次々と柵や塀を乗り越えて砦の内部に侵入する。白兵戦があちこちで展開し、金属が擦れ合う音が響く。
利家も自慢の朱に染めた長槍を手に雑兵を次々と薙ぎ倒しつつ、目ぼしい相手を物色する。目指すは兜首。
「落ち着け!!敵は我らより少ない!!複数人で囲んで仕留めよ!!」
砦の外から降り注ぐ矢の雨に兵が右往左往する中、敢えてその身を晒して叱咤する侍大将の姿が。
身に着けている鎧もそれなりに手が込んでいるし、戦にも慣れている様子なので相応な地位の者と見た。
侍大将のよく通る声に一部の兵が武器を手に立ち向かうなど持ち直しの兆しが出始めている。
……即ち、あの侍大将を倒せば混乱に拍車がかかる、と。
目ぼしい相手を求めていた利家は侍大将へ向かって一気に駆けて距離を縮めていく。
声を張り上げて指揮を執る侍大将の目端に華美な出で立ちの若武者が向かってくるのを捉えると、すぐに腰の刀を抜いて応戦しようと試みる。が、間合いを詰めてきた利家の方に分があった。
突き出された槍は鎧の隙間となっている脇の下を貫いた。激痛を堪えきれず手にした刀を取り落とす。
逆の手で脇差を抜いて利家を刺そうとするが、それよりも先に利家の槍の穂が相手の喉を貫く。微かな呻きを残して、侍大将は膝から崩れ落ちた。
素早く首を掻っ切り、腰に結ぶ。首級一番乗り、といったところか。
だが、侍大将が倒れても状況に変化はない。皆自分が生き残る為に必死で戦っているので、目の前の敵以外に視野が極端に狭くなっている。
そして徐々に織田方が押され始めてきた。まさか人数で劣る軍勢が襲撃するとは想定していなかったので慌てたものの、時間が経つにつれて人数の差が明らかになってきた。
疲れで動きが鈍っている織田方に対して複数人で確実に仕留める今川方の方は体力的に余裕がある。また一人、また一人と敵方に命を摘み取られ、砦内は織田の兵の屍ばかり重なっていく。
利家も緒戦で首級を奪ったものの、以降は群がる雑兵を相手に苦戦を強いられていた。
周囲を見渡せば戦えそうな者は十指を少し超える程度。それも半数は肩で息をするくらいに疲れきっている。他は地面に突っ伏したまま動かなかったり、傷を負って片膝をついていたり。
このままでは無駄死だ。息を吸い込んで叫んだ。
「引くぞ!!」
本来であれば政次に仕える者が指示を出すべきだろうが、今はそんな事にこだわっている場合ではない。これ以上留まっても死人を増やすだけだ。
利家の指示に複数人が応じて砦の外へ逃れていく。逃げようとしても思うように動けない者は相手の凶刃に倒れる。
そして利家は最後尾に立って政次の兵を先に逃がし、槍を大きく振り回して大立ち回りを演じた後に隙を突いて一目散に逃げた。
砦の外も似たような惨状が広がっていた。織田の旗を背負った兵があちこち草叢に倒れている。砦から追い討ちをかけるように無数の矢が飛来して地面に刺さる中、懸命に前だけ見て走る。
と、前方の集団の中に見覚えのある姿が見えた。部隊を率いる佐々政次であった。
「政次様!!」
声をかけると政次はこちらを向いた。騎馬する政次の側まで近づいて片膝をつく。
「当初こそ我らに勢いがありましたが、次第に押され始めて戦況は覆しがたいまでに悪化しております。ここは一旦引いて態勢を……」
「いや、それには及ばぬ」
政次は近習に「馬を曳け」と命ずると、一人の家臣が何処かへ去っていく。
「利家よ。一つ頼まれてくれまいか?」
「某に出来ることであれば何なりと」
ふと中島砦の方に一度目をやり、再び利家の方に向き直った。
「殿の元へ伝令として赴いてくれ。『佐々政次討死』と」
とんでもないことを口にされ、利家は息を呑んだ。だが当の本人は涼しげな顔をして泰然としている。
政次はこの場で死ぬ構えだ。
一軍の将として責任を感じているのだろうが、利家としては全力で阻止しなければならない。
「なりませぬ!!まだ残された兵を集めて本隊に合流すればまだ戦えます!!後の事は余所者の某が―――」
「前方には今川が敗残兵を駆逐すべく準備しているだろうし、周囲は今川の兵で埋め尽くされている。相当な猛者でなければ殿の元まで辿り着けないだろう」
「ならば政次様の子飼いの者を!!某は馬を持ってないですので、信頼出来る者にお任せを」
必死に食い下がる利家に政次は静かに首を振った。
「今回の戦に措いて一番の働きをしたのは侍大将へ果敢に立ち向かい首級を挙げたお主だ。赤母衣衆の筆頭として馬の扱いにも伝令にも長けている。武の面でも経験の面でも貴殿以外に適任はいない」
そこへ一頭の馬が鞍をつけた状態で曳かれてきた。家臣は手綱を利家に向けて差し出した。
別の家臣が佐々家の家紋である隅立て四つ目が染め抜かれた旗を持ってきて、利家の背中に差した。出で立ちこそ異様ではあるが、傍目から見れば佐々家の家臣にしか見えない。
ここまでお膳立てされた以上、行かざるを得ない。後ろ髪を引かれる思いで用意された馬に跨る。
すると政次が明るい口調で利家に声をかけてきた。
「ああ、忘れていた。殿に言伝をお願いしたい。『―――』と」
「……承りました。必ずお伝え致します」
「さらばだ、利家。武運を祈っておるぞ」
言い終わると政次は馬の腹を蹴って前へと突き進んでいく。その後ろを佐々家の家臣が続く。
利家は馬上で深く一礼すると、馬首を翻して政次とは正反対の方向に走り出した。目指すは殿が率いる本隊。
途中、挙げた首級は捨てた。負け戦で獲った首級など意味がないし縁起が悪い。
駆け始めて間もなく、織田木瓜紋の旗を持った大軍勢を見つけた。
「伝令、伝令!!」
割れんばかりの声に気付いた人々が道を開けて通してくれる。人混みの中に藤吉郎の姿を見つけたが、一刻を争う事態なので声はかけず素通りする。
佐々家の旗を背負っていたのですぐに殿の前まで疑われることなく通された。
伝令の使者という形で信長の前に対面した。一年前と比べて何も変わらず壮健な姿に内心ほっとしつつ、伝令としての責務を果たすべく口を開く。
「申し上げます。中島砦にて佐々政次様、お討死」
一部隊を率いていた者の死に言葉を失う面々。信長は報告に対して表情を変えない。
「我が主より殿へ伝言。『美濃攻めに加われず申し訳ない』と」
別れ際に託された言葉を述べると、微かに口元を歪めて小さく漏らした。
「愚か者め……」
命を落とした家臣を罵る言葉であるが、長く付き合いのある利家には分かる。
『今川を打ち破る』と信じてやまない家臣の言葉を素直に嬉しいと口に出来ない、一種の信長なりの自己表現なのだ。
だが、それも一瞬ですぐに利家の方に向き直る。
「ご苦労であった。疲れたであろう、暫し休め」
「お言葉はありがたいですが、某も戦いに加わりたく存じます」
「……分かった。許す」
久しぶりの対面はあっという間に終わりを告げた。感慨に耽る暇はない。存亡を賭けた戦が間近に迫っていた。
一部を除いて徒士となり旗指物も置いて林の中を進む。途中、雷を伴う激しい雨に見舞われたが足を止めることなく歩き続ける。
やがて小高い丘のような場所に辿り着いた。位置的には田楽狭間といった所か。
ずぶ濡れになりながら行軍を続けて気力が萎えかけていると思いきや……眼下に広がる景色は疲れを忘れさせた。
今川軍が、真下で陣を構えている。
帷幕を張った場所からは賑やかな声が漏れている。戦勝祝いで酒が振舞われているらしく、雑兵が降りしきる雨を避けながらあちこちで武器を置いて酒盛りする姿が見受けられる。
体を容赦なく打ち付ける雨も、ぬかるんだ足元で溜まった疲れも、功名を挙げれるか分からない不安も、全て吹き飛んだ。
相手は完全に油断している。攻め時は、今だ。
槍を握る手に自然と力が入る。血が踊り、突撃の合図が待ち遠しくて仕方がない。
それは誰もが同じようで、織田軍全体が無防備を晒している獲物を前にした狩人と化している。
総員がいつでも動けるようになるのを見計らい、信長の声が響き渡る。
「かかれぇっ!!」
合図と共に地面を揺るがす大声が辺り一帯を木霊する。直後、丘から無数の人が果敢に駆け下りていく。利家も押し寄せる波の一部となって今川の陣へと突撃する。
対して今川方はいきなり湧いた軍勢を前に驚愕した。多くの兵が本陣から離れた場所で雨宿りしていたのも災いし、帷幕の周りは警護の兵を除いて極端に手薄となっている。
足軽達は主君を助ける為に敵と立ち向かうどころか、突如降りかかった災難から逃れようとする者が出始める始末。勢いは完全に織田方にあった。
その中でも多くの人が集中したのは大将が居る本陣。それぞれが得意の得物を手に、野外に張られた幕へ目掛けて飛び込んでいく。
周囲を護衛する兵は瞬く間に倒され、視界を遮る幕は引き千切られ、酒宴の酒樽は乱暴に蹴られて中身が零れ落ちる。中に居た者は身分の上下に関わらず次々と骸に変わっていく。
利家もまた、目に入る今川の兵は構わず槍で突いた。身分の高そうな者を乱戦の中で血祭りに挙げて首級を一つ獲ったが、まだ満足していない。
もっと相応しい相手は居ないか。血眼になって探していると―――
少数の旗本に囲まれて逃げる、公家風の装束を着た男の姿。御大将・今川義元に相違ない。
見つけた。丸まった背中を追いかけようと一歩踏み出した時。
間に割って入る一人の武者。若年の利家よりも一回り年齢が上だろうか。働き盛りで脂が乗っていることもあるが、槍を構える様に隙がなく他者を寄せ付けない雰囲気を全身から放っている。
同じく大将首を発見して意気込む兵二人が利家の横をすり抜けて襲いかかろうとしたが……まるで舞を踊るかのように二人を返り討ちにした。
「小僧。ここを通りたければ拙者を倒してからにしろ」
元服を済ませた利家を小僧呼ばわりされて反発心が芽生えたが、前を塞ぐ武者は血糊のついた穂先をこちらに向けて動じない。
刀の拵えや身形もしっかりとしているから相応の身分にあるのだろうが、それよりも歴戦の猛者たる貫禄が滲み出ている。
全身全霊を尽くさなければ勝てない難敵。今の自分の力量で勝てるかどうか分からない。だが、やらなければならない。ここを切り抜けなければ未来はない。
静かに息を吐き出すと、槍を持ち直して武者と対峙した。重心を落として肩幅に足を開く。
「その心意気や、良し」
挑む姿勢を見せた利家を見て武者は笑みを浮かべた。が、すぐに表情を消して槍を構え直す。
穂先と穂先が触れるか触れないかの間合いを互いに保ちながら、やや狭い陣内で向かい合う。あちこちで鍔迫り合いの音や断末魔の悲鳴が聞こえるが、二人の間だけは別次元と化している。
「せいっ!!」
裂帛の気合と共に槍が繰り出される。一直線に向かってくる槍の穂を巧みに捌きながら反撃の機会を伺うが、打ち込みの頻度が蜜でじりじりと後ろへ押される。
織田家に仕えていた時には槍の稽古を数え切れないくらい仕合したが、これ程に強い者は居なかった。動きに一切の無駄や癖がなく、敵を仕留めるのに最短かつ最少の力を使うに留めている。槍を扱う者の一人として、手本にしたいくらいだ。
強い。素直に認めざるを得ない。
でも……負けられないのは利家も同じだ。
向かってくる穂先を渾身の力で撥ね返すと、相手の槍先が自分から逸れる。その僅かに生まれた頃合を見逃さず、勇敢に踏み込みながら自らの槍を突き出す。
武者は虚を衝かれた顔を浮かべる。信じられないと顔に書いてあるのが若干癪に障るが。
「やるな、若造」
『小僧』から『若造』に変わった。が、形勢に変化はない。
「だが、御屋形さえ生きていれば再起は図れる」
「それはどうかな。大将を討ち取れば全てひっくり返る」
緊迫した空気が二人の間に流れる。言葉を交わしている間も一瞬の隙は生まれず、穂先で牽制し合う。
雷が鳴り、轟音と共に地面が揺れる。強い風に煽られて張られた幕が音を立てて揺れる。激しい雨は相変わらず止む気配を見せず、飛沫を上げて大地を叩きつける。激しい嵐は一向に収まる気配を見せない。
時を稼がれているのは分かっていた。が、それはこちらも同じ事。此処で自分が敵を引き付けている間に味方の誰かが総大将の首を挙げれば織田の勝ち。
けれど、利家に残された時間は限られている。ここに来て昼間に激闘を繰り広げた影響がここに来て出始めた。
手に握る槍に重さを感じるようになり、息も荒くなってきているのを自覚していた。必死に悟られまいと堪えるが、それもいつまで隠し通せるか。
極限にまで張り詰めた弦の如き利家の命は風前の灯であった。
そこへ思わぬ方向から戦況を大きく一変させる神風が吹き込んできた。
「御大将、今川義元討ち取ったり!!」
その声は狭隘な地形のあちこちを反響しながら利家の耳に届いて、すぐに消えていった。まるで小さなさざ波が押し寄せてきて自らの足元を濡らしてそのまま通り過ぎていったようである。
当初は空事のように捉えていたが、言葉が心に沁みていく内にその意味が理解出来るようになった。
勝った……のか。
呆然と立ち尽くす利家の耳へ不意に何かが落ちた音が聞こえてきた。見れば相手の武者が持っていた槍が地面に落ちている。
「―――参ったわ」
吹けば消えるような声で呟くなり男は膝を折って胡坐をかく。何をするかと眺めていたら兜の紐を緩め始めるではないか。
「若造。首を討て」
先頃まで死闘を演じていた武者が言っている事の意味が本気で分からなかった。
目を点にして見つめる利家へ武者は穏やかな口調で言葉を紡ぐ。
「御屋形は壮大な夢を見せてくれた。その夢が潰えた以上、何も思い残すことはない……まぁ、拙者がお側に居たらむざむざと端武者に首を献上などさせなかったが」
胸を張って断言するその姿から絶対的な自信が伺えるが、その一方で表情には微かな悔しさが滲んでいる。
「若造よ、お前の勝ちだ。拙者の首を討てたことを誇りに思え」
言いたいことを全て言い終えると静かに首を差し出した。やり遂げた達成感が顔に出ている。
最期まで尊大な物言いであったが、その潔い姿勢に心の内で敬意を表してから静かに腰の太刀を抜く。
せめて苦しまず楽にさせよう。利家はその一点にだけ気をつけて、持てる全ての力で刀を振り下ろした。
聞けば利家が対峙した武者は今川家中でも名の知れた剛の者で、常に義元の側近くに侍ってその身を護っていたとか。顔なじみの同朋に声をかけられた際には大いに羨ましがられた。
時間が経って場の雰囲気も落ち着きを取り戻した頃、利家は論功行賞の為に召し出しを受けた。
激戦の舞台となった桶狭間から少し離れた場所の屋外に設けられた陣幕の正面に、信長が据わっていた。その傍らには柴田勝家が控えている。
中島砦の前哨戦と桶狭間の本戦の二つを経た利家の外見は返り血や泥などで華美な出で立ちが台無しとなっていたが、それも生き抜いた勲章と受け止めてそのままにしてある。
大将首ではないが武将に匹敵するだけの価値があり、これで帰参も認められると期待して意気揚々と陣内に足を踏み入れる。
御前に進み出ると頃合を見計らったように勝家が話し始めた。
「この者、今川陣中に於いて並びなき猛者を一騎打ちの末に首級を挙げました。その功は大きく比類なき働きと―――」
「待て」
誇らしげに語る勝家の言上を遮る声が入る。誰でもない信長だ。
「確か戦が始まる前に皆へ申し伝えたはずだ。“大将以外は討ち捨てにせよ”と」
信長の指摘で事態が思わぬ方向へ流れているのが肌で伝わってくる。勝家も苦い表情を浮かべていることから、その指摘は事実なのだろう。
突撃の声は届いたものの、討ち捨てのお達しがあったことについては全く知らなかった。だが落ち度は落ち度である。
「……という訳だ。下がって良い」
このまま居座ったり反論を重ねようとすると途端に機嫌が悪くなるので、大人しく御前から退散する。
隣に居た勝家が何か言いたげな表情を浮かべて主君の横顔を見つめていたが、それ以上信長から発言は無かった。
険しい表情で固まったまま陣の外へ出た利家は、地面に転がっていた石を力の限り蹴り飛ばした。石は遥か彼方まで勢いよく飛んで茂みの中に消えていった。
己は何の為に命を賭して戦っていたのか。込み上げてくる怒りの矛先を向ける相手が分からず、唇を強く噛み締める。
あれだけの猛者を一人で相手して首級を挙げるのがどれだけ大変で過酷なことか。討ち取った猛者の死が無駄になったような気がして申し訳ない気分になり、自然と涙が零れる。
そこへ草叢を踏み締めてこちらに向かってくる足音が近づいてくる。姿を現したのは藤吉郎であった。
「……藤吉郎か」
涙を見られまいと拳で拭い、平静を繕って対応する。見れば藤吉郎も自分と似たり寄ったりの姿をしていた。
「又左、此度は目覚しい活躍をしたと聞いている。いや、真に羨ましい」
何処で聞きつけたか知らないが、既に利家の活躍は藤吉郎の耳にも届いてたらしい。
すらすらと賞讃の言葉を口にされて荒んだ気持ちが幾分和らいだものの、それでも気持ちは上向かない。
「……お主も知っているのだろう。殿は此度の活躍は論ずるに価しないらしい」
自棄気味に吐き捨てた利家の台詞に藤吉郎は宥める様子で返してきた。
「まぁそう申すな。殿も殿でお辛い立場なのだから察してやってくれ」
やけに信長の肩を持つ言い方に違和感を覚える利家に対してさらに言葉を続ける。
「此度の戦では又左以外にも首級を挙げた者は大勢居たが、殿はそれを全て平たく突っ撥ねている。それにも関わらず又左だけ恩賞を与えたとなると今度は他の者から苦情が上がる」
裏事情を告げる藤吉郎はさらに「ここだけの話だが」と付け加える。
「又左が首級を挙げたという知らせを耳にした殿は大層お喜びの様子であった、と近習の者が話していた。尤も出奔の罪は公に許していないからすぐにいつもの顔に戻られたらしいが」
そして藤吉郎は懐から一枚の紙を取り出して、差し出してきた。
中を開くと『また頼む』と一言。手早く殴り書いたらしく筆跡は粗く読み辛いが、誰が書いたのか利家は一目見て分かった。
「これは、殿が……」
もう怒ってない。そればかりか今後も期待している気持ちが短い文章の中に凝縮されていた。
また涙が零れる。今度は悔し涙ではなく嬉し涙だ。
「おぉ、虹じゃ」
人々を濡らした雨が止み、雲の隙間から太陽の光が降り注ぐ。空を見上げれば虹が出ている。
太陽の光は分け隔てなく降り注ぎ、人々を照らす。誰にでも輝く機会は訪れるので、それまで希望を捨てず待てばいい。
ようやく目的もなく日々を送る生活から解放された喜びを、虹を眺めながら暫し喜びに浸った。
その虹が己の未来を暗示しているようで、喜びから頬を伝う涙が止まらなかった。
BACK TOP NEXT