私がメイドになった理由




 遠前町の商店街の一角に、レトロチックな喫茶店がある。
 レンガ造りの建物は内装も含めてアンティーク家具で統一されており、店内に流れるクラシックの音色も相まってムーディーな雰囲気が醸し出されていた。
 サンドウィッチやスパゲッティ、オムライスなど軽食も味わえるが、何と言っても一番の売りはマスターが淹れるコーヒー。
 マスター自らが厳選した珈琲豆を丁寧にドリップする一杯を求めて、多くの客が訪れる。時々行われる試作の味を無料で振る舞うイベントも好評を博している。
 そして、この喫茶店を訪れる客の大半の目的は――。
「お帰りなさいませ、ご主人様」
 お店の扉を開いて一番に出迎えてくれるのは、ツインカールの髪型をした美少女メイド。語尾にハートが付きそうな声と満面の笑みに心を鷲掴みにされた客も少なくない。
 一見するとレトロなお店の雰囲気をぶち壊しだと思うかも知れないが、意外な事に自然に溶け込んでいてメイド服の店員が居ても全く浮いていない。
 それは、インパクトが大きい服装と外見をしているものの接客はしっかりしている事に加えて、細部に至るまで作り込まれたメイド服にもあると思われる。
 本人は徹頭徹尾メイドになりきって接客しているからこそ、客の側もオタクな人も一般人も等しく快適に過ごす事が出来るのである。
「准君、これお願い」
「はい! マスター!」
 元気よく返事をするメイド。彼女の名は、夏目准。この喫茶店の看板娘であり、夢を追いかける二十歳の若者である。



[ 私がメイドになった理由 ]



 夢。“何かをしたい”“何かになりたい”という思い。
 思う事は簡単だ。自分の中で思うだけでいいのだから。問題は、それを実現させる為に行動する事だ。
 どうすれば夢は達成されるか。夢の実現に必要なプロセスは何か。夢という抽象的なものを現実のものとして見た時、その道へ進む事を断念する人は数知れず。
 険しい道だと分かって踏み出しても、神様は簡単に手に入れる事を拒むように次々と試練を与えてくる。
 報われるとは限らない中で延々と費やす努力。ゴールを目指して投資する時間とお金。目の前に立ちはだかる困難。情熱を燃やし続ける為に必要なモチベーション。躓き挫き折れる事にも負けない強靭な心。
 私はまだ関係ないけれど、年齢を重ねるに従って守るべきものや縛られるものが多くなり、夢を諦める人はかなり多い。
 それでも、夢に向かって頑張るのはどうしてか。
 答えは簡単だ。“やりたい・なりたいから”。
 なれると信じているなら歩みを止めるべきではない。自分に可能性が1%でも残されているなら、ゼロになるまで挑み続ける。

 私の夢は“自分の作った服を、自分の手で売りたい”。ファッションデザイナーでもパタンナーでもアパレル店員でもなく、全部ひっくるめてやりたいのだ。
 物心ついた頃から、ファッションに高い関心を持っていた。
 お出かけする時は自分なりのコーデをしたり、ラクガキ帳に自分なりの服のデザインを描いたり、子ども向け雑誌のファッションをチェックしたり。
 歳を重ねるにつれて服飾関係の本を読んで勉強したり、自分で布を買ってきて洋服を作ってみたりと、夢の実現に向けて着実に一歩ずつ前進した。デザインセンスも手先の器用さも持ち合わせている事も分かり、自信に繋がった。
 高校は普通科に進学。進路選択では服飾関係の専門学校ではなく経営学部のある大学を選んだ。技術は後からでも身に着くけど、自分のお店を出すならしっかりと経営のやり方を学んだ方が良いと判断したからだ。
 一年生の間に履修出来る科目は詰め込めるだけ詰め込んだ。おかげで卒業に必要な単位の大半を取り終える事が出来た。
 けれど……順調に夢へ向けて進んでいる一方で、将来に対する不安は、ある。
 もしも、私に才能が無かったら。もしも、お店を出せなかったら。もしも、私が作った服が売れなかったら。
 未来への展望は決して明るいものばかりではない。自信を持って進んでいる一方で、失敗した時の事がチラチラと過(よぎ)る。
 子どもの頃は純粋に“なれる”と信じているから成功した自分をイメージ出来たけれど、年齢が上がるに従って色々現実が見えてくると自分が“なれなかった”イメージもリアルに浮かんでくる。だから、夢は年を追う毎に諦める人が増えてくる。
 沢山考えた結果――この一年は休学する事にした。
 クヨクヨ悩んでいる中で進んでも良い結果は生まれない。ならばいっそ一年間休んで、本当に夢を実現出来るか自分と向き合おうと決めた。
 二年生で必修の科目は三年生になってからでも取れる。一年生で履修科目を取れるだけ取っていた事が、図らずも背中を押してくれる事となった。
 休学の手続きを済ませたものの、何をすればいいのか……。夢は諦めてないけれど、自分の進むべき道はまだ見えてない。
 そんな時だった。運命的な出会いが訪れたのは。

 ある日、気分転換にふらりと隣町へ出かけてみた。特に目的もなくブラブラと散策していると、一軒のお店に目が留まった。
 レトロチックな外観の建物。CAFEの文字があるから喫茶店のようだ。仄かなコーヒーの香りが鼻孔をくすぐる。
 こんな場所に喫茶店なんてあったっけ……? ふと目に留まったA型スタンド看板には、プレオープンの文字が。成る程、新しくオープンする予定のお店なのか。
 ちょっと歩き疲れていたし、休憩するにはちょうどいいかも。コーヒーでも飲もうと、私はドアハンドルを引いた。
「いらっしゃいませ」
 ドアチャイムの綺麗な音色が響くと、カウンターに居たマスターと思しき男性が声を掛けてきた。口髭が素敵な、ダンディーな小父様。声も渋め。このお店の雰囲気にピッタリだなと思った。
 マスターはコーヒーを淹れている最中で手が離せないみたいなので、空いている席に腰を下ろす。
 控えめな音量で流れるクラシック。統一感のあるアンティークな家具。店内はとても落ち着いた雰囲気で、とても居心地がいい。
 テーブルに置かれたメニューを手に取る。革で装丁されていて味のあるメニューを開くと、コーヒーの他にソフトドリンクや軽食メニューが幾つか書かれていて、昔懐かしい喫茶店のようなラインナップだ。
「お待たせして申し訳ありません。ご注文がお決まりになりましたらお呼びください」
 お水を持ってきたマスターが一言詫びるとサッと立ち去っていった。暫くメニューを眺め、これを頼もうと決めた。
「すみませーん」
 私が手を上げると、マスターが「少々お待ちください」と返事を返してきた。出来上がったコーヒーをお客様に持って行く直前だったみたいで、間の悪さにちょっと気まずい気分。別に急いでいる訳でもないので、初めて入った店内をじっくり観察しながらマスターが手の空くのを待つ。
 やがて、マスターが席にやってきた。
「お待たせしました。ご注文をお伺い致します」
「ブレンドコーヒーを一つお願いします」
「かしこまりました」
 一礼すると下がっていった。カウンターに戻る途中、会計しようと立ち上がる客を見つけてマスターはレジの方に向かう。
 キビキビと立ち回っているけれど、接客や調理、後片付けなどの全てを一人でやるのは大変そうだなと感じた。
 それから少しして持って来てくれたコーヒーは格別に美味しかった。ハンドドリップで丁寧に淹れられたのもあるけど、この雰囲気の良さも味を上げてくれているように思う。普段あまりコーヒーは飲まないけれど、この味は好き。
 存分にコーヒータイムを満喫してから会計にレジへ向かうと、壁に貼られた一枚の紙が目に入った。
『急募:ホールスタッフ 未経験大歓迎』
 何の変哲もないスタッフ募集の張り紙だったが、それを見た私は直感的に「この店で働きたい」という気持ちになった。
 どうしてかは分からない。お店の雰囲気はとても素敵だったのは確かだけど、コーヒーを飲んでいる時点でこの店で働きたいなと全く浮かばなかった。
 でも、迷いは一切無かった。自分がこの店で働いている鮮明なイメージが瞬時に浮かんできた事が決め手……だろうか。
「あの……すみません」
「はい、何でしょうか?」
 お金を払い、お釣りを貰った時に勇気を出して声を掛ける。
「私、このお店で働きたいのですが……」

 翌日午前9時。私はバイトの面接の為に昨日の喫茶店を訪れていた。
「わざわざこんな早い時間に来て頂き、ありがとうございます。……何分、一人でやっておりますので」
 マスターは恐縮そうにそう言うと、一枚の名刺を差し出してきた。名刺にはマスターの本名が記されており、“世納香太”さんというらしい。
 挨拶もそこそこに履歴書をマスターに渡す。昨日帰ってからすぐ書いたけれど、生まれて初めての履歴書は慣れないせいか何枚も書き損じてしまった。
 私の書いてきた履歴書をじっと読むマスター。どこか変な所が無いかと内心ヒヤヒヤである。
「……夏目さんはアルバイトが初めて、ということでよろしいでしょうか?」
「は、はい」
 高校生の時は服の勉強ばかりしていたし、去年は単位履修の為に授業をパンパンになるまで入れていたので、バイトをする時間が無かった。その為、今回が生まれて初めてのアルバイトとなる。
「夏目さんはどうしてウチで働きたいと思ったのですか?」
 マスターは手に持っていた履歴書を一旦机に置いて、私の目を見て問い掛けてきた。
 昨日の夜にネットで調べていた、面接の時によくある質問例の中にも同じような設問があった。勿論、雇用主を満足させる模範解答も掲載されていたが――。
「えーと……昨日このお店をたまたま見つけて、お店の雰囲気も素敵でコーヒーもとても美味しくて『ここで働いてみたい!』ってビビッと来たのと……」
 模範解答も見た。確かにテストで問題として出題されていたら百点満点を貰えるような完璧な文言が並んでいた。でも、それは私の中では違うと思った。人それぞれ千差万別違うのだから、自分なりの言葉で相手に伝えた方が良いと考えた。
 ただ、昨晩寝るまでずっと回答を考えたけれど、うまく私の思いがまとまらなかった。緊張もあって頭が回らない中、一生懸命に考えながら訥々と絞り出す。
「……私、夢があるんです。その為にお金を稼ぎたいのと社会経験を積みたいのです」
 私の言葉に、マスターは「ほう」と漏らした。
「失礼ながら、夏目さんの夢とは何でしょうか? もし答えたくないようでしたら無理に話されなくても構いませんよ」
「いえ、大丈夫です。……私、自分の作った服を、自分の手で売りたいんです」
 その後はたどたどしい口ぶりで、これまでの自分の努力ややってみたい事を話した。それをマスターはウンウンと静かに頷きながら聞いていた。
 話していく内に、緊張がほぐれていくのが自分でも伝わってきた。口が滑らかになるにつれて、話にも熱が帯びてくる。
 気が付けば、10分近くずっと話をしてしまった。ハッと我に返ると、恥ずかしさから顔がとても熱い。自分語りを延々と親しくない人にするなんて、私はなんて事を……。しかも、敬語もいつからか使ってなかった気が。
 これは間違いなく採用されない。穴があったら入りたい気分になっていた私に、思いがけない言葉が返ってきた。
「――素晴らしいじゃない」
 予想外の反応に反射的に顔を上げると、マスターはニコッと笑いながら続けた。
「自分の夢に向かって頑張ろうと思う姿勢、とても素敵だと思う。こんなに熱く語られると応援したくなっちゃうなぁ」
 手放しで褒められて、先程と違った意味で顔が熱い。自分の夢について他人に熱く語った事は一度も無く、しかもその相手に応援したくなると言われるなんて。
 火照った顔を冷やそうと手でパタパタと風を送っていると、マスターはキッチンから一杯の水を持って来てくれた。
「ありがとうございます……」
 心遣いに謝意を示すと、マスターは机の上に一枚の紙を差し出してきた。そこに書かれていたのは、今回の仕事の募集要項だった。
「仕事はホール……客席での仕事全般だね。接客、料理の提供、片付け、会計、掃除などなど。お盆の持ち方や接客用語などのやり方は教えるけど、お店の雰囲気に合わない限りは自分なりにアレンジを加えても構わないよ」
 マスターの説明にふむふむと頷く。アルバイト未経験の私に合わせて分かりやすいよう丁寧にかみ砕いて説明してくれるので、本当に助かる。
 なんだか、こういう紙を見せられると大人の仲間入りをしたような気分になる。子どもじゃなくて大人として見てくれているのだと思うと、ちょっと嬉しい。
「シフトは週二日から。休みがある場合はなるべく早く言ってね。それと、時給は慣れるまで900円、慣れてきたら1000円。……他に聞きたい事はありますか?」
「いえ、大丈夫です」
「分かりました。……さて、夏目君。いつから来れますか?」
 何の前置きもなくサラッと発せられたマスターの質問に、一瞬固まった。え? 来れますかって事は……?
「……それは、採用という事でよろしいのですか?」
「そうだね」
 一応確認してみると、今度もアッサリと答えてくれた。こんな簡単に採用って決まっていいの? と若干困惑しているが、何はともあれこのお店で働ける事になった。
「ありがとうございます!」
「おめでとう、夏目君と働ける事を嬉しく思うよ。それで、いつから働けるかな?」
「はい! 明日からでも大丈夫です!」
 今年一年は大学を休んで自分を見つめ直す事に決めたのだ。時間ならたっぷりとある。
 本当なら「今日から!」と言いたかったけれど、マスターの受け入れの問題もある。今日は一度帰って、この喜びを噛み締めよう。

 次の日。朝9時に来て欲しいとマスターから言われ、その5分前にお店へ来た。
 昨日は採用された喜びで舞い上がったけれど、今日の朝起きる頃には少しだけ緊張が湧いてきた。勤務初日に遅刻なんて失態を犯さないよう、常に時計をチェックしながら余裕を持って家を出た。
「おはようございます……」
 恐る恐るドアを開けると、カウンターに居たマスターと顔が合った。
「おはよう。今日からよろしくね」
 ニコッと微笑みかけられて、少しだけ緊張がほぐれたような気がした。
 それからマスターは仕事の手を止めると、色々な事を教えてくれた。まず出勤してきたら必ずバックヤードで手洗いを行うこと、荷物は棚の中に入れること等々。
「服装はあまり奇抜なものじゃなければ基本何でもOKだから。接客する時はこのエプロンを着けてね」
 手渡されたのは、黒のエプロン。マスターが着ている物と同じで、シンプルなデザインだけどこの店の雰囲気にマッチしている。
 その後は注文の取り方やお盆を使った食器類の運び方、レジの使い方、オーダーの通し方などを教えてくれた。特にお盆の使い方は大切で、載せる場所によってバランスが取り辛いのは意外だった。
「まぁ、今日が初日だから色々と分からない事もあると思うけど、出来るだけ私もフォローはするから。プレオープン期間というのもあるけど、お客様も新人さんだからと大目に見てくれる人が多いから、今の内に沢山失敗しておいた方がいいよ」
 そうこうしている間に、開店時間の10時まで5分程になった。
「じゃあ、そろそろオープンしようか」
 マスターに促され、ドアに掛けられているプレートをCLOSEからOPENに引っ繰り返す。
 いよいよ、私のバイト初日が始まる。
 オープンしてから数分、ドアチャイムの音色が店内に響いた。
「い、いらっしゃいませ」
 声を掛けながら、ドアの方を向く。そこに立っていたのは、私と似たような年頃と思われる緑髪のロングヘア―の女性。
 眠たげな目で私を一瞥すると、窓際の席にスタスタと歩いていく。何か怒らせるような事をしたのかな? と不安になっていると、マスターが後ろからソッと教えてくれた。
「大丈夫。あのお客様はいつもあんな感じだから」
 マスターの口振りから、どうやらあの女性のお客様は常連さんのようだ。
 とりあえず、お水を持って注文を伺いに行く。緊張と初対面の苦手意識が入り混じって若干委縮気味ではあったが、勇気を出して足を踏み出す。
 女性の座っている席まで何とか到着すると、マスターから教わった通りに水とメニューを置く。
「ご、ご注文はお決まりになりましたらお呼び下さい」
 すると女性はメニューを一切開かずノータイムで答えた。
「ブレンド、それとハムサンド」
「はい、かしこまりました……」
 メニューを受け取ると、ペコリと一礼してから女性の元を去る。
 必要最小限の事しか言わないから驚いたけど、言い方自体はそんなにキツイ感じではなかった。多分、言葉数が少ない人なんだなと自分の中で解釈した。
「マスター、ホット、ハムサンド、ワンです」
「はい」
 私のオーダーを聞いたマスターはチョイチョイと手招きしてきた。何だろうと思って近づくと、マスターは口の端の両方を指で持ち上げながらこう言った。
「夏目君、顔が強張ってる。スマイル、スマイル」
 マスターはそう言ってからニッと笑った。その笑顔に釣られて私も笑ってしまった。
 そうだ。マスターは『マニュアル通りにやれ』とは一言も言ってない。つい『教えてもらった通りにやらなきゃ』『失敗しないように』という気持ちが先行してしまって、出端を挫かれたから余計にその気持ちでいっぱいになったけど、それじゃいけない。
 教えられた通りにやるのも大切だけど、お客様に居心地が良いと思ってもらえるようにする方がもっと大切。私がガッチガチに緊張していたら、お客様も警戒してしまう。
 一つ、深呼吸をした。息を吐き終えると、少しだけ肩の力が抜けたように感じた。
「……はい!」
 満面の笑みで答えると、マスターはうんうんと頷いた。
 5分程すると、カウンターの中に居るマスターから声が掛かる。注文の品が出来上がったようだ。
 さっきまでと違い、しっかりとした足取りで窓際に座る女性の元へ歩む。女性は持ってきた本を読むのに夢中で、こちらの動きに気付いていない。
「お待たせしました! ブレンドコーヒーとハムサンドです」
 ニコニコと笑みを浮かべながら、声を掛ける。すると私の声に反応して、女性の顔が上がった。
 ソッと器と皿を女性の前に置く。その様をじっと見つめる女性。
「……ねぇ」
「はい、何でしょうか?」
 入店からずっと私に無関心な様子だった女性から、不意に話し掛けられた。笑みを崩さずに応じると、一旦読んでいた本を畳んでから訊ねてきた。
「……新人さん?」
「はい! 今日からバイトとして働くことになりました。色々と至らない点もあるかと思いますが、よろしくお願いします!」
 ハキハキと答えると「そう……」と呟いたきり、また本の世界に戻っていった。
 初めての接客を終えてカウンターへ戻ると、マスターが興味深げな顔で私の方を見ていた。
「……どうかされましたか?」
「夏目君、先程のお客様とは何を話されたのかな?」
「えっと、『新人さん』と聞かれたので『はい、色々至らない点もあると思いますがよろしくおねがいします』と……何か良くなかったでしょうか?」
 私の答えに、マスターは少し驚いたような表情を浮かべたけれど、直後にまた表情が変わった。
「いや……そうか」
 マスターの反応に小首を傾げる。別段変な事を言った訳でもないのに、どうしてそんなに嬉しそうな顔をしているのだろうか。
「夏目君」
「はい」
「君が来てくれて本当に良かった。ありがとう」
 不意に感謝の言葉を口にされ、やや困惑する。本当に普通のやりとりをしただけで、そんな事を言われる程の事はしていない。
 首を横に振っていると、ドアチャイムの音が店内に響いた。新しいお客様が来られたみたいだ。
「いらっしゃいませー」
 気持ちを切り替え、お客様に挨拶する。バイト初日はまだ始まったばかりだ。

 マスターの言った通り、このお店のお客様は優しい人ばかりだった。
 まだ仕事に不慣れでお客様を待たせるような事があっても、寛容な態度で許してくれた。その優しさに甘える事なく、早く一人前になろうと営業が終わってからも努力を積んだ。
 場数を重ねた事と練習を積んだおかげか、正式オープンを迎える頃にはお昼時の混雑でも足を引っ張らない程度の接客術を身に着ける事が出来た。
 働き続けて、分かった事もある。そして、気になる事もある。
 それは――奇しくも、私が初めて接客した、あの女性だ。
 基本的に朝一で来店されると、そのまま営業終了までずっと滞在される。座るのは決まって、一番陽当たりの良い窓際の席。
 大体は持参した本を読んでいる事が多い。時々、舟を漕いでいる事もあるけど。
 毎日のように顔を合わせる内に、言葉を交わす事も増えてきた。注文は「いつもの」になり、こちらから話し掛けると応じてくれるようになった。……とは言え、返ってくるのは「うん……」「そう……」くらいだが、それでも進歩していると思う。 
 注文はしっかりしてくれる。飲み物だけでなく飲食も。滞在時間が長い事もあるから、会計をする時には学生の私にはとても真似出来ない金額になる事もしばしば。それでもサラッと払って帰る。ほぼ毎日。
 歳は恐らく私と似たような感じ。でも、働いている気配は一切無い。でも、お金を気にする素振りは見せない。
 果たして、あの女性は一体何者なのだろうか?
 疑問は尽きないが、直接女性に聞く事は出来ない。私と女性はあくまで店員と客、プライベートな所にズカズカと土足で踏み入れる訳にはいかないのだ。
 毎日不思議に感じていながらも日々の業務に追われる日々が続いた、ある日の事だった。

 オープンから1ヶ月くらいが経とうとしたその日、私は閉店間際にマスターから買い出しを頼まれた。
 店内にはあの女性が一人だけ。マスターは「これくらいなら一人でも大丈夫」と言った事もあり、私はマスターにお店を任せて買い物に出掛けた。
 商店街は夕方のピークを過ぎるとポツポツとシャッターを閉めるお店も出てくるので、時間を気にしながら効率よく頼まれた物を買っていく。
 無事に頼まれていた物を全て買い終わり、お店に戻った頃には閉店時間を過ぎていた。お客様が居ないので表から入っても良かったが、裏口の方が近かったのでそちらから入る。
「ただいま戻りまし……ん?」
 ホールの方に、明かりが点いている。それは別におかしくないのだが、話し声が聞こえてくる。
 もうお客様は居ない筈なのに、誰なんだろうか。気になったので近くに寄ってみる。
「お嬢様……決心はつきましたか?」
「ううん、まだ……」
 この声は、マスター。誰かに対して“お嬢様”と呼んでいた事から、相手は女性か。
「……お父様は何か仰っていましたか?」
「いいえ、特には。しかし、いつまで経っても煮え切らない姿勢に旦那様は少々焦れておられるとか」
「そう……」
 二人だけの空間の筈なのに、声はかなり落として話している。まるで、他人に聞かれたくない話をしている時のように。
 恐らく、女性が口にした“お父様”とマスターが口にした“旦那様”は同一人物。そして、マスターより立場が上の人物。
(……もしかして、マスターは喫茶店の店主じゃなくて別の顔があるという事?)
 いつもニコニコと温厚な笑顔を浮かべているマスター。でも、今伝え聞こえてくるマスターは、いつもと違う人みたい。
 一体、二人の関係はどうなっているのか。
「……ごめん、世納。私のワガママに付き合ってくれて」
「とんでもないことです。私は常に維織お嬢様の味方ですから。……御心が固まるまで何時何時迄もお待ちしております」
 マスターは“お嬢様”と呼ぶ女性に対して、並々ならぬ思い入れを抱いている。端的に表すならば、忠誠心。
 あのマスターにそこまで言うなんて、どういう人物なんだろう。興味が勝り、気付かれないようにソッと覗き見る。
 神妙な面持ちで立つマスター、そして――常連客のあの女性!
 直後、女性と目が合う。瞬時に、買い物の袋を両手に掴んでから声を発した。
「――遅くなってすみません〜! ただいま戻りました〜!」
 少しだけ申し訳なさそうに、努めて大きな声で戻ってきた事を知らせる。
 女性はマスターと一言二言何かを交わすと、そのまま店から出て行った。やはり、誰かに聞かれたくなかった様子。
 直後、裏口の方にマスターが小走りに近付いてきた。
「ご苦労様。大変だったでしょう」
「本当にすみません〜」
 自らの不手際を詫びる私に、マスターは叱責するどころか労いの言葉を掛けてくれる。マスターは私がもっと早く帰ってきていたのを知らないみたい。
 ペコペコと頭を下げながら、先程までの会話が脳裏から離れず疑問は晴れなかった。

 家に帰るとすぐにパソコンを立ち上げ、インターネットに繋いだ。
 ただの喫茶店のマスターと常連客ではない。それは確信していた。それを明かす為に、インターネットの力を借りる事にしたのだ。
 幾つかのワードで検索をかけてみたが思っていた成果は得られなかったが、ふと思い出した物がキッカケで二人の関係の手掛かりを見つける事が出来た。
 バイトの採用面接の時に渡された、マスターの名刺。ダメ元でマスターの名前で検索したら、釣れた。
 NOZAKIグローバルシステム。
 IT業界で十数年の間に急成長を遂げた会社で、世界中に支社を保有する超大手企業。その企業の社長のプライベートを紹介する記事に、長年仕える執事として登場していた。
 マスターが“お嬢様”と呼んでいた女性の正体も、程なくして辿り着いた。
 野崎維織。
 現社長の娘であり、次期社長。顔写真も掲載されているが、表情に乏しいその顔は毎日のように訪れる女性そのものだった。
 さらにホームページを見ていたら、色々と分かってきた事がある。
 数年前の段階で維織と呼ばれる女性が次期社長となるのは決定事項だった。しかし、突如として社長就任の延期を発表。それまで低頻度で登場していた維織という名前は、延期発表を機にパッタリと出て来なくなった。
 インターネットとは、実に便利なものだ。使い方次第で知らない事が次から次へと分かるのだから。……ただ、色々分かってきてもまだ分からない事がある。
(……将来を約束された大企業の社長令嬢が、どうしてこんな田舎町に居るのだろう)
 維織と呼ばれた女性の経歴は、素人目から見ても華やかで輝かしいものだった。幾つも論文を発表しており、博士号も修得している。かなり成績が優秀だったらしく、2年で大学を卒業していた。
 しかし、大学卒業と同時に表舞台から姿を消してしまった。そして、遠前町で執事が営む喫茶店を頻繁に出入りしている。
 何か理由があるのは、明白だ。
 他人様のプライベートを詮索するのは野暮な事だと思うが、確かめなければならない。私はそう思った。

 翌日。毎日のように姿を現す維織という女性は珍しく、店に来なかった。いつもの定位置に別の人が座っているだけでなんとなく違和感を抱くまでに、この店の風景の一部になっていた。
 それ以外は特に何事も無く、閉店の時間を迎えた。
 閉店後は掃除や後片付けを終えれば上がっていいのだが……私は敢えてマスターに昨日の事を聞こうと思った。
 マスターは営業が終わると明日の仕込みや新メニューの試作をしたりするので、夜遅くまで店に残る事が多い。今日も新しく仕入れてきた珈琲豆の状態を確認するみたいだ。
「あの、マスター。一つお伺いしてもいいですか?」
「うん? 何かな?」
 一旦作業の手を止めて、私の方に向き直るマスター。本当に聞いていいか迷う部分もあったが、意を決して切り出した。
「昨日会っていた女性――野崎維織さんとは、どういうご関係なんですか?」
 その人の名前が出た瞬間、マスターは息を呑んだ。やや間があってから、マスターは一つ息を吐いた。
「そうか……遂に知ってしまいましたか」
 マスターはまるでイタズラに気付いてしまったかのような口振りで、短く漏らした。その表情は、とても柔らかかった。
 すると、マスターはそれまで見ていた珈琲豆を片付け始めた。怒るのかな……と一瞬警戒した私に、優しく問い掛けてきた。
「夏目君。何か飲みたい物はあるかな? この話をするとなると、少々長くなってしまうからね。時間は大丈夫かな?」
「はい、時間は大丈夫です。そうですね……ブレンドを頂けますか?」
「分かったよ。では、あの席で座って待っていてね」
 そう言ってマスターが手で差したのは、あの女性がいつも座っている窓際の席。「分かりました」と私が応えると、マスターはコーヒーを淹れ始めた。
 店内に、挽きたてのコーヒーの香ばしい香りが広がる。その匂いを感じながら、これからどういう話が聞けるかワクワクしている自分が居た。

「どうぞ」
「ありがとうございます」
 程なくして、コーヒーが差し出される。一口飲むけれど、やっぱり美味しい。
「さて……何から話そうかな」
 向かいに座ったマスターは自分用に淹れたコーヒーを啜りながら、考える。その所作も洗練されていて、美しい。
「私は元々野崎家に仕える執事だったけど、維織お嬢様が誕生されてからはお嬢様専属の付き人を任されてね……“目に入れても痛くない”という言葉があるけど、正にそうだと思ったよ。とにかく可愛くて、可愛くて」
 そう話すマスターの目尻が自然と下がる。
 付き人とは相撲や芸能人のように先輩や特定対象の雑用などを行う者ではなく、身の回りの世話をしてくれる人の事を差す。つまり、マスターは維織という女性を生まれた時から側で見ていた事になる。
「維織お嬢様は幼い頃から本当にお利口な方で、特にお勉強は同年代の子と比べても頭一つ抜け出ておられた」
「……その、維織さんという方は、昔からあんな感じの性格だったんですか?」
 私がおずおずと訊ねると、マスターはやや苦笑いを浮かべながら頷いた。
「まぁ、維織お嬢様は昔から手のかからないお子様ではあったかな。周囲の者が常に侍っているから何もしなくても不自由しないから全てお任せされていたし。感情を表にされないのは生来のものだろうけど。あんな感じだから上手に学校生活を送れるか心配していたけど、中学高校と良いお友達に恵まれて、こちらもホッとしたよ」
 やっぱりあんな感じだったか……と勝手に納得した私だったが、「でもね」とマスターは続ける。
「俗に“無機質”“感情が無い”というのは普通の生活を送る上ではあまり得をしないかも知れないが、それこそ維織お嬢様が素晴らしいと言われる所以とも言える」
「……そうなんですか?」
 マスターの発言に、懐疑的な受け止めをする私。
 だって、私が知る維織という女性はダメ人間の典型みたいな人そのもの。最初は言葉数は少なくて感情が読めないから不愛想で怖い人だと思ったのは序の口。着ている服はヨレヨレ、髪の毛は寝ぐせが付いている事も珍しくなく、同じ服で一週間連続で来店したなんて事もある。オシャレに興味が無くても一週間同じ服は流石にちょっと……。
 本を読むのも才能が居ると聞いた事はあるけど、一度本の世界に没頭したら周りの事が全く目に入らなくなる。持ってきたホットコーヒーがアイスコーヒーになるなんて日常茶飯事、サンドウィッチのパンやレタスがパサパサになってもお構いなし、スパゲッティは塊になっているのを齧って食べている姿も何度か見た。
 もしかして……朝から夜までずっと居座っているのって、『ここに居たら座っているだけで飲み物も食べ物も出てくるから』という理由で来ているのかな? なんか有り得そうで怖い……。
 こちらの考えている事はマスターにもお見通しみたいだったが、表情を引き締めてから告げた。
「世界を股に掛ける大企業のトップに立つ者は、常人に理解しがたい一面があった方が相応しい時もある。例えば――感情が欠落していると思われる程の冷静さとか」
 マスターがサラッと述べた事に、私は言葉を失った。感情が無いなんて、まるでロボットじゃないか。
 思わず反論しようとしたが、「でも、ね」とマスターが話し始める。
「……維織お嬢様は、最近変わろうとされておられる。それまでは大人達が敷いたレールを言われた通りに歩いてこられたが、先日初めて抵抗の意思を示された」
「それが……社長就任の延期に繋がった、と」
 私の指摘に、マスターは静かに頷いた。
「維織お嬢様が何をお考えか分からないが、ご自身が変わろうともがいているのは紛れもない事実。私はそれを影からお支えするのが仕事」
「つまり……マスターは付き人であり監視役でもある、と」
「そういう事だね」
 そこまで話すとマスターはコーヒーを啜った。カップを口から離すと、自然と溜め息が漏れる。
 やはり、ずっと側で見てきた事はある。微かな変化にも気付いている様子。会社と維織の板挟みになりながらも、自分の仕事を全うする心づもりなのだろう。
「……一つ、お訊ねします。マスターは、維織さんにどうなって欲しいのですか?」
「そうだなぁ……」
 私から質問すると、マスターはふと窓から空を眺める。漆黒の夜に、真ん丸の月が浮かんでいる。
 暫く月を眺めていたマスターは、ふぅと一息ついてから答えてくれた。
「……私は、維織お嬢様のご意思を最大限に尊重したい。周囲の者が定めた道を行かれるか、それを拒んで違う道に進まれるか。いずれにしても、私は受け入れお支えするつもりだ」
「では、マスターの目から見て、維織さんはどちらに傾いているとお考えですか?」
「……間違いないのは、維織お嬢様が変化を求めている事。これまでの人生、これからの人生を考えた上で、果たしてこの先ずっと人が決めた道を歩んでいく事に疑問を抱き、自分の力で独り立ちを試みておられる途中だと思う。例えるなら、ずっと籠の中で過ごしてきた鳥が籠の外へ飛び出そうとしている所か」
 平々凡々な生活を過ごしてきた私には、維織さんの気持ちを推し量る事は出来ない。でも、これだけは言える。何不自由なく暮らせる代わりに自分の人生は他人が全て決めるなんて、私には我慢出来ない。
 夢を追いかける事どころか、夢を抱く事すら許されないなんて、そんなのおかしい! 籠の中で一生を終えるより、大空を自由に飛ぶ方がずっと良い筈だ。
 マスターはカップに残っていたコーヒーを一気に飲み干すと、少しだけ迷った表情を浮かべて言った。
「それが果たして維織お嬢様にとって良い事なのか悪い事か、私には分かりません。ですが……多少遠回りをしても、お嬢様が納得のいく選択をして頂きたいのです」
 そう話すマスターの目は、愛に満ちていた。維織さんを取り巻く人々は一刻も早く結論を出す事――無駄な足掻きを諦め、敷かれたレールを歩いて欲しい――を望んでいるのだろうが、マスター一人だけは違う。心の底から、維織さんの事を思っているのだ。
 ならば……私に閃くものがあった。
 私がやってみたい事、自分の中で変化が生まれつつある維織さんへの後押しになる事。それは突拍子も無い事で刺激的な事だけど、上手くいけば何かが変わるかも知れない。
「マスター。私、ちょっとやってみたい事があるんですけど……」
「ほぅ? 何かな?」
 私の提案に、興味を示すマスター。今、瞬間的に思いついた事をダメ元で話してみたら、マスターはあまりに予想外な事だったのか腹を抱えて笑い出した。
「ハッハッハ……なるほど、そういう事か。確かに、それは面白い。……良いでしょう、いや、こちらから是非ともお願いしたい。もし必要な物があるなら遠慮なく申し出て下さい。経費としてお支払い致しましょう」
「――ありがとうございます!!」
 何も知らない人が聞いたら「アナタ何言ってるの?」と呆れられてもおかしくないのに、マスターは笑ってOKを出してくれた。それだけでなく金銭面でも支えてくれるなんて。この作戦で肝となる道具は安く上げようと思えば出来るけれど、どうしてもチープになるから予算の上限が決まってないのはとてもありがたい。
 一方で、マスターがGOサインを出したという事は、このご厚意に全力で応えなければならない。言い出しっぺが全力を出さないなんて失礼極まる行為は絶対にしてはいけない、と自分を戒めた。
「……それで、この話はどれくらいの期間で出来そうかな?」
「そうですね……2週間、いや10日で仕上げてみせます!」
 本当ならクオリティを上げる為にもっと時間が欲しいけど、そんな悠長な事は言ってられない。自分を追い込む意味でもギリギリな期限を伝え、マスターもそれを了解した。
 さて……これで後に引けなくなった。プレッシャーを感じると共に、それを上回るワクワクやドキドキが沸き上がってきて、絶対にやってやろうという気持ちになった。

 それからの10日間、昼間はバイトに励む一方、自宅では寝る間も惜しんで制作に没頭した。
 デザインを描き出し、必要な材料を買い揃え、材料を寸法通りに切り出し、ミシンで縫い合わせ。初めての作業で大変に思う事は多々あったけれど、徐々に形が出来上がっていくのは素直に嬉しかった。
 作業をしていて、改めて思った。『やっぱり、私の目指した道は間違っていなかった』と。
 何かを作るって、楽しい。誰かの喜ぶ顔を思い浮かべながら作業をすると、辛さも苦しさも少しだけ和らぐ。
 これをお披露目して、自分が想像していた結果が出るかは分からない。でも、分からないけれど成功すると信じて作業を続けた。

 そして――約束の10日後。何とか間に合わせた……。
 2日前には大方完成していたけれど、細部にまでこだわり前日の夜までギリギリの調整が続けた。私の中では、胸を張って自信作だと言い切れるレベルに仕上がったと思う。
 まずは出資者であり企画主のマスターに完成品を見てもらう。自信を持って送り出した身ではあるけれど……マスターの反応に内心ビクビクしている。
 失望されたら? 満足されなかったら? 否定されたら? 良くないイメージが脳内に次から次へと湧いてくるけど、どういう反応を見せてくれるのか。
 暫くじっと私の作ってきた物を眺めていたマスターだったが……ふっと私の方を向いて、一言。
「――良いじゃないか!」
 親指をグッと上げて、こちらに満面の笑みを浮かべるマスター。さらに続ける。
「思っていた以上に素晴らしい出来に、言葉も出なかったよ。ホント、こんな素敵な物をたった10日で作れるなんて凄いよ!」
「……あ、ありがとうございます」
 想像していた何倍も喜んでくれて、思わず照れてしまう。でも、やっぱり褒められると、こちらも嬉しくなる。一生懸命頑張ってきて良かったという気持ちになる。
 けれど、これはあくまで第一関門。勝負はこれからだ。
 私はマスターから絶賛された物を持って、バックヤードへ。色々と支度があるので、開店準備の大半は今日だけマスターに頼んで準備に入る。
 ある程度時間に余裕を持って準備をしたおかげか、開店時間の10分前には支度が整える事が出来た。
 胸がドキドキして、苦しい。こんな事を仕掛ける事自体が生まれて初めてで、緊張で心臓が口から飛び出しそうだ。
 ふと、マスターと目が合う。緊張とプレッシャーで青ざめている私に向かって、指で口の両端を持ち上げる。
(……そうですね。スマイルは大切ですね)
 バイト初日にも同じ事をして、緊張を解してくれた。思わず笑みがこぼれる。
 そうこうしていると、開店時間の10時になった。窓の外に、維織さんがこちらに向かって歩いて来るのが見えた。
 いよいよだ。遂に作戦決行の時が訪れた。
 私は意を決してドアの前に向かう。勝負は一瞬、怯んでいてはダメだ。思い切りやらないと!
 ドアチャイムが鳴り響く。維織さんが、店内に入ってくる。

「――お帰りなさいませ、お嬢様」

 開口一番に放たれた一言、そして私の恰好を目の当たりにして、目を大きく見開く維織さん。驚きのあまり、口をパクパクとさせている。何が起きているのか、全く理解できないという態だった。
 それはそうだ。普段は何の変哲もない女性店員さんが、今日は黒を基調としたフリフリのついたメイド服にツインカールの髪型をしていて、おまけにアニメ声とまではいかないけれど語尾にハートマークがあしらわれるような可愛らしい声で挨拶をしてきたのだから。誰だって面食らう筈だ。
「いつもの席でよろしかったですか?」
 畳み掛けるように訊ねると、維織さんは戸惑いながらも「……うん」と返してきた。
「それではお席までご案内致しますね〜」
 私の案内に、鳩が豆鉄砲を食らったような顔でついていく維織さん。その様子をキッチンから見守るマスターは、懸命に笑いを堪えていた。
 先日、私が提案した内容はこうだ。
『普段、あまり表情を変えない維織さんに、メイド服で出迎えたらどういう顔をするか試してみませんか?』
 マスターが以前執事をしていた事から発想が浮かんだ、メイドという突拍子もないアイディア。服を仕立てるのは私の好きな事であり得意分野だ。メイドに扮するのも、将来は店を持ちたいから接客が上手くなる為の練習と思えば割り切れる。
 そして何より……あの無表情の維織さんが驚く顔を、見てみたい。
 ダメ元で提案したら、意外にもマスターは乗り気だった。もしかしたらマスターも維織さんが表情を変える場面を見てみたいのかも。
 服を作る方に時間の大半を割いていたけど、髪型はネットで色々と調べてみる内に手間は掛かるけど華やかさがあるツインカールにする事を決めた。当日一番準備に時間が掛かったのは、この髪型かも知れない。でも、鏡に映る自分の姿を見て『これで良かった』と心から思えた。
 今のところは……サプライズは成功しているっぽい? 後ろを歩く維織さんはまだ目をパチパチとしているみたいだし。
 維織さんは席に座ると、早々に訊ねてきた。
「……ねぇ」
「はい、何でしょうか? お嬢様?」
 完全に役になり切っている私にも慣れたのか、怯む事なく重ねて問い掛ける。
「……マスターに何か弱味でも握られてるの?」
 その質問は流石に想定していなかった私は、思わず吹き出してしまった。確かに、いつもの店員さんがある日急にこんな格好をしていたら、脅されているのではないかと疑っても仕方ないか。
「いいえ〜、違いますよ〜」
「……それとも、それが素なの?」
「それも違います〜」
「……じゃあ、何の為にやってるの?」
 そう訊ねた維織さんは、じっと真剣な眼差しで私の方を見つめる。ごまかしやふざける事は許さない、といった目で。
(へぇ……そういう目も出来るんですね)
 いつも眠たげな目でぼんやりとしていたけれど、シャキッとしたら意外と素敵な顔をするじゃないですか。
 私はそれまでの営業スマイルを解いてから、端的に答えた。
「それは――“人間って、意外と簡単に変われるものですよ”という事を示したかったのです」
 私の言葉を聞いた瞬間、維織さんは再び目を瞠った。
「……誰から聞いたの?」
「先日、マスターから伺いました」
 私の答えに維織さんは小さく「世納め……」と呟いた。何か誤解しているみたいなので、それを正すように私は言葉を発する。
「言っておきますけど、この恰好はマスターから言われてやった訳ではないので。私が自分の意思でやった事です。因みに、マスターには予め了解は取ってありますから」
「……メイドになっていた事があるの?」
「無いです」
 この質問には即答した。維織さんは普通にメイドさんが居てもおかしくない生活をしていたので、本当にメイドをしていたと思い込んでいても不思議でない。
「なんとなく“この喫茶店の雰囲気にメイドが合う”と思って、自前で作ってみました。セリフはそれっぽい感じのものを調べて、そういう風にやってみただけです」
 世の中には“メイド服を着てお客様をおもてなしする”アミューズメント施設みたいな場所が幾つもあるので、それを意識して喋ってみた。一応、ネット上にはメイド(偽)の模範的な台詞がゴロゴロ転がっているので参考にしたけれど。
 最初は恥ずかしさや上手に出来るかドキドキしていたけれど、案外すんなりと演じる事が出来た。なりきっているのが逆にいいのかも。
「私は維織さんの事は何も知りません。でも、変わりたいという思いをずっと持って頑張ったら、きっと変われる――それを伝えたかったんです」
「…………」
 自分の想いが維織さんに伝わったかは、分からない。でも、やりきった感はある。
 突拍子もない提案に、嫌な顔一つせず許してくれたマスターには感謝しかない。アンティーク調の喫茶店にメイドが居たら完全に浮いてしまう。
「私、着替えてきますね」
 サプライズは一応成功したので、通常の服に着替えるべくバックヤードへ戻ろうとしたその瞬間――スカートの裾を引かれた。
 握っていたのは、維織さん。何かを縋るような目で、私を見つめていた。
「……その恰好、似合ってる。そのままで、いて」
 あの維織さんが、褒めてくれた……と思ったら、今とんでもない発言をしたような。
「あの〜……“そのまま”というのは?」
「これからも、その恰好で接客して」
 私が恐る恐る訊ねると、維織さんはとんでもない事をサラッと言ってのけた。
「ダ、ダメですよ! この恰好はマスターに1回だけって約束で――」
「私は別に構いませんよ」
「マスター!!」
 必死になって断ろうとしたら、思いがけない方向から矢が飛んできた。
「良くないですよ! 折角の雰囲気がぶち壊しですよ!?」
「まぁ、このお店に馴染んでいるし大丈夫じゃないかな」
 反論を試みるが、既にマスターの中では私のメイドは継続するプランが決まっているみたい。そして何より――真のオーナーの意向には逆らえない。
 進退窮まった事を悟った私は、一つ溜め息を漏らした。もう、これは覆せない。
「……分かりました。喜んでやらせて頂きます」
 渋々といった感じで答えたが、内心ではちょっとだけ嬉しく思っている自分が居た。短時間だけとは言え、普段とは全然違うキャラになりきるのは何だか面白かった。
 すると、維織さんは再び裾をクイクイと引っ張ってから、私にだけ聞こえる声量で話しかけてきた。
「……なんだか楽しそう。それと、そのキャラ、すごく良い」
 ボソッと呟く維織さん。……こう言われてしまったら、もう後に引けないじゃないか。
 こうして、一度きりのお披露目で終わる筈だった私のメイドは、暫く継続する事が決定した。この恰好とおもてなしに他のお客様も当初は面食らう人が続出したが、数日も経つと違う客層のお客様が増えて結果的には売上の向上に貢献する事に繋がった。
 私の方も、数をこなしていく内に恥ずかしさも徐々に消えていき、“メイド”モードの接客も悪くないと思えてきた。お客様の反応も考えていた以上に良かったのも、私の中で背中を押した。

 私のメイド姿がお客様に浸透していく内に、少しずつ変わった事がある。
 維織さんの呼び方が「店員さん」から「夏目ちゃん」、そして「准ちゃん」へ。
 私の方も維織さんと話す時、丁寧語や敬語ではなくフランクな感じで話すようになった。
 そして――“店員さん”と“お客さん”という関係を保ちながら、“友人”という関係に。
 お互いの距離感が縮まる中で、自然とプライベートな話もするようになった。ほとんどは私が話すのだけど、時々維織さんが自分の話をする事もあった。

 仕事に慣れていく内に、何度もお越しになるお客様の事を観察するようになった。このお客様はいつもカウンター希望、このお客様はいつも同じメニューを頼む、このお客様はフレッシュなし、みたいな。
 それは勿論、維織さんにも当てはまる。ほぼ毎日入り浸っているのだから他のお客様よりもっと深い所まで把握するようになった。
 座る場所は陽当たりが一番良い窓際の席。近くの本屋さんで買ってきた本を「持って帰るのめんどくさい」と言って、店の一角に置いていくようになった事。好き嫌いは無いみたいだけど、あの維織さんの事だから変な好き嫌いはありそうな気がする。
 そして――来店する時に着ている服が2パターンしかない事。
 Aの服を着たら次の日はBの服みたいな時もあれば、Aの服を一週間連続で着続けたり。大体カーディガンを羽織って、フワリとしたロングスカートのコーディネート。
 妙齢の女性がそれは流石にそれはマズイでしょ……と思った私が「試しに、私が服作りましょうか?」と提案すると、維織さんは驚きで目を丸くした。まるで「洋服って作れるの?」という感じで。……あの人の事だから本気でそう思っていても何ら不思議ではないな。
 維織さんに「どんな服がいいかリクエストはありますか?」と聞いたら、端的に一言。
「着るのが楽な服がいい」
 ほぼノータイムで返ってきた一言を聞いた時……あぁ、やっぱりなと思ってしまった。寧ろ、ずっと同じ服を着回さないだけでも凄いのではという気持ちになってきた。
 維織さんの身体のサイズを大まかに測り(……見た目スリムなのに意外と出るところは出ているのが内心悔しい)、次の日には維織さんに似合いそうなデッサンを描いたものを渡した。
 原案を目にした維織さんは目を真ん丸にして、しげしげと見つめていた。
「……凄い。准ちゃんが魔法使いに見える」
「そんな、大袈裟ですよ〜」
 またいつものようにオーバーな表現をしていると軽く受け流したが、維織さんの目は本気そのものだった。
 いつになく真剣な眼差しで私が持ってきたデッサンを見ていた維織さんは、ふと顔を上げると声を掛けてきた。
「……ねぇ、准ちゃん」
「はい、なんですか?」
「本気で、自分のブランドを持ってお店を持ちたい?」
 背筋をスッと伸ばし、真面目な表情で聞いてきた維織さん。
「そうですね〜、いつか叶えばいいなぁって思ってます」
「本当? その気持ちはどれくらい本気なの?」
 畳み掛けるように質してくる維織さん。その表情がいつもの維織さんと全然違うことに、今更ながら気付いた。
 今の維織さんは、自分のやりたい事が分からず彷徨っている維織さんではない。世界的大企業の次期社長候補の顔だ――。
 これは、生半可な答えでは許されない。自分の気持ちを、まっすぐ伝えなければ。
 スーッと息を吸い込み、静かに吐きだす。そして――いつもの営業スマイルをかなぐり捨て、真顔で答えた。
「――物心ついた頃から抱いている夢を、今でも叶えようと頑張っているんですよ。それで答えになりませんか?」
 夢があって、夢に向かって走っている。それ以外に何と言えばいいの? 下手に言葉を重ねたら逆に嘘っぽく聞こえてしまうので、端的にぶつけてみた。
 模範解答ではない事は分かっている。あとは、私のニュアンスが維織さんに届くかどうか。
 暫く私の目をじっと見つめていた維織さんだったが、やがてフッと息をつくと表情をやや緩めてから言った。
「……ううん。立派な答えだと思う」
 維織さんの言葉を聞いた瞬間、緊張の糸が切れた拍子に口の中に溜まっていた息が一気に吐き出された。
 まるで就活の面接を受けているみたい。維織さんも敏腕経営者みたいな顔で私のことを見てくるから、すっごい緊張した。
 それから維織さんはコーヒーを一口飲むと、また私の方に顔を向けて声を掛けてきた。
「……准ちゃん」
「はい、何ですか?」
「応援しているからね」
「……? はい」
 維織さんの言っている事が何を意味しているのか分からないけれど、とりあえず応じた。
 その後は私が持ってきたデザインについておしゃべりして、いつもと同じような一日でゆっくり時間が過ぎて行った。

 維織さんは頑張って自分で飛び立とうともがいているけれど、かなり苦戦しているみたい。
 ほぼ毎日ほぼ週七で来ている維織さんは、時々お店に来ない事がある。開店から1時間くらい経っても来ないと、その日はずっと来ないパターンが多い。多分実家に帰っているのだろうけど、その次の日は必ず浮かない顔をして入ってくる。
 他人様の家庭事情だから迂闊に何も言えないな〜……と内心モヤモヤしていたら、急展開を迎えた。
 4月に入ってから度々お店に来るようになったお客様……もとい、維織さんのヒモ。いや、餌付けされた野良犬といった方が正しいか。
 店長がやっている無料のコーヒー目当てでやってきたそのお客様は、明らかに金を持ってなさそうな雰囲気を漂わせていた。旅人みたいな風貌、若いのか老けているのか分からない顔、顔はそれなりのイケメンだけどそれを減点させる無精髭。……メッチャ怪しい。
 案の定、「店長の新作コーヒー」と言ってきたので、ちょっと圧をかけてやったらメッチャ慌てた顔で「ハムサンドをお願いします」と追加してきた。タダで飲んでそのまま帰るっていい歳した大人がやっちゃダメでしょ。
 そして――金が無いのか水だけで5時間も粘る始末。まさか本当に金を持ってなかったのか……と呆れると同時に、そんな客を入れてしまった事を反省。
 半殺しにしようか、警察に突き出そうか。内心で考えていると、思わぬ方向から声が掛かった。
「あのさ……払うわ」
 会計で呼ばれてレジに立つと、維織さんがボソッと提案してきた。あんな胡散臭い食い逃げ未遂の男のどこがいいのか分からないけれど、代金を貰えるならば文句はない。
 その後に維織さんが払った事を伝えると、心底からホッとした表情を浮かべて店を後にした。……帰った後にお店の前に塩を撒いたのは内緒。
 あんな目に遭ったのだからこれに懲りて二度と来ないだろう……と思っていたら、翌日にまた現れた。そして注文は「店長の新作コーヒー」。ブレないな、この人。
 それから「先日のお礼を言って来る」と言って維織さんの席へ。私も接客だったり提供だったりで二人が何を話しているかは知らないけれど、帰り際に「あの人にハムエッグとハムサンドを50人前……」ととんでもない注文を残していった。維織さんの会計も含めて8万円、しっかり払って帰っていった。
 何が気に入ったのか分からないけれど、後日維織さんはマスターに「あの人が来たら好きなだけコーヒーを飲めるようにして……」と頼んだらしい。勿論、お金も添えて。マスター曰く、「軽く一年は大丈夫」とのこと。これで、あのお客様はお客様になった。
 そのお客様は、各地を転々と旅をしているらしい。だからか、自分の事を“風来坊”と呼んでいた。今は河原にテントを張って、暫くは滞在すると言っていた。お金は持ってないのか、自分から注文する事は滅多にない。
 ただ……風来坊さんは意外と鋭い点もあった。まだ数回しか会ってない維織さんの事を「全てにめんどくさそうで、全てから目を背けようとしている感じがした」と評した。その一言を聞いてから、少しだけ考えを改めることにした。
 以降、風来坊さんは時間を見つけるとお店に来るようになった。維織さんに会いに。維織さんの方も風来坊さんが来るのを心待ちにしているみたいだった。
 すると、それまで一向に変わらなかった維織さんに変化が現れるようになった。風来坊さんと会っている時だけ言葉数が多くなったり、あのメンドクサイ星人の維織さんがさりげなく身嗜みを気にするようになったり、変わろうとしていたのだ。
 一番驚いたのは――私が風来坊さんと一緒に商店街で買い物をしていたら、それをたまたま見かけた維織さんが公園に呼び出してその時のことを糺してきたきたのだ。すぐに察した私が「デートですよ」と答えると、やっぱり維織さんはちょっと怒った表情を浮かべた(これも僅かな違いで、普段から接している人じゃないと気づかないレベル)。
 そして、畳み掛けるように私は告げた。
「嫉妬したかったら、さっさと自分の物にしたらどうですか? そうじゃないと私が風来坊さんをもらっちゃいますよ(ハート)」
 半分嘘、半分本気。私は親友である維織さんに宣戦布告した。
 最近の維織さんを見ていて、風来坊さんが気になっているのは薄々感じていた。でも、今までの事もあって踏み込めずにいた。ならば、少々荒っぽいけど崖の上から背中を突いてみる事にした。
 私がもらうというのも嘘ではない。維織さんが餌付けしているけれど、風来坊さんは誰のものでない。だから、私にだって権利はある。これで踏み出せないなら本気で奪うまで。
 そしたら――7月の中旬頃から、二人で一緒にお店へ来る事が多くなった。多分だけど、同居を始めたのだと思う。あの風来坊さんが自分から転がり込むような事はしない(と思う)から、恐らく維織さんから提案したのだろう。風来坊さんの事でウジウジしていた維織さんにしては、なかなか思い切った事をするなと思った。
 それからの維織さんは、見ていて明らかに変わり始めていた。いや、変わろうとしていた。あれだけ一歩を踏み出す事を恐れていた維織さんが、風来坊さんと接するようになって、自分から踏み出そうという意思を持ち始めたのだ。……ちょっと悔しいけれど、やっぱり風来坊さんは凄い人なのかも知れない。
 維織さんも実家の事で色々と悩んでいるのか、時折難しい顔を浮かべる事が多くなってきた。これまでの維織さんなら予測される面倒事を嫌って行動に移すことすら躊躇っていたのだけど、今は違う。厄介だと分かっていても、何とかしようと努力している。素晴らしい進歩だ。
 秋になると維織さんがお店に来る機会が減った。これまで週7日来ていたのが週6日になったくらいだけど、それだけ頻繁に実家へ帰っている裏返しだ。
 私は、敢えて何も聞かないことにした。これは維織さんの問題、親友であっても踏み越えてはいけない一線がある。辛そうな顔を見せているとつい「話を聞きましょうか?」と言いたくなるけど、我慢我慢。
 月日は流れ、クリスマス。開店直後に風来坊さんが一人でお店にやってきた。
「あれ? 維織さんは?」
 てっきりクリスマスも維織さんと二人で過ごすと思い込んでいた私が訊ねると、風来坊さんはサラッと答えた。
「帰った」
 どこへ、とは聞かない。言わなくても分かる。――維織さんは、あれだけ嫌がっていた実家に帰ったのだ。それも、自分の意思で。
 変わったのだ、維織さんは。誰かの意思ではなく、自分が考えて自分の生きる道を選んだのだ。自分を縛る鎖を付けた上で、自分の力で飛ぶ事を決めたのだ。
 それは間違いなく風来坊さんの影響があったからだ。どんな困難でも自分の力で飛ぼうとする風来坊さんの姿を見て、自分も変わろうと思ったのだ。……あのメンドクサイ星人の維織さんをそこまで変える風来坊さんは、やっぱり凄い。
 ありがとう、風来坊さん。私の友人を助けてくれて。
 そして……その風来坊さんも年が明けるとこの街から去っていった。本人曰く「一つの場所に長居しすぎました」とのこと。
 少しだけ寂しい気持ちもあったけど、二度と会えないとは思わなかった。だって、彼は“さすらいの風来坊”なのだから。

 正月三が日はお休みしたお店も、四日から営業再開となる。
 開店1時間前。いつもより少しだけ早くお店へ行くと、マスターはいつもと同じようにキッチンに立っていた。
「明けましておめでとうございます、マスター。今年もよろしくお願いします」
「明けましておめでとう。こちらこそ、よろしく頼むよ」
 新年最初ということで年始の挨拶をすると、マスターは微笑みながら挨拶を返してくれた。
 今日、早く来たのは新年最初だからという訳ではない。折り入ってマスターに聞きたい事があった。
「あの……マスター。一つ、聞いてもいいですか?」
「ん? 何かな?」
 仕込み作業を止めて、私の方に向き直るマスター。その姿勢は初めて会った時から何も変わらない。
 本心では、聞いていいか迷った。でも、これは私の将来にも関わる大事な事だと考え、勇気を出して聞こうと思った。
 気持ちを落ち着け……マスターの目を見て、私は訊ねた。
「――お店って、いつまで続けられるのですか?」
 従業員である私がお店の事について聞くのは出過ぎた真似だと思わなくもなかった。でも、どうしても聞かずにいられなかった。
 この喫茶店は、そもそも維織さんの為に作られたお店だ。マスターも元々は野崎家に仕える執事で、維織さんが実家に戻ったのだから野崎家に戻っても何ら不思議でない。
 お店を閉めるとなったら、私は受け入れるしかない。ここで看板メイドとして働いているのは本当に楽しかった。お客様にもよくしてもらったし、様々な個性のお客様と接客していたのは本当に貴重な時間だった。将来お店を開く時に必ず活きると思う。
 でも……一方で、もっと長く働きたいと思っている自分が居た。マスターの淹れるコーヒーを日々の日課に、私の笑顔に癒しを求めて、沢山の常連さんが出来た。その人達と、もっと一緒に居たい。ワガママだと分かっているけれど、そう思わずにいられなかった。
 果たして、マスターの答えは……。
 私の質問に一瞬きょとんとした顔を浮かべたマスターだったが、何事も無かったかのように答えてくれた。
「しばらくは、続けるよ」
「しばらくって……どれくらいですか?」
 流石に今日いきなり「お店を閉めます!」なんて言ったら、お客様にも迷惑が掛かってしまう。それはマスターの本意ではないだろう。だったら、どれくらいの期間? 1ヶ月? それとも2ヶ月?
 立て続けに質問しても、マスターは嫌な顔一つせずサラリと教えてくれた。
「――准君が辞める、というまでは」
 マスターの言葉に、思わず息を呑んだ。思ってもいなかった事に、何が何だか分からなかった。
 困惑する私を見たマスターは優しい笑みを浮かべ、ゆっくりと話してくれた。
「……維織お嬢様から頼まれたのです。『准ちゃんがこの店を辞めるまでは、ここでお店を続けてほしい』と」
 あの維織さんが、そんな事を言っていたなんて、全く知らなかった。そして、どうして私にそこまでしてくれるのかと疑問を抱いた。
 すると、マスターはゆったりとした口調で明かしてくれた。
「お嬢様は、心の底から准君の夢を応援しておられました。出来る事があったら何でも助けてあげたい、と。……それは、私も同じ気持ちです」
 その言葉を聞いて、私はある場面のことを思い出した。
 維織さんに服のデザインを見せた時。あの時、維織さんにしては珍しく真剣な感じで私の夢について訊ねてきた。
 あれは――私の気持ちを確かめていたのだ。本気で目指しているか、否か。
 多分、維織さんの中で気付いていたのだろう。今後、もし自分が居なくなった時のことを。自分が居なくなったせいで、私の夢が頓挫するのではないか、と。
 だから、マスターに後事を頼んだのだ。今後どのような道に進むか分からないけれど、全力で応援してほしい、と。
「ですから、准君は何も心配せずに夢を追いかけてください」
「……はい!」
 マスターの優しい言葉に、感情が溢れて返事が涙声になってしまった。視界も涙でぼやけ、マスターの姿が滲んでいる。
 嬉しくて涙を溢す私の背中を、マスターは優しくさすってくれた。その手は大きく、温かった。



 私の名前は、夏目准。
 遠前町の喫茶店で、メイドをやっています。
 メイドは仮初の姿だけど、出来るだけ長く続けさせていただきます。だから――私に会いに来てくださいね? ご主人様。



 了



 約1年ぶりのパワポケ二次創作小説作品となります。
 ……ホント、最近は年一ペースとなってますね。ホントはもう少しペース上げていきたいのですけど、如何せんネタが浮かばない限りは……といった感じです。

 8月後半に、ネット広告で流れていた『ランウェイで笑って』が気になり、試しに全巻レンタルして読破したところ、この作品のアイディアがビビッと来ました。……何がキッカケで創作の脳内回路が繋がるのか、未だに自分自身も理解していません。
  半分勢い・半分リハビリみたいな感じで書き進めていましたが、完成まで2ヶ月も掛かるなんて……色々と実験的な要素も入れていたりしますが、どうなんでしょうかねぇ?

 書いている途中で、この話を当初見込んでいた文量から短くまとめるか最後まで書き切るか迷いました(具体的には、維織が准に夢の本気度を確かめた辺り)。大体は「ここまで書く!」とゴールが決まっているので、珍しいことではあります。
 ただ、分岐点となる箇所に差し掛かると「これは最後まで書いた方がいいな」と思い、結局は当初の通りとなりました。書き終えて、これで良かったと納得しています。

 ここ数年は原作の枠を超えない程度のショートショートを書いていましたが、今回はかなりオリジナル要素を盛り込んだ作品に仕上がりました。
 同時進行で書いている一次創作の小説も従来よりオリジナル展開を入れてチャレンジした作品になっているので、その影響がモロに出ているものと思われます。……果たして、これが吉と出るか凶と出るか。

 この作品を読んで、少しでも「面白かった!」「楽しかった!」と思って頂けたら幸いです。

(2021.10.19. up.)

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