いろいろな想い




 大神ホッパーズのホームグラウンド。名前はなんだったか定かではないが、ここは確かに大神グループが所有する大神ホッパーズの本拠地である。
 前身であるモグラーズ時代から毎年最下位の筆頭候補として名を馳せてきた。そのためか観客動員数は群を抜いて低く、地元開催でも熱烈なファンがスタンドの一部を陣取るだけに留まっている。
 ひどい時にはアウェーの応援団の方が人数的に多い時もある次第だ。なんとも悲しいサダメを背負っている。
 しかもモグラーズの身売り騒動に端を発し、大神グループが球団経営に名乗りを上げたこともファン離れに拍車をかけた。
 大神グループと言えば数年前にとある島に対する無謀な開発計画を世間に発表し、批判の的として晒された存在。世間的にもあまりいいイメージはない。
 例え経営力が確かであったとしても、極端な強さを嫌う日本人の性に合わず、ファンは離れていく。火の車の財政をさらに逼迫させる事態へと展開した。
 だが、当の本人達……野球人達にとってはそんなことなど関係なかった。
 大地監督を始めとして、選手・コーチが一丸となって優勝、いや日本一を目指して頑張っている。かのモグラーズ時代では入団した選手が2人しかいなかったこともあったが、そんなことも今はない。
 4人もの有望な新人が入団してきたことは、ホッパーズ再生にかける思いが強いということにある。
 実際、去年まで2軍で生活していた選手が今年は1軍でレギュラーを張っている。それだけホッパーズには他球団にはない魅力があるのだ。
 しかし……不思議なことに奇妙な男がいる。奇妙と言っても性格とか容姿の問題ではない。
 経歴が何もない、それどころか野球をしていたという経歴もない男がホッパーズに在籍しているのである。
 昨年ドラフト外でキャンプ前に急遽入団が決定したこの男(名前をなんと言ったか、ここでは“彼”ということにしておこう)である。
 その動きは新人離れしているように見える時もあれば、「コイツ野球のルール知らないのか?」と疑いたくなる程の凡ミスをしでかすこともある。
 彼に対して“ミステリアスな雰囲気”と評しているのは彼と仲が良いと語る同期入団のY選手。
 そんな彼ではあるが、今ではホッパーズのスタメンに名を連ねるまでに成長(?)。周囲もようやく本領発揮かと安堵している。
 だが、彼には先述したY選手にすら明かしていない秘密を隠していた。それは……

 (今日は……彼女が見ている。いい所を見せないと!)
 いつも以上に気合が入るのは彼女がこの球場に来ているからである。
 彼女の名前は雪白冬子。金髪にクールな瞳、整った顔立ち、モデルのような体型。なんでもどこかのお嬢様だとか。
 出会いは根室コーチに合気道を教わりに行った時、偶然にも冬子さんに会ったことが出会いになった。
 その後も根室コーチのお宅に出向いた際に手合わせをしたり、外出先で挨拶を交わしたりするなど比較的簡単な関係に終始した。
 だが、運命とはいつ如何なる時に変わるかわからない。偶然街で遭遇したばかりかゴタゴタに巻き込まれて今では付き合っていることになっている。
 当然のことだが、冬子さんからは付き合うに当たって「特別な好意など持ってない」と言われた。そりゃそうですとも……。だって自分の意思に関係なく強制的に付き合わされる身にもなって頂きたい。
 だが……付き合いを重ねていく内にそんな形式的なお付き合いという概念は消えた。本当に素の姿でのお付き合い、であった。
 事の発端は数日前に偶然冬子さんと会った際、自分から見に来て欲しいと伝えた。渋る冬子さんをごり押ししてまで呼んだ。
 だが、そこまでして球場に足を運んでもらったクセして大して活躍してない。これでは面子に関わる。せめて面目を保つためにヒットくらい打たなくては。
 意気込んで打席に向かう。軽くヘルメットを下げて挨拶をして、マウンドを睨む。
 大きく息を吸い込み、静かに吐き出す。余計な力が入っては自分の力を最大限に生かせないことは何事にも通じる基本的なこと。いつの間にか打席に入った後の習慣として身についた。
 その打撃フォームも至ってシンプル。やけに手の込んだ打撃フォームをしている人も野球選手の中にはいるが、彼に至っては自然体を貫くかのように基本的な形で収めている。
 ふと目線をスタンドの方向に向ける。冬子さんは一体どこにいるのだろうか。そんな雑念が頭を過ぎる。
 「ストライーク!」
 球審の声で我に返った時には既に時遅し。簡単にストライク一つを献上してしまった。
 いかんいかん。集中を切らしてはいかん。慌てて戦闘モードに頭を切り替えて、目の前にいる投手を見る。
 次の球を打ってやる。出来れば目の覚めるようなホームランを狙ってやる。冬子さんだけに奉げる究極の一打を。
 自然とグリップを握る両手に力が入る。それと同時に研ぎ澄ました集中力が白球を捉える。
 投手から放たれた球の力に負けないよう、全力をバットに乗せてフルスイングする。
 ガキィッ……
 打球はふらふらっと力なく舞い上がった。たまらず舌打ちしてしまう程悔しさが胸から込み上げてくるのを抑えつつ、一塁キャンバスに向かって走る。
 もうバットに当たった音でどんな打球になるかは予想がついた。飛んでも精々内野くらいの平凡なフライ。風で流されても外野にまで到達することはない。
 そして一塁キャンバスに到達した頃合を見計らってかアンパイアが声高々にアウトを宣告する。既に白球は内野手のグラブに収まり、マウンドに戻っている。
 こんな姿を彼女に見せたくなかったと自責の念に駆られながら彼はベンチに戻っていった。
 奇しくも愛しの彼女がその後ろ姿を眺めていることなど知らずに……。



    〜 いろいろな想い 〜
        FourRami



 試合には勝ったが、今日の自分に関しては冬子さんを説得して球場に足を運んでもらったにふさわしくない内容であった。
 勝利した後のロッカールームにあって、彼は一人しょげていた。
 4打数無安打。これじゃ試合後に冬子さんを誘ってデートに行くことなんて出来ない。
 脳内シナリオでは『大活躍して意気揚々とデートに向かう』という脚本だったのに……しかも行く店も決めていた。予約なしで行ってもOK、冬子さんの雰囲気にぴったりな美味しいフランス料理の店があったのに。
 「何落ち込んでいるんでやんすか」と意気揚々に声をかけてくるのは同期の湯田。先述のYとは彼のことを指す。ちなみに彼は今日勝利投手で気分が良いらしい。
 こんな『彼女いない歴=年齢』なオタク野郎には今の気持ちなどわからないだろうに。彼の心の呟きはぐっと胸にしまっておく。
 えぇい人の気持ちも知らないくせして、と内心苦々しい思いをしていると、ぽんと優しく肩に手を置く気配がした。
 振り返ると同じく同期の倉刈であった。ホッパーズというイロモノ軍団の中でも良心の塊という言葉にふさわしいこの男は、同期の中でも普通な方である。
 「大丈夫ですよ、明日はきっと活躍できますって」とフォローが入る。なんとなく倉刈に言われるとそんな気になるからフォローされて嬉しくなる。フォローもしない輩と違って。
 テンションが上がりっぱなしな湯田は勢いに任せて大人しい倉刈を捕まえて幸恵さんの店に行こうと言い出した。倉刈も湯田の奢りを狙ってついていくようだ。
 しかし、こんな流れになってしまっては乗らない訳にもいかない。今日の自分の不甲斐なさを忘れるため、自分も湯田の目論見に乗っかる気になった。
 シナリオ通りに行かなくて彼女に合わせる顔がないこともある。だが、今日ばかりは馬鹿騒ぎしたいと少しばかし思えてきたこともある。
 「まーたなーに考えているでやんすか」と彼の顔を覗き込んできたのは張本人の湯田。もう立ち直ったように「なんでもない」といつものように返事をして、ロッカールームを後にした。


 プロ野球選手というのは意外とプライベートな時間が少ない(但し一軍の選手に限っての話だが)。
 先発投手であればローテーションを組んでそれに合わせて調整を行っているが、リリーフの投手や野手にはそんな待遇など存在しない。野手は守備イニングでは否応なくグラウンドに出なければならないし、リリーフ投手はいつお呼びがかかってもいいように待機していなければならない。
 一般的なサラリーマンは5勤2休か5.5勤1休の勤務が普通であるが、プロ野球選手はペナントレースの間、ほとんどの場合6勤1休のローテーションである。オールスター戦などで特別に休みがある場合もあるが、過酷を極める職業なことには違いない。
 2月のキャンプから11月の日本シリーズまでの間、ずっと野球漬けの日々。プロ野球選手も大変である。
 では、シーズン中の休みの日は何をしているのか。それはプロ野球選手という括りに入った選手は自己管理の下、それぞれの休日を過ごしている。
 さらなる活躍を目指してトレーニングをする者もいれば、寮でダラダラ過ごす者もいるだろうし、街に出てショッピングを楽しむ者もいるだろう。
 気になる彼はどうか。
 彼はと言うと、彼女に予め自分のオフの日を知らせておき、その日にデートすることになっている。彼女の方の事情もあってか、定期的にデートをすることになっている。
 彼女の方の事情とは、冬子さんにふりかかったお見合いの話がある。
 以前、オフの日に偶然彼が冬子さんと遭遇した時、誰かから追いかけられる模様だったため、一緒に隠れたという経緯がある。
 その後冬子さんの家に行った際、その時のことで一悶着あり、それから冬子さんと付き合っていることになっている。付き合うに当たって「特別な好意などありません」と予め釘を刺されている点、形式的なお付き合いということは拭えない。
 ……正直、自分でも何故こんなことになったのかまだ飲み込めていない部分があったりする。
 だが、最近は明らかに形式的なお付き合いという風には思えない。あの自然な笑顔が、演技だとは到底思えないからだ。
 確かに付き合い始めた当初は、ある程度のラインが二人の間に敷かれていて、そこから先に踏み込むことは許されなかった。いや、自ら踏み込むことはなかった。
 でも、自然のうちに二人の間にあった壁は取り払われていった。演技でもなんでもない、二人の間の特殊な事情を知らない人から見ればお似合いのカップルにしか見えないくらいに近しい関係になっていた。
 もう演技なんかじゃない。互いにわかりあっていた。
 わかりあっている以上、言葉はいらない。例え始まりが特殊であったとしても、今の状況は普通にデートしていることに変わりはない。

 待ち合わせの時間より10分ほど早くに彼は到着した。待ち合わせの場所は中心街にあるオシャレなカフェ。
 赤いスポーツカーに乗って颯爽に登場……という程彼の年俸は高くもないし、それ程の活躍を収めている訳でもない。大体万年最下位のホッパーズが実績のない選手に大金を支払うかと問われれば即座にNOと言うだろうが。
 せめてもの救いが、着ている服であった。若い冬子さんに合わせて最近流行のファッション誌を参考にして自分なりのオシャレをしている。
 服くらいならば少し生活費を削れば1シーズンに数着の服を新装することが出来る。最悪古着屋で安い服を買って自分流にアレンジを加えれば、世界に一つだけの服が完成する。これに関しては同僚の倉刈の入れ知恵である。
 それくらいの贅沢くらい許されてもいいだろう。というか彼の周りにはオシャレに関する理解度が著しく低すぎた。
 漫才師が着るようなコテコテな服を着ている漫才師希望の先輩、アニメのキャラクターがプリントされているTシャツを年中着ている同僚、肉体美を追求しすぎるばかりに筋肉が盛り上がって見えるスウェットスーツばかり着ているコーチetc...
 こんな環境でよくもオシャレのセンスを磨けるなと時々思う時がある。オシャレくらいしても罰が当たらないだろう。
 時間つぶしに最近はまっている小説を取り出して読み始めたが、数ページ程しか読み進めることが出来なかった。
 意中の人の到着である。
 「待ちました?」と自慢の金髪が少し揺れる。赤を基調とした可愛らしいワンピースは冬子さんによく似合う。
 「全然」と少し気取りながら言ってみると、冬子さんはクスクスと笑った。
 何がおかしいのだろうか。確かにありきたりな台詞ではあったが、何も笑うようなポイントはなかったぞ?
 思い当たる節がなく狐につままれたような表情をしていると、冬子さんは謎かけの答え合わせをしてくれた。
 「いえ……普段の貴方と全然違う雰囲気でしたのでつい」
 ちょっと待て、冬子さんの中にある俺のイメージとは一体どういうものなのだ。凄く気になる。
 思ってもいない返事に動揺する俺を尻目に冬子さんはまたクスクスと笑っている。
 一人状況を飲み込めず置いてけぼりを喰らっている訳にもいかないので、一緒に観たかった映画を観に行くことにした。
 読みかけていた文庫本をコートのポケットに詰め込み、冬子さんを待たせないために先に歩き出した。その隣にはぴたりとくっつく冬子さんの姿。
 もう、あの頃のような余所余所しい態度の冬子さんはいない。隣にいる冬子さんは出会った頃のようにクールではあったが、その裏には必ず温かい笑顔があることを俺は最近知った。その貴重な笑顔もまた誰にでも見せている訳でもないことも重々承知している。
 こんな時間が永遠に続けば……ふと隣を歩いている冬子さんの笑顔を眺めながら途方もないことを考えていた。
 そんな俺の様子に気付いて不思議そうな顔をしている。自分の顔に何かついているのかと勘違いしているみたいだ。
 「どうかしました?」
 耐え切れなくなって俺に話しかけてきた冬子さんに「なんでもないよ」とありきたりな返事で返す。本人はまだ不服そうだが、それでも俺は幸せだった。



 映画が終わって外に出てみると、辺りは夕闇に包まれていた。ビルとビルの間から低い角度の西日が差し込んできて少々眩しい。
 この時間だと冬子さんが家に帰る頃には真っ暗だろうな。用心のため冬子さんを自宅まで送り届けることにした。
 帰りの道では今日観た映画の話で盛り上がった。お互いの気持ちを伝えられない葛藤と苦悶の男女中学生の恋愛を描いたほろ苦い恋愛映画であったが、お互いに映画の人物と自分の姿を重ね合わせていたらしい。
 次第に口数も少なくなっていった。話していく内に自分の本音がポロリと口に出そうだから。『お前らこそ中学生か』と言われても俺は否定できない。
 いつも並んで歩いているのに、大切な一歩を踏み出すにまで至っていない。少し胸が痛んだ。
 まだ早いと自分の中で言い訳を繕ってみるが、それはただの逃げ。本当は踏み出すことが怖いだけ。踏み出した後が見えないから。
 そうして、無言のまま二人は冬子さんの家へと向かった。打開する方法を見つけられないまま……

 「また今度」
 互いに口を開かなくなってからどれだけの時間が経過しただろうか。冬子さんの声を聞くまで随分と長く感じた。
 俺は手を振って応えると、冬子さんはニコッと笑って家の中へと入っていった。
 それを見届けた後、歩いてホッパーズの選手寮まで歩いて暫く……だった。
 「―――君だね」
 突然聞こえてきた自分の名前。閑静な高級住宅街だが、夜になると人の気配が全く無くなって、街灯の光が届かない場所は漆黒の闇に包まれ不気味である。
 高級住宅街だけあって最近怪盗がこの辺りを狙っているとはもっぱらの噂。怪盗のみならず強盗なんかも狙っているかもしれない。それだけ治安が良いとは一概には言えない。
 慌てて振り返ると、そこには金髪に赤い瞳の容姿端麗な男が闇の中から現れた。
 「晴継さんですか……驚かさないで下さいよ」
 晴継さん、本名は雪白晴継。苗字から想像できるかも知れないが、冬子さんの兄である。
 会ったことは数回しかないため晴継さんについて知っていることは少ない。なんか大きな会社の社長らしいが、冬子さんと歳が離れている訳でもないので若いのに凄いなぁと感心してしまう。
 だが、初めて会った時の印象が悪すぎた。
 冬子さんに連れられて初めて冬子さんの家に行った時、話の流れで冬子さんとお付き合いしていると一方的に宣言したからである。
 何処の馬の骨とも知らない初対面の輩がある日突然大事な妹を強奪したのだから、当然のことではあるが印象は良くないだろう。実際は本当に付き合っている訳でもないのに……。
 どうやら冬子さんは晴継さんが薦めるお見合いの話を断り続けていたらしい。冬子さん本人は最初からお見合いに乗り気ではなかったのだが、兄の手前一回だけ参加したらしいが抜け出して一騒ぎになったらしい。
 この時もまた奇遇にも俺が一枚噛んでいるので、さらに晴継さんの中にある俺の印象は悪い。これだけ悪い印象を与えていれば憎まれていてもおかしくない……かも?
 「驚かせてすまないね」と爽やかな笑顔で謝意を述べる晴継さんではあるが、まだ心臓の鼓動は早まったままである。本当に肝が潰れそうだったんですから。
 ……しかし、引っかかる部分もある。何故こんな突然人を驚かすようなことをするのだろうか。話すのであれば家で話せば良いものを。
 確かに晴継は会社の社長ということだけあって家にいることは少ない。休日でも会社のオフィスにいるような仕事熱心な人でもある。が、時々家に帰ってくることもあるのだから、会いたければ時間を調整して家に行けば会えるはずだ。
 ましてや俺が冬子さんの家に行くことは冬子さんを通じて執事の牧村さんやシェフの城田さんに伝わっているはず。情報が伝わっていないはずがない。
 「急にどうかしたんですか?」と外見だけは落ち着いているような雰囲気で晴継さんに対応する。
 だが目の前の晴継さんは間髪入れずに話しかけてくる。
 「君はなにか隠していることはないかな?」
 「さて、なんのことでしょうか」
 相手の出方を伺うためにも恍けるのが無難。下手に喋って地雷を踏んでしまう可能性もあるからだ。
 『隠していることはないか』ということは、相手が自分に対して何かしらの疑問を持っている証拠。あまり喋ると疑念を増幅させてしまう危険性もあるので、余計なことは喋らないのが最善の策。
 この手の返答は想定内だったらしく、別段晴継さんの表情に変化があったわけでもない。
 「野球以外のこともしているだろう」
 前の質問よりかはかなり切り込んだ質問である。声色も穏やかなままではあるが、言葉尻から棘が見え隠れしている。
 現役のプロ野球選手に対して『野球以外』とは何か。晴継さんは一体何を聞き出したいのだ。この話の着地点をどこに見いだしているのだ。
 確かに野球で飯を食っているという風には見えないかも知れない。ちゃんと目に見える実績というものを残していないが故の不安なのか。
 この問いに対しては答えようがない。答えようがないと言うよりも、答える程の質問でもない。
 「見ての通りホッパーズに所属するプロ野球選手ですけれど」
 流石に四六時中ユニフォームを着ている訳にもいかないので証明こそできないが、ホッパーズの関係者ならば必ず自分の身分を証明してくれる。
 質問が質問なだけに最初は困惑してしまったが、冷静に答えることが出来た。心臓の鼓動もようやく平常のペースに戻ってきた。
 晴継さんは俺の顔を黙って凝視していたが、俺の答えを聞いてふっと瞼を閉じた。
 「……CCRの組織員でも、か」
 自分でも分かった。鼓動が早まることを。動揺を隠しきれていないことを。息を呑む出来事とはこのことかと真剣に思った。
 CCR。その存在は政府の中でも限られた存在にしか知られてないとされる秘密機関の略称である。
 その成り立ちに関して詳細なことはわかっていないが、近年テロの脅威に晒されている中で、国民の間にも不安や危険が指摘されたことから発足したとされる。
 最近では一般人になりすましたサイボーグによるテロが多発しているため、その捜査を行っているが当然のことながら捜査情報は公開されていない。
 成立の経緯も定かではない完全秘密組織ではあるが、その実力は日本の警察や自衛隊を軽く凌駕していると言われている。身体能力に優れた者、頭が切れる者等々選りすぐりの人材が投入されているらしい。
 俺もそのCCRの一員であり、今回はサイボーグから入手した情報を元にしてホッパーズに潜入捜査を行っている。
 ずぶの野球素人であった俺がプロ野球選手として化けるために1ヶ月間みっちり野球漬けにされて野球選手に仕立て上げられた。入団に関してもホッパーズの一部関係者の協力を得てドラフト外での入団という手続きになっている。
 この一連のことに関しては一部の関係者しか知らない機密情報である。漏れることのない完璧な情報統制を強いている……はずなのに。
 何故晴継さんはそのことを知っているのだ。冬子さんは勿論のことホッパーズのチームメイトにも明かしていないのに。
 『CCR』という英単語3文字を聞いただけで体に緊張が走った。なにか嫌な汗もじんわりと出てきた。こんな体験は初めてであった。
 一方の晴継さんは依然として静かに此方を見つめている。俺の反応を観察していたらしく、何か感づいた様子でもあった。
 そして静かに瞼を閉じて、静かに言葉を継いだ。
 「出来るならば、妹を悲しませたくない……危険なことに巻き込みたくない。君にもわかるだろう?」
 言い淀むことのない言葉。その言葉には大切な妹のことを想う気持ちと、それに伴う覚悟が感じ取れる。
 真に想っているからこその忠告。妹の幸せのためならば死をも厭わないその決意。美しい兄妹愛なんてセリフで片付けられない絆で結ばれているのだろう。
 その現れが―――晴継さんの右手に握られている拳銃。
 晴継さんの先程の言葉同様、拳銃に伸びる手に一欠片の躊躇も存在しなかった。まるで習慣のような、一連の流れるような動作は見ていても美しく思えた。
 自分の手は汚れてもいい、妹の無垢な笑顔を守れるのなら。
 一番大切なモノを守るためならば拭うことの出来ない血を被る覚悟。正直晴継さんには敬意を表するところがある。
 だが……例え、それが武力という歪んだ圧力を使われたとしても、譲れない気持ちは此方も同じ。
 貴方も確かに素晴らしい心の持ち主ではあるが、冬子さんのためならば身を投げ出す覚悟を持っているのは此方も同じ。冬子さんを想う気持ちだって負けてはない。
 同じではあるが……正直迷いはある。
 このまま“プロ野球選手”の顔を通していたとしても、いずれは“CCR組織員”の顔を出さなければならないこともある。
 平々凡々な“プロ野球選手”ならば晴継さんも冬子さんとの付き合いも渋々ながら認めてくれたことだろう。推測のことなのでわからないが。
 だが、普通の選手ではないが故の特別な事情もある。
 交戦中に流れ弾で負傷、そのまま帰らぬ人に。冬子さんを人質に取っての交渉。デート中不意の銃撃に巻き込まれる。
 想定されるケースは多々ある。その幾千万も存在するケースの全てにおいて可能性がゼロだと断定できないことも。
 冬子さんの幸せを真に願うのならば、今の俺と付き合っていることが果たして冬子さんの幸せにつながるのだろうか。
 (俺は……どうすればいいのだ)
 こんな状況になるまで考えなかったのは明確な答えを出すことから逃げていたから。その責任は自分にある。
 改めて自問自答するが、多くの選択肢が浮かんでは消えていくだけで結論は見えてこない。答えは一つではない。難解な方程式であろうと答えは見出せるが、人間の思いに答えは一つとは限らない。
 だが、もう逃げることは許されない。逃げれば、即座に鉛玉が飛んでくる。
 晴継さんとの距離を考えると確実に命中する。銃口も額に照準を合わせて微動だにしていないことから引き金を引けば即死確実といったところか。
 そして晴継さんは瞬きすることなくずっと此方を見つめている。此方の行動に対して待ちの状態を保っている。
 非常に落ち着いているような様子である。その手にしている凶器を持っている罪の意識すらも微塵も感じられない。
 長く続く静寂。凍りついた雰囲気。時間の流れというのはこれ程遅いものなのかと疑いたくなるほど、時間の経過が遅く感じられる。
 実のところ真剣に考えていていっぱいいっぱいなはずの自分もまた、非常に冷静であることが不思議でしょうがなかった。死と隣り合わせ、しかも目の前に見えている状況にも関わらず。
 自分でも呆れてしまう部分もあったが内心笑いたくもあった。ここまで冷静に相手を分析できるのなら、何故対峙する相手投手の心理分析も出来ないのかと。
 そんな冷静な自分に気付いた時、ふっとある思いが頭を過ぎった。
 何故こう考えられなかったのか。シンプルに考えれば確かにこれはおかしい。そう思えてきた。
 あとは考えるよりも先に体が動いていた。
 くるりと体を180度回転させて晴継さんに背を向けた。
 もう晴継さんの姿は見えない。相手の手に握られていた銃もどうなっているかもわからない。
 だが、なんとなくではあったが晴継さんは撃たないと思った。確信は持てなかったが。
 もしかしたら後ろに振り返った瞬間に逃げると勘違いされて撃たれたかも知れない。いや、いつ撃たれるかわからない状況に変わりはない。
 それでも、信じた。晴継さんを。
 「……何故抜かない?」
 恐らく此方が銃を所持していることもわかっていたのだろう。その声色にはこの行動に対する驚きも含まれている。
 CCRの組織員は銃の携行が義務付けられている。いつ何時犯罪者と接触するかわからないためでもあり、護身用のためでもある。無闇に発砲することは許可されていないのは当然であるが。
 組織員の身に危険が及ぶ場合には許可なく発砲することが出来るとはCCR内部の規則でもある。例え警察に発砲事件として処理されても秘密裏になかったこととして処理される手筈になっている。
 その規則が適用される場面であることは百も承知。銃撃訓練も嫌という程受けてきている。銃の引き金を引くことに何の躊躇いもないくらいに。
 だが―――
 「俺が晴継さんを撃ったら、冬子さんを悲しませることになりますので」
 ここで二人が銃撃戦になったら。
 間違いなくどちらかが負傷することは避けられない。流れ弾が民家に入って第三者に被害が拡大するかも知れない。
 そして、その引き金を引いたがために人を殺してしまう可能性。しかも双方共倒れになる危険も高い。
 それが果たして二人が死をも厭わない冬子さんを思ってがための行動だろうか。
 もしもどちらかが怪我をしたら。どちらかが死んでしまったら。両方死んでしまったら。それで冬子さんは喜んでくれるのだろうか。
 喜ぶはずがない。例え片方だけ生き残ったとしても良い思いをしないだろう。結果的に冬子さんを不幸に貶めてしまう。
 そう思うと銃に手が伸びることはなかった。感情だけが暴発してしまうと取り返しのつかない事態になっていただろう。
 無防備な背中を晒したまま、その場から黙って去った。これもこれで一つの決意の現れ。
 しかし……持ち越しとなった結論。改めて考えざるを得ないと思わずにはいられなかった。冬子さんの真の幸せとは一体何だろうかということを。



 次のデートの時。冬子さんから「どうしたの?」と開口一番言われてしまった。俺の顔色が相当悪いらしい。
 あの日の晴継さんとの出来事については当然ながら知らない。勿論命のやり取りをしていたとは到底言えるはずがない。
 これを契機にして冬子さんの真の幸せについて真剣に考えるようになった。布団に入ってから真剣に考えて一夜を明かしたこともあった。
 だが、結論を出すまでに至らなかった。せめて次会うときまでに……と思っていたが、結局冬子さんを目の前にする時までに見つけられなかった。
 その結論が広い砂漠の中に落ちている白ゴマを見つけるようであったとしても、粘り強く探し続けなければいけない。
 そう思うと……こうして冬子さんと一緒にデートをすることが悪いことのように思えてきた。
 晴継さんは自分を犠牲にしてまで俺と冬子さんとの間を裂こうとしていたのに、なんで俺は冬子さんに甘えてデートなんかしているのだ。罪悪感が胸に募る。
 楽しいはずなのに心の底から楽しめていないのも、後ろめたさがあるためだろうな。知らず知らずの内に冬子さんと距離を開けて歩いている自分がいた。

 その日の帰り道。いつものように冬子さんを家まで送っていく途中、ふと冬子さんが足を止めた。
 冬子さんの後ろを歩くようにしていた俺は、ふと立ち止まった冬子さんの後ろ姿に何かいつもと違うような雰囲気を感じ取った。
 「どうしたの?」
 つい声をかけてしまった。いつもの冬子さんの後ろ姿とは少し違ったような気がしたから。
 俺の声に冬子さんは神妙な面持ちで応えた。
 「私、最近気付いたことがあるの」
 いつものようにゆったりとした話し方。声のトーンもそんなに高くはない。育ちが良いとここまで品が良くなるのかと感じざるを得ない。
 しかし……周りが暗いのでよくわからないが、冬子さんの頬が心なしか赤くなっているように見える。気のせいかもしれないが。
 最近気付いたことってなんだろう?ちょっと興味が湧いたが、そんな邪推な考えはすぐさま捨てた。
 俺は静かに冬子さんの次の言葉を待った。何に気付いたのかを冬子さんの口から聞くために。
 「あなたのことが好きだわ」
 ―――飛び上がりたいくらいに爆発しそうな喜びと、聞いてはいけない言葉を耳にしてしまった罪悪感。
 冬子さんなりのプロポーズの言葉に、言葉に出来ない二つの思いが瞬時に交錯した。
 俺なりの結論を出す前に相手に言わせてしまったその言葉。あの時もう逃げないと決めていたのに、結局結論を先延ばしにしていた自分がいた。
 さらに冬子さんは「こんな言い方しかできないけれど、あなたのことがとっても好きだわ」と言葉を継ぐ。
 それは重々わかっている。普段から感情を表に出さない、簡単に言えば“クールな女性”である冬子さんがここまで踏み込んで話してくれるということは、相当な覚悟を必要としていたはず。
 それなのに俺は……。自分の不甲斐なさに腹が立った。
 「あなたはどう?」
 冬子さんから促された言葉。情けない自分の心に追い討ちをかけるような一言であるが、当の本人は俺を傷つけるために言った訳ではない。
 (俺は……俺も)
 どうすればいいのだ。本当に幸せなのはどちらなのだ。
 俺と一緒にいることが幸せなのか、それとも俺と離れていることが幸せなのか。
 相手は今まで敷かれていた境界線を越えようとしている。俺だってその境界線を越えたいと思っている。
 一思いに「好きだ」と言えればどれだけ楽なことだろうか。だが……精一杯の自制心でそれを抑えている。
 「ごめん……冬子さんの思うような返事をすることはできない」
 今出した結論。
 果たしてこの結論が最終的に良かったのかどうか甚だ疑問に思うかも知れない。
 だが、今ある知恵を使って一生懸命出した答えがこれだった。
 「そう……どうして、って聞いていいかしら?」
 先程と声のトーンは全く変わらず、淡々とした話し方。表情からも動揺しているようには見えない。
 感情の起伏を素直に出さないのはわかっている。だが、本当になんとも感じていないと一概に言い切ることは出来ない。
 「元々……お見合いを引き伸ばす口実だったんだし……」
 咄嗟に出た嘘。言い繕ったような薄っぺらい嘘ではあるが、今の段階で自分の中にある真意を誤魔化すためにはこの嘘しかない。
 「今でも……?」
 「うん……」
 そんなはずがない。今すぐにでも言いたかった。
 冬子さんの表情がみるみる変わっていく光景を見ていたら、居た堪れなくなった。目元に薄っすら光るモノも見えた。
 俺の口から出てきた言葉を信じられない様子であった。もう、いつもの強い冬子さんの姿はない。
 「嘘よ……貴方はそれだけの理由で私に会ってくれたの?少しでも期待した私が悪かったのかしら……」
 「それは―――」
 言葉に詰まった。それよりも次に繋がる言葉を呑み込んだと表現したら良いか。
 それ以上言ったら今まで我慢してきたものが全て瓦解の如く崩壊してしまう。抑えきれない感情に堪えるため、唇を噛んだ。
 俺だって冬子さんと同じ気持ちだと。“お見合いを引き伸ばす口実”を口実にして冬子さんに会っていたと。
 「そう……私って馬鹿だわ。今日、こんなことを言わなければまた会えたかも知れないのに……」
 「冬子さん……」
 わかっていても口が滑りそうになる。
 でも、頭で理解していても、心の底から湧き上がってくる衝動を堪えるのに必死であった。
 「わかりました。会うのは今日でお終いにしましょう」
 冬子さんはとびっきりの笑顔で微笑みかけてくれた。浮かんでいた涙も拭い去って。
 だけどその笑みにはいつものような温かみがなく、むしろ痛々しさが際立っている。悲しみを押し殺した笑顔が俺の心臓を締め付ける。
 そして冬子さんは何も語らず自分の家の方向へと歩いていった。後ろを振り返ることなく、ただ真っ直ぐ向いて……

 「これで良かった……んだな」
 誰もいない道に一人取り残され、ぽつりと呟いた一言。
 頭は真っ白。心の中には納得できない結末への憤りから愛しい人との別れの悲しみに変わっていた。
 ……良いはずがないじゃないか。
 口にしてはないけれど、気持ちは通い合っていた。それなのに、俺が一方的に別れを告げるなんて……酷い話じゃないか。
 ―――冬子さんと一緒にいることも大切だが、危害が及ばないとは言い切れない
 ―――CCRから抜け出せる環境にない今、冬子さんは普通の幸せを掴んで欲しい
 つい先程出した結論。論理的な考えに基づいてはじき出した結論。
 だが……本当に良かったのか。
 瞳からつうと光の筋が頬を伝う。慌てて腕で拭うが、拭っても拭っても溢れ出てくる水滴は拭いきれない。
 “泣いたら負け”だという自分のプライドが重く圧し掛かる。嗚咽も歯を食い縛って噛み殺し、潤んだ瞳も必死に堪える。
 辛い、辛い一時。誰もいない道で、ただ一人突っ立っていることしか今は出来なかった。





 翌日以降、突然のスランプに陥る。
 ボールがバットに掠りもしない。記録に残らない守備の乱れが(普段も多いが)それまでよりも倍増。打率は急降下、野次の数は急上昇。
 チームメイトは勿論のことコーチ陣も心配し始めた。先輩各位からありがたい言葉をかけてもらっても、イマイチ響かない。
 『気分転換してみれば?自分の趣味に打ち込むとか』
 『ぁー、まぁなんだ。開き直ってみてはどうだ?』
 『オイラと一緒に飲みに行って、悪いことなんかパーッと忘れるでやんす!』
 『もっと若さゆえの劣情に身を委ねてみては如何かな?』
 『練習しろ!気がたるんでいるんだ!』
 もう為す術なしといったところであった。監督もそろそろスタメンから外すか考え始めていた程である。
 一番顕著なのは無安打記録のリーグワースト記録が刻一刻と近付いていること。守備こそどうにかこなしているが、このまま行くと不名誉な記録の上塗りとなってしまうので首脳陣も内心冷や冷やであった。
 そんなことも当の本人は気にしていない様子。自暴自棄になっていないことこそ不幸中の幸いだが、何を言っても上の空。集中力が著しく欠如しているのは誰の目から見ても明らかであった。





 「ちょっと、アンタ。大丈夫?」
 その声でふと我に返った。今いる場所は本来の仕事場……CCRの本部。
 集中力が切れてたと言われても否定できない。もしも集中が途切れている間に敵の襲撃にあって銃弾が飛んできたならば、確実にあの世への片道切符を否応なしに受け取っていたことになるだろう。
 声の主はホッパーズ潜入に際してサポートを任されている同僚の白瀬芙喜子。結構優秀。
 定例報告をしに本部まで来たものの、イマイチ気が乗らなかった。何事にも集中できない。野球にも、仕事にも、生活においても。全てにおいて、である。
 「ん、へーきへーき」
 適当に流そうとしたが、肝心の芙喜子は些細な変化に敏感であった。
 もっとも今の彼の状況はそんな些細なんて言葉で済まされる状況ではないのだが。
 「『へーきへーき』じゃないわよ。そんな間の抜けた返事を『はいそうですか』って受け取る訳にはいかないの。このプロジェクトに関してはアンタがいないと始まらないのだから」
 自分を大切にしてくれる芙喜子のさりげないフォローには感謝している。それが例え仕事上のやり取りであったとしても。
 でも、今の自分の心を満たしてくれるようなモノではない。決して満たされない感情。頭の中で無理矢理理由つけて納得して、理不尽なことを呑み込もうとしている自分が、嫌だった。
 現実は『理不尽だ!』と口にしてどうにかなるような綺麗な世界ではない。それはこの芙喜子自身が一番知っているだろう。
 だが……悪いが芙喜子には理解できても、今の俺には理解できない。
 そんなことを察してか、芙喜子は突然口調を和らげて語りだした。
 「彷徨える子羊よ、神の前で懺悔しなさい」
 「……なんだよ、それ」
 「あら、折角アンタの悩みを聞いてあげようとしているのに」
 まるで自分がシスターかの如く振舞っている。コイツ、俺よりも年下のくせして生意気な。まさか俺を慰めようとしているのか。
 ふと芙喜子の顔をチラリと盗み見ると、こちらの沈んだ表情を見透かしたかのような顔をしていた。
 その証拠に……芙喜子の顔が徐々に勝ち誇ったような顔になっていく。お前なんかに何がわかるんだ。
 「はっは〜ん、さてはあの可愛い彼女のことね?」
 くそっ、なんでわかるんだ!思わず心の中で叫んでしまった。
 ニヤニヤした顔つきでこちらの表情を覗き込んでくる芙喜子の姿が腹立たしい。こちらの考えを簡単に見透かされた苛立ちも含めて。
 どうやら図星のようね、と芙喜子は言った。あぁその通りだよ!それが悪いのか!
 だが肝心の芙喜子も俺が別れたことまでは知らない。恐らく彼女と痴話喧嘩した程度の認識しかないのだろう。
 ……そういえば何故俺と冬子さんが付き合っていることをコイツは知っているのだ?誰にも話していないはずだが。
 芙喜子自身の恋愛がどうなっているかは定かではないが、彼女と何があったのか知りたがっていた。人の不幸は蜜の味というのか、この小悪魔は。
 あんまりにもしつこく聞いてくるのでだんまりを決め込んだ。余計なことを話す必要もないし、大体そんな軽い口調で話せるような内容でもない。心の区切りもついていないのに、飄々と話せるかってんだい。
 そんな様子に深刻さを感じ取ったのか、芙喜子の追求が徐々に穏やかになってきた。
 「……彼女と何かあったの?」
 先程の軽い口調と打って変わって声を潜めた。恐らく芙喜子が思っていた以上の事態であることを暗に察したのだろう。
 そんな問いかけに対しても、俺は何も答えなかった。薄々感じていた疑問が確信に変わった瞬間であった。
 まさか、と芙喜子の口から漏れた言葉。その後に続く言葉は声にはならないが核心に触れる一言だった。
 そのことに対して芙喜子へ答えなければならない義務もなければ、答えようとする意思も俺には存在しない。
 例えそれが俺に対する心理カウンセリングを受け持っている芙喜子であっても、だ。
 「いいから話しなさい!」
 芙喜子はそんな俺の思いなどお構いなしの様であった。鬼気迫る顔で事の真相を糺そうとする。
 おいおいさっきまでと勢い違うじゃないか。大体なんでそんなに聞きたいんだ。もう終わったことなのに。
 やや鬱陶しく思えるが、恐らくだが芙喜子の性格から考えると俺が全てを話さない限り追求は終わらないだろう。
 そういえば血相を変えた芙喜子の顔って初めて見たかも……と思った。
 意図的に表情を変えることもあるが、基本的に動揺するようなことは滅多にない。男ばかりで華のない職場だから強がっているだけなのかも知れないが。
 ここまで真剣に聞いてくることを考えるとはぐらかすには一筋縄にいかないな……とふと思い、こちら側が折れる形で冬子さんとの別れの経緯を大まかに話した。
 一応俺も男なので晴継さんの接触云々の話はしなかった。『脅されたから別れた』と言ってしまうと男としての沽券に関わる。
 芙喜子は俺の話をただ淡々と聞いている様子であった。時々頷く様子を見せているだけで決して口を開かない。
 一通り聞き終わって、一時の沈黙が辺りを包んだ。
 その沈黙を破ったのは芙喜子であった。
 「……あんた、ホント馬っ鹿じゃないの?」
 明らかに苛立っている声。怒りは収まらないみたいらしく、言葉を続ける。
 「『危害が及ぶ可能性があるから別れる』って何?お互いに愛し合っていることわかっていたのに自分勝手な解釈で女泣かせて別れるなんて最低ね」
 最早棘があるレベルではない程の辛辣な言葉。普段から皮肉を言うことも多いがそれとは比べ物にならない。
 無理矢理(実質的には妥協したのだが)彼女と別れた理由を話させてこの言い草だと正直腑に落ちなかった。
 この問題はもう終わった問題だ、他人にとやかく言われる筋合いはない、と。余計なお世話だと言ってやりたいが、何倍返しになるかわからないのでぐっとこらえる。
 だが芙喜子の方はまだまだ言い足りない様子であった。
 「それにね、『君に危害が及ばないように』ってアンタは格好よく逃げたけど、そんな男の勝手な言い訳で捨てられた女の気持ちを考えたことある!?」
 激烈な感情が言葉となって芙喜子の口から飛び出してきた。普段クールな芙喜子からは想像も出来ないような直球が。
 正直面食らった部分もあったが、それ以上に芙喜子の言葉が胸に刺さった。
 『別に逃げた訳ではない、冬子さんのことを思ってのことだ』と弁解したとしても反論には決してならない。
 確かに俺は目先の幸せばかり見ていて、その先にある危険から目を背けていた。例え気付いていなかったとしても、それは芙喜子の言った通りただの言い訳にしかならない。
 その事実は飲み込まなければならない。
 だが……捨ててしまった罪悪感もあれば、捨てられない何かも心の中にはある。
 その両立が難しいことは考えなくてもわかっていた。幸せを掴むなんて、こんな真っ当ではない仕事に就いている時点で間違っていた。
 無意識のうちに顔が俯き加減になっていることを敏感に察した芙喜子は、一つ大きな溜息をした。
 「アンタねぇ、難しく考えすぎなんじゃないの?いつもみたいに単純になれば?」
 なんだよ『いつもみたいに単純になれば』とは。失敬な、そんじゃそこらのアホと一緒にするな。
 仮にも競争率が著しく高いCCRに入ることが出来たのだから知識はあるんじゃい。
 ……まぁ、筆記試験においてはサイコロ鉛筆と野生の勘を頼りに問題を解いたが、本当はもっと高い実力を持っているんだ!(な、何をそんな真剣に弁明しているのだ俺は)
 しかし『単純』とはこれ如何に。そんなに俺は複雑に考えているのか?単純になれと言われているにも関わらず物事を複雑に考えてしまう。
 解けない謎かけの答えは出題者である芙喜子の口から語られた。
 「……男なら両方取ってみれば?できない訳ないでしょ?」
 両方取り。愛か仕事のどちらかを捨てるのではなく、両方とも得ること。
 究極の選択だと考えていた自分の中に一筋の光明が差し込んだ思いであった。
 欲張りだと言われるかも知れない。否定はしない。何故ならば―――人間という生き物は元々欲張りな生き物なんだから。
 出来るだけ損はしたくない、出来ればより多く得をしたい。これが一般人の思考回路である。
 それが何が悪い。愛と仕事の両方を取って何が悪い。俺は俺なのだ。他人に色々言われる筋合いなどない。
 俺は誰なのか。俺は俺。それ以外の何者でもない。
 自分のことは自分で決める。それで失敗して命を落とすのも自分の責任。万が一冬子さんの身に危害が及ぶのならばこの身に変えて救い出せばいい。
 ……もっとも、そうなったとしても冬子さんの命と自分の命の両立を目指すと思うが。だって人間なんだもん、強欲なんだもん。
 開き直るという感覚だろうか、ふと自分の中で吹っ切れたように感じた。吹っ切れたら突然肩に圧し掛かっていた重石が外れたように、気分が軽くなった。
 そうなればこちらのペース。テンション急上昇で居ても経ってもいられなかった。
 「芙喜子!車はどこにある!?」
 その顔を見て芙喜子はクスリと笑ったような気がした。
 「2-13に置いてあるわ。使いたければどうぞ」
 芙喜子の声を最後まで聞く前に部屋を飛び出していった。
 一人取り残された芙喜子ではあったが、気持ちは晴れ晴れとしていた。
 (いいのよ、アンタはそれで……それでこそアンタなのよ)
 ふと時計に目をやるといつの間にか朝6時になるところであった。いつの間にか夜は明けていて、眠ることすら忘れてしまった。小さな窓からは太陽光が燦燦と降り注いでいる。
 今から行くと大学には到着するかしら。そんな余計な思案を巡らせていたが、ふと天邪鬼な自分の性格をちょっぴり後悔した。
 あーあ、あたしもあんな単純な人になろうかしら。普段は滅多に思わないことが頭を過ぎった途端、意識がふっと無くなった。



 車のアクセルはずっと踏みっぱなしにしたかった、ブレーキを踏むことも躊躇したかった。そんな気持ちである。
 ハンドルを握る手には知らず知らずのうちに力が入っていた。そんなことも感じてはいられず、光陰のように過ぎ去っていく景色を眺める余裕もなかった。
 今まで燻っていた得体の知れないモヤモヤは間違ってはなかった。
 未練がましい・女々しい・往生際の悪い。貶す言葉だけ列挙すればキリがない程冬子さんへの想いを捨てきれない自分を責め続けた。
 どれだけ自分を責めても、自分の中を覆っているモヤモヤが晴れることはなかった。それどころか時間が経過すればする程モヤモヤは濃くなるようであった。
 そして今ようやく自分の中を覆っていたモヤモヤで霞んでいたモノがはっきりと見えた。
 気分が晴れ晴れしてじっとしていることが凄く勿体無いように思えた。衝動的になっていると言われてもおかしくない。
 でも、今の俺の行動が間違っているとは思わない。間違っていたのは前の俺の方なのだから。



 焦る気持ちで辿りついた場所は、大学。
 以前冬子さんに誘われて大学に来たことはあったが、それ以来来る機会はなかった。
 何故ここに行こうとしたのかは覚えていない。ただ衝動的に冬子さんがここにいると直感で思ったから、としか言えない。
 車から降りた途端、わからないうちに駆け出していた。冬子さんを捜して。
 暫く走っていくと大学の中央に位置する広場が目の前に広がった。
 広場の中央付近にあるベンチ付近に、赤を基調としたワンピースを着た金髪の女性を発見した。今まで見慣れていたその服を着た女性を見た時、何故か非常に久しぶりな感覚を覚えた。
 このトキメキ……やっぱり俺は“冬子さんのことが好き”なのだ。
 「冬子さん!」
 いつの間にか気持ちが先走って、つい大声で呼んでしまった。
 周りの学生が俺の声に戸惑いと驚きと侮蔑の視線を送る。無関心を装う者も少なくない。
 それは俺がホッパーズのユニフォーム姿だからなのかも知れない。普段は少しは気を使ってまともな格好をしているだが、今は格好など気にしている場合ではない。
 冬子さんの方は思ってもいない“元恋人”の出現に戸惑いの色が出ていた。
 当然だろう。あの時フったのは確かに俺で、後を引くことなく潔い別れをしていたのだから。
 今、冬子さんが俺をどう思っているかはわからない。もしかしたら一方的な別れを切り出した俺を憎んでいるかも知れない。二度と会いたくない人なのかも知れない。
 でも俺は……。
 「冬子さんに大事な話があるんだ!」
 そこからは俺の経緯についてわかりやすく説明した。
 自分は生粋の野球選手ではないこと、CCRという裏の仕事が本職であること、そのCCRとはどのような組織なのか、そして何故自分が野球選手をしているか……
 聞いている方からすれば俺の話は御伽噺か壮大なファンタジーを聞いているような感覚だろう。こんなに都合の良い話など現実世界に存在するはずがない。
 だが、聞いている本人は至極真面目に俺の話を聞いてくれた。
 最初の内はやや話を呑み込めない部分もあるような表情だったが、わからないことがあると即座に訊ねてきてくれた。
 聞かれたことに対してはわかりやすく説明するように心がけた。そのせいか、少しずつ俺のことを理解しているように感じた。
 俺の話を真摯に聞く冬子さんの姿勢を目の前にして、正直感動に近い感情が込み上げてきた。馬鹿にしている訳でも、流している訳でもない、真剣に俺の話を聞く態度に。
 一通り俺についての経緯を話し終わった後、冬子さんはこれまでの内容を要約してくれた。
 「……つまり、貴方は本当の野球選手じゃなくて、裏の仕事が本業。そして、その裏の仕事はとても過酷で危険、ってこと?」
 そこまで話の内容を理解してくれるとはありがたい。冬子さんの理解の早さに感服せざるを得なかった。
 冬子さんからの問いかけに黙って頷いた。
 「一度は諦めようと思ったんだけど、やっぱりダメだった」
 あんまりにも自分勝手な言い分だとは思っている。
 相手を危険から守りきれる自信がないという理由だけで、悲しい結末を選択してしまった。
 その選択でどれだけ後悔したことか。自分を憎む時もあった。だが、負の感情では埋められない何かが心にポッカリ開いていた。
 「冬子さんが好きです、もう遅いかも知れないけれど、それが俺の気持ち」
 それは……人を愛する気持ち。
 相手を想い、相手から想われる、この感覚は何物にも変えがたい。時には自分が思っている以上の力を引き出してくれるし、力が湧いてくることもある。決してマイナスには働かない、表裏のない真っ正直な心。
 だけど俺はその真っ正直な心から目を背けようとした。現実という理由をつけて。
 でも……それは俺自身の心が許さなかった。
 俺は馬鹿だ。馬鹿だから気持ちの表現が真っ直ぐすぎて時々煙たがれる。
 でも、俺は“正直者が馬鹿を見る”ことも別に構わない。愛と仕事を両立してもいいじゃないか。だって俺は馬鹿正直なんだから。
 ……ただ、相手が俺の気持ちに応えてくれるかどうかは知らないが。
 「えぇ、遅いですわ……」
 やや悲しげな目をしながら、冬子さんは立ち消えそうな声で呟いた。
 (やはり遅かったか)と思わざるを得ない。妹のためなら何でもする晴継さんのことだ、恐らく先に手回しして無難な他人との縁談を薦めたに違いない。
 恐らく冬子さんも今回のことに懲りて兄の顔を立てるために縁談を受けたのだろう。自分のせいだと責めずにはいられなかった。
 だが、冬子さんの口から出た次の言葉は意外なものだった。
 「本当に……待って、待って、待ちすぎて、貴方のことがもっともっと好きになってしまいましたわ」
 思ってもいない言葉が冬子さんの口から出てきて、思わず冬子さんの顔を見つめてしまった。
 笑っている。心なしか瞳には涙もうっすらと見え隠れしている。
 あの時も同じように瞳に涙を溜めていたが、涙の意味合いは正反対。
 悩んでいたのは俺だけではなかった。冬子さんも俺と同じように悩み苦しんでいたのだ。
 それだけでも涙が瞳から零れそうになった。
 「今から後悔しても遅いわよ……今度別れようなんて言ったらもっと後悔するわよ?」
 小悪魔な台詞であろうと、今ならなんでも許せる。元々傷つけた俺が選択できるはずがない。
 喜びと共に愛情がふつふつと心の底から湧き上がって来ると同時に、途轍もなく目の前の冬子さんが愛しくなってきた。
 もう我慢できない……!
 俺は冬子さんの体を抱きしめた。簡単に壊れてしまいそうな、柔らかい冬子さんの肌が微かに震えていた。
 何があっても守ってやる。改めて心に誓うと時を同じくして、永遠の愛を誓った。





 いろいろな想いはあるけれど、やはりこれには勝てないみたいだ。





   (了)




 ほうろうさんに15万ヒット祝い小説としてお送りした“それぞれの想い”の別解釈Ver.です。

 あちらは主人公の存在をベールで隠した作品でしたが、こちらは完全に主人公視点で物語を進めています。書いている時には特に続編のことを意識して書いていなかったのに、なんでこんなに上手く話を作ることが出来るのだ!
 ……しかし、惜しげもなく「愛」という単語を使っていますね。普段そんな言葉滅多に口にしないのに。というか私の作品全体を見ても「愛」という単語自体滅多に出てこないぞ。

 あちらのキーマンがリンならば、こっちは芙喜子といったところでしょうか。どっちも大人な女性って感じがしますが、なんとなくキャラの位置が違いますので、その点住み分けも出来ているのでしょうね。
 前回以上に表現を変えてみました。全体的に砕けた感じで!わかるかな〜?
 ……わからないと結局変わってないのと一緒なんですけれどね。

 個人的には結構気に入っている作品です。合わせて“それぞれの想い”と一緒に読んで頂けるとさらに楽しめると思います。
 ほうろうさんに捧げた“それぞれの想い”、それにほうろうさんによる“それぞれの想い”の別解釈Ver.は「ほりぱわ」にて展示されています。是非ご覧下さい。

 (2008.04.21. up.)

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