私には大きな夢がある。“女性初のメジャーリーガー”だ。
途方も無い夢だと笑われることがある。中には本気でそう思っているのかと呆れる輩もいる。私は至って本気だ。
“必ず女神は微笑んでくれる”。誰が言ったか忘れたけれど、この言葉があればどんなに辛いことでも乗り越えられた。
そして神様はチャンスを与えてくれた。メジャーリーグの下部リーグであるAAA(トリプルエー)の選手となることが出来た。
AAAはメジャーリーガーの卵である若い選手で構成されており、ここからメジャーリーグの選手になった選手も少なくない。
幼い頃からの夢が、手を伸ばせば届く場所にまで来たのだ。
しかし、女神様は簡単に夢を叶えてくれない。
開幕から先発としてマウンドに上がったが勝ち星に恵まれず六連敗。
実力がない訳ではない。速いスピードボールで打者をねじ伏せることも出来るし、変幻自在に変化球を操って打者を手玉に取ることも出来た。
それでも打ち取った当たりがヒットになったり味方の守備に足を引っ張られたり、自分以外の要素で黒星が重なっていった。ツキがないとしか言い様がなかった。
監督やチームメイトから成績に関して悪く言う人はいなかった。私だけ勝てないことに対して励ましてくれていたし、私自身悲観してなかった。
だが私に期待していた観客には、いつまでも結果が出せない私が不甲斐なく映ったのだろう。次第に応援の言葉よりも冷たい言葉の割合が多くなっていく。
いつしか批難の対象が女性であることにまで矛先を向けられた。
『お前がマウンドに立つと勝ち星が逃げていく』
『野球は神聖なスポーツなのだ。女が入ったら野球が汚れる』
もう単なる野次ではない。私が野球をやることさえ許さない、攻撃的な言葉だった。
マウンドに立たない日でも、あの罵声が未だに頭の中でリフレインされる。その度に鋭く尖った言葉が私の心を貫いていく。
考えないようにした。忘れようとした。それでも心ない罵声はゾンビの如く甦って、私を傷つける。
さらに一人でいる時でも、他人とは思えない声が聞こえてくる。私の声が私に問いかけてくるのだ。
『これは女神から与えられた試練ではなくて悪魔の戯れではないか』
『私は何故こんな辛い思いをしてまでユニフォームに袖を通すのだろうか』
毎日のように囁いてくる自分の中に潜んでいる誰か。懸命に前向きに考えたくても見えない私はどんどんマイナスの方に引きずり込んでいく。
そんな日々が続いていく内に、野球をすることすら億劫になってきた。今自分の周りにある物から解放されたい気持ちが日に日に強くなってきた。
私は誰にも告げずロッカールームを後にした。家には戻らず僅かな荷物を持ってそのまま空港に向かった。
自分が何をしているのかは承知している。多くの仲間やファンを裏切った行為だということも。
明日になったら大騒ぎだろうな。いるはずの人間が忽然と消えるのだから。
後ろめたさは充分感じている。でも私は一度リセットしたかった。あの声が聞こえない場所に逃げたかった。
母国アメリカを離れて一路日本へ向かった。
何故日本か?わからない。なんとなく日本に行きたかった。偶然にも日本行きのチケットが格安で手に入ったこともあるけれど。
一応大学で日本語を履修したので日常会話程度なら可能だ。AAA所属なのでお金の余裕はあまりないが、贅沢しなければやっていけると思う。
あとはあっちに着いてから考えよう。日本は治安がいいからノープランでも大丈夫だろうな。
機内の照明が一斉に消えた。どうやら消灯時間のようだ。あれこれ考えることも無くなったので瞼を閉じる。
だが不思議と瞳からは涙が零れる。夢の世界へ行くにはまだまだ時間がかかりそうだ。
[ 女神様からの試練 ]
手持ちのドルを円に替えて、まず向かったのは日本にいる兄貴の元だった。
兄貴はテレビで見た日本のコメディアンの野球があまりにもお粗末だったことに大いに驚いて「日本人に野球の素晴らしさを伝えに行く」と言って日本に渡った。
いつも近くで見ていた私から言わせれば性格は悪くないのだが行動があまりにも不審でどこか脆いので尊敬できない。出来れば家族だということも知られたくない。
本来ならば兄貴とは関わりたくないが、出来る限り無駄な金は使いたくないのだ。背に腹は変えられない。
アメリカと違って細い路地が多いので迷うことも覚悟したが、すんなりと兄貴の住んでいるアパートに到着することが出来た。
だがいざ兄貴に会うとなると躊躇せざるを得ない。あの馬鹿兄貴と一緒にいるとどんなことに巻き込まれるかわからない。
「オー、そこにいるのは愛しのマイシスター!」
早速見つかってしまった。どうやら今から外出しようとしていたみたいで、アパートの二階部分から私に向かって手を振っている。
突然の来訪に驚きつつも最愛の妹が単身日本に渡ってきたことの喜びが大きかったのだろう、大急ぎで私の元に駆け寄ってくる。
そんなに慌てて来ると怪我をするぞ(比喩とか抽象的な意味合いではなく)と思っていると、案の定階段を一段目から踏み外してゴロゴロと転がり落ちてきた。
バラエティでもこんなに危ない笑いの取り方をしないのにウチの兄貴と来たら……足元に転がっている張本人は痛みで一人悶絶している。どうやら全身を強く打ってあちこち痛いみたいだ。
とりあえず煮干でも食っていれば治るだろう。私は寝転がっている兄を乗り越えて、部屋へと向かった。
「こんな干からびた魚なんか食べれませーん」
流石に煮干を食べる習慣はないので兄貴は食べなかったが、牛乳を飲ませると即座に治ったようだ。本当にこの兄貴の体はどうなっているのだ……。
そして体が治った兄貴は再び出掛けていった。どうやら今日も野球を伝道しにいくつもりらしい。
もしかすると、何の報せもなく転がり込んできた私のことを気遣っているのかも知れない。AAAの話は今の私にすれば傷心に塩を塗りつけるに等しい行為だったのでありがたかった。
そんな私の心を知ってか知らずか、アメリカに居た頃と同じように野球の話は頻繁に行った。
考え方の違いから激論を交わすことも度々あった。これが私と兄貴のコミュニケーションなので別になんとも思っていない。
また、周囲に親しい人がいない環境なのでやることがない。兄貴は毎日のようにブラブラと何処かへ出掛けるので、邪魔者がいない間は体を鍛えることに力を注いだ。
私自身練習することは嫌いではない。練習した分だけ自分の成長に繋がると思えば、特に苦しいとは感じないから。
この先果たして野球をすることが出来るかどうかはわからないが、練習をやめる気にはならなかった。理由などない。体を動かさないと落ち着かないから。
日本に滞在して暫くして兄貴から野球に誘われた。
トレーニングを地道に重ねてきているが、久しくボールを遠くまで投げることがない。現状に満足しているかと問われればNOと答えるだろう。
だからこそ気晴らしを兼ねて兄貴は声をかけてくれたのだと思う。兄貴自身も野球を嗜む程度にやっているので、室内に篭って練習する辛さも知っている。わかっているから出来る気遣いだ。
……兄貴はあの体質なので運動なんかすれば確実にケガをするが。本人がそれをわかっているのか定かではない。
到着したのは工場の跡地と思われる場所だ。
オンボロな塀に囲まれた広大な土地の片隅に大きな建物が一つ建っているだけだ。外観のほとんどが赤錆だらけだったり、窓ガラスが割れていたりで、管理が行き届いていないことが一目でわかるが。
そして建物とは別方向から人の声が聞こえてくる。威勢の良い、活き活きとした声だ。さらに時折乾いた金属音が混じる。
野球をやっている。無意識の内に私は音の方向へ歩き出していた。
おぼろげながら人の姿が見えてきた。統一感のあるユニフォームに身を包んだ男達が、一生懸命練習している姿だ。お世辞にも上手とは言えないが、彼らは確かに野球をしていた。
練習環境はAAAと比べれば劣悪かも知れないが、兄貴の部屋に閉じ篭って練習するのとでは雲泥の差だ。練習を眺めていると内に秘めた思いが沸々と込みあがってきた。
「おい、そこのアンタ。何の用だ?」
振り向くと眼帯をつけた髭面の厳つい男が立っていた。一見すればマフィアか裏社会の人間かと勘違いしてしまいそうな風貌だ。
チラリと横目で野球をやっている面子も、皆怪しい雰囲気を醸しだしていた。まさかあの馬鹿兄貴はマフィアのチームを紹介してくれたのか、と本気で疑ってしまった。
だが兄貴は私の警戒などお構いなしにマフィアの親玉に向かって話しかけた。
「彼女は私の妹のアンヌでーす。彼女の実力は私が保証しまーす」
おい、馬鹿兄貴。アンタの言い方だと全く説得力がないのだが。そんな気の抜けた喋り方で相手が信用すると思うのか。
しかし兄貴の話を聞いたマフィアの親玉は私の体を上から下まで眺めて、幾つか質問を投げかけてきた。それから野球をやっている部下と思われる男を呼び止めて二つ三つ指示を与えた。
「試しに投げてみな。話はそれからだ」
確かに兄貴の売り込み方が悪かった。だが私が女であることが、このマフィアの親玉には気掛かりだったようだ。
仮にもAAAに所属した私の実力を見せ付ける必要があるようだ。普段マウンドに上がる以上に闘争心が駆り立てられた。
軽くウォーミングアップをしてから肩を温め、促されてマウンドに上がる。バックネットの裏にはマフィアの親玉が鋭い眼光を私に注いでいる。
まずは小手調べにストレート。女だと馬鹿にしている奴等の多くが私のストレートを見た途端青褪めるが、果たしてどんな顔をするか見物だ。
いつの間にか練習を切り上げてやってきたと思われる野次馬まで集まってきた。
最近本格的に投げ込みをしていた訳ではないのでベストボールを出せるかわからない。AAAから去ってから初めてマウンドに上がったことを、この時私の中からすっぽりと抜け落ちていた。
不安がないと言えば嘘になる。けれど、『なんだ、この程度か』と思われたくない。それは私の存在意義を否定されるのと同じだから。
心の底から湧き上がって来る感情に、私は一度瞳を閉じて精神を整える。
ここに上がれば男だろうが女だろうが関係ない。女神様は性別で結果を変えたりしない。
だから今できるベストを出すだけだ。そうすれば女神様は必ず微笑んでくれる。
次に瞼を開けた時にはキャッチャーミット以外視界に入ってこなかった。そこへ目掛けて思いっきり球を放るだけだ。
ゆったりとしたフォームで、自分の力をボールに乗せる気持ちで精一杯腕を振り切った。
白球は先程構えていた位置と寸分違わぬ位置に吸い込まれ、ミットに収まる瞬間スパーンと小気味いい音を弾き出した。
恐らく140キロは出ていたに違いない。受け止めるキャッチャーはそんな球を受け止めた経験がないみたいで、球威に負けてペタリと尻が地面についてしまった。
ザワザワとざわつく周囲。鷹のように鋭い眼をしていたマフィアの親玉も思わず目を見開いていた。
そんな様子に構うことなく私はボールを返すようにグラブで促す。尻餅をついていたキャッチャーが慌てて力のないボールが手元に戻ってきた。
続けて変化球を投げ込む。球種だけでなく、キレ・変化量・コントロールも思っていた以上の出来に内心ホッとする。
なにより、楽しく投げることが出来たことが一番の収穫だった。これ程気持ちよく野球をしたのはいつ以来だろうか思い出せない。
だが、それだけで充分だった。私はやはり野球が好きだということを再認識することが出来て良かった。
ある程度投げ込みを終えてマウンドから降りる時には、喧騒に包まれていた雰囲気は一変していた。皆一様に開いた口が塞がらないみたいだ。
只一人、私の前に立ちはだかった者を除いて。
ポケットに手を突っ込んで仁王立ちしているのは、マフィアの親玉。先程と変わらず険しい表情をしている。
野球が上手いことが気に入らないのか「女の癖に生意気だ」と因縁をつけられたことも数知れず。そう言った輩は必ず返り討ちにしたが。
今回の相手は修羅場を経験していてもおかしくない相手。風貌もあって警戒せざるを得ない。
だが、それも杞憂に過ぎなかった。
「凄いじゃないか!」
破顔一笑してから間髪入れず私の手をがっちりと掴んだ。こちら側の了解など取る前に、だ。
あまりに予想外の出来事に私の方がポカンとしてしまった。
その後このマフィアの親玉っぽい男は垣内と名乗り、先刻までの非礼を詫びた。素性の知れない連中が多く在籍しているので、実力を確かめているとのことだった。
すぐさま私はこのチーム、火星オクトパスに入団する運びとなった。他のチームに奪われることを恐れたこともあるが、私の実力に惚れ込んだことも大きな要因の一つであることに間違いない。
はっきり言えばゴロツキ集団である火星オクトパスだが、皆一様に活き活きとしている。その理由は何か。
ボスである垣内には大きな野望があった。入団した直後に開かれた歓迎会の席で、ボスは酒を片手に雄弁を語った。
「俺は火星に行く」
聞けば、ボスはとある事情から火星の土地の権利書を手に入れたのだ。かなり確かな筋のモノらしいので本物に違いないと本人は言っていた。
しかし民間人が火星に行くことは到底不可能だ。火星に行けなければ権利書などただの紙切れ同然。
そこでボスは自力で火星に行くことを考えた。宇宙船を自力で手に入れて、火星に乗り込めば夢は現実の物になるのだ。
ところが宇宙船を造るにしても、手に入れるにしても、莫大な資金が必要になる。正攻法で攻めていたとしても、生きている間にそんな大金を手に入れることは不可能に近い。
そんな時に目をつけたのが、裏社会を牛耳っている組織が主催する裏野球大会だった。優勝すれば法外な賞金が手に入ると知ったボスは、迷わず参加することを決意した。
ボスの大望に共感を得た部下も少なくなく、その士気は一様に高い。だが悲しいかな、やる気はあっても実力は乏しい。
そこで腕が立つ助っ人を掻き集め、戦力の底上げを図りながら部下の実力を向上する一石二鳥の方策を打ち出したのだ。
どういう経緯があったのか知らないが、助っ人集めの中でオクトパスに入団したのがウチの馬鹿兄貴だったという訳だ。
私はただ単に野球がしたかっただけだが、このチームにいる以上はボスの野望に少しでも貢献できればいいと考えるようになった。少なくとも今はボスを慕う気持ちがあり、心の底からボスと呼べた。
志が高い指揮官を慕う者は多かったが、戦力としては非常に厳しい。ウチの馬鹿兄貴がチームの中トップクラスの実力に当たるから、実力の低さが顕著にわかる。
あと使えそうなのは、名前は忘れたがメガネをかけたヤツか。なんだか変な思いがあるのか私を見る目が厭らしいので気持ち悪いことこの上ない。
このままだと野球が上手いヤツは揃って変な性格なのかと本気で疑われてしまう。他人事ながらその点だけは危惧していた。
そんな中ようやくまともな助っ人が現れた。連れてきたのはメガネだが、至って普通な性格だったので内心ホッとしている。メガネの知り合いで、野球の腕が立つということでボスに紹介したようだ。
話の信憑性は定かではないが、過去に高校野球の頂点に立った経験があるらしい。その動きを見ていても、ボスの配下と比べても動きのキレが全然違う。
さらに嬉しいことに、彼は教えることが上手かった。彼に指導を受けた選手は目に見えて技術が向上したので、いつしか“先生”と呼ばれるようになった。
(これはボスが助っ人に対して“先生”と呼んでいたことも少なからず影響されているが、それを差し引いても彼の指導力は皆から一目置かれていた)
そして彼の呼びかけに応じて徐々に猛者が火星オクトパスに集まってきた。
常時150キロを超える豪腕が武器の鋼、元プロ野球選手という肩書きを持つ倉刈、野球未経験ながらパワーならばチーム一のネロ、外見はロボットながら自称人間(?)たかゆき、バッタの改造人間立花、インチキ宗教家の服部。
どれも一癖も二癖もありそうな連中ではあるが実力は確か。見た目や性格がクレイジーなだけで、本場でも通用するレベルだ。
夢物語のように思っていた火星への切符も、大きな法螺話ではない。裏野球大会予選を圧倒的な戦力差で勝ち進むにつれてその思いは現実味を帯びるのを肌で感じた。
火星オクトパスが試合に勝てば報酬として幾許かの金銭が発生する。AAAに居た頃と比べれば微々たる額ではあるが、コツコツと貯めたお陰で独居できる程になった。
いつまでも馬鹿兄貴の住まいを借りている訳にもいかない(むしろ早く出て行きたい)のだが、馬鹿兄貴は私が出て行くことを頑として認めてくれない。何度か場所を選ばず激論を交わしたが結論は出ないままズルズルと過ごしていた。
その日も私が出て行く出て行かないで揉めて互いにヒートアップしている中、突然私達の間に割って入ってきた男がいた。名前は覚えていないが最近オクトパスに加入した選手だった。
彼は私達の言い分を聞いて、私に出て行かないよう薦めてきた。
兄貴は納得した表情をしているが、私は納得がいかない。赤の他人が急に入ってきてその答えを下すのはおかしいと信じていたからだ。頭にきて私は理由を訊ねた。
そうしたら彼は笑って『君が出て行ったらお兄さんが寂しがるから』と答えてくれた。今度は先程とは一転して兄貴が真っ赤な顔をして退散していった。
これで兄貴も私の一人暮らしを反対しなくなるだろう。障害は取り除かれたが、治安が良い国とは言っても女性の一人暮らしは不安もある。
見たところ真っ当な神経の持ち主だし、兄貴と天秤にかけても圧倒的にこちらの方が頼りになりそうだ。
私は助けてくれたお礼に連絡先を渡した。あの変態メガネ野郎と懇意にしている点は気になるが、彼がアイツに知らさなければ良いだけの話だ。
さぁ、そうと決まれば善は急げだ。生活していく上で必要な道具を買いに行かなくては。モタモタしていると折角の運も女神様が取り上げてしまう。
……今日、彼に会えたのも、もしかしたら女神様の思し召しかな。ふと頭に過ったが、まるで風のようにスルリと頭から抜け落ちた。
急がないと家具屋が閉まってしまう。前々から狙っていた店へ向かう足は、いつもより軽かった。
一人暮らしを始めると共に、彼と会う機会が増えた。彼と一人暮らしに何の関係もないけれど。
多分私の中では火星オクトパスのチームメイトという位置付けではなく、気軽に話せる男友達みたいな感覚だった。
周囲に悩みを打ち明けられるような存在がいなかった(というよりも悩みを相談してもまともな回答を返してくれそうにない人達に囲まれていたから)ので、何でも話せる存在が出来て心強かった。
遊びに誘われることもあったけれど、家とオクトパスと往復するだけの生活に僅かばかりの潤いという感覚だった。
アメリカに居た頃も寮(または遠征先のホテル)と球場の往復が殆どで友人と遊ぶのは決まってシーズンオフ。そんなに生活の中身は変わっていない。
そんな日々が今は少し楽しい。一日が、一週間が、あっという間に過ぎていった。
裏野球大会の試合日程は基本的に非公開で不規則に行われている。
そのため調整のために練習試合を組んで試合勘を鈍らせないようにしていた。
この日の試合は大企業の社会人チーム。なんでも社会人リーグに加盟していて全国大会にも出場している猛者なのだとか。
先発の鋼は速球を主体としたピッチングで相手打線を力で封じ込める。やはりあのストレートには手が出ないか。
ただ鋼はランナーを出してしまうと本来の力が存分に出せなくなる。7回までゼロで抑えたがピンチを何度も招いていたので思った以上に疲労が蓄積していた。
その様子からボスは交代の英断を下す。
「アンヌ!出番だ!」
イエス、サー。気合一番でマウンドに上がる。
今日はすっきりとした青空が広がる野球日和で湿度もそんなにないはずなのに、打線はずっと湿りっぱなしだ。
大したピッチャーでもないのに打ち損じている勘が否めない。皆大きいのばかり狙っていて芯で捉えていないのだ。
幸いにも二点取っているゲームなので、投手が守りきればなんとかなる。接戦をボスから迷うことなく任されたので期待に応えなければ。
相手は登板した投手が女性ということに眼がニヤついていた。嗚呼イヤなんだよな、見た目で人を判断するヤツら。
そういう輩には毎回内角高めに思いっきり放り込んで相手の眼を醒めさせてやるに限る。あののけぞった時の驚いた顔はいつ見ても最高だ。
今日も力いっぱい顔の前を通り過ぎるボールを投げる。案の定、目を丸めて腰を抜かした。
そりゃそうだ。華奢な女の腕から140キロを超えるスピードボールを投げられて、意識が変わらないはずがない。
次は外角低めに決まるストレート。ちょっと甘くても腰が引けているので手を出しても平凡なゴロにしかならない。簡単に追い込んだ。
そして最後は低めに落ちるフォーク。低めギリギリで見逃し三振を狙うのとバットを振らせるのと二パターンがあるが、今日はストライクゾーンに入れた。
結果は見事三振。女だと思って舐めてかかってくる輩は所詮この程度だ。
次の打者もあっけなく打ち取れた。鋼同様に直球中心の投球なので、相手もそう思っているだろう。だが私は元々技巧派だ。
確かにストレートはプロで合格ラインの代物だが、それだけで3Aまで登り詰めた訳ではない。フォーク以外にスライダー、カーブ、シュートと豊富な変化球で巧みに打ち取るのが本来のスタイルだ。
だから野球を生業としている選手と比べればレベルは雲泥の差。形振り構わぬ訳あり選手が出る裏野球大会の方がまだ幾分か練習になる。
ツーアウトで打順は下位。背丈が大きくない打者が左打席に入る。なかなか可愛らしい顔をしているな。
私も背が高い方ではないが、どう見ても私よりも身長は小さい。確かポジションはセンター。
体格が恵まれていないにも関わらず外野守備で扇の要となるセンターを任されている理由。守備もさることながら警戒すべきは足か。
多分本人も自分の置かれた立場を弁えているに違いない。ベースに目一杯近付いてバットを短く持って待ち構えている。
そうされると無闇に内角に投げにくい。その上ストライクゾーンが狭いので投手から見れば嫌らしい打者だ(褒め言葉)。
メジャーに上がるためガムシャラになっているバッターにもこういう人が何人も居たな。こんな異国の地で思い出すことではないが。
初球は外角いっぱいに逃げるスライダー。ストライクと踏んでカットしてファール、ストライク。
続けてストライクゾーンぎりぎりから落ちるカーブ。悠々と見逃し、ボール。
内角低めの隅を狙ってストレート。バットが僅かに動くが途中で止まる、アンパイアはボールと判定。
迎えたバッティングカウント。
思った通り選球眼がいい。際どいボールもカットで粘る気マンマン。バットコントロールも悪くない。
多分インコースに投げても逆らうことなく引っ張ってくる。そして狙い球は間違いなくアウトコースのストレート。
ちょっと相手の思惑に乗ってみるか。下手に粘られて球数を無駄に増やすのも癪だし。
外角低めに向かってストレートを思いっきり放る。相手もここぞとばかりにバットを出す。
だが普通に投げたのでは芸が無い。外へ僅かにずらして凡打を狙ってみる。
バットに当たるが当てただけ。三塁線を力ないゴロが転がっていく。
それでもバッターも打ってからのスタートが早い。悠長に構えていてはあっという間に一塁を駆け抜けてしまう。
サードの倉刈は元プロで守備も悪くない。ボテボテのゴロでも積極的に前進して一塁に送球する。
が、間に合わず。塁審はセーフの判定。さらに一塁のネロがグラブからボールをこぼしている間にランナーは二塁を落とし入れた。
「スミマセン……ちょっと逸れてしまいました」
倉刈が私の元に来て謝ってきた。普段から腰が低いが、これでは気弱だと思われかねない。
プロでやっていくならばもう少し図太い神経を持っていてもいいのだが、根が良い人のか年下の私でも大して悪いことをしていないのに謝ってくる。悪い人からつけこまれないか心配になる。
確かに送球が少し逸れたが守備範囲の中に入っていた。バッターの足も速いので打ち取れなかったのも仕方ないと思っていた。
なので私の中では既に割り切っていた。やや落ち込む倉刈を逆に励ましておいた。これが響いてエラーなんてことになれば歯止めがかからない。
足が速いランナーが二塁で次の打者。アウトカウントは変わらず。倉刈にも言ったが打者を打ち取ればチェンジなので背中のランナーは気にしない。
こっちは先程とは打って変わって腰が引けている。侮りの気持ちを捨てて全力で挑めばきっと打ち取れる。
クイックモーションから繰り出した初球。腰が据わらないままバットを出してくる。
ガキンと鈍い音が響いてボールは勢いなくフラフラと打ちあがる。恐らく内野の頭を超えることはないだろう。
マウンドから白球の行方を目で追いかけていたが私の頭上を超えた時点でかなり低い位置にある。というか、もう落ちてきている。
セカンド・ショートが共に急いで前進しているが、ポトリと落ちてしまった。既に二塁ランナーは俊足を飛ばして三塁を蹴っている。
これは一点入ってしまったな。気持ちを引き締めていたつもりでも相手を見下していたのかも知れない。失点を覚悟した。
傷心の内にいた私の耳に歓声が飛び込んできた。顔を上げると、そこにはホームに突入するもアンパイアからアウトを宣告されている光景だった。
何がどうなっているのかわからないままベンチに戻っていくと、チームメイトが彼を手放しで迎えていた。どうやらセカンドの守備に就いていた彼がすぐさまホームに送球して、間一髪のタイミングでアウトを取ったらしい。
ベンチに座ると急に疲れが肩に圧し掛かってきた。間違いなくあの打球に不安を覚えてから、だ。
味方の緩慢な守備。記録にならないエラー。内野と外野の中間点にポテンと落ちるヒット。ツーアウトからのエラー。
勝ちが近付いてきた途端に連続する“不運”の連続。まるでオセロの駒のように勝ちは負けへとひっくり返った。
あれから逆転される映像が脳裏にフラッシュバックされる。考えないように意識しても脳内では映像が止まらない。
いつしか全身から汗が吹き出てきてアンダーシャツがびっしょり濡れている。肌にはりついてきて非常に気持ちが悪い。
勝負の女神よ、私への試練はまだ続くのですか。真っ青な空をじっと眺めるが返事はない。
乾いた音が聞こえてベンチ内が一気に沸き立った。だが今の私にはひどく無関係に感じられた。
彼からAAAを辞めた理由を訊ねられた。
キッカケは日本のプロ野球とAAAの実力差について話が及んだこと。私がAAAに在籍していたことを話すと当然のように訊かれた。
私の実力を認めてくれていて、それで実績もあるのに、何故日本にいるか疑問に感じることの方が普通だよな。
でも流石に「女神様に嫌われたのさ」なんてキザな台詞は恥ずかしくて言えないし。
ちょっと嘘になるけれど解雇と伝えておいた。正確にはまだクビになってないが。
予想通り彼は聞いてはいけないことを聞いてしまったという顔をして言葉を失ってしまった。気まずいよ、何か喋ってよ。
あれ?ホントのことじゃないのに泣きたくなってきた。笑え、私。心の底から笑え。
思いっきり笑わないと涙が出てしまいそうだ。腹から笑っていれば涙が出ても隠せるから。
今日はクリスマス。昨年は気の知れた友人とホームパーティをして過ごしたが今年は難しそうだ。
火星オクトパスは昨日から続けて連休で、練習も試合もない。出かける用事もなければパーディのお誘いも受けていない。
こんな日は家に篭ってトレーニングに精を出したり、部屋の模様替えを兼ねて掃除をすれば自然と時間が過ぎていく。
でも、それだけだと味気ない一日の過ごし方だ。折角の特別な聖なる日を普通の休日と一緒にしては罰が当たる。
思い切ってオシャレに着飾って街に出てみることにした。それに、このまま家に居ると馬鹿兄貴が用もなくフラフラと近寄ってくる気がした。
お気に入りのコーディネイトを身に纏ってドアを開けた。冷たい風が頬を撫ぜてサラリと吹き抜けていった。
やはりクリスマスだけあって街は人で溢れかえっていた。
喧騒な雰囲気が苦手という人もいるけれど、私は賑やかな場所は好きだ。みんなの笑顔を眺めていると元気が出てくるから。
街中に人々の笑顔が満ちている。サンタのプレゼントを心待ちにする子ども、二人だけの特別な時間を共有するカップル。幸せのお裾分けで私の心も少し明るくなった。
反面で心の隅に小さな翳が差している。ちょっと色々なことが一年の間にありすぎた。
奥に閉じ込めておいた記憶が煌びやかな光に誘われたのか勝手に出てきてしまったみたいだ。おかげでブルーな気持ちになったではないか。
こんな時は美味しい物を食べて、ちょっとお酒を嗜んで、ぐっすり寝るに限る。財布の中身を確認した後、混雑した洋食店に入って少しの贅沢を舌の上で楽しむ。
普段は飲まないアルコールもほんの少しだけ赤ワインを飲んだ。頭もほんのりボーっとして頬が熱いが思考はしっかりしている。
辺りはすっかり日が暮れて本格的にロマンティックな雰囲気に包まれている。私も心地よい酔いに包まれて、一人家路につくことにした。
「アンヌじゃないか」
ぉ、この声は彼じゃないか。いつもと雰囲気が違っていたのですぐに気付かなかったではないか。
火星オクトパスでは優等生キャラで通っているのに、今日は生意気にオシャレなんかしやがって。
彼の顔を眺めていたらちょっとしたサプライズを閃いた。いつもガチガチな真面目人間君の驚いた顔を凄く見てみたくなった。
酔い潰れてその場に座り込んで眠る、フリをする。案の定彼は道端で寝てしまった私を起こそうと顔を近づける。
近付いてくる彼の顔に―――ふんわりと、そして軽やかに唇を重ねる。
硬直したまま動かない表情筋。何が起こったのか脳内で理解した途端一瞬の内に朱く染まっていく彼の顔。何か喋ろうとするも唇ばかり動いて言葉が全く出てこない。
思った通りキスに慣れていないな、反応が初々しくて可愛らしいではないか。いつもと全く違う彼が見れて非常に満足だ。
けど、重ねた唇が妙に冷たくて固かった。気のせいか鉄の味がする。彼の唇と私の唇を重ねただけだから鉄なんか入る要素は全くないのだが。
……ちょっと飲みすぎたのかな。些細なことを忘れるために彼を引き連れて夜の街に引き返した。
聖なる夜はとても静かにしていられなかった。結局記憶がなくなるまで大騒ぎの内にクリスマスの夜は過ぎていった。
私が火星オクトパスに入った理由は、馬鹿兄貴に連れて来られたから。
では彼は何故ここに?確か亀田と一緒に入ってきたが、あれと比べて何か違う気がする。
彼の動きは元プロの倉刈と比べても遜色ない。おまけにコーチとしての素質もあるみたいで、火星オクトパスの選手に技術指導する姿も板に就いている。
訊いてみると彼は苦笑いを浮かべながら曖昧な形で答えを避けた。
何か事情があるみたいなのでこれ以上追求しないことにする。誰だってヒミツの一つや二つあるのだから。
話の流れで裏野球大会で優勝した後のことを聞いてみると彼は「プロ野球に復帰かな」と答えた。
言った後に彼は慌てて今の言葉を打ち消そうとしたが、特におかしいと思わなかった。彼ならばそれが出来ると心から思っていたからかも知れない。
まぁ彼にも彼なりの理由があるんだろう。私は笑ってエールを送っておいた。
その後に「アンヌはどうするの?」と切り替えされて、答えに詰まった。
正直な話優勝した後のことが全く見えない。なんとなくでも道筋が見えている彼が、少し羨ましい。
「メジャーに行く夢は?」と訊ねられたが……これは無理だろう。AAAでさえ抑えられないピッチャーなんかメジャーに上がれるはずがない。メジャーのバッターはAAAの比ではないからボロクソに打ち込まれるのが目に見えている。
それに私が生半可な気持ちでメジャーを目指していれば、他の人の気持ちを踏み躙ることになりかねない。
『諦めなければ夢は実現する』と思っていた頃もあったが今は違う。自分一人のために他人を巻き添えにすることが今は怖い。
ちょっと憂鬱な気分になって空を見た。乾いた空を、飛行機が一筋の白い糸を引きながら真っ直ぐと突き進んでいく。
クリスマスに彼としたキス。ちょっとしたイタズラに過ぎない。
何回も繰り返し会っているのは彼と気が合うから。
野球に関しても彼ならばAAAでも通用すると思う。まだ粗があるが磨けば間違いなく輝くと断言できる。
それはセンスだけでなく、野球に対して真正面から向き合っていることが最大の要因だ。私よりも先にAAAからメジャーに上がったヤツはみんな野球に対する心構えが他のヤツと違っていた。
不真面目で馬鹿なことばかり言う亀田が連れてきたとは本当に思えない。アイツはどうやって彼を見つけてきたのか、未だ疑問に思う。
私のことを一人の野球人として見てくれている。何の躊躇もなくストレートに感情をぶつけ、遠慮なく意見を言い合える。
友達でもないが恋人でもない、そんな曖昧な関係だと今までは思っていた。それ以上進展はしていない。
では何故キスをしたのか。私だって誰にでもしている訳でもないのに。
あの時、特別な夜なのにいつも通り真面目っぽい顔をしていた彼にキスしてみようと確かに私は思った。
改めて振り返っても全くわからない。こんなことを思い出して真剣に考えているのもおかしいけれど。
とりあえずサンタの魔法にかかったとでも思っておこう。女神様のちょっとしたイタズラでもいい。
さぁ練習に行こう。鏡に映る金髪の女性はいつもより乙女っぽく見えた。
「アンヌ・安生・アズナブルですね、AAAに所属していた」
街を歩いていたらいきなり私の名前を呼ばれた。それもフルネームで私が野球選手であることを知っていた。
その日は彼と待ち合わせをして映画を見に行く約束をしていた。いつもなら時間前には必ず来ている彼だったが、この日に限って約束の時間になっても到着していなかった。
振り返ってみて声の主を見たが、その顔に覚えが無い。人の名前と顔を覚えるのはどうも苦手だ。
ここまで私のことを知っているということは初対面ということはないはずだ。それとも、知らない人が私のことを調べてきた上で話しかけてきたか。
日本人のメジャー通であったとしても星の数ほど在籍しているAAAの選手全てを知っているなんて有り得ない話だ。そんなヤツは暇人としか思えない。
さらに目の前に立っている人は私が今火星オクトパスにいることまで入念に調べてきていた。
おまけに黒一色の服を身に纏い、サングラスをかけて頭にプロペラを乗っけている。こんな外見のヤツを怪しく思わない方がおかしい。
警戒している私の様子を察したのか、自らはプロペラ団の組織員だと明かして周囲を気にしつつ囁いてきた。
「メジャーの舞台に立ってみたいと思いませんか?」
プロペラ団は世界的なプロスポーツ運営組織。メジャーリーグにも強い影響力を持っていると聞いたことがある。
だが近年は娯楽の多様化により観客動員数の減少に頭を抱えており、球界の活性化と収入増加が急がれていた。
「―――それは私に、私に期待してくれた人達を裏切れって言うのか」
選手のマネジメントを握っており、球団の経営等にも多大な影響を及ぼしている。
それは例え実力で上がったとしても、プロペラ団と結んだと知れば純粋に実力だけが評価されて上がったとは思われない。
これまで私を応援してきた人々は、私が最高峰のマウンドに立てると信じたからこそ支えてきてくれたのだ。この人達の思いを無視して人気取りのためだけに上がろうとは全く思わない。卑怯な手を使ってまで上がるくらいならコッチからお断りだ。
最終的に私はその舞台から逃げ出してしまったが。今でもその人達に対して申し訳ないと思う気持ちはある。
「“アナタを傷つけた方々”の間違いではないですか?君の役割はユダというより沈滞気味のスポーツ界における救世主、いや女神ではないでしょうか」
確かに心ないファンの言葉に愛する野球を辞めようと決意した。何も知らないファンはマウンドに上がる度に負け続ける私のことをマスコットとしか見ていなかったのかも知れない。
キリストを裏切ったユダではなく、私を救世主とプロペラ団は言う。実力・人気を兼ね備えているにも関わらず異国の地で燻っているのが勿体無いと構成員の男は語る。
「……どうして私なんだ?」
率直な疑問をぶつけると、躊躇うことなくその口から答えが返ってきた。
「確かに我々の技術を活用すれば一般人からヒーローを作り出すことが出来ます。ただ、それではリアリティがない」
以前からプロペラ団は違法な肉体改造や肉体の一部を機械に置き換えるサイボーグの疑いがあると聞いていたが、それが正に垣間見えた瞬間だった。
しかも週刊誌などの飛ばし記事ではなく、野球を見ている素人から見てもおかしいと思える選手も中にはいる程だ。組織員が言う『リアリティがない』とはこのことを指している。
「世間はドラマを求めていますがウソの臭いには敏感ですから、その点一度は栄光を掴むチャンスにあったアナタなら適任だ」
「……少し、考えさせてくれ」
思ってもいない答えにプロペラ団の組織員は理解し難いという表情を浮かべた。『こんなビックチャンスが目の前にぶら下がっているのに、何故それを掴もうとしないのか』と顔にしっかりと出ていた。
だが無理に押してくることはなく「良い返事を期待していますよ」と言い残してその場から立ち去っていった。
メジャーの舞台に憧れを持ち、そのマウンドに立ちたいという気持ちは今でもある。幼い頃から夢見た『初の女性メジャーリーガー』が叶うのだ。
その夢を実現する代償として悪魔に魂を売り渡さなければならない。プロペラ団の力を借りればきっと自分達の思い通りに動いてもらうために様々な要求を仕掛けてくるだろう。
今オクトパスにいる倉刈は以前日本のプロ野球に在籍していたがプロペラ団と契約しなかったばかりにプロから追い出されてしまった。手を結んだ以上、裏切りは許されない。
折角野球が楽しく出来るようになってきたのに、悪魔の囁きでまた憂鬱な気持ちに突き落とされてしまった。無意識の内に溜め息が漏れる。
「ゴメーン、待った?」
ようやく彼が遅れて到着。生憎だが今の私は憂さ晴らしをしてハッピーになれる気分になれそうにはないんだ。
それでも何も知らない彼にまでバッドな気持ちを伝染させないように、無理をして精一杯の笑みを繕った。少しでも自分も笑えるようになりたいという気持ちを込めて。
迷うことなんかない。
私は火星オクトパスの一員だ。ボスやオクトパスのみんなと一緒に裏野球大会を制覇するのだ。そのために安月給で劣悪な環境(一部の同僚的な意味で)にも関わらず文句を言わずに頑張ってきたのだ。
きっぱりと断る、はずだった。
結果はその場で返答することを避けただけに留まった。返答できなかった、という方が正しいか。
答えが見えていたはずなのに、いつの間にか袋小路に迷い込んでいた。プロペラ団の甘言に乗せられてたまるか、という自分も居なくなっていた。
前に彼から聞かれた裏野球大会で優勝した後のこと、まだ決まっていないのだ。
アメリカに戻る?戻ったとしても逃げ出した者を快く歓迎してくれるとは思えない。メジャーに上がることどころかチャンスさえ失っているかも知れない。
そこにプロペラ団がメジャーリーガーにならないかと囁いてきた。
アイツ達ならば私を史上初のメジャーリーガーにさせることは簡単だろう。同時に私の宿願も叶うことになる。
しかし、それを叶えることによって私は大きなモノを失ってしまう。今いる仲間を裏切り、アメリカで応援してきてくれたファンを裏切り、私自身を裏切る。
折角苦しく辛かった野球が楽しく面白く感じられるようになってきたのに、女神様はまだ私に試練を与えるのか。
懊悩の中、刻々と時間が過ぎていく。無限に続く迷路に入った私に出口が見つかるか、見つけた出口が本当に正しいのか、今の私には判断がつかなかった。
「おやおやデートかい?」
彼と遊びに行っていたら突然見知らぬ男から声をかけられた。いきなり話しかけられても変に畏まるわけでもないから、そこそこ気心が知れた相手なのだろう。
誰なのか聞いてみたら大谷という知り合いの新聞記者だと答えてくれた。
新聞記者。耳にした瞬間思わず悪寒が走る。アメリカに居た頃には登板した翌日の新聞記事でボロクソに書かれたことが未だに心に残っているみたいだ。
まぁ日本の記者だからアメリカの話は知らないだろうと安心したのも束の間、思わぬ言葉が飛んできた。
最近プロペラ団関連の記事について追っているらしく、それ以前にも野球に関する記事を手掛けていたと何も知らない私に話してくれた。
これはヤバイかもと思った矢先、大谷の視線が私とぶつかった。私の顔を見た瞬間、何か私について思い当たったみたいだ。
私は即座に急用を思い出したと言ってその場から立ち去った。脇目も振らず後ろも顧みず、ただひたすら走った。
恐らく大谷という記者は私が誰なのかを知っている。そして何も知らない彼は大谷に私のことを訊ねて、その口から私が日本に来た理由が判るだろう。
それが怖かった。隠していたことを全て明かされ、どんな顔をしているのか見たくなかった。
無我夢中に走っていたら周囲はとっぷりと暮れていた。足はズキズキ痛むし、胸は締め付けられるくらいに苦しい。
ここは公園か。ポツリポツリと街灯が点っているだけで辺りには誰もいない。
ちょっとベンチがあるので腰掛ける。夜の冷たさを吸収した木のひんやりとした感触が、今は少し心地いい。
息が徐々に整ってくると共に疲れがどっと体に圧し掛かってくる。どれだけの時間走っていたのか定かではないが、ロードワークには長すぎる距離であることに違いない。
……明日からどうしようか。本当のことを知った彼に、私は会えない。どんな顔をして会えばいいのかわからない。
「こんなところに居たのか」
おっと噂をすればなんとやら、目の前に来てしまったではないか。心の準備も整っていないのに現れるなんて気の利かないヤツだな。
息遣いが荒いところを見ると彼も彼なりに心配して走ってきたのだろう。ちょうどいい、私も時間が欲しかったところだ。
呼吸が落ち着いてきたところで私の隣に腰を下ろす。彼の顔を見ないでいいので少し気持ちが楽かな。
「……クビになったんじゃないんだね」
あの記者に聞いたのかと訊ねたら「うん」と頷いた。これは観念するしかなさそうだ。
私は思いの丈を全て彼にぶつけた。変化球なんて小手先で逃げる術なんかいらない。全球ストレート勝負だ。
はっきり言って何を喋っているのか覚えていない。心なしか目の前が霞んで映っている。
その全ての言葉を彼は黙って聞いていた。私の気持ちを受け止めた上で、再び口を開いた。
「君はこんなところで野球をやっていてはダメだ。すぐにAAAに戻るべきだ」
至極真剣な表情で、私の顔を見ながら彼ははっきりと告げた。
私は逃げ出してきたのだ。期待を背負い、高みを目指し、同じ夢を持つ同志と凌ぎを削る世界から。
期待に応えられないばかりに応援してきた者から受ける罵声は、想像を超える痛みだ。何も知らない奴が簡単に口にしていい言葉ではない。
今更戻って何が出来ると言うのだ。一度逃げ出した者を快く受け入れてくれるはずがないし、夢を掴む資格を既に失っている。
仮にマウンドに上がることが出来ても結果が伴わなければ一緒だ。チームメイトから後ろ指を差され、ファンから侮蔑の視線を投げかけられる。これ程惨めなことはない。
結果はわかっている。私では抑えられないに決まっているのだ。これ以上私に何を求めようとしているのか。
それでも彼は動じない。ずっと私の眼を見つめながら「みんなの前で恥をかいてこいよ」と言い放った。
恥をかいてこい?なんてことを言い出すのだコイツは。キッと睨みつけるが怯む気配は全くない。
「逃げていたら恥が恥じゃなくなるわけじゃない。恥っていうのは自分自身を裏切っていることなんだ!」
何を甘いことを言っているのだ、現実から逃げるな。彼の気迫が篭った言葉が、心の奥深くにズドンと響いた。
『運がない』『女神に嫌われている』と理由をつけていたのは自分ではないのか。
期待に応えられず負けばかり積み重なった状態でナーバスになっていて、それを認めたくないから出てきた言い訳。
負けることや期待を裏切ることが怖くなって、そのことを恥と思うようになった。
だが恥から逃げていても恥が消える訳ではない。恥を雪ぐには自分自身の手で綺麗に流すしかないのだ。
「……」
二人の間に静寂の時が流れる。それも長くは続かない。
もう結論は自分の中で出ている。生憎だが彼に反論する材料はない。
「……わかったよ。プロペラ大会が終わったら、アメリカに戻る」
時間が経過しても恥は残る。今のまま日本に居ても恥が消える訳ではない。
ならばAAAに戻って恥を雪ぐしか方法はない。
どんなことを言われても甘んじて受ける所存だ。今までの私には覚悟が足りなかった。どんな逆境にあろうとも、必ずメジャーに這い上がってみせる。
それに……
「別に恥が怖い訳じゃないがお前に嫌われたくないからな」
口にして慌てて気付いた。幸い彼は聞いていなかったみたいで助かった。
無意識に私は何を呟いているのだ。顔から火が噴きそうなくらい恥ずかしかったではないか。
熱くなっていた頬が徐々に冷めていくにつれて、心の内にわだかまっていた気持ちも全部吐き出したおかげでスッキリした。
プロペラ団の力は借りず、自分の足でメジャーに上がってやる。餞に裏野球大会で活躍して、堂々とアメリカに戻ってやる。
決着がついてから、どちらからでもなく歩き出した。振り返ることはない。二人で並んで歩けば怖くないから。
帰り道の途中、馬鹿兄貴に遭遇した。
肩を並べて歩いている様子が世間一般で考えられる親密さを超えていたので咎めてきた
「なんだか仲良くなっていませんカ?」
訝しむ兄に声を揃えて「別に?」と切り返すと兄はさらに地団駄を踏んで怪しがった。
だってそうじゃない。クリスマスに一度キスした程度の関係ですもの。
約束通り裏野球大会の後に火星オクトパスを辞した。
ボスの垣内は引き留めようとするも、私の決意が固いと知ると温かく送り出してくれた。妹離れの出来ていない兄の方がしつこかったくらいだ。
アメリカに戻ってすぐにチームに顔を出した。これまでチームを離れていたこと、連絡を一切絶っていたこと、迷惑をかけ心配させたこと、その他諸々のことに対して誠心誠意謝った。
チームメイトの中からは「長い休暇だったな」なんてジョークも飛び出したが、誰も私を責める者はいなかった。
数日後には先発のマウンドに立たされた。スタンドからは心ない野次も飛んできたが今の私には何も入ってこない。
復帰後の第一球。女性投手だと舐めてかかる眼をしている打者の胸元目掛けて速球を投げ込むと、驚いて体を大きく引っ込めた。
そのまま強気に直球で押した。ビビった相手はまともにバットを振ることなく凡退していった。
消息を立って突然舞い戻ってきた私のピッチングを目にして、野次を飛ばすファンは皆黙り込んでしまった。明らかに別人のようなピッチングをしていることに驚きを隠せなかった。
体格に劣る日本人がメジャーで通用しているのだ。私だって工夫次第でどうにでもなる。
それに緊迫した場面ばかり任されて精神的に大きく成長して、度胸もついた。どんなに体格が良くても、バットコントロールが素晴らしくても、有り余るパワーが滲み出ていても、抑えられないという確証はない。
この試合は流れを掴んでAAA初勝利。そのまま勢いに乗って3連勝を記録。メジャー昇格の噂も出てきた。
彼もまた日本でプロ野球に戻ったらしい。互いにシーズンを戦っているのでオフにしか出逢えないが、心では常に繋がっている。日本とアメリカの距離なんか私達の間には関係ない。
女神様よ、彼に出逢えたことを心から感謝しています。
私は必ず自分の夢である女性初のメジャーリーガーになってみせます。それまで末永く見守っていて下さい。
fin.
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