《荒野の孤狼と迷いアゲハ蝶》
まだ交通が発達しておらず、人々は馬車で街を行き来していた頃の時代。
この世界――大地の多くは岩に覆われており、人が住めるような土地には密集して街が形成されている。
街から離れると所々にオアシスが点在している程度で到底人が住めるような土地はなく、街から街へはかなりの距離がある。
その街と街を繋ぐ手段として幌馬車があった。幌馬車は街から街へと旅をしながら、遠くの街へと荷物を運んでいく。
だがその仕事は簡単なものではない。途中盗賊や夜盗の類が荷物目当てに襲ってくる可能性は低くはない。
人々は幌馬車に手紙・荷物の運搬を頼りにしていた。
国家は確かに機能している。しかし首都の賑わいと地方との格差は大きく、地方ほど治安は悪い。
数十年前に国家は元々古くから住み着いていた原住民と大きな戦争を起こし、多くの犠牲を払いながらその戦争に勝った。
原住民は住み慣れた土地を離れ、遠い新天地へと去っていったのだった……
「はぁ、はぁ……」
大きな鞄を抱えて逃げる一人の女性。それを追いかける数人の男達。
明らかに様子がおかしい。まるで小鹿を追いかけるハイエナの群れのように。
だが女性のほうは走りなれていないのか足元はふらふらとしている。
「待ちやがれ、このアマ!」
その手にしている物は少し長めのナイフで、盗賊や追剥などが用いている代物である。その瞳は既に殺気立っているため、人を殺すことに躊躇いはない。
女性も女性で精一杯逃げている。捕まった場合には何をされるかわからないし、地獄を見せられるかも知れない。
が、限界はすぐそこだった。
足がもつれると女性は草むらへと倒れこんでしまった。
生憎その場所は街から離れている郊外で、助けを呼んでも恐らく誰も駆けつけてくれないであろう。
女性は再び立ち上がろうとするが既に周りを囲まれていた。
「へへへ。お嬢さん、その鞄よこしてくんな。俺等って貧乏だから金ねぇんだよ。」
「頼むよー。な、それでお嬢さんも俺達も『はっぴぃ』なんだからよ。」
男達の要求に頑として首を縦に振らない。
当然である。こういう輩と約束したとしても信頼性は非常に低い上に、一回弱みを握られてしまうとさらなる災いを引き起こしてしまう危険性もある。
例え彼らが『はっぴぃ』になれたとしても自分が『はっぴぃ』になれないであろう。
暫く言葉を発せず俯いていた女性が遂に口を開けた。
「――嫌ですわ。彼方達なんかに屈する程、私(わたくし)の心は安くないのですわ!」
はっきり、そして透き通った声が辺りに響く。だがその声が逆に彼らの癪に障ったらしく、みるみるうちに顔面は紅潮していった。
「っんだと、もう一回言ってみろや。」
ドスの利いた低い声で脅すが、女性の瞳には恐怖や怯えの色は見えていない。むしろ反抗的な様子が全面的に表れていた。
それに相反して、彼女が睨み付けている視線の先の相手は瞬く間に怒りのボルテージが上がっていった。
ナイフを持っている手は小刻みに揺れ、肌は全体的に赤くなってきている。外見的な面から見ても彼らは興奮しているのが手に取るようにわかる。
どれだけ揺さぶっても屈しない彼女の心に痺れを切らしたようだ。
彼らは辺りを見回して人気がないことを確認すると、それぞれが獲物を狩る時の野獣のように徐々に彼女へと近付いていく。
仲間内での言葉もなく、ただ一歩一歩と獲物へと歩み寄っていく。
それに対して絶体絶命なのは女性のほうだった。
先程まで心の底からこみ上げてくる恐怖と戦いながら男達に対して強気な態度を見せていたが、このような事態に陥ると流石に打つ手がない。
周りを囲まれており、しかも武器は一切持っていない。助けを呼ぶにも荒原の真ん中で人気もない。走り疲れて体力も底をついた。
刻一刻と追い詰められ、ただただ死を待つのみである。
と、その時であった。
風切音が聞こえた直後、正面にいた若い男が一瞬のうちに倒れてしまったのだ。
その場に居合わせた全ての人が驚いたのは言うまでもない。
一同が一斉に振り返ると、そこにいたのは深めに帽子をかぶったやつれた男が立っていた。
だが武器になるような物は一切持っておらず、手にしているのは一本の釣竿のみである。
「なんだ?てめぇ。」
「……」
「俺達に歯向かってただで済むと思っているのか?」
「……」
ただ沈黙を守るだけである。だがその沈黙も重みがあり、威圧感を感じさせる。
喋りたくないだけか、それともわざと話さないのか。相手の真意を把握できない分思考回路を刻一刻と狂わせていく。
張り詰めた緊張感、追い詰められていく恐怖、未知数な実力の圧力。全てが彼らを悪い方向へと導いていった。
ついに痺れを切らして二人同時に襲い掛かっていったが、肉眼で捉えきれないくらいの速さにあった釣竿の餌食となってしまった。
一人は顔を、一人は腹を強打され、共に地面に伏せてしまった。
「すごい……」
そして一人取り残された女性はその強さに呆然とするしかなかった。
先程まで自分を極限にまで追い詰めていた輩は全て叩きのめされ、こうして心臓が動いていることすら奇跡に近かった。
その圧倒的な強さに惚れるとか『男は背中で語る』性格に恋をしたというわけではない。ただただ自分の身を救ってくれた恩人に尊敬の念を抱きそうになっていたのだ。
だが、そんな気持ちもあっさりと吹っ切れることになる。
男は彼女をちらりと横目で見た後、すぐにその場から立ち去って行くのであった。
(え?なんで?)
彼女には彼の行動がわからなかった。
自分を荒野のど真ん中に置いて何処かへ行こうという考えが理解できないし、一人前の男としてそのような行動をとって良いことだと思っていなかった。
だが、男は振り返りもせずに歩みを進めていく。
「――ちょっと待ちなさいよ!」
ついつい大声で怒鳴ってしまった。もしも躾役の大叔母が見ていたなら真っ先に注意されるであろう。
男は声を聞いて一度立ち止まって振り返ったが、何も喋ろうともしない。その顔には何故自分が呼ばれたのかよくわかっていないような表情であった。
そんな表情に彼女のボルテージはさらに上がっていく。
「あなたね、このようなか弱きレディを見捨てて何処へ行くおつもりですの!大体危険が迫っている女性を助けておいて声の一つもかけないなんてどういう神経をしているのですか!」
先程までとは一転して鬼気迫る勢いで男に詰め寄っていく。だが男の方は怒涛の攻勢を涼しげな顔で受け流す。
いや聞いているには変わりはない。ただ表情を変えることなく、返事がないだけなのだが。
女性は相手の背中に向かって熱く語り、時には前に廻りこんで面と向かって話すが一向に口を開こうとしない。
素っ気無い態度で接せられても、諦める気持ちはさらさらない。
「せめて名前だけでも名乗ったらいかがですの!」
「……名前を名乗るほどのことをした覚えはない。」
ついに男性は折れた。それまで頑なに口を動かさなかった彼なのだが、根気強く迫ってくる彼女に負けてしまったのだ。
だがこれで喜ぶほどの彼女ではなかった。是が非でも名前を聞くべく、さらに拍車をかける。
「あら、話せるではないですの。私を助けたのですから、それなりに胸を張れるような行動をしたと思いますが、いかが?」
「別に。困っている人を助けるのは極々当たり前なことだ。それくらいで誇りに思うなど、実に馬鹿馬鹿しい。」
「で、名前は?」
「答えん。」
「言いなさい。」
完全にペースを握られつつも名前だけは知られたくないらしく、答えようとする気配は見受けられない。
そんなやり取りを数十分ほど歩きながら続けていると、彼が乗ってきたと思しき馬車が目に入ってきた。
だが今の彼女にとってそんなものなど眼中にない。目の前にいる男の名前を聞き出そうと躍起になっていたので気がついてない。
馬車の周りには動物の気配はなく、ただ岩に手綱を結ばれた馬二頭と放している犬一匹がいるのみであった。
犬は待ちわびた主人の帰りに近寄ってきたが、男は犬の頭を撫でただけでそのまま馬車の方へ向かった。
男は幌馬車へ徐に乗り込むと、女性は何の違和感もなくその馬車に乗り込んでくる。
「なんの真似だ?」
不思議そうな顔をして訊ねると、女性は堂々とした態度で答えた。
「あなたの名前を聞くまでこの場所から動く気はありません。」
「……何処へ行くかもわからないで、俺の名前を聞くためにこの馬車から動かないと?」
「えぇ。」
男性は黙って立ち上がると、馬車の奥に置かれていた刀を手に取った。
そして鞘から銀色に光る刀身を外に出すと彼女の首元に無言で突きつけた。
殺そうと思えばいつでも殺せるほどの距離で刀は静止している。もし不穏な動きを見せれば瞬く間にその刃は彼女の首を切り捨てるだろう。
「……殺されても動かない、と言うか?」
一言も喋らず、閉ざされていた口は彼女によって開かれた。しかしその言葉の一つ一つに重みがあり、プレッシャーすら感じられる。
脅しに近い態度でも彼の顔には全く変わっていない。怖い表情ならまだしも普通の表情だから恐怖心をさらに煽り立てる。
だが彼女は真っ直ぐで綺麗な瞳で彼を黙って見ているだけである。
恐怖はある。だが、どんな脅しにも欲望にも屈しない汚れていない澄んだ瞳をしていた。
じっと息を潜め、ただ一点を見つめる。これほど説得力がある態度はないであろう。
彼はため息を一つついて、刀を鞘に収めた。
「……名前は?」
「は?」
逆質問され、つい呆気にとられた。が、すぐに意味を察したらしくその顔は笑顔が満ちてきた。
「私の名前はリース。マリア・リース。よろしく。」
「リースか……良い名だな。」
「ところで、あなたは?」
「……ジン。」
「ジン……」
リースの中になんとも言えない満足感が心に満ちてきた。
別にお礼をしたいとかいう問題で名前を聞きたかったのではない。ただなんとなく聞いてみたかったため、意地になって聞いていたのである。
時々運命的な出会いが発生した場合、理屈などと関係なく人間は本能的にそれを遂行すようと努力する。
これは意識的に行っているのか正直よくわからない。無意識に惹かれているのか、意識的に引き寄せられたのか知らない。
だが運命に導かれた出会いは決して神様は裏切ることなどない。筆者はそう思っている。
「お前さん、行く当てがないんだろ。」
「……」
リースは口を閉ざした。何か深い訳があるのか、下を向いて話そうとしない。
ジンはリースの外見や行動を見ただけでどのような身分の家なのか聞かなくても大体把握できた。
恐らく名家のお嬢様で、なにか嫌なことがあってカバン一つで家を飛び出してきて今日寝る場所すらないのであろう。
だからこそ金目当てな輩に狙われたのだろうが。
「お前さんの姿格好を見ればどんな身分なのかは見当がつく。なんで飛び出してきたんだ。」
「……」
ジンは馬車前方に座って手綱を持つと、それまで近辺を走っていた犬が馬車の中へ飛び込んできた。
そして二頭の馬も反応して前へと足を踏み出していく。それに連動して馬車も遅いスピードながら前へと動き始めた。
ゴトゴトと揺れる車内では重苦しい雰囲気が未だに漂っている。二人とも無言のまま馬車は静かにゆっくりと動いていた。
俯いたままのリースの心中は複雑であった。
このままこの馬車に乗り続けているとジンの迷惑になるかも知れないし、かと言って自分が今この馬車から降りたとしても何か出来るわけでもない。
さらに先程の出来事を思い浮かべると尚更その葛藤は深刻に思えてきた。
女手一人で生きていけるほど逞しくない自分がこのまま降りたとしても再び襲われる可能性も決して低くはない。
だが何処の馬の骨だか知らない連中の世話を受けたくないとも根強く思っている。
彼女の深刻かつ複雑な悩みは、彼女自身のモチベーションを低下させるのに小さくない問題であった。
「言いたくないなら話さなくても良い。誰だって人には……」
「いいえ、話しますわ。」
意外な返答に彼の唇が僅かに動いた。
リースは俯いていた顔をすーっと上げると、目の前にいるジンをじっと見つめた。
それは上流階級特有の人を見下すような視線ではなく対等の人と話をするように水平であった。
・ ・ ・ ・ ・
「……私はこの国で五指に入る富豪の娘でしたが血の繋がった関係ではありませぬ。
私の両親は小さい頃に流行り病で死んでしまい、路頭に迷っている所を大叔父様に拾っていただき家族の一員となりました。」
彼女が孤児だったとは想像も出来なかった。
召している物から雰囲気まで苦労知らずの温室育ちな輩だと見ていたが、そんな苦労があったとは思いもしなかった。
『大叔父様』と言っている辺りから相当彼女は養父を信頼していたのであろう。しかし『お父様』と呼んでいないので本当の父に愛着を持っていると推測した。
「大叔父様は血が繋がっていないにも関わらず、私のことを大変可愛がってくれました。
私が一度両親と死に別れているためか不自由な思いをさせたくないとお考えでの愛情なんでしょう、お義姉様たちより何倍も深い愛を私に授けてくれました。ですが……。」
気持ちの整理をつけるべく、大きく深呼吸をして再び話し始めた。
「……ですが、その大叔父様も昨月に身罷れてしまいました。それからの日々は苦労の連続でした。」
彼女に待っていた運命は嫉妬と憎しみから来た義母・義姉達からの報復であった。
血が繋がっておらず拾ってきた子であるのに図々しくも自分達の家にいること自体が彼女達には嫌でたまらなかったのであろう、父の死と共に一挙に噴出してしまったのだ。
父の葬儀に出席を許されず、死に顔も見ることができず、牢屋のような部屋に押し込められ、まるで家畜か奴隷のような扱いになってしまったのだ。
そんな境遇に陥っても尚彼女はその家から離れることはなかった。
何故か。これまで受けてきた大叔父様からの愛に報いるため、そしてこの家が好きだったからであった。
だが、そんな彼女にもついに家を飛び出さざるを得ないキッカケが出来てしまった。
独房のような場所に押し込められて一ヶ月ほどしたある日である。
月も出ていない真っ暗な夜に、一人の家政婦が駆け込んできたのだ。
リースはその家政婦をよく知っていた。大叔父様が健在の頃にはその家政婦が彼女に仕えており、リースが貧しい身の上だったことも知っている。
「どうしました?そんなに急いで。」
家政婦の息遣いは相当荒く、肩を大きく上下に動かしていた。
そして荒息混じりながら喉から搾り出すような声で語りかけてきた。
「……お嬢様、今夜の内に屋敷からお逃げください。」
その言葉を聞いた時点では家政婦が言っていることが理解できなかった。
藪から棒に『ここから逃げろ』と言われても見当もつかないし、帰る家もないので逃げるあても存在しない。
さらに家政婦は言葉を続けた。
「あなた様が卑しい身分の出なために、それを快く思っていない方がこの屋敷の中には大勢おいでになります。
このまま生かしておきますと財産分与にまで影響を及ぼしかねないとお考えになり、明日の食事に毒を盛ろうとする魂胆でございます。
もしもお食べにならなかった場合には秘密裏に葬り去ることも計画なされていると聞き及び、あなた様の身を案じて私はお伝えに参ったのです。」
家政婦の口から出てくる言葉は俄かには信じがたい話であったが、恐らく事実なのだろうとリースは察した。
そのような噂は前々から聞いており、自分が寵愛を受けたことに恨みを抱いていたこともわかっている。
しかし、そのような行動に移すとまでは考えてもいなかった。
彼女は決心した。
「……あなたには長い間お世話になりました。この御恩、命尽きるまで忘れません。」
深々と頭を下げると、瞳から涙が溢れ出してきた。
恐らくリースが逃げた責任を負って、この家政婦は数日のうちに命を落とすであろう。だがそれでも悔いはないような表情をしていた。
そんな心中を察すると、どうして涙を流さないわけがないだろうか。
しかしゆっくりと互いに今生の別れを惜しむ間もなかった。
家政婦は服の内から密かに持ち出した牢屋の鍵を取り出して、彼女を閉じ込めていた呪縛を解き放った。
そして傍らに置いてあった彼女の体と少々不釣合いな旅行用カバンをリースに手渡した。
「この中には金庫に入っていた今は亡きご主人様の財産のほんの一部が入っております。なにか困ったことがあった場合にはこれを使ってくださいまし。」
いざそのカバンの持ち手を手にとってみると、その重さは見た目以上に重かった。
時間がないにも関わらずこれ程の量をかき集めてきたのは凄いことである。
この厚意に泣けないはずがなかった。先程から止め処なく溢れ出てきている涙がさらに量を増して筋を作って頬を伝っていく。
体の中の水分が全て目に集中して体の外に放出しているようであった。そして家政婦に対しての今生の別れを惜しむことと格別な配慮に対しての感動で体の芯から悲しみが込み上げてきた。
だが、このまま留まるわけにもいかない。陽が昇る前に館から脱出しなければならなかった。
家政婦は懐から鍵の束を取り出して、震える手で牢屋の南京錠を外した。
牢屋から出てきたリースは家政婦に対して一礼した後に、裏口へ目指して走っていった。
二人の意思は互いに通じ合っていた。家政婦は込み上げてくる嗚咽を唇を噛んで堪えるが、顔はくしゃくしゃなままで彼女の後姿を見送った。
その夜リースは一人住み慣れた屋敷から脱出した。新しい未来を求めて……――
・ ・ ・ ・ ・
リースが全てを語り終えた後、非常に重い空気が馬車内を覆った。
自分の悲しい生い立ちを嘆いているわけでもなく、同情されたいために話したわけでもない。だが、やはり重苦しい雰囲気は残ってしまった。
彼女はただただ静かに俯いていた。乗り込んできた頃の勢いは今の彼女にはなかった。
それから数分すると、遂に居た堪れなくなったジンは突然重い口を開いた。
「……目的地まで送ってやる。それまではお前の勝手にしろ。」
言い終わると顔を外に向けた。恐らく照れているのであろう。
そんな荒削りな優しさにリースは心を打たれ、一度止まったはずの涙が再び溢れてきた。
二人を乗せた馬車は町からどんどん離れていき、次第には見えなくなってしまった。
その夜一行は、荒野のど真ん中で野宿することになった。
町と町の間隔は100キロ以上離れていることが多く、一日や二日で到着できるはずがない。
ジンは速さを売りにしているわけではないのでのんびりとしているのだが、速い人ではこの距離をわずか3日で走る。馬を何匹も潰してしまうなどという事は当たり前になってしまうが。
顧客はその緊急性に応じて荷物を託す馬車を決めている。価格も一律で速ければ速いほど、加えて距離が長くなるほど高くなる。
さらに荷物や現金を狙った夜盗の類が出没することも少なくない。そのため、それぞれが武装して夜盗軍団に対抗する必要性があった。
夜盗だけでなく、治安が不安定なのを良いことに最近では原住民が中心となった反政府レジスタンスが頻繁に活動している。
彼らは数十年前に突如訪れた開拓民に先祖代々受け継がれてきた土地や仲間達の命を奪われ、山奥深くに住み着いている。
そのため未だに恨みを持っている者も数多く、住み着いた連中を追い出そうと積極的抗戦を行っている。
最もターゲットになりやすいのは少人数で行動する行商人や運送業者であった。
なぜなら彼らは数の原理で一挙に攻めかかりそのまま金品などを強奪することにより、政府活動を停滞させると共に自分達の生活を成り立たせることができる。正に一石二鳥であった。
「……妙なヤツだ。」
リースがすやすやと眠る傍らで、焚き火をくべながらジンはその寝顔を眺めていた。
昼の一件で余程疲れていたのかリースは簡単な夕食を食べ終わるとあっという間に眠りについてしまった。
彼女の幸せそうな顔を見ているのはジンだけではない。愛犬であるルーも同じであった。
人見知りなルーもリースのことが気に入ったらしく、馬車の中でもしばしば彼女のそばを行ったり来たりしていた。
そんなルーもそろそろ眠たくなってきたのか、しきりとご主人の膝元に擦り寄ってくる。ジンはルーの頭を優しく撫でるが不思議と今夜は眠気が襲ってこない。
が、彼自身焚き火のそばでうたた寝を楽しむ余裕などなかった。
「……さて、邪魔者を蹴散らしますか。」
ルーが寝静まったのを確認するとそれまで自分の傍にあった刀の鞘から白刃を抜き出した。
周りには荒野に潜んでいる狼の群れに囲まれていたのだ。
この荒原には狼やコンドルなどの肉食動物、獰猛なバッファローなど多数の野生生物が存在している。その中でも一番危険な存在なのが狼である。
狼はほとんど群れで行動している上に知能も高い。一致団結して獲物に襲い掛かるので少人数で迎え撃つには圧倒的不利なのだ。
だが最も危険なのは群れから離れた一匹狼で、ともすれば群れで襲ってくる狼よりも強いことがあるかもしれない。
ジンは焚き火が作り出している明かりの範囲内で狼の数を数えた。
幸い今夜は満遍なく散りばめられた星空が雲に覆われることもなく、月もまん丸とした姿を現している。そのため普段より周りが明るい。
こんな明るい夜に襲ってくるのは大概動物であって、荷物を狙う夜盗は新月の日や曇りの日が多い。
ざっと見たところ、数は十に満たない小グループだと見た。
そうなると話は早い。飛び掛ってきた所を一匹ずつ倒していけば片がつく。
「母なる大空よ、そして父なる大地よ。我に力を与えんと欲す……。」
低い呻き音と共に飛び掛ってくる狼に対して、目にも留まらぬ剣捌きで次々と倒していく。
狼達も無防備な獲物を前にして攻撃の手を緩めることなく襲っていくが、それでも彼の剣が留まることはなかった。
そしてグループのまとめ役と思しき狼が一匹になると、恐れをなしたのかすごすごと退散していった。
一方勝ち残ったジンの足元には先程の狼の物と思しき牙が多数散乱していた。
無闇に殺生を行わずに牙片方だけ目標にして狼の群れを撃退したのであった。野生動物の回復スピードは人間の数倍以上なため、それを考慮した上での行動だったのだろう。
落ちている牙を拾い集め、馬車の中にしまうと彼は布団を取り出してきた。
寝冷えを防ぐため一枚をリースに、もう一方のボロい布団は自分と犬に被せて火当たりの良い場所でその日は眠りについた。
夜も更けており、ジンは真上に広がる星空を目に焼き付けながら静かに瞼を閉じたのであった。
翌朝。辺り一面は真っ白な霧に覆われていた。
数メートル先もはっきりと見えない視界の中で、彼女は目を覚ました。
昨晩はいつの間にか眠りの世界へ導かれたのかわからず今朝まで熟睡していたが、こ汚いながら分厚い毛布が掛けられていた。
「あ、私家を出たのでした……。」
普段の情景と違うことを感じつつも、寝ぼけ眼で先程から傍らで動いている何かを見た。
ルーだった。
手をペロペロと小さな舌で舐めているのがくすぐったくて、ついついこれで起きてしまったのである。
どうやら新しく加わった家族の一員が気に入ったらしく、早く遊んでほしいと尻尾を振って待っていたのであった。
とりあえず馬車の中に入って一緒に遊ぼうと考えてひとまず馬車の中へ入っていった。
昨晩はよく見てなかったが、中はすっきりとした雰囲気できちんと整理整頓がされていた。
手紙は手紙、小荷物は小荷物と分類されて荷物が置かれており、公私の区別もしっかりなされていた。
そんな中でふと気になるものが目に飛び込んできた。
周りの物と比べて明らかに古く、そして大切に扱っているように思える代物であった。
なにかの木像らしく、黒く変色はしているが台座の前には水が入った小さな器と何かの葉っぱを飾った平たい皿が置かれていた。
彼女は不思議に思いつつも、せかしてくるルーのために適当な棒を探し当てるとそのまま外へと出て行った。
朝食を食べ終わると、そのまま一行は目的地へと向けて出発した。
移動中は何をするでもなく彼女は本を読んだり、ルーと戯れていたりして暇をもてあそんだ。一方彼は前方や周囲に危険が潜んでいないか確かめながら馬車を進ませていた。
時折鞭を入れて馬の歩みを早くさせたりするが基本的にはゆっくりとした行程で進んでいく。
暫くすると前方に小さな掘っ立て小屋が見えてきた。
「ねぇ、あれは何かしら?」
彼女は見慣れない小屋に興味がわいたらしく、ジンに聞いてみた。
「あぁ、あれは旅する者が休憩できるように作られた小屋だ。水も湧いているし、馬の餌もある。」
荒野には水が自然に湧いている場所はほとんどなく、旅をする者は下手すれば数日水のない状態に陥ることもある。
そのためにこのようなオアシスに立ち寄って水や馬の餌の確保、それに休憩を挟んで再び旅を続けるのだ。
ちなみに餌などは常に置かれてあり、それにかかる経費は全て国が負担している。そうでもないと命を賭けてまで荷物を運ぶなどという商売が成り立たないのだ。
馬車をその小屋近くに止めると、ジンは馬の餌を取りに小屋の中へ入っていった。自己防衛のために刀を携えて。
入ってみると先客がいたらしく中では数人が作業をしているのが見えた。
彼らの邪魔にならないように離れた場所の秣を取り出していると、相手はしきりに此方の様子を伺い始めた。
見るからに怪しい。そう思い早々と小屋の中から出て行こうとしたその時であった。
「待て、そこの男。」
突如相手の中の一人から呼び止められた。
特に思い当たる節はないながらも、声がした方向を向こうとした。
が、それは一瞬のうちに出来なくなった。
首元に刃渡り1メートルに近いであろう刃物を突きつけられ、身動きがとれない状態に陥ってしまった。
完全に油断してしまった。そう思った時には後の祭りである。
声の主は不気味に足音を隠しながら近づいてくると、そのまま顎を相手の手が掴んで顔をまじまじと見つめてきた。
「――その顔、どこかで見覚えがあると思えば我が衆から抜け出した裏切り者ではないか。」
男の顔は未だに固まったままである。
そんな様子に横からにやけた顔をした別の男が語りかけてきた。
「あんた『ティファン』だろ?かつて“神”とまで呼ばれたあんたとこんな所で会えるとは思いもしなかったぜ。会いたかっ――」
最後まで言い終わる前に拳が飛んだ。それも一瞬の出来事である。
殴られた相手が殴られた衝撃で小屋の外にまで弾き出されるほどの威力は相当苛立っていたのであることが見てわかる。
その拳を他の仲間は止めることも、目に留めることも出来なかった。
先程のリーダー格な男はその光景を見て怒りもせずに穏やかな口調でジンに語りかけてきた。
「若い者が失礼な振る舞いをした……だが、流石は貴方だ。その実力は衰えてはいない。賞賛に値するよ。」
すると彼は手をかざして剣を収めさせると、そのまま他の連中は殴られた仲間の手当てに外へ出た。
そして二人きりになった状態で再び話を始めた。
「……これがお前達の行動か?」
近くには油が入った容器と火打石が置かれていた。さらに乾燥した藁も束になって積まれていた。
「えぇ。このような拠点を叩くことによって物流は混乱しますので。侵略者達はこのような手に至極弱いので。」
「……。」
「……もう一度戻ってきて下さい。今も貴方の力が必要なのです。貴方の力添えさえあれば今巣食っている連中を一掃できるでしょう。」
相手は耳元で囁くように語り掛けているが、ジンの唇は未だに閉じたままである。
だがその表情には強い不快感と怒りが滲み出ていた。
そして体から溢れんばかりにオーラを放出しながら相手の目を睨み、遂に言葉を発した。
「断る。」
短い言葉を吐き捨てて、辺りにあった大量の秣を抱えて外へと向かった。
一人取り残された相手は小刻みに震えながら込み上げてくる感動を抑えていた。
鬼気迫る勢いに恐れをなしたのではなく、その恐怖心が逆にジンの姿を大きな存在と捉えたのかも知れない。口元には微かな笑みを浮かべていた。
一方リースはというと、中で何が起きているのか知らずに馬車の周りでルーと遊んでいた。
ただ待っているのも暇なこともありそこら辺に落ちている石ころをルーに拾わせに行ったりして退屈を紛らわせている。
どうやらこれまでに動物と触れ合った機会がなかったらしく、とても楽しそうな顔をして遊んでいた。
すると小屋の中から数人の男が出てきた。
それぞれ自分が召している服とは違い、別の民族が着ているような服をしていた。異民族のようである。
彼女が知っている情報では『異民族は、性格が凶暴でまるで人間の悪の塊が凝縮された人』と教え込まれていた。
なのでその姿を目にした瞬間から身震いがする思いになった。
と、相手が此方の気配に気付いた。
それを察知した途端に彼らは此方へ向かって走ってきた。その様子は非常に殺気をおびていた。
自分も逃げようと駆け出したが、昨日の疲れがまだ残っているのか上手く足が前に出て行かない。
そして最終的には相手に追いつかれてしまい、昨日と同じように周りを囲まれてしまった。
「*****,****?」
「******.*****************,***************!」
彼女には彼らが話している言葉がよくわからなかった。彼女が話している言葉と異民族の言語は全く別物で、文化も全く違うからだ。
だが顔面が腫れている男の表情から察するに、恐らく自分を捕まえたことに喜んでいるようであった。
そこから先は簡単に推測できる。彼らは見せしめのために彼女を殺す、若しくはそれに近い態度をとる。
どちらになったとしても、兎にも角にも彼女が犠牲になることには変わりはない。
一緒にいるルーは彼女を守ろうと必死に吠えるが、彼らには全く通じていない。
キャンキャンと吠える声が虚しく辺りをこだましていた。彼女は自らの命がここまでかと愕然とする思いであった。
と、その時であった。
何者かが疾風のように現れて、あっという間に顔面を殴られた痕のある男が倒れてしまった。
「**!」
近くにいた男が駆け寄るが、その男の意識は既になかった。
前に立ちふさがった男のその後ろ姿に彼女は見覚えがあった。
――ジンである。
「ジン!一体どこにお行きなされていたの!心配してよ!」
「相すまぬ。少々時間がかかってしまった。」
剣を片手に構えひたすらリースを庇う体勢のままじりじりと後退していく。
だが数的に言えば圧倒的劣勢に立たされていた。どこからか現れた応援が2人、3人と増えていった。
しかし幸いにも退路は保っていた。さらに岩と小屋に挟まれている場所にあるために一度に多くの人数で仕掛けてくることはできない。
「……逃げろ。」
聞こえるか聞こえないかの大きさで呟いた声は、彼女の耳にしっかり届いていた。
戸惑っている様子だったが、ジンは目配せをして合図を送った。『早く行け』と。
それを見てようやく決心がついたのか、馬車の方向へ駆け出していった。
反対に駆け出したジンは敵のど真ん中へと突っ込んでいく。それを迎撃するために剣を構えるも、ジンが繰り出す剣の速さについていける人は誰一人としていなかった。
力こそないが技術や速さがある。彼の剣には殺傷能力こそないが剣一本で生きていけるほどの実力を備えていた。
みるみる内にその場に居合わせた連中をなぎ倒すと、小屋の中から先程のリーダーと思われる人物がのっそりと出てきた。
「ティファン、これが最後の願いだ。戻ってきてくれ。さもなくば私は君を斬らなくてはならなくなる。」
彼は非常に柔らかな表情で語りかけてきた。
だがジンの心は既に決まっている。彼の切っ先は間違いなく相手の方向を向いており、剣を収める気配は全く見られない。
全てが行動に出ていることにショックを受けながらも、口元には笑みを浮かべながら静かに剣を抜いた。
「……残念だ。この手で君を天に送ることが実に残念だ。」
下っ端連中とは違って隙は全くと言って良いほど見られない。形も綺麗でまるで舞武を見ているようであった。
それに対してジンもまたこれまで片手持ちだった刀を両手でしっかりと握り締め、ゆらりゆらりと相手の様子を伺っていた。
太陽は容赦なくじりじりと照りつけ、二人から流れる汗は体を伝って地面に落ちる。
地面に落ちた汗は太陽によって煎られた砂の熱さによって直ぐさま蒸発してしまう。
辺りには真昼にも関わらず静寂が訪れ、二人の間にある緊迫した空気は刻一刻と動きがあるのを待ちわびていた。
そして次の瞬間、場面は一気に終幕へと動き始める。
相手が打って出てきたのである。それもただ動いたのではなく、相手の攻撃を誘うためにわざと仕掛けてきたのであった。
それを知ってか知らずかジンの方もそれに反応して動きを繰り出してくる。
そこが相手の狙いだった。待ちの体勢から攻撃に移るまでの間に若干ながらの隙が生じ、それを狙っていた。
正に形通りの展開になった。ほんの少しながら攻撃に隙が生じてしまった。
(勝った。)
そう直感した瞬間であった。
第一撃を繰り出した後、間髪入れずに第二撃を繰り出してきたのだ。
『勝てる』という慢心から来る反応の鈍りは、この時正に命取りとなった。第一撃こそ防いだものの、次の一撃に対処することができなかった。
全てはほんの僅かな間に勝敗が決したのであった。
「……ねぇ、ジン。あなた一体何者なの?」
彼女は馬車に戻ってきたジンへ開口一番に聞いてみた。
その実力は昨日の一件と今日の出来事でわかる通り、凄腕なことには間違いない。
しかしそれには何か裏がある、と彼女の第六感は結論を出したのであろう。
ジンはその問いが聞こえなかったかのように振る舞い、馬車を何事もなかったかのように動かし始めた。
普段から何も語らないが、それ以上に話しづらいのであろう。彼は外を向いたきりで何も語ろうとしない。
だが暫く走っていると、彼は思い出したかのように口を開いた。
「……先日お前が経緯を話したのに、俺が話さないのは不公平だ。全てを語ろう。」
リースは車内でジンの背中をただじっと見つめていた。
外を向いて手綱をしっかり握っているジンは一間開けると、これまでの過去を話し始めた。
まるで昔話を話している老人のような語り口で、ゆっくりと静かにであった。
・
・
・
彼の本当の名はティファン。『ジン』と名乗っているが町などで仕事をしている時にのみ使っている偽名であった。
これまで読んできてわかる通り彼は異民族、つまり原住民なのである。
彼の住んでいた村は荒野の奥深くにあったことから政府の影響をあまり受けず、幼少時代は穏やかな生活を送っていた。
父親は村一の剣豪で、その血筋を受け継いだ彼もまた剣の道では誰にも負けない存在を確立していった。
母は元々体が弱く、妹を出産して間もなく亡くなった。そのため母のぬくもりを知らず、ただ父の背中を見て育ってきた。
だが幼い妹を養っていくために自然と情の厚い男へと成長していくのであった。
そんな幸せな生活を送っていると、突然幸せは瓦解の如く崩壊していった。
政府軍が奥地への侵攻を開始したのである。
村の男達は勿論のこと力自慢な女性まで駆り出され、村一丸となって徹底抗戦の構えを見せた。
この戦いにおいて召集されるべきジンは、不思議なことに戦場へ赴くことを父から禁じられていた。
彼は驚き、そして困惑した。村の中でも父以外の人物には勝てるのに何故戦に出ることが出来ないのか。
父は言った。『お前には幼い妹がいる。もし俺と一緒にお前も死んだらどうなる。今守ってあげられるのはお前だけなんだ』と。
それは普段は鬼のように厳しい父が見せた、淡い家族を想う一面だったのかも知れない。
その後夜を見計らってジンは妹を連れて村から脱出した。目指したのはさらに奥にある村だった。
彼らは途中狼に襲われたり、険しい道を乗り越えてどうにか別の村にたどり着くことが出来た。
そこでは別の村から逃げてきた人々や、それまで暮らしていた人々が助け合って暮らしている大きな村であった。
彼らもまた快く村に受け入れられ、再び新たな生活をスタートさせた。
しかし父の訃報を聞いたのはその数日後だった……。父の遺体は誰にも見つからぬように一人で弔った。
だが新しい生活も長くは続かなかった。
再び政府軍は新しい土地を求めて侵攻を続けてきたのである。
今回は当然のことながら彼も妹を守るために戦場へと送り出された。彼自身も父の弔い合戦と思い、躍起になっていた。
鬼神の如く戦場では荒れ狂い、押し寄せてくる政府軍を前に孤軍奮闘した。その姿は正に戦場に舞い降りた軍神のようであった。
しかし近代兵器を駆使する政府軍はジンの活躍をよそに原住民達を圧倒した。
接近戦では五分に近い戦いを繰り広げていたが、銃を基本とする近代火器では歯が立たない。
彼らは次第に追い詰められていった。
ある日、ジンはふと考えてみた。「政府軍は我々の土地を力ずくで奪い取っているが果たして互いに相容れないのか」と。
民族の教えにはこんな一節がある。
『全て神が定めた自然の摂理に則られ、人々はその流れに従わなければならない』
その考えに基づくと今我々が必死の抵抗を試みるのは“流れに反している”のではないか。
疑問を解決すべく村に滞在している族長に教えを乞うた。
この民族では族長を“神に最も近い長”と置いて、その下に全ての人が生活しているというシステムになっている。
神に近い存在のためなかなか近づく機会は恵まれず、顔を見るだけでも一生の幸せだと思われていた。
族長は元々別の村で住んでいたのだが、政府軍の侵攻によりこの村に滞在している。族長の近辺警護も行っていたので、話す機会は多い。
正確な年齢は覚えていないらしいが、誰よりも長生きしており頭の回転も誰にも負けない。
ジンはこの話をすると族長は黙って頷いた。
「……ティファンとやら、なかなかの了見だな。」
「恐縮です。」
滅多に話すことができない族長と面と向かって話をしているだけでなく、自分の考えに同調し褒められたので体が萎縮する思いであった。
「確かに我々は教えを抗っているのかも知れぬ。して、それからどうする?」
「我らを根絶やしにしないのであれば、土地を解放し共に生きていくのが最善策かと。」
思わず族長も唸るほどの妙案であった。
争いによって生まれるのは憎しみのみであり、互いに譲り合うのであれば争いは生まれない。
血を流して先祖代々の土地を守るよりも子孫繁栄を優先する提案に族長も考えが及ばなかったのであろう。
「神よ、我が義子にこれほどの逸材がいることを感謝致します。」
族長は涙を瞳に浮かべていた。
しかしすぐさま涙を拭うと、途端に険しい表情を浮かべた。
「……だが、今そのような提案をしても無駄であろう。今は憎悪が先行しているために混じ入るなどという考えは受け入れられんだろう。」
そのまま話はプッツリ途切れてしまった。
現状は痛いほどわかっていた。
今この民族の運命を握っているのは実質的支配をしている中心部であり、その中心部は武力抵抗派で統一されていた。
そのため日夜を徹して男達はゲリラに赴き、女は傷ついた男の手当てや武器の製作に勤しんでいる。
こんな状態で協調などという考えを口にすると何をされるかわからなかった。
実際に中心部の強硬なやり方を気に食わないと思っている人も少なくなく、その内の何人かは闇に葬られていた。
ジン自身はあくまで中立であり、彼らと争っても時間や労力の無駄だと考えていた。
だが悲劇は突如起こった。
ある日、ジンが狩りを終えて帰ってくると自分の家が焼けていたのだ!
家には血を分けた唯一の妹が自分の帰宅を待っていた。母に似て体が弱いこともあって滅多に外に出ることはなかった。
そのため火事で逃げ出すことも不可能であり、翌朝には変わり果てた妹の姿を発見した。
家事は体が不自由な妹に代わってジンがしていたため、火元は確実に自宅ではない。
――中心部の仕業にしか考えられなかった。
先日の話を耳にした中心部はジンを“危険人物”だと判断したのだ。
その背景にはジンが人望を集めていることや剣の腕が立つということも要因に挙げられていた。
この事件で失ったものは大きかった。特に大切な妹を失った悲しみは彼を絶望の淵に立たせるほどであった。
しかし守るべきモノを失ったのを機会に彼は民族との決別を決意した。
その途中、脱走を阻止しようとする大勢の刺客を振り切って彼は一人自由の身になった。
それはまるで群れで生活していた狼が独り立ちして孤狼になるように――
・
・
・
・
・
話し終えた頃には近くの町の灯りが遠くに見えるくらいの距離であった。
リースはこれまでの経緯を聞き終わると胸が押し付けられるような感覚になった。
実に複雑な話である。
そもそも自分達が悪いのに、それを許すような寛大な心を持っているにも関わらずそれが認められない。
今まで自分は何の苦労も知らないで生きてきたが、世の中にはこれ程苦労して生きてきた人がいるのだと思うと恥ずかしくなる思いであった。
そして何か話そうにもこのような話の後では何を話していいのだかわからない。
「……気にするな。共存しようという考えは今でも思っている。何かを成し遂げようとするならば犠牲は付き物だ。」
ジンは此方の心中を察したらしく、励ますように語り掛けてきた。
だが励ますべきはジンの方である。それなのに何も出来ない自分が実に不甲斐なく感じた。
と、その時であった。
車を引っ張っていた馬が突如止まったのだ。ルーもまた呻き声を発して敵を威嚇するような態度をとる。
ジンはその行動に何かを悟った。
遠目をよくよく眺めてみると、町の灯りと思っていたものは多くの松明の灯りだった。
その数は計り知れず、恐らくは千に近いであろう人数が待ち構えている。
「……政府軍か。しかし何故こんな所で待ち伏せしていたのだ?」
ジンが気付かないのも無理はない。彼ら民族の中心部と政府上層部の一部は裏で繋がっていたのだ。
商人などを襲撃するにも、奪い取った金品の一部は政府上層部に流れている。
そして襲撃などを行いやすくするために軍は本腰を入れて追討行動を行わず、ゲリラ行動も好き勝手にさせていたのだ。
先程出会った彼らはジンの抹殺のために、軍へ『危険人物が近くにいる』という情報を伝えて迅速に行動したというわけである。
ジンは目の前に広がる大敵を前に身支度を始めていた。
「ちょっと、ジン!あんな敵を前に戦うのですか!」
明らかに戦う気である。無論生きて帰ってこれる保障は全くなく、むしろ死にに行くようなものであった。
それでも最期の戦いを前にして彼は躍起になっていた。
「当たり前だ。この場で怖気づくわけにもいかない。」
「でも……」
ジンはルーや二頭の馬との別れをしていると、ふと此方を振り向いた。
そして自分が帯びていた刀を外すとそれをリースに渡した。
「それをお前にやる、生きろ。お前なら逃げ切れる。」
「そんな、ちょっとあなた丸腰ですよ!それでは……」
彼は手にした鞭で思いっきり強く馬を叩いた。
痛みに驚いた馬は猛スピードでその場を離れて元来た道を駆けていった。
そして身を乗り出して此方を見ているリースは何かを叫んでいたが、それも風のせいで聞こえない。
ジンは地平線に消えていく馬車を見送った後、手に持っていた鞭を捨てて振り返り、遠くに広がる松明の灯りへ歩んでいった。
一時間ほど歩いただろうか。
肉眼ではっきりわかるくらいの距離になってようやくジンは歩みを止めた。
風は背中を押すように強く強く吹いている。星もキラキラと瞬いており、月は昨晩より若干欠けたものの綺麗な円形で姿を見せていた。
だが、今の彼には晴れでも雨でも雪でも全く関係なかった。
丸腰なのであった。大敵を前にして抵抗する術もなく、まるで殺されに行くものである。
しかし顔は晴れ晴れとしていた。何かを成し遂げたような表情で目の前に広がる松明をじっくり見ていたのだ。
そのままゆっくりと近づくと、突然向こうから大きな声が聞こえてきた。
「反逆者に告げる!抵抗せずに大人しく此方へ来い!」
だが相手は明らかに喧嘩腰である。銃口は全て此方を向いており、その後ろには厳つい顔をした突撃部隊が控えている。
ジンは大きく深呼吸を一回した後に、向こうに向かって大きく叫んだ。
「……一つ聞きたい!お前達は他民族と相容れる関係を作ろうと思わないか!」
言い終わると辺りは再び静寂に包まれた。
風が荒野にひっそり生えている草を揺らす音、岩にぶつかった音、空を駆け抜けている音。全てが耳に入ってくる。
ともすれば星がキラキラと光っている音も聞こえるかも知れないであった。
しかし返答は言葉ではなく、態度で返ってきた。
銃声がその場を轟かせたのだ。煙硝は霧のように舞い上がり真っ白な雲を作り出している。
その瞬間に岩陰に身を潜めて弾丸を受けないようにやり過ごしていると、霧を切り裂いて突撃部隊が声を上げて押し出てきた。
ジンの目が光った。
相手の滝のような発砲による煙硝の幕で此方の姿は相手に把握されていない。
そのため丸腰な彼にとって相手から武器を奪わなければ始まらない話なのである。
「さて、ひと暴れしますか。」
岩陰から飛び出そうとした瞬間だった。
背後から発砲音が聞こえ、突っ込んできた兵士の一人が打たれたのだ。
彼にとっては背筋が凍る思いであった。予期せぬ出来事だったので無防備な格好であり、もし打たれていたら絶命していただろう。
「あらあら、そんな格好でしたら危ないですわよ?」
後ろを振り向くと、そこに立っていたのはなんとあのリースであった。
先程見送ったときの衣装とは違って全体的に砂で汚れており、靴も片方がなくなっている。
そして彼女の可憐な手には拳銃がしっかりと握られ、もう片方の腕にはジンの刀を抱えていた。
ジンはそれまでの彼女からは想像もできない姿で立っていることにとても違和感を感じざるを得なかった。
「何をしている。こんな所にいると危険だぞ。早く逃げろ。」
ジンはリースを諌めた。
何の関係もない彼女に危害が及ばないように配慮したのに全てが水泡と化してしまう。
これではこのまま彼女は荒野の野獣に肉を啄ばまれてしまうことは火を見るより明らかであろう。
温室育ちなために戦場での戦いの経験はおろか、喧嘩すら経験にないだろう。そんな輩が戦場で戦いを挑むなど、実に無謀な話であった。
だが彼女は退こうと思っていないようであった。
「何を仰っていますの。丸腰な貴方を放っておいて逃げるなどここまで来て考えてもいませんわ。」
刀をジンに渡すと再び拳銃を発砲した。正確には威嚇のための空撃ちなのだが、それでも効果は多少あった。
打ち終えた後、彼女は腰に手を当てて拳銃を空に向けて格好よく振舞う。その姿は戦場に咲いた一輪の白い花のようであった。
「……しかし何故お前が拳銃を持っている。」
「カバンの中に入っていたのですわ。」
確かにそうであった。
館から抜け出したあの夜、家政婦はこの先どのような危害が及ぶか知れないリースを思ってカバンの中に護身用の拳銃を一丁忍ばせたのであった。
弾に関しては装填されていた6発に加えて馬車の中にあった予備用の鉛弾を持てるだけ持ってきただけ。
彼女が拳銃を扱った経験もなく弾数は決して多くはないが、強力な援護射撃になってくれる。
「それに……」
彼女は一呼吸間を置いて言葉を継いだ。
「身寄りもない私を暖かく迎えてくださった貴方に対してまだ恩返しをしていません。地獄の果てまでご一緒しますわ。」
それを聞いたジンは口元に笑みを浮かべた。
もう何を言っても彼女は逃げてくれないという諦めからなのか、最期までついてきてくれる人が出来て喜んでいるのかは定かではない。だが確かに笑っていた。
彼は不敵な笑みを浮かべながら手渡された刀を抜いて切先を眼前に広がる敵に向けた。
そしてまたリースもリボルバーの空きスペースに弾を装填すると、銃口を同じく前の敵に狙いを定めた。
「行くぞ。足手まといになるなよ。」
「わかっていますわ。そちらこそ私を置いていかなくて。」
そう言うと二人は無数に群がってくる敵に向かって突進していった。
その後二人の行方を知るものはない。
戦場には多数の骸が散乱していたが、その中にはジンとリースと思しきものは見つからなかったという。
そして戦場に出ていた者も何故か彼らの消息を知っている者がいないのだ。
語られるのはその日の惨状と、鬼神と化した二人の姿であり誰も二人が何処へ消えたのかを見ていないのである。
二人は強行突破できたのか、若しくは戦場の塵と散ったのか。
知っているものは恐らく神のみであろう――……
終
BACK TOP NEXT