猪狩守。
高校野球界に旋風を巻き起こしている、今注目の投手だ。
打者の手元で浮き上がる剛速球、プロでも充分に通用する変化球、四隅を精密に突くことの出来る制球力、9イニングを投げきっても息一つ上がらない持久力、そして強打者に怯えずピンチに怯まない堂々としたマウンド捌き。
どれを見ても超高校生級。今年のドラフトでは競合すること間違いなしの逸材だ。
さらには女子に受ける端整なルックスを持ち合わせ、高校生ながらファッション雑誌の表紙を飾る人気ぶり。自信家なところも女性を惹きつける魅力となっている。
父は世界的大企業として有名な猪狩コンツェルンの社長。大豪邸に住んでいて、噂では練習専用の球場を持っているとか。
一般人から見れば遥かに恵まれた環境と資質を与えられたと感じる。だが、彼には大きな悩みを抱えていた。
―――彼は孤独の真っ只中にいる。
【 猪狩守という生き方 】
幼い頃から好奇心が旺盛で、常に一番になりたがっていた。色々なことにチャレンジするが三日で飽きて放り出してしまう。
だから新しいことを始めると母は決まって「前のアレはどうしたの?」と聞いてきた。僕はその質問に答えず、新しい道具を母にねだった。
結局母は根負けして新しい道具を買い与えてくれる。が、気に入らずやめてしまう、ということを何度も何度も繰り返していた。
そんなある日のことだった。
誰と行ったのか思い出せないが、誰かに誘われて野球観戦に行ったことだけは鮮明に覚えている。
正直なところ野球なんか興味がなかった。それどころか観たかった番組が見れないことが不満で、早く終われと心の中で祈っていたほどだ。
だが、そんな気持ちは試合が始まると共に消滅してしまった。
背番号18をつけた人がグラウンドの中央へ歩き出した瞬間、球場全体が揺れるような歓声が上がった。
先述した通り、野球のことなど一切知識を持ち合わせておらず、その人が球界を代表する大エースであることも知らなかった。
勢いのある直球に相手は詰まらせ、切れ味抜群の変化球はバットに当たる気配さえない。打たれる気配が一切ない。
背番号18はマウンドの上で躍動していた。僕はその姿に魅入っていた。
『この人みたいになりたい』
一瞬の内に野球の魅力に取り付かれてしまった。
家に帰って即座に野球の道具が欲しいと母に懇願した。いつものことだと思って半ば諦めていた母だったが、今回は杞憂に終わることとなる。
三日経っても、一週間経っても、飽きることなく野球に没頭した。あの日見た18番が忘れられず、無我夢中で練習した。
練習相手がいないので弟の進を野球に連れ出した。元々引っ込み思案で大人しい性格だった弟しか相手をしてくれる人がいなかったが、これが結果的に良い方へと運ぶことになる。
何も知らない人が聞いたら笑うかも知れないが、当時の僕達兄弟は全て見様見真似でやっていたのだ。
だが、兄弟二人で仲良く無邪気に笑いながらキャッチボールをしていた頃が一番楽しく野球をしていたことに違いはない。
近所の野球チームの練習に参加した際に、監督から驚かれた。野球のルールどころかキャッチボールのやり方から全てがデタラメだったのだ。
だが、数日後にはさらに監督を驚かせることとなる。
基本を一から教えられた僕達は翌日になると完璧に習得しただけではなく、その時点でチームトップのレベルにまで成長していた。
昨日までまともにキャッチボールが出来なかった子が、翌日にはチーム内で誰もボールを取れなくなる。呑み込みの早さもあるが、底知れぬ実力の片鱗を見せ付けられて、明らかにチームメイトのやる気は落ちていた。
チームに合流して一週間、監督は他のチームへ行くことを勧めてきた。
「申し訳ないが、私には君達のような素晴らしい才能ある子に教えられる技術も自信もない」
提示されたのは地区で最も強いとされるチーム。激しい競争がある分、練習環境も指導者も恵まれているという。
それ以上にチーム全体への影響が大きかったのだろう。
才能ある選手が身近にいることで他の選手が良い影響を与えると言われているが、あまりにかけ離れた実力だったために何人の子が不安になっているという。
僕自身も練習が生ぬるいを感じることはあった。ここ数日は進としか練習をしていない。
けれど、自分から出て行きたいとは全く思わなかった。何も知らないまま入団を許可してくれて、一から基礎を教えてくれた監督の好意に感謝さえ感じていた。
自らのステップアップと考えた僕は二つ返事で移籍を了承した。その後は猪狩守の華々しい経歴が幕を開けることになる。
結果を求められ、期待に応えてきた。周囲から見れば順風満帆に映るかも知れないが、とんでもない。
僕のことを理解出来る存在が、いないのだ。
普通に生きている人の悩みは万人が共感することが出来るので、容易に解決できる。一流の人ならば同じレベルの人が集まれば自然と答えが見つかる。
ならば、超一流の人はどうすればいい?
根本的に話の次元が違うのだ。野球の技術論にしてもそうだ。
みんなが悩んでいることは僕の中では解決済みの問題だ。だから相手からアドバイスを求められた場合は、僕の方からわかりやすく伝えることが出来る。
だが反対の場合はどうか?まだその地点に到達していない人間が適切な指導をすることが出来るのか?答えはNOだ。
例え同じ時間軸の中で共有していたとしても、僕と他の人が共存できているとは言い難い。
「ごめん、分からない」と素直に言ってくれるならまだマシだ。
中には分かった気になって「分かる、分かる」と連発してくる薄っぺらい奴も存在する。そして、そういう輩に限って特に考える訳でもなく適当なことを並べ立ててペラペラと喋ってくる。
大体こういう軽い奴は僕のことを『自分の自慢アピール』程度にしか見ていない。僕自身ではなく、僕という存在が重要なのだ。
僕が有名なことに対して慣れているので対処法も弁えているが、一度だけ中学生の時に本気でキレたことがある。
幼い頃から桁違いの実力を誇っていたために、校内で知らない人は存在しない程の知名度を持っていた。
そのため自然と人が集まってくる。好い悪い問わず、に。
中学に入ってから近付いてきた人の中に一人だけ要警戒人物が存在していた。
見た目が少しだけ格好いいだけにも関わらず、自分は誰よりもイケメンだと勘違いしている、口先だけ達者な軽薄野郎。
僕のことを自分の自慢話のタネ程度にしか見ていないので、上辺だけの付き合いに留めている。相手をするだけ時間の無駄だ。
が、本人はそう思っていない。“猪狩守と話せる程度の関係”というステータスのためだけに近付いてくる。
ある日、気の置けない友人と雑談しているところにヤツが強引に割り込んできた。しかも折悪く、野球の話をしていた。
「猪狩、お前さぁ……」
大して親しくないのに呼び捨て。周囲に対して『オレは猪狩と仲がいい』アピール。
「最近練習していて上手くいかないってことない?」
「まぁ、ねぇ」
「あー、わかるわかる!俺もさぁ……」
曖昧に答えても本人は簡単に離してくれない。
特に聞いてもいないのに質問してきて、分かった顔をして適当なことを並び立てる。そして自分の自慢アピールへ話題を持っていく。
話をしている自分だけは楽しそうだが、聞かされる方からすれば不快以外の何物でもない。
予期せぬ展開に巻き込んでしまったことを目で詫びる友人を尻目に、ヤツは薄っぺらい自分の経験を元に色々とアドバイスをしてきた。
ベラベラとよく廻る舌だな、と出来うる限り意識を他に移そうと心がけたが、止まることを知らないマシンガントークに堪忍袋の緒が切れた。
目の前にある机をバンと叩いて「来い」と一言。後は黙って教室を飛び出した。
予期せぬ展開に唖然呆然としているヤツを、後ろから小突く友人。この場に至ってもまだ自分のせいだと気付いていないらしい。
制服姿のままグラウンドに出てから部室に転がっていたヘルメットとバットだけヤツに渡して、後はありったけのボールをカゴに積んでマウンドへ運んだ。
非常に険しい表情をしていたからか、それとも目の前で行われている大掛かりな準備に対してなのか、ヤツは慄いているが関係ない。
「立て」
マウンドに立ってヤツに指示を出すが、まだ事態を呑み込めずボーっと立っている。友人数人に促されてようやくヘルメットを被ってバッターボックスに立つ。
打席に立ったことを確認してから大きく振りかぶる。ゆったりとしたタメを作った後に、右足で大地をしっかりと踏み締めて、左腕を鞭のようにしならせて、自分の全てを白球に乗せて、放つ。
空気を切り裂く。重力をものともせず、矢の如く真っ直ぐ突き進む。
白球がバックネットの基礎部分に衝突した瞬間、ドスンと重く鈍い音がグラウンド内に響いた。
ストライクゾーンからやや内角高めに外した球ではあったが、自分の胸の前を通過していく迫力に気圧されてペタリと尻餅をついていた。
だが、これは序曲に過ぎない。
左手で“立て”と指示をしたが恐怖のあまり座り込んで立ち上がれない。仕方なく友人二人に手伝ってもらって無理矢理立たせた。
この一球だけで終わりのはずがない。何故ならば、まだボールはカゴ一杯に山積みされているのだから。
視界から突然消えるスライダー。バットを出した途端に大きく曲がるカーブ。顔面を通過していく全力ストレート。
後先考えず、とにかく投げ込んだ。
これが試合だったら最後まで投げ抜くことを考えてブレーキをかけるが、今はそんなことを配慮する必要がない。常に100%の球を投げればいいのだから。
30球ほど投げ込んで、一度中断した。エンジンフル回転で投げていたので汗だくになっていたが、相手は何度もグラウンドに転んでいたので砂まみれになっていた。
マウンドから降りるとバットとヘルメットを奪い取って、今度はマウンドへと追い立てる。既に戦意喪失状態にあってヨロヨロと覚束ない足取りでなだらかなマウンドを登っていく。
その様子を見ていた友人数人が気を遣ってマウンドにピッチングネットを運ぶ。
観念した様子でマウンドに上がるとロボットのようにカクカクとした動作で投球に移る。ボールに力が込められてないため、大きく山なりの軌道を描いたボールは打席の手前で急落する。
けれど、そんな球でもバットに届く範囲だったので迷うことなく振り切る。
清々しいくらい綺麗な金属音をその場に残して、打球は一二塁間を一瞬の内に駆け抜けていった。最終的には右中間深くまで転がってようやく止まった。
投手だが打撃には自信があった。強打者としても評価されていて、登板しない日に外野を守らされて主軸を打ったことも何度もある。
表面上の僕しか知らない彼からすれば、こんな打球が打てるとは夢にも思っていなかったに違いない。
その後も、来た球を一心不乱に打ち続けた。
何度か強烈なライナー性の当たりが彼を襲い、その度に腰から地面へ砕け落ちる。数少ない絶好球は完璧に捉えて外野フェンスを高々と越えていく大飛球へと生まれ変わらせる。
やや気分が鎮まったので打席から離れたが、ハチャメチャに打たれ続けた彼の表情は血の気を失って蒼白になっていた。
「常に期待を背に負って、結果から逃げることも出来ず、僕の悩みを心の底から理解してくれる存在がいない。君に僕の気持ちが本当に理解できるか!」
マウンドにへたり込んでいる彼に追い討ちをかける、魂の叫びだった。内心ここまで自分が大声を出せたのかと驚くくらいの声だった。
一方、完膚なきまで叩きのめされた彼は二度と僕の前で適当なことを発しなくなった。
中学時代の輝かしい実績と申し分ない実力を引っさげて、あかつき大学付属高校へ進学した。
地元では有名な強豪校として全国にも名を馳せ、甲子園にも近年毎年のように出場している。徹底した実力主義と充実した練習設備が、一流の選手を育てる環境には相応しかった。
野球部へ入るに当たって入部試験が行われたが、難なくクリアしてその場で一軍スタートが決定。入部即一軍は現キャプテンの一ノ瀬以来の快挙だと言う。
だが、有望で生意気な態度の新入りが入ってきたら快く思わない先輩諸氏も多い。正捕手の二宮やエース一ノ瀬に次ぐポジションを狙ってベンチ入りを目論む二番手投手などなど。
そんな声を一蹴させたのは、誰でもないキャプテンの一ノ瀬だった。
入部して暫くした頃、一ノ瀬から呼ばれて二人きりで話す機会があった。
「君が練習に集中できる環境にないこと、本当に申し訳なく思っている。けど、君は君のやり方を貫いて欲しい。反撥があったら僕と監督が引き受けるから、やりたいようにやってくれ」
『新入りなんだから目立つな』と言われたことがあっても、『やりたいようにやれ』と言われたのは初めてだった。
もし仮に僕が一ノ瀬キャプテンの立場だったら間違いなく「僕の邪魔だから自分勝手なことをするな」と釘を刺していただろう。ひょっとしたらエースの座を奪われかねない存在に対して、自由にやれとは僕には言えない。
一ノ瀬キャプテンの器の大きさに感銘を受け、初めて心の底から尊敬できる存在に出会えた喜びを感じることが出来た。
実際に先輩からの嫌がらせもなければ理不尽な要求もない、準エース格扱いという破格の待遇で練習にしっかり集中することが出来た。
が、こんなことで満足している余裕はない。与えられた環境に報いるべく、さらなる高みを目指して貪欲に鍛錬することに没頭する日々を送った。
結果、一年夏の大会において背番号11を獲得。準エースとして先発登板も経験した。
尤も予選突破は甲子園への通過点としか考えていないチームからすれば、地方予選などウォーミングアップ程度にしか捉えていないかも知れない。
それでも登板した試合は全て完封して、高校野球においても猪狩守は通用することを周囲にアピールすることが出来た。
比類なき才能の代償として、理解されることのない天涯孤独の境遇に閉じ込められた。
弱音や愚痴を口にすることは許されず、周囲は勝手に囃し立てて期待値はどんどんと大きくなっていく。膨らみ続ける風船を二つ抱えて、破裂させないように全力で走り続けなければならない。
終わりが見えず、休むことを恐れ、それでも堂々とした態度で接する。
この苦悩を振り払うためには肩を並べる程の実力を持つ、ライバルの存在だ。
しかし幸か不幸か僕のメガネに敵う選手は見当たらなかった。全国大会に駒を進めれば「お、コイツやれる」と若干認める相手はいるが、如何せん距離が離れすぎている。
最も考えが近く身近にいる理解者は弟の進だが、その弟も僕と同じ立ち位置にはいない。才能はあるが僕という道標を必死に追いかけているに過ぎない。
そう簡単に超一流の選手がゴロゴロしていたら一流の価値が下がってしまうものだが、それにしてもライバルと認めるに相応しい相手がいなかった―――数ヶ月前まで、は。
野球は下半身が重要だという話はよく耳にする。時間があれば走るように心がけている。
バランス良く筋肉をつけるべきだと唱える人もいるが、何事も土台が基盤なのだ。足元がしっかりしていなければ上に幾ら積んでも崩れるだけだ。
日曜朝の情報番組でメジャーリーガーが考えられない凡ミスを犯した際に解説者が『あっちの選手は下半身を鍛えてないから』と熱く語っているが、メジャー嫌いだから難癖をつけているとは思えない。それこそ上半身ばかりに筋肉をつけたせいでバランスを崩してしまったのだろう。
走るルートは日によって変えている。毎日同じ道を同じように走っていたら飽きるし、“ただ走るだけ”の無駄な時間になってしまう。
オーバーワークにならないように距離だけ決めておいて、あとはその時の気分によって気まぐれに走っている。
その日は晴れていたが、少しだけ薄い雲が太陽を覆っていた。清涼な風を感じたくなって河川敷を通る道を選択した。
爽やかな風が肌に触れて後方へ流れていく。柔らかい太陽の日差しが仄かに体を温めてくれる。望んだ通りの展開になって、些か気分が良くなってきた。
耳にイアホンを装着してイメージトレーニングをしながら走った。自らが望んでいる理想の姿をイメージしながら、ただ無心に。
と、走っている最中、右肩に衝撃を受ける。当たった感触から人とぶつかったようだ。意識を集中している時は周囲が見えなくなってしまうのが今回は悪い方に出てしまった。
声がする方に目を向けると、そこには野球部のユニフォームを身に纏った一人の少年が地面にへたり込んでいた。
見た目から推察したところ僕と同じ一年生か。ちょっと当たっただけで転んでしまうとは基礎がなっていないなぁ、と一人で分析を繰り返す。ユニフォームの胸には赤い『P』の刺繍が入っていた。
(……パワフル高校、か)
既に同じ地区の基本情報は頭の中に叩き込んであった。ユニフォーム、学校の特徴、警戒すべき選手の顔とデータ。これくらいエースを目指す者としては最低限身につけておかなければならない基本だ。
パワフル高校は地区内では中堅クラスに当たる。かつては甲子園に出場したこともある実力校でもあるので侮りがたい。
現在はキャプテンの石原を中心とした守りが堅いチームであるが、決定力不足が課題。特に警戒すべきは遊撃を守る尾崎くらいか。
そして目の前にいるのは、一体誰なんだろうか。
「おいおい、気をつけてくれよ。この天才・猪狩守がケガしたら一体どう責任を取ってくれるというんだ」
まず口に出たのは謝罪の言葉ではなく、相手の非を責めること。
因縁をつけられることは有名人であるが故に多い。なので簡単に謝らず、如何に自分が悪くないかを相手に思い知らせる必要がある。
そのために相手から傲慢と言われるかも知れないが、常に自信があるように振舞う。ナルシストと蔑まれても構わない。自分に酔ってないと超一流なんか続けていけないのだから。
尤も、僕の場合は元々の性格が自分大好き人間なので半分は演技だが残り半分は本気でそう思っている。
「なにをー!そっちからぶつかってきたんじゃないか!」
倒された相手は顔を真っ赤に染めて反論してきた。どうやら僕という存在を知らないみたいだ。
ちょうどいい。この場でしっかりと猪狩守という名前をコイツに叩き込んでおこう。
「では、どっちが悪いか野球の勝負で決めないか?」
感情的になるタイプは誘うとすぐに乗ってくる。目の前の相手も二つ返事で勝負を了承した。
何も知らずに勝負を挑んできたことを後悔させてやる。そして、二度と噛み付いてこないように完膚なきまで叩いておく。
これこそが余計な争いを生まないコツだ。一々相手をしていたらキリがない。
河川敷にあるグラウンドで対峙したところで、意気揚々と打席に入ってくる。
「三球勝負だ。いいね?」
ルールは単純明快。ヒット性の当たりが出たら僕の負け、それ以外は僕の勝ち。ストライクとボールの判定は相手の良心に委ねる点で一致。
この提案を相手は了承した。そもそもストライクしか投げないのでボールになることなんか有り得ないけれど。
一球目はやや力を抜いたボールを低めに投げる。それでも140キロに届くくらいの速球なので、目にしたことのないボールに全くタイミングが合わずバットは空を切る。
次の球は全力で投げるストレート。伸び・速さ共に先程とは段違いなので、前のタイミングで待っていた相手は完全に振り遅れる。
そしてミソなのが、最後に投げる三球目。球を放すタイミングを若干遅らせる。ベストなポイントで投げない分、球威や速度は落ちる。
こうすることで相手には“バットには当てることが出来なかった”という意識が植え付けられ、さらに今日の対決をチームに帰ってからすることでチーム全体に苦手意識を広げることが出来る。
勇んで勝負を仕掛けてくる連中は単純なタイプが多い。なので圧倒的な力の差があると素直に受け止める。細工を仕込んでいるとは言え、やりやすい相手である。
筋書き通りに上手く事が進むはず、だった。
最後のボールを投げる。シナリオ通りにタイミングをずらす。空振り。
(―――!?)
目を疑った。先程のタイミングでバットを合わせてきたのだ。コースもばっちり捉えている。短時間の間にここまで修正してくる選手は、そんなに多くない。
仮に最後の球をベストな状態で投げた場合、間違いなくセンター前に弾き返されていただろう。勝負に勝ったものの、この結果は僕にとって屈辱でしかなかった。
勝者の余裕を満面の笑みで表現しているが、内心はかなり動揺していた。それとは裏腹に負けた方の彼は悔しさが全面に押し出していた。
「くそー、次は負けないからな!」
負けたからと言って意気消沈する気配は全くなく、次があれば間違いなく勝負を挑んでくる。
圧倒的な実力差があってもいつか自分に追いついてやる、という気概がある選手は滅多にいない。そして、そんな選手ほどよく伸びる。
捨て台詞を残して一目散に去っていく背中を、じっとマウンド上で見つめていた。
先日遭遇した“小波”は、その日からライバルとして僕の中に位置づけられた。
あかつき大付属の中には今現在の段階で小波以上の実力を持っている者もいるが、僕を倒そうという強い気持ちを持った者は誰一人として存在していない。
何人かは入部当初に対戦を申し込んできたが、一度しただけでその後は一切挑んでこない。一年の中で目立っていたのが気に食わない、という理由で挑んできたのかも知れないが、それにしても張り合いがない。
優秀であることの一つに、相手の力量を見誤らないことが挙げられる。どの程度の実力を持っているか判断することは大切だが、そればかり育ってしまうと自分よりも強い者が現れた場合には簡単に諦める傾向がある。
僕にだって勝てない相手は同じチームの中に何人もいる。
バッテリーを組んでいる二宮さんはバットコントロールに秀でていて難しい球でも簡単に痛打される。パワー自慢の三本松さんは多少芯を外していても強引にスタンドまで運ばれてしまうし、七井さんは外へ逃げる変化球を巧みに打ってフェンス手前まで飛ばしていく。九十九さんはパワーもミート力もそんなに高くないが、スイングに無駄がないので少しでも甘いところに入れば左翼方向へ簡単に流し打ちされてしまう。
個性派揃いのスター集団に、僕はまだまだ追いつけてない。だが勝てないからと言って諦めるような軟い心は持ってない。
そして小波も僕と出逢う度に毎回勝負を挑んできた。いつも返り討ちにしているのにも関わらず懲りずに「勝負だ!」と。それに付き合う僕も僕で相当なお人よしなのだが。
だが僕が日々成長しているのと同じように、小波もまた会わない間に少しずつ進歩を遂げていた。前回の対戦で通用していた球は次に会った時には克服している。
徐々に力の差が縮まってきている。僕との対戦が、小波をより成長させているのか?
初めて小波に負けた日のことを、今も鮮明に覚えている。
カーブが高めに浮いてしまい、それを逃さずコンパクトに振り抜いた。澄んだ金属音だけ残して打球は左中間深くに突き刺さった。
「……やったー!」
最後の最後まで白球の行方を見守っていた小波は、決着した瞬間に跳び上がった。全身で喜びを表しているのが敵である僕にも分かるくらいだ。
その瞬間の小波は、まるで背後からスポットライトで照らされているのかと錯覚するくらいに眩しく映った。その様子を眺めていたら沸々と悔しさが心の底から湧き上がってきた。
制球が乱れたのは上体が前のめりになっていたから。簡単に弾き返されたカーブはまだまだ改良を重ねなければならない。
一回負けただけで萎れる程、僕は余裕がない。この負けを糧にして、僕はさらに一回り成長しなければならない。止まっている暇など存在しないのだ。
同時に、敗れたことに対して真摯に向き合わなければならない。理由付けすることは簡単だが、そんなことをしていてはいつまでも前に進めない。敗因を分析して次に勝つために前へ進むのだ。
幸いなことに、これは私闘だ。公式戦の記録には載らない敗戦だ。大切なのは落としてはいけない試合で勝つことだ。
そう考えれば僕は幸運の持ち主だ。より強い猪狩守になるためのキッカケを、ここで見つけることが出来たのだから。
「まぁ、今日は朝から40度の熱が出ていたからキミが勝っても仕方ないね」
体裁を気にして一応フォローを入れておくが、我ながら負け惜しみが醜い。
だが口にしている言葉とは裏腹に、自宅へ戻ったら先程の負けを忘れないように普段以上の練習を自らに課して名誉挽回へ向けて鍛錬を積んだ。
再戦の機会は近い。明日は今日よりも強くなってやる、と強い意志を込めて練習に打ち込んだ。
互いに切磋琢磨しながら月日を重ねていった。
何度か公式戦の舞台で対峙したが、何れもあかつき大付属が勝利を収めた。しかし小波と僕の差が埋まってきたように、徐々に実力差も無くなってきている。
進と同年代で“二中の快速”こと手塚は持ち味の制球に磨きがかかってエースの風格が備わりつつあるし、同い年で二塁手の円谷は俊足を活かして攻守に貢献している。僕や小波と同じ学年の矢部も油断ならない存在として成長している。
されど、僕達も負けてはいない。スター集団が引退したことであかつきの戦力が弱体化するのではないかと危惧されたが、進との黄金バッテリー復活がそれを補った。
先輩達でも勝てなかった帝王実業には勝てなかったが、甲子園において猪狩守の存在を大いにアピールすることが出来た。
準優勝に終わってしまったが『今夏は頂点を獲れる』と周囲も、僕自身も信じて疑わなかった。来るべきその日に向けて、日夜トレーニングを続ける日々が続いた。
夏、地方予選。
甲子園でも快投を見せた実力派左腕に敵などいなかった。既にプロレベルと評される実力の前に次々と薙ぎ倒されていく。
そして迎えた、地方大会決勝。相手は因縁のパワフル高校。
小波もまた僕と同じように快進撃を続けていた。今夏にかける意気込みが成績にも出ていて、対戦するのを密かに心待ちにしている自分がいた。
熱戦の火蓋が切られた直後、パワフル高校のエース手塚の立ち上がりに隙を突いて先制点を奪取することに成功したが、その後はチャンスすら作らせてもらえない。
持ち前の制球が光り、あかつき打線は手頃な球を打ち損じて手玉に取られる格好となった。打たせて取るピッチングをパワフル高校ナインが全面的にバックアップする。
対する僕の方も悲願の全国制覇に向けて足を止める暇はない。初回から出し惜しみすることなくエンジン全開で打者に立ち向かった。
その中でも小波だけは別格だった。後先考えず持てる力を全力でぶつけた。小波もまた僕の気合に呼応してフルスイングで応える。
第一打席では自慢のストレートだけで押す投球で相手を捻じ伏せた。
が、進のミットまで一直線に向かうはずのボールの軌道が僅かにズレた。完全に振り遅れていたが脅威のスイングスピードでバットに掠ったのだ。
小波を三振にしたことで抑えきれぬ感情を雄叫びに換えて喜びを表しつつ、小波が持つ底知れぬ実力の片鱗を改めて思い知らされた。
その後も互いに一歩も譲らぬ好ゲームとなった。得点圏どころかランナーすら出ない、一進一退の攻防を繰り広げる。
味方が追加点を取ってくれない苦しい展開ではあるが、出し惜しみすることなく全力で相手にぶつかっている瞬間が今は凄く充実しているし、楽しく感じる。
楽しければマイナスの要素も吹き飛ばしてくれる。打たれたらどうしようなんてネガティブなことは頭に浮かばないし、通常よりも一球一球に力を込めていても疲れを全く感じない。
だが投げている本人は感じていなくても疲労は着実に蓄積していった。
最終回、あと三つアウトカウントを獲得すれば甲子園出場が決定するという大切な場面。そういう時こそ慎重にならなければならないのだが、ミスを犯してしまう。
ノーアウトで迎えた打者。初球がすっぽ抜けた。進が構える内角低めではなく外角高めへ、しかも伸び・スピードも明らかに劣っている。
これまで素晴らしい投球で反撃のキッカケすら作らせてもらえなかったパワフル高校ナインからすれば願ってもない大チャンス。絶好球に喰らい付く。
しかし肩に力が入りすぎたのか、打球は完全に勢いを殺されてコロコロと三塁線を転がる。一瞬痛打されることを覚悟していたが平凡なゴロで抑えられたことに安堵して、マウンドから駆け下りて打球処理を行う。
が、収めたはずのボールがグラブから零れ落ちてグラウンドに再び落ちてしまった。慌てて掴むが既にバッターは一塁へ頭から突っ込んでいた。
記録は僕のエラーだが、感じていない疲労を悟らされた。明らかに初回から飛ばし気味だったのがツケとして巡ってきたのだ。
全てにおいてパーフェクトを心がける僕が守備でミスするなんて信じられなかったが、やってしまったものはしょうがない。次から三人連続で抑えてしまえばいいだけの話だ。
割り切った瞬間から僕はいつもの猪狩守に戻っていた。息を整えて次の打者に臨む。
続く打者はエンドランという奇襲を仕掛けてきた。守備の乱れを突いて揺さぶろうという考えなんだろうが、既に僕は立ち直っているから無意味だ。
必死に繋ごうという気迫がバットに乗り移って渾身のストレートを芯で捉えたが、残念なことにファーストの真正面。白球を大事に掴んでベースを踏んでアウトが一つ。ランナーは進塁して二塁に。
今日初めて迎えた得点圏のピンチ。ここで迎えるは―――
『四番 小波 君』
神様は粋な計らいをするもんだな。心の中で呟いた。決してイヤな意味ではない。この巡り合わせが、運命のように感じた。
むしろ運を引き寄せているのは小波の方か。ヒーローになるべく生まれてきた人というのは必ず存在するが、そういうのは大概小波のような存在だ。
都合よくお膳立てされて、そしてシナリオ通りに活躍して、物語の主役として輝く。実に有り触れた展開だ。
スタンドからも一打サヨナラを祈って精一杯の声援を小波に向けて送っている。ここまでチャンスらしいチャンスがなかったパワフル高校応援団からは地響きのような大歓声がグラウンドの中心に向けて送られている。
あっちが主役なら僕は主役を引き立てる悪役か。面白い。
僕にだって小波に負けないくらいに大きなモノを背負っているのだ。
『今年の夏こそは絶対に甲子園で優勝してくれる』と信じて応援してくれている高校のみんな。
『黄金ルーキー・猪狩守は果たして最後の夏にどれだけの成績を残してくれるのか』と期待半分興味半分で見守っている世間。
普段は何も言わないが『やるからには常に一番になれ』と口にしている父。
『守さんは凄いですからねぇ』と本当に分かっているのか分かってないのか不明ではあるが、野球をすることに対して好意的に見ている母。
『兄さんは誰にも負けない』と信じて常にサポートしてくれる弟。
そして……絶対王者として振舞う自信家である“猪狩守”と、世間の期待というプレッシャーと理解者がいない孤独と日々格闘している“猪狩守”。
その全てを賭けて、その結末を変えてみせる。ここで小波を抑えて、僕は甲子園へ行く!
闘志が全身から溢れんばかりに燃えてきた、その時だった。
突然視線の先にいる進が立ち上がった―――敬遠である。
ここまで沈黙しているが、準決勝まで全ての試合で本塁打を放ってきた恐ろしい打者。おまけに逆境にも得点圏にも強い。
現在の状況は1アウト二塁。幸いなことに一塁は空いている。
勿論、猪狩守という天才投手の実力が信用出来ない訳ではない。だが、勝利を優先するのであれば当たっている四番と勝負を避けるのが妥当な判断だ。
これが進個人の判断か、それともベンチの指示なのか判らない。僕一人で野球をしている訳ではないから、チームのことを考えて冷静に判断すれば、この選択は正しいと僕は思う。
観客からは罵声やブーイングの嵐。露骨に勝負を避けることに対して非難の声が僕の元に集まってくる。
只ならぬ雰囲気の中で、僕は間合いを取ってゆっくり振りかぶり、投げた。
―――キーンと澄んだ金属音。白球は左翼ポールから大きく左に逸れていき、最終的にはスタンドの外まで飛んでいった。
明らかに進が出している場所とは見当違いの場所に球を放った。思い切り力のあるストレートを、ど真ん中に。
幸か不幸かフルスイングした打球は左へ大きく切れるファールとなったが、これが試合を決定付けるサヨナラホームランとなるところであった。
予想外の行動に出たことで慌てて進がマウンドに駆け寄る。
(何しているんですか兄さん。危うくサヨナラ負けになるところでしたよ)
マウンドに来た時点で判っていた。サインに従わず無茶な行動に出た兄を諭そうとしているのを。
けれど弟よ。すまないが今回ばかりは我が侭な兄に付き合ってくれ。
(進よ。確実に討ち取れると判っている相手に勝って嬉しいか?)
突然の謎かけに怪訝な表情を見せるも、ちょっと間を置いて答える。
(そうですね……やっぱり勝てるかどうか判らない相手から得られた勝利の方が僕は嬉しいですね)
何を言いたいか全て察したらしく「でも」と後につけるが、それは強引に口を止めさせた。この後に「これは勝負ですから」と続けて、冷静な判断を下すように話を持っていくに違いない。
けれど、僕の中では既に決まっていた。プライドと勝ち負けを天秤にかけて、最終的には自分自身を律することに針が振れた。
勝負から逃げることは猪狩守のイメージに反する。常に正々堂々と相手に向き合って、自らの力で捻じ伏せてきたのだ。
圧倒的不利な状況に置かれている相手も逃げることなく立ち向かってきたのに、自ら不利な状況に陥って逃げていたのでは示しがつかない。
イメージというのは本当に恐ろしい魔物だ。一度そのイメージが世の中に定着してしまうと、そのイメージから脱却するのは途轍もない労力が必要となる。それが事実であっても虚報であっても、だ。
だからこそ僕は今後のことを考えて、“逃げない”選択をした。
それに、勝ちと負けが紙一重の中で掴んだ勝利は自信に繋がるのだから。仮に敗者となっても悔いは残らない。
マウンド上で言葉を交わすことなく、目と目で会話をする。ジリジリと照り付ける太陽だけが兄弟の行方を上空から見守っている。
結局折れたのは進の方だった。
ハァと溜め息を一つついて何も言わずに元の位置へと戻っていった。そして何事もなかったように腰を下ろす。
戻っていく進の顔には「しょうがないですね」と書かれているように感じた。
すまないな、進よ。この勝負だけはどうしても譲れないのだ。
それに小波も僕が逃げないことを確信していたのか、進が明らかに立ち上がっていても投げ込んだボールに反応してくれた。誰が見ても敬遠だと判っていたのに小波は躊躇なくバットを出してきた。
そうこなくっちゃ。
気を取り直して二球目。僕の持てる全てを白球に乗せて手元から放った。しかし一直進に進のミットへ向かって突き進んでいたボールはあるべき場所に収まっていなかった。
球場内のスピード表示で151km/hを計測。今日一番の速さだったし、球自体もこれまで以上に伸びていたはずだ。
またしても澄んだ金属音だけ残して打球は高々と舞い上がった。弾き返された白球はセンターの頭上を遥か高く通り過ぎて、バックスクリーンも軽々と越えて球場の外へと消えていった。
一瞬静まり返る球場。だが次の瞬間には揺れるような大歓声がスタジアムを包んだ。
起死回生の逆転サヨナラホームラン。奇跡をこの眼で見た観客達の興奮は一挙に最高潮に達した。
その渦の中心に、僕は立っていた。自分が望んで突き進んだ道なのだ。打たれたことに、負けたことに一片の後悔もない。むしろ清々しさすら感じていた。
ベンチに戻った際に監督に一礼した。サインを無視した結果、チームは甲子園を目の前にして敗退してしまった責任を感じていない訳ではない。
しかし監督は何も言わなかった。基本を忠実に守っていれば犯すはずのないミスに対しては逆鱗に触れたが如く激怒する監督が、この時に限っては頑なに何も語ることはなかった。
試合後の会見で監督は「敬遠の指示は自分が出したが、猪狩守の様子を見て勝負するように指示した。その選択を間違っていない」と記者団に語った。
事実は異なる。あの時は確かに小波と勝負を避けるようにサインを出していた。敬遠を無視して勝負に出たエースを庇ってくれたのだ。
監督の心遣いに感謝しているし、だからこそ期待に応えたかった。
しかし自分の力が相手よりも劣っていた。実力的には互角か僕が上回っていたのに、結果的には土をつけられた。
だからと言って僕は自分の信念を貫いたことに微塵も悔やんでない。例え全国制覇を成し遂げたとしても、勝負を避けたことは一生後悔していたと確信している。
そして小波は僕を撃破した勢いそのままに甲子園でも快進撃を続け、真紅の優勝旗を手にした。全国の高校球児の頂点に彼は立ったのだ。天才・猪狩守を破った以上はそれくらいやってもらわないと僕の価値が疑われてしまうから、当然と言えば当然の結果だ。
……だが、この仮は必ず返すからね。待っていろよ、小波。
時は過ぎて11月。運命のドラフト会議の日を迎えた。
各球団のスカウトが黄金ルーキー詣でのために長蛇の列を作ったという噂が広がった。一位指名どころか抽選も確実だ。
三年夏こそ手に汗握る好勝負の末に敗れたが甲子園準優勝、数々の輝かしい記録で歴史にも記憶にも名前を刻んだ選手だ。
スポーツ紙の紙面を飾ったばかりかルックスから女性誌に取り上げられた程、知名度もある。
当然のようにルーキーイヤーから活躍が望まれる上に早くも新人王候補の大本命とさえ言われている。そんな選手を各球団が見逃すはずがない。
だが僕の中ではプロに入ることが目的ではない。プロに入ってからが本当のスタートなのだから。
そのため挨拶に来たスカウトの方に予め自分の意思を伝えておいた。
「意中の球団以外に入団する気は全くない。万が一抽選で外れた場合には大学に進学して4年後に改めて意中の球団からの指名を待つ」
スポーツ記者からも希望の球団を聞かれたのでスカウトに話した内容を全て明らかにした。これで後に引けない。
僕が入りたい球団は、幼い頃に見た18番のエースが所属する球団。伝統と格式を重んじる、歴史のあるチームだ。そして憧れの選手は現在も18番を背負って、チームの大黒柱として現役で活躍している。
憧れの選手と一緒に野球がしたい。全ての野球少年が抱く夢が、手の届く所まで近付いている。
仮にドラフト会議において意中の球団に入れなかった場合はあかつき大学へ入学することを事前に了解を得ている。
寧ろ大学リーグの成績が芳しくない現状を考えれば、将来球界のエースとして活躍する金の卵が入学することを心待ちにしている節さえ感じられた。
やれるだけのことはやった。あとは天命を待つばかり……
テレビでドラフト会議の様子が伝えられる。僕だけでなく殆どの部員が一つの画面に釘付けだ。
『一位指名 猪狩守 あかつき大学付属高校』
次々と僕の名前が呼ばれていく。予想通り一位指名は僕に集中している。その中に意中の球団も含まれていた。
重複指名となったので壇上に抽選箱が運ばれてくる。実際に采配を揮っている現役監督の手が、選手の人生を大きく左右する球団幹部の手が、次々と箱の中に入って一枚の紙を引き抜いていく。
何枚もある抽選の紙の中に、たった一つだけ交渉権獲得の文字が記されたものがある。誰が握っているかは開かれるまで分からない。
自分の運について考えたことは一度もない。全てが実力で決まる世界に身を置いているので運も大切な要素に含まれているのだから。
ただ、努力すれば必ず神様は報いてくれると信じてここまでやってきた。だから神様は裏切らない。自信を持って断言できる。
全ての関係者の手にクジが行き渡った。一斉に二つ折りにされていた紙が開かれる。
開いた瞬間に悔しい表情を見せる人、苦笑を浮かべる人、数多いる内で一人の手が挙がった。
―――憧れていた球団の監督の手だった。
挙がった瞬間、感動のあまり体が震えた。極度の緊張から解放された先に待っていた結末は、望んでいた未来だった。
疑ってはいなかったが決定した瞬間はホッと安堵すると共に選ばれたことへの喜びがこみ上げてきた。選ばれるってこんなに嬉しいことなんだな、って再認識させられた。
チームメイト達も僕が憧れの球団に入れることを自分のことのように喜んでくれた。祝福の嵐の中で、僕は舞った。
交渉に入ると色々な手続きの問題が発生するが、特に苦にならなかった。契約金・年俸も相手の提示された金額をそのままOKした。
但し、入団に当たって一つだけ球団側に希望を提案をした。
『背番号18』
キッカケは交渉のため学校を訪れたスカウトと球団関係者とのやり取り。
「猪狩君の希望は可能な限り尊重する」
その言葉を、しっかりと受け止めた。その上で希望の背番号を相手に伝えた。
勿論背番号について幾つかの候補を提示された。10番台の数字も入っていたので球団側の期待度も相当高いものだと推察できたが18番は含まれていなかった。
正直なところ、背番号18さえ頂ければ最低年俸でもドラフト下位ルーキー待遇でも構わなかった。それくらい18番にこだわりがあった。
この提案に球団関係者は苦い顔を見せた。自分達から言った以上は約束を果たしたい所だが、相手は球界を代表する大エース。簡単に譲ってくれるとは言い難い。
まだプロの世界に足を踏み入れていない高校生が身の程を弁えず強請っていることに対して「若造が調子に乗るな」と一喝されればそれまでの話。
しかし、巷には猪狩守の18番への強い憧れを持っていることは認知されていた。雑誌のインタビューやスポーツ紙の記事で度々語られていたのだ。
関係者がゴールデンルーキーと大エースの間で右往左往している間に、時間だけが虚しく過ぎていった。
吉報を待つ僕に、11月下旬ある人から極秘に会おうと連絡が入った。
待ち合わせ場所は都内にあるレストラン。
住宅地の一角にある建物は一見すると只の家にしか映らない。だが一歩足を踏み入れたら格式高い調度品で整えられた高級レストランの雰囲気を醸し出していた。
少し早めに到着した僕は、その人が来るまでガチガチに緊張していた。大事な試合でも平然としていられるが今日ばかりは特別だ。
その人は約束の時間から少し遅れて到着した。
「やぁ、待たせてすまないね」
対面した瞬間、僕の緊張は一瞬の内に頂点まで達した。
現れたのは―――初めて野球を目にしたあの日、マウンドに立っていた憧れの選手本人だった。
出逢って早々に手を差し出してきた。間を置かず右手で相手の手をしっかりと握る。ゴツゴツとした、そして温もりのある手だった。
まるで夢のようだ。しかしながら夢ではない。
簡単な自己紹介(するまでもないのだが)を終えて席についた。そして今日直接会う目的を切り出された。
「話は聞いているよ。18番を欲しがっているみたいだね?」
柔らかい声。これが果たして怒りを押し殺している声なのか、地声なのか、わからない。けれどテレビのインタビューを受けている時の声と少しだけ違うように感じた。
僕は野球をやると決めた時から一途に応援し続けてきた。グラブもその人のモデルの物を捜し求めて何軒もスポーツショップをはしごして、特集があると知ったら必ず録画したり購読したり。
ファンだと自負しているが、声で感情までは推察できない。
「はい!」
力強く返事をした(ように記憶しているが自信はない)。僕が18に強い憧れやこだわりを持っていることに違いない。
お互いに視線のやり取りを交わして、再び相手が口を開いた。
「ボクは君に渡してもいいと思っているよ」
元々数字に対してこだわりなんか持ってないからね、と言ってその人は笑った。本当に執着していないことは笑顔を見て確信した。むしろ喜んでいるようにも感じた。
「むしろ君みたいに次世代を担うエース候補の憧れになれただけでもボクは満足だよ」
自分の活躍が野球を始めるキッカケになったことを心の底から喜んでいる様子。
この時浮かべていた笑顔が、まるで野球を始めたばかりの少年みたいに輝いていたのを鮮明に覚えている。
嗚呼この人は本当に野球が好きなんだなと実感させられた瞬間だった。
「でも、一つだけ約束して欲しいことがある」
それまで浮かべていた笑顔から一転して険しい表情に切り替わった。眼光も鋭く、声も低く、威圧感を感じる。
競争が激しく厳しい環境にありながら一流の成績を残している者が持つ特有のオーラが、僕に敵意となって突き刺さる。あまりの気迫に胸が苦しくなる。
これは心して聞かなければならない。伸びきった背筋をさらに正して真っ直ぐ相手と向き合った。
「君自身が子ども達の心の中に『野球は楽しい』と憧れるような選手になってもらいたい。プレイだけでなく、一人の人間として。君ならきっと出来ると信じているからこそ、この場で約束して欲しい」
提案された約束は生半可なことではない。僕が憧れたように、僕も憧れの存在になれということだ。
今この場で必ずそうなると保証することは不可能だ。人間は過去を振り返ることは出来ても未来を見ることは出来ないのだ。
かと言って簡単に約束するのは相手にとっても失礼な話だ。
口約束なら誰でも出来る。実際に僕も中学時代に口だけ達者なヤツを見てきた。
威勢のいい言葉ばかり並べて結局中身は何もない。最初の頃は周りに人も集まったが、最終的には人が離れて完全に信用を失ってしまった。
この信頼というのは積み重ねるのは難しいが崩すのは簡単だ。そして初対面の人間の言葉を全て鵜呑みにする人は滅多にいない。
「はいっ」
しっかりと言葉を受け止めた上で、しっかりと返事をした。
余計な言葉で言い繕うよりも相手から目を逸らさず胸襟を正して、誠意を態度に表す。相手もあれこれ訊ねることなく僕の瞳をじっと凝視する。
「―――……よし」
どれくらいの時間が経過したのだろうか。無言のやり取りは30分以上続いていたと言われても疑問を持たない程、長く感じられた。
僕の固い決意を受け止めた相手は瞬く間に表情を緩めた。息詰まる雰囲気から解放され、張り詰めていた緊張がようやく解けてきた。
そして頃合良く料理が運ばれてきた。
この会食において何が出てきたか、どんな味だったか全く思い出せない。人生で最も幸福な一時を過ごしているのだからテンションが頂点を突き抜けないはずがない。
色々と聞きたいことを事前にまとめておいたが、実際に本人を目の前にしたらそれ以上に質問したいことが増えた。こんな機会は滅多にないので遠慮なく聞いてみた。
あまりに沢山質問したので相手も気分を害するのではないかと後々反省したが、相手は寛大だった。些細なことでも丁寧に答えてくれた。
自身も甲子園優勝の経験もある全国屈指の強豪校出身。各地から選りすぐりの精鋭が集まる中で不動のエースとして君臨し続け、結果優勝投手にも輝いた。
そして野球のみならず勉学においても優秀な成績を収めており、笑みを絶やすことのない温厚な性格から先輩後輩問わず慕われていた。このエピソードはファンなら誰でも知っていることだし、当然のように僕も熟知していた。
だが、完全無欠のスーパーヒーローは意外なことを口にした。
「ボクは元々“優等生”キャラだから相手を傷つけるような言葉や怒らせるような態度は一切出せなかったから、周囲にすごく気を遣っていた。けれど猪狩君の場合はありのままの自分を表に出しているから羨ましいよ」
僕は決して味方が多い訳ではない。先輩でも気にすることなく自分の主張を通すので反撥を招くことが多かった。
自信家なのは元々の性格でもあり演じている部分でもある。それによって弊害もあるがこのスタイルが一番自分に合っている。
そんな自分が「羨ましい」と思っているなんて、考えもしなかった。
「猪狩君は自分を貫くタイプだと思うけど、それはプロに入っても変えない方がいい。自分を強く持つということは簡単なことではないけれど、きっと力になるよ」
今の僕は好奇心の固まりだ。そして返ってきた答えは全て僕が今必要としている答えだった。ずば抜けた才能と釣り合うだけの努力を重ねてきた者だからこそ的確なアドバイスが出来るのだ。
豪華な料理なんかよりも経験が凝縮された会話だけで僕は満足だった。
ふと気付いて時計に目をやると、かなりの時間が経過していた。幸せな時間というのは早く終わりを告げる。
高校生に代金を請求することなく全額払ってくれた。お小遣いで払えない金額ではなかったが、ここは甘えることにした。
そして別れ際に僕の元に歩み寄ってきて言葉をかけてくれた。
「猪狩君と一緒に野球が出来る日を心待ちにしているよ」
来年の2月から一緒に野球が出来る。
まだ実感が湧かないものの、最後にかけられた言葉をじっくりと反芻しながら幸せな時間を改めて噛み締めた。
無事に契約を済ませて、憧れの18番が入ったユニフォームに袖を通すことが出来た。
そして足を踏み入れたプロの世界。だが狭き門を抜けてもスポットライトの当たる場所に立てる者はほんの一握りに過ぎない。
新人も若手もベテランも、皆野球をするなら観客が大勢いるところでやりたい。待遇も天地の差だ。
僕はキャンプから出し惜しみすることなく首脳陣に自分をアピールした。アマチュアとは比べ物にならない練習量に音を上げる同期よりも、過酷な環境でやり方を覚えた先輩よりも、ひたすら練習した。
紅白戦、練習試合、オープン戦と登板を重ねて評判通りの実力を証明。その結果、見事開幕一軍と先発ローテーション入りを勝ち取った。
高卒ルーキーが開幕即一軍・先発ローテーションに入ったことは大きな注目の的となった。高校時代の輝かしい経歴などプロに入ったら紙屑同然、結果こそ全てだ。
これだけで満足するような僕ではない。さらなる高みを目指して足を止めることなく前進を続けた。
初先発初勝利を皮切りにして着々と勝ち星を重ねていく。完封も二桁奪三振も記録してオールスターにもファン投票で選出されてルーキーで唯一の出場。
投手陣が調子を落とす夏場も成績を落とすことなく乗り切って、一度もローテーションから外れることなく年間通して一軍を守り抜いた。
タイトルこそ獲得出来なかったが各種部門において『猪狩守』の名前がランキングの上位に掲載された。先発投手の最高勲章である沢村賞にもノミネートした。
これには日頃口煩い名物オーナーもご満悦の様子だったとか。“常勝”と“日本一”が至上命題の名門チームに新たなヒーローが誕生したことは、次世代の旋風を予感させると世間は期待した。
順調にスター街道を歩んでいたが、三年目の冬に思いもよらぬ方向から激震が走った。
父・猪狩茂が社長を務める猪狩コンツェルンがたんぽぽカイザースを買収して猪狩カイザースに改称することを突然発表したのだ。
たんぽぽカイザースは球界でも一二を争う貧乏球団であり、成績も過去十年以上に渡って低迷していた。そこに日本でも指折りの超優良企業が入ることに対して誰も文句を言わないし、疑問もない。
ところが、自らの息子である猪狩守が電撃移籍で猪狩カイザースに入ることも併せて世間に発表したのだ。これには世間も衝撃を受けた。勿論発表当日まで何も知らされていなかった僕も大いに驚かされた。
弱小球団から常勝軍団に生まれ変わるには血の入れ替えが必要。そこに将来球界を背負うことが予想される若きエースは打ってつけの存在だ。
そして何よりも父は公私混同を嫌い、実力なき者を嫌う。成績を残せなければ即解雇も有り得る話だ。
自らの成績がチームの順位を大きく左右する重要な位置。両肩にこれまで経験したことのない重責を担わされることとなる。
波乱で幕を開けた四年目は、これまで以上に奮起した。『移籍してからパッとしない』と言われたくなかったし、『猪狩守だけ孤軍奮闘している』と言われたくなかった。
負けることに慣れてしまったチームメイトには先輩同期後輩問わずに喝を入れた。チーム内で衝突することも度々あったが、考えを曲げることも主張を控えることもしなかった。
勝つことへこだわりを持つチームへ転換するために必要なことだった。恨まれることも厭わない。これでチームが勝てるようになるのなら全く気にならない。
こうして、少しずつ白星を重ねていき上位を維持するチームへと変貌を遂げていった。
ペナントレース終盤に調子を落として優勝こそ逃したが、昨年まで最下位が定位置だったチームを見事に生まれ変わった。
さらに僕は初めてタイトルを獲得。加えて沢村賞も初受賞。先発投手として素晴らしい栄冠を手にすることが出来た。
翌年もチームは春先から首位を堅持して日本一になることが出来た。前いたチームで日本一になった時より何倍も嬉しかったことが強く印象に残った。
一方、ライバルの小波は一向に姿を見せない。入団してから4年間、ずっと二軍生活を送っていた。
元々センスはあっても荒削りな部分が非常に多い選手だった。基礎を徹底的に叩き込む方針が強いパワフルズではルーキーが一軍に鮮烈デビューなんて有り得ないのだ。
このまま未完の大器として陽の目を浴びることなく朽ち果てるかと危ぶんでいた5年目にようやく開幕一軍デビュー。序盤は代打での出場が多かったがオールスターを境にレギュラーとして定着。
6年目の今年は主力選手として、身売り騒動で大揺れのパワフルズを引っ張っていた。
やはり僕が認めたライバルだ。そうでなければ張り合いがない。
オールスター前最後の登板は白熱の首位攻防戦の三日目となった。
猪狩カイザースはスタートダッシュに成功して一位を堅持しているが、二位のパワフルズがここに来て急追している。既に首位の背中は視界に捉えている。
お互いに白星を一つずつ分け合ってゲーム差は変わらず。この三連戦最終日こそ大一番と両チーム気合充分だ。
パワフルズは昔から打撃が売りのチーム。失点を上回る打力で打ち勝つことがお家芸となっているが、ここ数年はその傾向が顕著になっている。
本塁打王・打点王に輝いた福家に絶賛売り出し中の小波が中軸に加わり、厚みも増した。さらに小波と同期で入団したパワフル高校の矢部など機動力も兼ね備えている。昨年入団ながら既にチームの大黒柱として活躍する技巧派の館西も侮りがたい。
対する猪狩カイザースも負けていない。
この天才・猪狩守に、昨年新人王を獲得した若手の友沢、メジャーでバリバリ活躍した主砲ドリトン、そしてスター集団にありながら黒子に徹している弟の進もいる。隙など存在しない完璧な布陣だ。
試合は序盤から投手戦の様相を呈した。館西は打ち気に逸る打者を逆手に取って打たせて取る投球でアウトを積み重ねていく。対する僕は圧倒的な力で豪快に捻じ伏せるピッチングで応戦する。
互いに一歩も譲らぬ展開は終盤まで続いた。
7回裏、猪狩カイザースの攻撃。ここまで打者を手玉に取ってきた先発の館西に疲れの色が見え始めてきた所を攻め立てて、2アウトながらランナーを二塁に置いた場面。
ここで打席に入るのは―――
「九番 ピッチャー 猪狩守」
僕の名前が球場内にコールされると一斉に観客が湧き立つ。
忘れているかも知れないが僕は打撃も得意なのだ。野手顔負けのバッティングで打撃コーチも認めていて、調子を落としている若手に「猪狩守の打撃を見習え」と発破をかけているという噂もある程だ。
プロに入ってからは投手に専念しているが、高校時代はエースで四番を打っていたこともある。ホームランも毎年数本打っている。
だからこそ観客は期待するのだ。『猪狩守ならやってくれる』と。
打席に入ると色々と考えてしまう。今日の配球傾向、変化のイメージ、この場面をどう攻めてくるか。マウンド上にいる館西の様子と捕手の態度も目に入る。
スライダー・カーブ・シンカー・シュートと球種が多いので的は絞りにくい。かと言って変化球を待っていると四隅にストレートで攻めてくる。
三振は狙わず内野ゴロに仕留めるのが館西の特徴。今日は是が非でも勝ちたいという意識が強いために皆早打ちして球数もそんなに多くない。
やはりチームの柱なだけある。今日に合わせてしっかり調子を整えてきたと見える。自慢の制球も随所に光っているのでカイザース打線も未だに攻略出来ていない。
(この場面で内野ゴロに仕留めたいと考えるならば……)
大きく息をついて館西が投球モーションに入る。
横手から繰り出されるボール。インコースの低め。球の速さは若干早いからストレートか?
(館西のストレートはそれ程早くない。だからこそ配球と制球で勝負している。僕ならば―――)
ベース手前で変化が始まる。左打者の膝へ切れ込んでくるスライダー。恐らく僅かにストライクから外れるコース。
ストレートだと錯覚した打者は芯を外されて内野ゴロ。これが館西が望んだシナリオ。
だが、僕は違った。
迷いなくバットを振り抜いた。しっかりとボールを捉える。両手に伝わる感触は悪くなかった。
アウトになることを気にしなくていいので、久しぶりに思い切りバットを振ってみた。やっぱり気持ちいい当たりを打った後は爽快な気分に浸れる。
打球は高々と舞い上がってライト方向へ飛んで行く。ライトは定位置から少しずつ後退を続けてフェンス手前まで到達したが、まだボールは落ちてこない。
二塁ランナーは既に三塁を踏んで本塁へ向かっている。僕も打球の行方を見守りながら一塁から二塁へ向かう。
長い滞空時間の末、ようやく打球が地上へ落ちてきた。センターもカバーのため懸命に走る。
ライトスタンドに詰め掛けているパワフルズファンとしてはフェンスを越えないことを祈っているだろうが、レフトスタンドからは入って欲しいという声援がボールを後押ししている。
そしてタイミングを見計らってライトは跳んだ―――精一杯伸ばしたグラブよりも高い位置でボールは跳ねた。跳ね返ったボールをセンターが捕球する。既にランナーはホームに到達していたのでカイザースが貴重な先制点を勝ち取った。
後続が続かず追加点を奪えなかったものの、一点あれば充分だ。相手に点を与えなければ問題ないのだから。
だが簡単に勝たせてくれない。八回までヒット二本に抑え込まれていたパワフルズ打線だったが、最終回に先頭打者が放った弱々しい打球がセンターの前でポトリと落ちてしまった。
打順が上位に巡って一番バッターにサードゴロでランナーを進められ、続く打者に送りバントを決められてしまう。初めてランナーが三塁に到達してしまった。
ここで迎えるのは……
「三番 セカンド 小波」
小波の名前がアナウンスされると球場内に割れんばかりのエールがパワフルズ応援団から飛んできた。打席に入ってくる小波の表情は若干この雰囲気を楽しんでいるように映った。
クリーンナップに入ってから一段と風格が増してきた。簡単に抑えられると思っていたあの頃の姿は、もう微塵も感じられない。
得点圏打率は規定打席に到達した全選手の中でダントツのトップ。公式な数字で出ていないが、7回以降の終盤で負けている場合の打率も通常時よりも高いデータもある。
“チャンスに強い”“逆境に強い”というイメージがファンの間でも定着しているのだろう。だからこそ遠い一点を追いかける場面でファンは勝つことを諦めていない。
さらにパワフルズ側に希望を持たせる証拠が一つある。小波はここまでヒット二本を打っている。今パワフルズで一番僕と相性がいいのだ。
確かに対戦成績だけを見ると小波の打率は四割を超えている。本塁打も他の打者と比べても多い。
だが凡退した打席の大半は三振。そもそも六割は僕の方が勝っているのだから抑えられないはずがないし、苦手意識がある訳でもない。
僕と小波の対戦にデータなんか関係ない。抑えるか打たれるかの二つに一つしかないのだ。
一旦間を置くためプレートから外れる。軽く目を瞑り、ゆっくりと息を吐き出す。
これは以前聞いた憧れの人の精神統一方法だ。感情に呑まれそうな時には気持ちをフラットにする上に、外部の刺激を遮断することで集中力が格段にアップすると教えてくれた。
プロに入ってからはここぞという場面で必ずやっている。一種のおまじないみたいなものだが、案外バカにしたものではない。
次に瞳を開けた瞬間、僕の視界には進と小波しか見えなかった。アンパイアも含めて他の部分に気が散らない。
最終回に訪れた同点・逆転のピンチでも進は動じず、普段通り落ち着いてサインを出してきた。
僕の後ろを追いかけていた進は、もういない。一人前の優秀なキャッチャーであり、最も信頼が置けるベストパートナーだ。
観衆が固唾を呑んで見守る、その初球。
ゆったりと振りかぶり、しっかりとタメを作ってから右足を踏み出す。左腕をムチのようにしならせてボールに僕の力を結集させて、思い切り放つ。
僕の元から離れた白球は進が構えるミットへ目掛けて一直線に進んでいく。
それを向かい打つべく小波はしっかり左足を踏み込み、そして体を捻りながらバットを振る。当てに行くことなんか考えてない、ホームラン狙いの豪快なスイングだ。
しかし小波のバットはボールに届かない。難所を越えた渾身のストレートを進はがっちりと掴んだ。
「―――ストライクッ!」
一拍の間を置いて湧き上がる大歓声。力と力のぶつかり合いに観衆は皆それぞれ引き込まれていた。
人はよく僕と小波の対戦を名勝負だと騒ぎ立てる。当事者同士は特にそんなことを思っていないにも関わらず、だ。
しかし僕が小波に対して特別な意識を持っていることは否定しない。そして小波も同じだ。燃えないはずがない。
二球目。外角低めギリギリにストレートを投げ込んだが今度は当てられた。打球は勢い良く飛んで行くが、ライト線を大きく右に割れて一塁側スタンドの最上段に突き刺さった。
続いて三球目は膝元へ大きく曲がるカーブを投じたが、低めに沈んでいく球を上手にすくい上げられた。
大きく舞い上がった白球は打った瞬間からファールと分かる打球だったが、外野後方に掲示されている広告に当たった。
コースから考えれば間違いなくフェアゾーンに入らないと判断出来たが、もしものことがあったらと考えると背筋が凍る思いだ。広い猪狩ドームであってもスタンドに届いている飛距離だ。
結果的に追い込んでいるカウントではあるが、小波にも応援しているファンにも悲壮感は全く感じられない。
どよめく球場内の雰囲気に、進は淡々と次のサインを送ってくる。
真ん中・低め・ボール・フォーク。
(是が非でも同点にしたい小波さんは、どんな球でも打ちに来るでしょう。ここはフォークで落として三振を狙いましょう)
進の考えが手に取るように分かる。長い間バッテリーを組んできたこともあるが、やはり兄弟として付き合ってきた年月のこともある。
だからこそ僕の思っていることや考えていることに沿ってサインを出してくれる。全てを委ねて投球に全力を傾けられる分、本当にありがたいと思っている。
しかし、まだ甘い。サインに首を振る。
(今日の小波は変化球に対応出来ている)
決して進のリードが下手とか言っている訳ではない。
小波が『直球が大好物』で『低めに落ちる球に弱い』ことが頭に入っているからこそ、この場面でその選択をしてきたのだろう。僕自身も正しいと思っている。
だが、先程のカーブもそうだが、今日の小波は変化球への対応が普段よりも冴えている。
第一打席では内に切れ込むスライダーを上手く捌いて三塁線を破るツーベースを打たれた。第三打席は外野フライに抑えたものの、低めのフォークをすくい上げられてフェンス手前まで持って行かれた。
そのイメージが僕の頭から消えないのだ。当然小波の中にも変化球を打っている姿が残っているに違いない。
さらに、小波は土壇場に強い。少しくらいストライクゾーンから外れていてもひっくり返す怖さが彼には備わっている。
フォークで空振りを取れれば問題ないが、仮に芯で捉えられるようなことがあれば目も当てられない。加えてカイザースに小波のような土壇場に強い打者はいないので逆転勝利の望みは皆無に近い。
僕の中で次に投げる球は決まっている。「これで決めたい」という願いも半分あるが。
サインを横に振られて若干の時間を置いてサインを出してきた……やはり進だ。わかっている。
次で決める。出してきたサインに頷いて静かに息を整え、昂った気持ちを一度落ち着かせる。
意識しなくても機械のように同じ投球動作を行えるまで体に沁み込ませた。気をつけていることは流れで投げるのではなく、一球一球気持ちを籠めること。
そう教えてくれたのは誰でもない自分だった。
気を抜けば大した打者でも打たれる。逆に気持ちで負けていなければどんな強打者でも打ち取れる。
だから、これで決める!
唸るストレートは内角の高めへ向かって突き進む。下から上へ浮き上がる軌道に、全力のフルスイングで応える。
ボールは―――進のミットに収まった。小波は勢い余って回転しながら地面にへたり込んだ。
勝利が決まった瞬間、僕は小さくガッツポーズをしていた。常にクールな顔を見せていたが最後には地が出た。
小波のことを感情屋と言っているが、僕も人のことを言えないな。やっぱり全力でぶつかって、三振を奪えたら心の底から嬉しいや。
インタビューを受けてベンチ裏に戻ると進に遭遇した。
「兄さん、お疲れ」
冷えたスポーツ飲料を手渡される。軽く口に含んで喉に送ると玉のような汗が滝のように噴き出してきた。
「しかし最後は怖かったですよ。『内角高めのストレート』なんて小波さんの一番得意なコースじゃないですか」
小波は高校時代からストレートが滅法強く、プロに入ってからもその傾向は変わっていない。特に内角の高めは好不調関係なく高確率で打たれている。
けれど僕の得意コースも小波と同じ内角高めのストレートだ。これだけは誰にも負けない自信がある、と自負している。
偶然にも互いの得意が一致している。これも何かの縁かも知れない。
「まぁいいじゃないか。これで高校の時の借りは返した」
「もー、またですか?」
何かある度に高校三年の夏に負けたことを持ち出すので、進も飽きている様子だ。だが小波とは勝った負けたと気にしている間柄なので自然とその話題になってしまう。
子どもっぽいと進は言うかも知れないが、僕達は根っからの野球少年なんだ。体は大きくなっても中身は全然変わっていない。
「あ、先程“監督さん”に会いましたよ。兄さんは会いました?」
これを言いたくてベンチ裏まで迎えに来たのかな、と推察する。その証拠に“監督さん”と言ってからの表情がどこか懐かしげである。
僕達兄弟の中で“監督さん”と呼んでいるのは一人しかいない。カイザースの神下監督でもなければあかつき大付属高校の千石監督でもない。
そして僕も“監督さん”と聞いて懐かしい雰囲気を感じた。試合直後で興奮が冷めなくて困っていたが、この単語で落ち着いた。
「いや、まだだ。今どちらにいる?」
「多分関係者入口のところにいると思いますよ」
さりげないフォローが入った。やはり進は気が利くな。
“監督さん”は初めて会ったあの時よりも背中が丸くなっていた。髪の毛もいつの間にか白いものが増えている。
「おぉ、守くん」
僕が声をかけたら相手が振り返ってくれた。その顔には前はなかった皺が幾つも顔に刻まれている。
背格好は変わっていたけれど、穏やかな笑みは相変わらず変わっていなかった。
そこに居たのは、初めて野球を教えてくれた近所の野球チームの監督だった。
再会を祝して握手した。がっちりと握られた手から温もりが伝わってくる。まだ野球を教えている手だった。
僕自身がこのチームに在籍していたことは誰にも言っていないし、監督自身も口にしていない。
けれど、僕はプロに入ってから教えてもらったことに対して少しずつでもいいから恩返ししようと心がけた。
長年使い続けてきて磨耗した道具を寄付したり、野球の楽しさを知ってもらおうと試合の観戦チケットをプレゼントしたり、偶然を装って野球教室に飛び入りで参加したり。
そして今日も監督はみんなを連れて観戦に来てくれたのだ。
「……でも、どうしてここまでしてくれるんだい?」
公式プロフィールにも掲載されていないチームに必要以上の肩入れ。周囲は不思議だと思っているに違いない。
それは監督さんも思っていることだろう。自分ではこの子達の才能を開花させられない、と匙を投げる形で他のチームへ追いやったのだ。負い目を感じることはあっても感謝されることはないと思っていたに違いない。
でも、僕達兄弟からすれば、あのチームこそ原点なのだ。
「僕達は監督さんがいたから、今ここにいるのです」
何もわからないまま入ってきた僕達兄弟を、丁寧に基本から教えてくれた。だからこそ、今の僕がいる。
ここまで野球が楽しいと教えてくれたのは、誰でもない監督さんなのだ。
だからこそ、監督さんにはいつまでも野球を教えて欲しい。どんなに下手な子でも『野球って楽しい』と思わせてくれることは、誇れることだと僕自身は思っている。
「これからも野球の楽しさを伝えていって下さいね」
もう僕は孤独じゃない。
だって野球をやっていたらこんなに素晴らしい人と会えたのだから。
END
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