地区では誰も『強い』部類には入らない無名の弱小校。一回勝てれば儲けモン、二回勝てれば大騒ぎ。そんな学校ではあったが、最後の夏は運にも恵まれた。
強豪校や近年力を伸ばしている学校が揃って反対側のブロックに固まって互いに喰い合う死の組と化した。
対してこちら側のブロックは一年先輩のお陰で好成績を残せた学校や近年弱小化が噂される伝統校がシードに入った。正直に言えば与しやすい展開だ。
そして対戦相手に恵まれただけでなく、主力となる二人がチームを牽引した。
エース・阿畑は並の打者では掠ることも難しいストレートが自慢で相手の攻撃を封じる。主砲・九十九は選球眼が良く甘い球が来れば長打を放って援護。
この名コンビが上手く噛み合い、トーナメントをポンポンと危なげなく勝ち進んでいき、残るは決勝戦のみとなった。数十年前のベスト8を大幅に上回る快挙に監督も校長も保護者も舞い上がった中でも、チームを引っ張ってきた二人は喜ぶ様子を一切見せなかった。
対戦相手に恵まれて主力二人の力で勝ち上がったと言っても過言ではないチームに対するは、強豪が潰しあう死の組を勝ち上がってきた実力校で全国大会に何度も駒を進めている実績を持つ。これまで戦ってきた相手とは段違いに強い。
負ければその時点で引退、どうすれば目の前の相手に勝てるか、それだけで頭が一杯だった。
迎えた決勝戦。試合は序盤から圧倒された。
これまでの試合では一周目ではまともに芯で捉えられなかった阿畑の速球も難なく弾き返され、九十九のバットは空を切るばかり。明らかに劣勢に立たされていた。
そんな中でも互いにゼロを刻む接戦を演じることが出来たのは要所で踏ん張る(秘められた才能が開花した訳ではなく、単に火事場の馬鹿力)阿畑のお陰である。得点圏にランナーを背負っても気合が乗り移ったストレートに負けて凡打に仕留めたのも一度や二度ではない。
だが、最終回2アウトでランナーなしの場面で阿畑の速球が甘く入ったのを捉えられて一点を失い、遂に均衡が破れた。相手投手に三塁を踏ませない完璧に近いピッチングで抑えられているウチのチームからすれば絶望的な失点だ。
ところが勝負はどう転ぶか分からない。その直後の攻撃で、相手のエラーも絡んで1アウト二塁と絶好の場面が訪れた。
一打出れば同点、ホームランならば逆転サヨナラ。ここで打席に立つのは―――頼れる主砲・九十九。
「いけー、九十九!!お前が出たら返してやるからなー!!」
次に控えるのはここまで熱投を続けてきた阿畑。九十九程ではないが打撃もそこそこイケるので五番に座る。
普段ならば鬱陶しいと感じる阿畑の声援も、今日はその声に何とか応えようといつも以上に気合が入った。
(……お前のおかげで五分の試合にしてくれたんや。ここで打たな、男が廃る)
バッテリーの表情には警戒の色が滲む。それは自分でもよく分かる。試合の流れが今こっちに傾きかけているのが肌で感じる。
相手のペースに呑まれて苦しい思いをしてきて、ようやく巡ってきた千載一遇の機会。このチャンスを掴まなければウチに勝ち目はない。
照り付ける太陽。“0”が並ぶ中で一つだけ刻まれている“1”が浮いているスコアボード。忙しなく足を動かしている内野手。汗を肩で拭う外野手。
お膳立ては味方が整えてくれた。あとは主役が試合を決めるだけ。
ここまで縦に大きく割れるカーブにタイミングを外され、カーブに的を絞っていると狙い澄まして勢いのあるストレートを投げ込まれ、相手の掌の上で転がされてきた。けど、カーブに目が慣れたし感覚も掴んだ。軌道も脳裏に焼きついてイメージもバッチリ。
垂直方向に落ちるカーブ、バットを出す、澄んだ音を奏でて弾き返される、横っ飛びして懸命に捕球しようとするショートのグラブの先を抜ける、低いライナー性の当たりはセンター前に落ちる、ランナーが滑り込んで生還。
一連の流れが浮かぶ時は正夢を見るように当たる。確証のない確信ではあるが、何度も経験していることが自信になっている。
投球動作に入る。手元から離れた後にふわっと浮き上がるように放れるボール。
予感的中。待ち侘びていた球に思わずバットを握る力が強くなる。余分な力を極力入れずコンパクトに、バットを振る。落ちてきたボールをしっかりと芯で捉えた。
打ち返された打球は投手の左を一目散に抜けていく。ランナーは打球を確認してスタートする。一塁へと駆け出しながらボールの行方を追う九十九の眼に、イメージと食い違う光景が飛び込んできた。
ショートは立っていた。咄嗟に差し出したグラブへ打球が吸い込まれるように入っていく。パシンと乾いた音が耳に届いて、グラブに収まったボールを二塁のカバーに入ったセカンドへトスする。慌ててランナーは踵を返して二塁へ頭から滑り込む。
土煙が上がる。塁審の腕が、振り下ろされた。アウトを宣告したのと同時に、二塁ランナーの手がベースに触れた。
たった数秒の出来事が、コマ送りのように怒涛の勢いで過ぎていった。何が起きたか理解できずに一塁の手前で立ち尽くした。
昼下がりの午後、僅か数秒で勝敗が決した。それと同時に二人が三年間を捧げた中学野球生活に幕を下ろした。
試合直後に行われた表彰式は一切記憶に残っていなかった。準優勝になった健闘を表して片方が旗を、もう片方が盾をお偉いさんから頂いたことしか覚えてない。ただ、悔しかった。すぐそこまで降りてきた勝利を自らの手で掴めなかった、自分達の不甲斐なさや実力が足りなかったことが。
健闘を称える監督の言葉も、仲間からの励ましの言葉も、後輩からの感謝の言葉も、全く心に響かなかった。負けてしまえば虚しさが際立つだけだから。
片付けや引退する三年生からの引継ぎを全て終わると辺りはすっかり夕焼けに染まっていた。部員は各自解散して家路に着く中、主力の二人は自転車に乗ってふらふらと校門から出て行った。
特に言葉を交わすことなく無言でペダルを漕ぐこと十分。辿り着いた先は河川敷。
前カゴに収まらないスポーツバッグも、学校指定のダサい鞄も、自転車に置きざりにして、身一つで草の絨毯に寝転んだ。
それまで一言も発してなかった二人だったが、堪えきれず九十九が「スマン」と短く呟いた。謝る相手は隣で寝ている阿畑へ向けて、だ。
「あの場面で俺が打っていたら今頃お前と二人でお祭り騒ぎではしゃいでいたんだがな」
日頃は些細なことでも関西弁で言い争いを繰り広げる関係ではあるが、それは互いに相手を信頼しているからこそ遠慮なしに意見し合えるからだ。幼馴染として一緒に過ごしてきた時間が長いので気を遣わないでいい間柄は特別な存在でもある。
競い合ってきた仲なので滅多なことで謝ることはない。それが今日は九十九の側が折れた。自分のせいで負けたと責任を感じていることも、勝ちたかったという気持ちも、阿畑にはよく分かる。
「いや、ワイ等の力が一歩及ばんかっただけや」
黄昏時の空を見上げながら宙に向かいポツリと喋った。
勝ち上がるに従って自分のストレートが通用しなくなっていたのは薄々気付いていた。バックの好守に助けられたことも一度や二度のことではない。騙し騙し乗り切ってきたが今回ばかりは相手が悪かった。
簡単にアウト2つ取れて無意識の内に気が緩んでいたのかも知れない。初球、内角へ狙ったストレートが内に入ったのを見逃さず真芯でジャストミートされた。高々と上がった打球は放物線を描いて外野フェンスを越えていくまで見送った。
その日で何度目かの失投が、決勝点となってしまった。
絶対に渡してはいけない先制点を相手に奪われてしまった。苦戦している味方打線を見ていたからこそ、チームの勝敗は自分の肩にかかっていると思っていたのに。最小失点に抑えて味方の援護があるまで持ち堪える自信はあったのに。
ここまで自分一人で投げ抜いてきたからこそ、チームに対する責任は人一倍強い。控え投手はどんぐりの背比べで任せられない事情はあったが、それでもエースとして君臨していた。
思い返せばあの日もこうして二人で並んで空を眺めていた。大会が始まる数日前、晴れ渡る空の下で「行ける所まで行こうや」と中学最後の夏に向けて意気込みを確かめ合った(男同士で気色悪いとか言わない。青春やで青春)。
まさか決勝まで勝ち進めるとは夢にも思っていなかったので快進撃を遂げたことは純粋に嬉しかった。でも、やっぱり一日でも長くこの面子と一緒に野球をやっていたかった。これは未練というより願望に近い。
あっという間の三年間が脳裏に甦る。あれこれ思い出を言い合う訳でもなく、また静かに時が過ぎていく。
明日からは後輩達による新しい野球部がスタートする。それなりに居心地が良かった野球部に自分達の居場所は無い。
「……お前、進路どないするん?」
先に話を振ったのは阿畑だった。
中学三年生の共通話題はやっぱりコレになる。“シンロ”という馴染みの薄い言葉がいつの間にかクラスのあちこちで飛び交っていて、各自が行きたい高校・入れる高校へ向かって走り出している。
『受験まで○ヶ月』と先生達が鬱陶しいくらいに発破をかけるが、実際に経験したことのない生徒達からすれば「まだまだ先の話」という感覚が強い。月日の感覚が大人よりもゆったりと流れている子どもにとって、二つ先の季節の話は遠い未来と同じ感覚だ。
まだ進路について実感の湧かない阿畑は九十九も同じだろうと思って聞いてみたが、隣にいる幼馴染は既に先を見据えた眼をしていた。
「実はあかつき大付から『推薦で来てみないか?』って誘いが来た」
「ホンマか!?」と驚きのあまり飛び起きてしまった。阿畑からすれば九十九も進路のことは考えてないと思っていただけに、先を越された思いだ。
あかつき大学付属高校、長ったらしいので“あかつき大付”と呼んでいる。
地区でも上位の偏差値を誇る進学校だが、スポーツにも力を入れていて野球部も強豪として知られている。昨年は春夏共に甲子園出場を果たして、今年の夏も本命と噂されている。
その高い実力を維持するために有望な選手を地区内だけでなく地区外からもスカウトするという話は聞いていたけれど、まさかウチみたいな弱小校にまで声がかかるとは思ってもいなかった。
九十九の話をまとめると、今回の大番狂わせがスカウトの目に留まったらしく、監督に“内々に”という形で推薦枠を一つ融通すると伝えられた。
本来であればキャプテンを務める阿畑が該当するが、推薦には一定の学力も必要とされることから九十九にお鉢が廻ったのだ。
「まぁ、しゃーないな。いつまでも“二人仲良く手を取り合って”なんて難しいからな」
「せやせや。今度会う時は甲子園行きを賭けた決勝の舞台と洒落込もうや」
何気ない提案ではあったが阿畑の眼はキラキラと輝きだした。「えぇなぁ!」と興奮した様子で九十九の顔を眺める。
まるでマンガやドラマにありそうな筋書きではないか。無限の可能性が広がる思春期の男子には刺激的な設定で、想像しただけで燃える。
それから“どっちが勝つか”でお互いが譲らず激論を交わすことになるが、まだ決まった訳でもないことに熱くなれるのは青春を謳歌している若者の特権だ。
結局双方が「お前には負けないからな」と声を揃えて終止符を打って、自転車に跨って家路へついた。それは互いに歩む道を暗示しているようにも見えた。
[ ]
翌年の春、阿畑はそよ風高校へと進学した。選んだのは“自宅から最も近い”という安直な理由からだが、地区の中でも平均偏差値よりも上に位置する学校へ入るために相応の苦労はあった。昨年夏の快進撃が内申の底上げがあったのは言うまでもない。
野球のことだけを考えれば(地区最強のあかつきを除けば)毎年ベスト16に喰い込む中堅校のパワフル高校や過去に甲子園出場を果たした経験がある古豪・白鳥高校へ進学するのが理想だったが、自宅から遠いという点がネックだった。
そよ風高校は学校が創立してから長い歴史を誇る伝統校で、今時では珍しい木造平屋建ての校舎だ。そのためか文化系クラブが多い。
そして肝心の野球部は―――公立の進学校にある野球部の典型例みたいな感じだった。“勝つ”ことより“楽しむ”ことに軸を置いていると一目で分かる。
監督も在籍年数だけ見れば素晴らしいが実績は乏しいヨボヨボのじいさん。ノックもロクに打てないのだから指導力なんか皆無に等しい。
当然ながら腕前は……お察しの通り。一回戦に勝てれば「久しぶりに勝てた」と喜ぶ連中の集まり、公式戦には一応名前だけ参加しているという状態に甘んじている。
その惨状を目の当たりにして愕然とする思いになった。野球がやりたくて野球部に入ったはいいけれど甲子園なんか夢のまた夢だ。
例えるならばあかつき大付は血統書付でペットショップで数十万で取引されるブランド猫、対するそよ風はそこら辺をウロウロしている野良猫。これが同じ土俵で戦えば結果は明白だ。
どうにかしなければ。あまりの酷さに阿畑は心の内で強く思った。
右も左もエリートっぽい感じが顔一面に出ている連中ばかり。同じ地区で凌ぎを削っていた有名人が沢山居て、俺みたいな底辺野球部出身者が浮いているような気がして不安になる。
流石はあかつき大付。新入部員だけで百人は下らないか。俺みたいな推薦組だけでなく一般入試で入ってきたのも大勢いるみたいだ。今まで縁の無かった場所に身を置いている場違い感が半端ない。
「新入部員、集合!!」
号令がかかり一斉に初々しい顔が声のした方へと駆け出す。
サングラスをかけてグラウンドの真ん中で仁王立ちしている壮年の男性。この人が就任してあかつき大付を全国レベルの強豪に育て上げた名将、千石監督。立っているだけで風格が出てる人なんて初めて見たわ。
集団に紛れていることを幸いに観察していると、新入生の顔つきを一通り眺めた監督が再び口を開いた。
「これより入部試験を行う。名前を呼ばれた者は速やかに前へ出て実技を披露しろ。もし及第点に達しない場合は例え推薦組であっても我が野球部への入部は認められないことを肝に銘じておくように」
おいおいマジかよ。そう思ったのは俺だけではない様子らしく、驚きと戸惑いでざわつき始めた。
才能を見出され相手から乞われてあかつきの門を叩いた推薦組、頂点を夢見て狭き門を突破してきた一般入試組、それぞれ道は違えど野球をするためにこの学校に入ったのに、入部するために試練が待ち構えているとは思ってもなかった。
試験は十球勝負で二年生と戦う形式だ。一定以上の得点であればクリア、その規定に到達しなければ問答無用に不合格。実に分かりやすい。
だが試験で対峙するのは一つ先輩の二年生が務めるという話だったので少しだけ安堵の表情が浮かんだ―――その一年の差を自分達の眼で確かめるまで、は。
トップバッターで呼ばれたのは投手だった。物怖じする素振りもなくマウンドへと上がり肩慣らしのため何球か投球練習を行う。
130キロ後半は出ているだろうか。パシンパシンと心地いい音を立ててミットに収まる。肩が出来上がったと見て先輩が打席に入ってきたので、マウンド上の投手が帽子を脱いで会釈する。
そして投じた初球……澄んだ快音だけその場に残して打球は悠々とフェンスを越えていった。今まで通用してきた速球をいとも簡単に打ち返した衝撃に、その場に居た新入生は一瞬で凍りついた。
さらに続け様で長打を打たれた所で監督は不合格を通知した。この時点で彼があかつきで野球をすることが叶わなくなった。
意気揚々とマウンドに上がった同級生が惨めな姿で去っていく光景に、一種の恐慌に陥った。
次に呼ばれたのは野手だった。中学時代は身長が高い部類に入っていた九十九だったが、自らと比べても上にも横にもデカかった。その場に凍りついた空気を振り払うべく力強くスイングする。
一方マウンドに上った投手は先程の新入生とそんなに変わりが無いように映った。球速は130キロ中盤、上背もそんなに高くない。
だが……一球も掠らせることなく抑え込まれた。
最初の内は大物狙いのフルスイング。しかし規定の半分を過ぎてからはグリップを短く持ち、さらに最後の三球に至っては明らかにヒット狙いの縮こまったバッティングへと変わった。
それでも相手の心を見透かして嘲笑うかの如く、のらりくらりと避わしてヒットすら打たせなかった。結果、こちらも推薦組ながら不合格。
何、このバケモノ集団は。俺なんかお門違いなんてレベルちゃうわ。目の前で繰り広げられる惨劇に戦慄を覚えた。
そんな中で次に呼ばれたのは赤髪の男だ。眼光が鋭く「怒ってるのか?」と錯覚するくらいに威圧している。到底同い年には見えない程に貫禄を兼ね備えていた。
イライラしている風でいながら、打席に立つとどっしりと構えて相手を待っている余裕が伺えた。
体格も良く引き締まった体ではあったが、決して大振りすることなくコンパクトに振り抜いて打球を次々とセンター前へ運んでいった。見た目とは異なり巧みなバットコントロールでヒットを量産するタイプのようだ。
結果は十球の内の大半でヒットを打っていたので堂々たる合格。これを境にして続々と合格者が出てきた。
しかし、その一方で待っている内に不安が膨れていった。俺より実力があると見ていた人でも容赦なく不合格を突きつけられ、合格していくのは才能の固まりみたいな連中ばかり。果たして俺のような凡人が、この中で生き残れるのか、と。
「次、九十九宇宙」
タイミング悪く気分が滅入っている状況で名前が呼ばれた。意を決して打席へと向かう。幸か不幸かこれまで投げていた投手から変わって準備が目の前で行われている。
投球練習を間近で見られるのは正直なところありがたいが……次に登板したのはこれまで対戦した経験のない左のサイドスロー。スピードは決して速くないが、未知の領域という点では不安が残る。
どうやら肩が温まったらしく主審役の部員に合図を送る。促されて打席に入る。合格した新入部員や先輩部員の死線を一様に浴びて何だか気持ちが落ち着かない。対戦する前にヘルメットを一度脱いで主審とキャッチャーに軽くお辞儀。
マウンドに上がった先輩ピッチャーが人の良さそうな微笑みを浮かべてくれたので少し気が楽になった。胆を決めて、やるっきゃない。
肩で一息ついて、グラブを胸の位置まで持ってきた後に足が上がる。投球動作に入ったのであとはタイミングを外さずバットを振るだけだが……腕の出処が分からず体が硬直している所へズバッと内角低めの厳しいコースへボールが放られる。アカン、これ入ったかも。
「―――ボール」
やや内角に外れた判定。助かったと安堵すると共に「あ、ここがボールなのか」とストライクゾーンを少し把握。審判のクセは試合の成績にも左右されるので確認することは怠らない。
次の球は先程のボールより僅かに中へ入るコースだったのでバットを出したがタイミングが掴めず当てるだけで精一杯。打球は後方へと飛んで行く。
何が辛いと言えばリリースポイントが読み辛いこと。上から投げる投手と感覚的にズレがあるので慣れるまで後手後手になってしまう。
その次の球は内角高めのストレート。これは俺の得意なコース、分かった瞬間に何も考えなくても体が反応した。思い切り振り抜いた打球は快音を残してスタンドまで運ばれていった。但し、ポールの右に逸れていったが。
一度気持ちを落ち着かせるために打席を外す。
絶好球だと直感したが、ボールの勢いに押された上にタイミングが若干早かった。完璧に近い形で捉えただけに仕留められず歯噛みする思いは強い。だが、まだ勝負は終わってない。悔やむ気持ちを振り払うべく一回、二回とバットを大きく振って再び打席へ戻る。
しかし、その後は芯で捉えられず打ち損じのポテンヒットが一本だけ。他は野手正面のライナーだったり内野ゴロだったり相手に押さえ込まれている。そして残すは泣いても笑ってもあと一球。
ここまで内角中心の攻めで角度のあるストレートに差し込まれることもあったが、ようやく左のサイドスローにも目が慣れてきてコツも分かってきたように思う。残る一球に、全てを賭ける。
ラストボール。それまで一度も投げてこなかった外角の低め。しかも狙い澄ましたように隅を突いてきた。てっきりコントロールに自信がないため外角には勝負しないと思っていたが、考えが甘かった。自信があるからこそ、最初からウィニングショットとして封印してきたのだ。
しかも厄介なことに今までインコースばかり攻められてきて反応が僅かに遅れた。このままではバットが空を切る……!!
咄嗟に片手を離して腕を目一杯伸ばしていた。体勢を大きく崩しながら対角線のボールをしっかりと捉えた。俺の思いを乗せた打球はサードの横を抜けて三塁線上ギリギリに着地する。際どい打球だが、どうなる?
フェアならば合格、ファールなら不合格。結果次第で明暗が分かれるが、判定は果たして。
祈る気持ちで判定を待つが……無常にも塁審はファールの判定。三塁線を割ったと受け止めた様子。
ああアカンかったか、しゃーない。ここでヒットっぽい当たりを打つのが俺っぽいかも知れん。それに、これが俺の実力だと思えば合点がいくわ。最後の夏でちょっと成績が良かったそこら辺に落ちている馬の骨には無謀な挑戦だったんだ。少しの時間だけ良い夢を見られただけでも幸せや。
難しい判定で落ちるっていうのは、身の程を弁えろという神様からの思し召しかも知れない―――
「ボールを確認させてくれ」
誰かが判定に異議を唱える。既に諦めている俺の声ではない。周囲の部員も傍観者に過ぎず俺を擁護する気配は皆無。では一体誰が?
思わぬ展開にどよめく中を声をかけた主はレフトに転がっているボールを拾いに向かっている。三塁の塁審もその姿を見て後を追い、ボールを共に確認する。そして事態の成り行きを見守る監督の元へ小走りで駆け寄り、結果を伝える。
そして監督は、何が起こったのか分からず立ち尽くしている俺に結果を言い渡した。
「九十九宇宙―――合格!!」
……え?合格?
感慨も喜びも湧かず、何故自分が合格されたのかイマイチ呑み込めない状況で、俺の入部試験は幕を閉じることとなった。
次の受験者に押し出される形で隅の方に追いやられる。真相を確かめたくても周りは見ず知らずの人だらけで気軽に声をかけるのも憚られる。不安と戸惑いの真っ只中にいる俺の元へ、最初に合格した赤髪の男が近付いてきた。
「マグレで受かって調子に乗んなよ」
明らかに怒気を含んだ声色で耳元で物騒なことを囁いて立ち去っていった。心当たりのない怒りをぶつけられて困惑に拍車がかかる。
そこへ今度は先程までマウンドに上がっていた投手が近付いてきて声をかけてきた。
「合格おめでとう、九十九君。晴れて今日から君はあかつき大学付属高校野球部の一員だ。優秀な後輩が出来て、僕は本当に嬉しいよ」
温和な表情を浮かべて祝いの言葉をかけてくる先輩に、受けるこっちが逆に恐縮してしまった。耳慣れない美辞麗句は特に聞いている自分にはくすぐったい。
「えぇ、まぁ、ありがとうございます」とそれっぽいようなことをモゴモゴと返すと、今度は少し申し訳ないような顔になった。
「……僕が言うのもなんだけど、彼のことは大目に見てくれないかな。小さい頃から家が近所でよく一緒に遊んでいた幼馴染で、僕とまた共に野球をすることを目標に頑張ってきたんだ」
“彼”とは先程因縁をつけてきた赤髪ヤローのことを指していると話の筋で察せられた。
そして内緒話をするみたいに顔をぐっと近づけて声を潜めて話を続けた。不愉快にさせてしまったことへのお詫びの気持ちらしい。
「『あかつきに受かったら真っ先に対戦しますから!』と約束していたのに、成り行きとは言え君が先に僕と対戦してしまって怒っているんだろう。彼には後で叱っておくから、僕に免じて許してくれないかな?」
―――何だ、この貴公子は。決して脚光を浴び続けたとは言い難い、心がひねくれた俺でもそう思わざるを得ない程に爽やかだった。
それまで抱いていたエリートの道を歩む人のイメージとは大きく異なる印象を抱いた。立ち振る舞いに陰気な雰囲気は一切なく、言葉を交わしていく内に自然と尊敬の念を感じるようになった。
一通り話し終えると、スッと右手を前に差し出してきた。あれ?先輩って左投げだったよな?そう思いながら自分の右手を差し出す。
「僕の名前は一ノ瀬、ポジションは投手。これからよろしく頼むよ」
俺は握られた手の感触に驚きを隠せなかった。
利き手でないにも関わらず、俺の手を握る力は相当強い。手の皮も分厚く、所々に野球で出来たと思われるマメが幾つもあるのが分かる。この手は、相当バットを振ってきた手だ。
入部試験の実力、握られた手の感触、世の中にはこんな凄い人がいるんだなと改めて思い知らされた。
「……あのー、一つ伺いたいことがあるのですが」
ここまで接してきた中で後輩思いであることを強く感じたので、思い切って疑問に抱いていたことを訊ねてみることにした。幼少期から関西訛りを通してきたが、姿勢も言葉も正して真正面から向き合う。
先輩も俺の様子を察してくれた様子で、先を促す。その厚意に甘えて疑問をぶつける。
「何故、あの時打球を確認されたのですか?」
ヒットを打たれることは投手にとって決してプラスにはならない。でも一ノ瀬先輩は敢えて結果を覆した。
もし仮にあのまま黙っていれば誰も疑うことなくヒット数が一つ減ったのに。何か意図があったのかと思えてならない。
「あれは明らかに『三塁線の上に落ちた』という確信があった。際どいコースだったから誤った判定になっても仕方ないと思うけど、これで合否が分かれるなら言わないといけないと考えた。僕自身もそんな曖昧な感じで勝負に勝っても嬉しくないし、それに……」
一度言葉を切ると、俺の眼をじっと直視してはっきりとした口調で告げた。
「最後のアウトローは僕のウィニングショットの一つで、それまでインコースばかり攻められて内に意識が集中している相手が簡単に打ち返せる代物ではない。それも中学を卒業してすぐの新入生なら余計にハードルが高い。でも、僕が自信を持って放ったボールを片手一本で喰らいついてヒットにするのは尋常では考えられない。素晴らしいセンスを秘めている、とその時直感したよ」
打撃投手同然の扱いで登板したにも関わらず、一ノ瀬先輩は真剣勝負のつもりでマウンドに上がっていた。本気で勝つ気であの場に臨んでいたのだ。
それでも、自分が一番自信のある球を下級生に打たれた。全力でぶつかった上で俺は勝ったのだ。飾ったり負け惜しみを言うでもなく、素直に自分の負けを認めて相手を称えたのだ。
もしかしたら、俺のことを褒めているのか?思いがけない言葉に呑まれて呆然と立ち尽くす俺を尻目に一ノ瀬先輩は横をすり抜けて立ち去っていった。
常に野球と真正面から向き合う姿勢、抜きん出る才能に驕ることのない度量、そして人格―――今、このあかつき大付野球部に入れたことを、心の底から良かったと感じた。
漠然と入ることが目的、ここで名を挙げることに目標が定まった。俺の中に燃えるような情熱が点火されたのを、はっきりと感じ取れる。
待ってろよ、阿畑。必ずエリート集団で勝ち抜いて、レギュラーをこの手で奪ってみせるからな。
公式戦デビューは阿畑の方が先だった。夏の大会ではベンチ入りすら叶わなかったものの、抜きん出た実力が評価されて秋の大会では先輩達を差し置いてエースの証である1番を手にすることが出来た。
いくら弱小校でも秋の大会でエースナンバーを背負えるとは思ってもいなかったので受け取った時には素直に嬉しかった。
迎えた試合当日。球場入りしてから体が軽かった。ブルペンに入っても変わらず自慢のストレートが走っていた。ミットに吸い込まれるボールは面白いように乾いた音を奏でているし、球速も140キロを超えている。
これは、イケる。自信が確信になり、今日の試合でチームを勝ちに導けると直感した。
さらに先輩達も「思い切り投げて来い!援護は任せろ」と頼もしい言葉をかけてくれる。1年生エースを守り立てるべくいつも以上に気合が入っていた―――はずなのだが。
序盤は勢いのあるストレートで完璧に抑えたものの、二順目からは逆に軸となるストレートを狙われた。とにかくバットを短く持って当てることに専念された。
結果、空振りを奪えず、ゴロやフライが増えた。そうなると決して堅いとは言い難い守備陣を抱えるそよ風ナインは圧倒的に不利だ。
打ち取った当たりでもアウトカウントが積み重ならずランナーが溜まり、集中が乱れた所で直球が高めに浮いて長打を浴びる悪循環に陥った。そして打線は懸命に塁へ出るものの得点まで結びつかず、点差はなかなか縮まる気配を見せない。
阿畑は一人で完投したものの、要所で踏ん張りきれなかったのが響いてチームは黒星を喫してしまった。
試合後、ロッカールームでは9回まで善戦したと喜ぶチームメイト達とは対照的に阿畑は今日の試合内容を振り返って打ち沈んだ気分になっていた。
想像していた以上にチームが弱いこともあるが、それよりも衝撃的だったのは自分のアピールポイントであるストレートが最後まで通用しなかったことだ。
これが中学時代ならば球威のあるストレートでグイグイ押していけば簡単に抑えられていたのに、中盤以降は狙い打たれる場面が多く存在していた。味方の脆い守備に足を引っ張られたことが失点に繋がったが、そもそも打たれなければ良いだけの話である。自分の力量不足で負けたに等しい。
唇を噛み締め、涙を堪える態度を見せているのは自分一人だけだった。“負けることに対して慣れている”そんな空気が蔓延しているチームに、阿畑は危機感を抱かざるを得なかった。
近年甲子園へ頻繁に出場しており、部員数も優に百人を超える大所帯の野球部。一堂に同じ場所で練習することは殆どない。プロ球団同様に選手は一軍・二軍に分かれて別々のグラウンドで練習を行っていた。
多くの部員が在籍する二軍は学校の生徒も使う砂のグラウンドだが、一軍は天然芝が貼られた野球部専用グラウンドで屋内練習場も併設されている他に多種多様なトレーニングマシンも使い放題。ベンチ入りの選手も一軍在籍の選手から選抜される、徹底した競争主義が貫かれている。
また裏を返せば実力があれば一年生でも夏の大会でスタメンに抜擢されることも充分に有り得るのだ。……現実はそんなに甘くはなく、九十九は二軍からのスタートとなった。
一年生の何人かは即一軍を勝ち取ったものの、夏の大会では一人もベンチに入ることは無かった。中学時代に輝かしい栄光を誇るエリート達でさえベンチ入りを許されるレベルに達しないとは強豪校ならではの層の厚さか。将来性など勘案しなくても切磋琢磨していく中で次世代を担う人材は自然と現れてくるのだから、その時々でベストの面々を選べばいいのだ。
これまでベンチにすら入れなかったという経験がない九十九は生まれて初めてスタンドから応援することになったが、目の前で繰り広げられる展開もまた自分の中では初めての経験だった。
初回から相手投手を釣瓶打ちにして瞬く間に得点が重ねられていく。守りでは一塁から先に進ませない。終始相手を圧倒した試合展開で初戦を突破したが、この勢いは決勝戦まで留まることなく最後まで横綱試合を見せ付けられた。
『今日の試合が最後になるかも』と半分覚悟しながら戦ってきた今までのチームとは明らかに一線を画していた。そして敵は対戦相手ではなく寧ろチームの中にあると強く九十九の心に印象づけられた。
スタンドで声を嗄らして応援している大多数の中から抜け出した上で、さらに一つしかないイスを巡って熾烈な競争を勝ち抜かなければならない。
無名校から這い上がってきた俺が、振るい落とされる寸前で堪えた俺が、眼下に広がる舞台に立てるだろうか。下克上だと燃えていた気持ちが、少し折れそうになった。
夏は全国大会へ出場を果たしたものの勝利を掴めなかった。地区予選では横綱相撲で相手を寄せ付けなかったが、甲子園では思い通りの野球をさせてもらえなかったのが痛かった。
道半ばで悔し涙を流して引退する先輩キャプテンは、後任に一ノ瀬さんを推して全員了承した。「あの人なら誰も文句はないなー」と人垣の中から遠巻きに引継ぎの一部始終を眺めていた。エース兼主軸としてチームを引っ張る傍ら、温和で面倒見も良くて日の打ち処が見当たらない。
そして翌日には早くも三年生の引退に伴って欠員が生じた一軍の戦力補充を目的とした入替試験が執り行われた。昨日の友は今日の敵、限られた枠を賭けて今持てる全力を全てぶつけた。
同期入部の連中がポツポツと一軍昇格を勝ち取っていく中―――俺も見事に初の一軍への切符を手にした。甘く入ったストレートを一球、低めに落ちていく変化球をすくい上げて一球、それぞれ柵越えの大飛球を放ったのが評価された。
残念ながら秋季大会のベンチ入りメンバーに選出されなかったものの、レギュラーへ向けて一歩着実に近付いたことを実感した。
流石はあかつき大学付属高校。地区内では敵なしと言われているだけあって、才能溢れる面子ばかり揃っている。
入部試験の際に因縁を付けてきた二宮は同期の中では一番の出世頭として頭角を現していた。
巧みなバットコントロールでヒットを積み重ねる反面で長打も期待できる、守備面では強気のリードで投手陣を引っ張り鉄砲肩でバックを守り立てる。その実力が認められて、新メンバーになったのと同時にキャプテンの女房役として指名されて『黄金バッテリー』の呼び声も高い。
さらに打撃で特筆すべきは三本松と七井のコンビか。互いに相手を意識している様子で二人の間で四番を巡ってライバル関係にある。
筋肉質でガッチリとした大柄な体格の三本松はスラッガーらしく豪快なバッティングで飛距離を伸ばしている。一方の七井はハーフであることもあって見た目はモデルのようにスラッとした体型をしているが、引き締まった筋肉が下には隠れている。パワーは三本松には劣るが広角に打ち分ける技術でホームランを量産していた。
守りの面に関して言えばずば抜けて秀でたヤツが一人居る。今大会でベンチ入りメンバーに選ばれた六本木だ。
常に柔和な笑みを湛えている優男ではあるが守備になると表情が一変して鋭い眼光で打球を追っている。その華麗な身のこなしは見ている者を思わず唸らせる凄さを秘めていた。
あかつきのショートは六本木に任せれば安泰。今現在の段階でもプロ級だと賞賛も聞こえている。
打撃や守備だけでなく、足で魅せる天才も存在する。その快速から『あかつきのイダテン』と称される八嶋。
とにかく、足が速い。入部当初から一人だけ異次元の世界に達しており、もし陸上の世界に入っていれば間違いなく世界の頂点を目指せる逸材だったに違いない。
体つきも小さく声変わりもしていないので一見すると小学生と勘違いされるが、その走塁技術は飛び抜けて優れている。
あとは三塁手の五十嵐が目を引く。パッと見は所帯を持つオッサンに見えないこともない風貌だが、持久力は部内でもトップクラスに喰い込む。送球にブレがあるものの深い位置からでも一塁へノーバウンドで送球できる程に肩はいい。スタミナと肩が優れているのに何故野手やっとるんや。
それから……キャプテンから絶大の信頼を置かれている四条。特別に優れた能力は持っていないが、常に冷静沈着な性格で論理的な思考を持つことからデータの分析や情報処理に長けている。
野球は体だけでなく頭でも勝負する側面もある。その意味では四条のようなタイプの人間が一人でもチームにいると格段に実力が底上げされる。恐らく次のキャプテンは彼で決まりだと俺は睨んでいた。
―――では、俺はどうか。
飛び抜けた何かがある訳でもないアピールポイントであった長打は俺より上の者がゴロゴロいる。足も守りも並より少し上、頭も大して変わらない。結果、その他大勢の中の一人に埋没しているのが現状だ。
そして外野の枠は既に二つが確定したも同然、内野に関しては割って入る隙間さえ見当たらない。となれば残る一つの席を巡って死に物狂いで殺到するのは明白。
熾烈な競争を勝ち残るために俺はどうすればいいのか。光明の見えない袋小路に迷い込んだ錯覚が、漠然とした焦りが、心を覆い尽くした。
季節はいつの間にか秋から冬へと移り変わった。期末テストを乗り切るとクラスの雰囲気は冬休みを心待ちにする雰囲気になったが、休みになっても練習に明け暮れるだろうから今と大して変わらない。イベントが目白押しな冬休みに少しもワクワクする気持ちになれなかった。
だが越境組も多く在籍する野球部も年末年始に関しては学校が閉まることも重なって練習が休みになった。だが特にやりたいこともなく、家でのんびりとくつろいで過ごす。
(そういえばアイツはどうしとるんかな?)
ふと思い浮かんだのは阿畑だった。秋季大会で一足先に公式戦デビューを果たしていたのを新聞で知ったが、それ以上のことに関心は湧かなかった。
高校に入ってからは一度も会っていないアイツの顔が何故浮かんだのだろうか。家も近所なので会いに行けない距離でもないが、わざわざ労力をかけてまで会いたいとは思わない。
それに『決勝の舞台で会おう』なんて青臭いセリフを吐いて別れた俺の姿が脳裏に焼きついていて、思い出しただけでも顔から火が出る思いだ。
……果たして俺が阿畑と同じ舞台に立てるかどうか分からない、が。ただ「なれない」とは一切思わなかった。
結局、正月休みはダラダラと過ごしただけで終わってしまった。
春の選抜高校野球大会への出場が決まったのは、まだまだ冬の真っ只中にあった。雪がちらつく中でグラウンドには出れず黙々とトレーニングに明け暮れる日々を送った。
そんな長く閉ざされた冬から春へと移り変わろうとしていた頃、春の甲子園を見据えた入れ替え試験が行われた。
一軍に在籍するメンバーが順当な成績を残せれば、間近に迫った甲子園の舞台に立てる確率は一段と高まる。そして二軍メンバーも目覚しい活躍を見せれば逆転で選ばれる可能性もある。全員が今回の入れ替え試験に賭けていた。
将来有望組が続々と一軍残留を決めていく中でも「九十九」と呼ばれる声は一向に訪れなかった。目の前で繰り広げられる悲喜こもごもを目の当たりにして、最後にようやく出番が廻ってきた。
実践打撃に登板する投手を物色する監督の視線を尻目に内心では(頼むからキャプテンだけは、一ノ瀬キャプテンだけはやめてくれー!!)と悲痛な思いで祈る。
待たされること数秒。下した結論は―――俺の強い祈りが監督に通じたか、指名したのは一ノ瀬キャプテン。恨むで、監督。
どうも一ノ瀬キャプテンは苦手だ。入部試験で対戦して以来ずっと印象は変わることがない。
制球力が持ち味の技巧派左腕で四隅へ正確にコントロールする力がある。持ち球もスライダー・カーブ・スクリュー・シュートと多彩である上にそれぞれが決め球になり得るレベルを備えていた。球種を絞れず迷っていると見透したようにストレートがコーナーに決まる。
これまで練習も含めて幾度も対戦してきたが芯で捉えたことは数える程しかない俺にとっては今最も相手をしたくない難攻不落の牙城であった。
もう、胆を括って挑むしかない。だが……結果は散々だった。
多彩な変化球に惑わされるばかりで芯で捉えることが出来ない。追い込まれた俺は一発逆転を信じて長打狙いに的を絞るが、バットは虚しく空を切るばかり。
挙句の果ては加点ゼロという最悪な結果。問答無用で二軍に叩き落された。
奇しくも数日前に一ノ瀬キャプテンから『甲子園でベンチ入りメンバーに考えている』と内々に伝えられていた。だからこそ今回の試験では是が非でも結果を残したいという気持ちが強かった。だが、そんな思いも泡と散った。
人生初の挫折。いや、思い返せば俺にとって二度目の経験か。中学時代に好意を抱いていた女の子にアタックして玉砕したことがある。周囲から持て囃されて勝算があると自信を持って挑んで、見事にフラれた。
ここまで生きてきて、野球も勉強も恋も大きな失敗なんか存在しなかった。どんな苦境に立たされても「何とかなる」と考えて、実際に乗り越えてきた。自分でも上手に渡ってきたという確信はある。
でも、それはあくまで俺が生きてきた世界であり、本当の世界はもっともっと大きく広かった。正に井の中の蛙だったのだ、俺は。
エリートに混じってもドラ猫はドラ猫。生粋のエリートには通用しない。そのことを痛烈に思い知らされた。
その日の練習が終わると、俺の元に意外な訪問者が訪れた。
誰でもない、一ノ瀬キャプテンが俺に会いに来てくれた。
キャプテンは二軍のグラウンドに現れるのはそう珍しいことではない。誰に対しても気軽に声をかけてくれ、その場で自ら部員に指導することもある。
ところが既に全体の練習も終わり、グラウンドは閑散としている。一体何の用事だと警戒していると、いつものように笑顔で話しかけてきた。
「少し、いいかな?」
そもそも地獄に叩き落されたばかりで居残り練習する気力も残ってなかったので帰ろうとした矢先だった。俺は即座に快諾した。
ユニフォームを着替えて向かった先は、学校の近くにあるバッティングセンターだった。一ノ瀬が顔を出すと管理人と思しきオッサンから「今日も来たのか」と親しげに声をかけられていた。どうやらここの常連らしい。
(そういえばキャプテンは打撃も上手かったな〜)と思い返しながら、ふと視線を上げる。バッティングセンターの飛距離記録の名前がズラリと掲げられており、そこに書かれた名前に目を剥いた。上位三人が全て同じ名前が刻まれていた。
“ 一ノ瀬 塔哉 ”
どういうことか理解できない俺を置いてけぼりにして、キャプテンは慣れた様子でゲージの中に入る。
「九十九」
唐突に名前を呼ばれる。
「君は本当にスラッガーになりたいのか?」
打席に立ち、俺に背中を向けた状態でキャプテンは訊ねてきた。その表情は伺えないが声の調子から真剣な問いかけだと感じた。
生半可な気持ちで返事をしてはいけない。なりたい自分を瞼の中でイメージして、「はい」と確かに答えた。
野球を始めてからずっと思い描いていた姿。それはTVの中で試合を決める有名なスラッガー。
球場全体から割れんばかりに鳴り響く大歓声を大きな背中に受けて、どんな場面でも必ずファンの期待に応えてきた。俺はその姿に憧れを抱いた。
バッティングフォームをその人を真似て、道具も全てその選手のモデルで統一した。いつかあんな選手になりたい。俺は懸命に遠い背中を追いかけた。
そして俺は努力した。どうすれば遠くまでボールを飛ばすことが出来るか、勝負を決める一打を放つには何が必要なのか、懸命に考えた。遠い存在に追いつくために。
少年野球チームに所属して以来、ずっと主軸を任されてきた。中学校時代は無名の弱小校ながら四番に座り、俺の力でチームを決勝の舞台まで導いてきたという自負がある。
だからこそ、このあかつきでも自分のスタイルを貫こうと決めたのだ。
「……そのこだわりで、この先も生き残っていけると考えているのか?」
その声は温厚な一ノ瀬キャプテンとは思えない程に、冷たく突き放した声だった。只ならぬ雰囲気に、思わず返事に窮した。
投球マシンからボールが放たれる。しっかりと踏み込んでバットを振ると、澄んだ金色だけをその場に残して目にも留まらぬ速さで宙へと駆け上がっていき、天井近くに張られているネットに白球が突き刺さった。
もし仮にこれが屋外だった場合、間違いなくスタンドまで飛んでいったことだろう。
「今のあかつきにはスラッガーを目指す者は大勢いる。単刀直入に言わせてもらうが、今の君のスタイルを続けていても未来はない」
スッと自らのバットを俺に差し出す。入れ替わりで打席に立ち、投じられたボールを思い切り振り抜く。
だが、同じように打ったはずなのに、打球はキャプテンのように高く上がらなかった。外野の間を切り裂くヒットにはなっても、スタンドまで届きそうもない。
「今日の入れ替え試験で分かっただろう。無理に大きいのを狙うばかり、体は泳がされて本来のバッティングとはかけ離れた形になってしまっている。マシン打撃でこのレベルの選手は数え切れない程に居るし、こんな打撃ではスラッガーとしてあかつきで生き残ることは到底不可能だ」
はっきりと断言されたことに俺は反論することが出来ない。薄々感じていたことを面と向かって言われ、心の不安を言い当てられた気分だ。
促されて再び打席へと入るキャプテン。バットを受け取ると次々とホームラン性の当たりを連発する。強打者とは正にこのような姿を言うのだろう。
キャプテンの言う通りかも知れない。俺を凌駕する打撃を持ちながらベンチ入りが叶わない選手が大勢いるのを知っている中で、俺が割って入るのは厳しいと言わざるを得ない。
では、今から方向転換してアベレージヒッターを目指すのか?それも何か違う気がする。
バットに当てることとヒットにすることは似ているようだが大きな隔たりがある。当てることだけに絞れば当てられる人は数多くいるが、凡打をヒットにするには相当な技術が必要だ。
これまで培ってきた経験や努力をそのまま転化するのも難しく、新しいスタイルへ生まれ変わるまでどれくらいの時間がかかるか見通しが立たない。
あかつきで代表的なアベレージタイプのバッターは二宮だが、アイツには状況に応じて長打を放てるだけの技量がある。アイツに匹敵するレベルまで到達するのは、スラッガーの道を貫くと同じくらい厳しい。
色々と思案を巡らせていると、不意にキャプテンが話しかけてきた。
「―――無理に自分を変える必要はないと僕は思うな」
へ?キャプテンさっきまで言っていたことと違うじゃないですか。
つい思ったことがそのまま言葉になりそうな所を喉でグッと堪える。先輩、しかも部をまとめるキャプテンに失礼極まりない発言を押し留めるだけの理性は残っていた。
今の発言の真意を図りかねている俺の顔を見て、さらに付け加える。
「自然体のまま、というのも立派な個性だと思うよ。“クセ者”というか“クラッチヒッター”というか。上位や中軸のような怖さは感じないまでも、チャンスで廻ってきた時に投手から『なんだか勝負したくないな』『なんとなく打たれそう』と思わせる、そんな選手はチームに必ずいるよね?ファールで粘ったり際どいコースをカットで凌いだり球数を稼がせてバッテリーを引っ掻き回した末にキレイな流し打ちで締める。これって投手からすればかなり大ダメージだよ?」
流暢な語り口に耳を傾けている内に、キャプテンの言わんとしていることが掴めてきた。相手から嫌がられる巧打者になれ、と。
確かに、そんな風なバッターになっている自分を容易に想像することが出来た。
普段からのんびり構えて何を考えているか分からないと周囲から(主に苦情的な意味合いで)指摘されているし、元々目立ちたいという願望は薄いので主役は望んでいないが存在感のある脇役にはなりたいなと思っていた。
そういった点では、キャプテンから示された方向は悪くないと感じる。
だが、果たして本当にやれるのか。不安を口にするとキャプテンははっきりと答えてくれた。
「こういう役回りは、輝かしい実績を残していたり自分の才能を自覚している人からすると『何で俺はそんな役をしないといけないんだ』って嫌がる人が多いんだ。どうしても自分は王道を進まないといけない!って固定概念で固まっているから、無理に変えても成功することは少ない。でも、九十九のように努力を重ねてきた人の方が適しているんだ。あとは本人の適正と才能次第だけど、どっちも大丈夫みたいだね。特に流し打ちの技術に関しては光るモノがあるし、それを意識して引き出せるようになるだけだね」
キャプテンの言葉に思い当たる節は、ある。
入部試験でキャプテンと対戦したあの時、思うような結果を出せず俺は崖っぷちに追い詰められた状況にあった。最後に投じたウィニングショットを片手一本でレフト線へ芸術的な流し打ちを放ったのだ。
あの時は火事場の馬鹿力で起こしたマグレだと思っていたが、もしもあんな打球を普通に打てるようになったら……想像しただけでも背筋がゾクゾクとしてきた。
昔からバットにボールを当てることは得意だった。どんなにタイミングを狂わされても修正してファールで粘る、なんてことも前からやっていたことだ。選球眼に関しても自信がある。―――なんだ、条件が揃っているではないか。
……もしかしたら、あの時打たれたことをキャプテンは未だに悔しがっているのかも知れない。自信を持って投じた最高のボールを、入ったばかりの新入部員がヒットにしたことを。
また、バットを差し出される。黙って受け取って、投じられたボールをレフト方向へ流してみた。勢いのある打球が左へと飛んで行く。
尽きかけていた心の炎が、キャプテンの一言で再び勢いを取り戻した。俺はこの道に全てを賭ける。例えやり方が汚いと言われても、格好が不様だ醜いと笑われても、最後には必ず俺はそいつ等を超えてみせる。強い意志が再び俺の心に宿った瞬間だった。
「芹沢さん!お願い!野球部のマネージャーになってくれない!?」
入学式も終わり、晴れて高校生デビューを迎えて一週間が経過した頃。クラスのお調子者キャラとして定着してきた男の子が拝まんばかりに頼み込まれ、芹沢茜は困惑していた。
彼の話によると去年まで在籍していた野球部のマネージャーが卒業してしまい、マネージャーがやっていた作業を全て新入部員が肩代わりする羽目になってしまった。だが高校に入学したばかりで練習にもまだ体が慣れておらず、男所帯で細々と多岐に渡る作業は予想以上に負担が重くて閉口している、らしい。
そこで野球部のマネージャーになってくれる女の子を新入部員総出で探していて、周囲に気遣いを欠かさないウチの姿を見て『この人なら!!』と直感して頼み込んだ、とのことだった。
野球、か。思えば小さい頃に近所に住んでいた一コ上の男の子二人がやっていたな〜。ウチはやったことないけど、外から見ていて楽しそうに野球をやっていたのはよく覚えていた。どの学校へ行ったか知らないけれど、今でも二人で野球を続けているのかな。
幼い頃の懐かしい思い出に浸りながら話半分で男の子の申し出に耳を傾けていたら、気持ち的に「やってもいいかな」と思えるようになってきた。
偶然にも高校生になったら新しいことにチャレンジしようと考えていた所だった。一生懸命になって懇願する姿が少し可愛らしく感じたのもあるけれど。
その日の放課後、どんな雰囲気か確かめるべくグラウンドに足を運んでみた。文科系の学校なので部員自体はそんなに多くなかったが、みんな楽しそうにキャッチボールをしていた。
「お、見学かいな?」
突然かかる声。「はい」と返事を返して振り返ると―――顔一面に痘痕の痕が残っている、関西弁を操る先輩。あの時の印象から全く変わってなかった。
「……やっちゃん!?」
我ながら素っ頓狂な声だったと後々になって悔やんだ出来事。出来ることならば記憶から抹消したい。
そしてこちらの声にも覚えがあるらしく、ピンときた様子でこちらを伺う。
「……もしかして、茜?」
運命の再会。他人はこの出会いを恋愛ドラマのワンシーンのように捉えるかも知れないが、そんな素敵な巡り合わせだとは一切思わなかった。
贔屓目で見てもイケメンではない相手と会っても嬉しくないでしょ、普通。むしろ周囲は知らない人だらけな環境だから少し知っている人に会って「あ、ちょっと気持ちが落ち着いた」程度にしか思わないって。
―――こうして、アタシは野球部のマネージャーになることになりました。
時は少し遡ること一週間前。
今年からあかつき大付へ通うことになる新入生が二軍グラウンドに勢揃いしていた。その人数の多さと一糸乱れぬ整列する光景を壮観だと感じつつも、一年前はあの場所に立っていたんだなと思い返していた。
こうして今ユニフォームに袖を通していること自体が夢のようだが、今の俺には昔を振り返っている余裕はない。俺自身も運命の分かれ道に立っているのだ。
「続けて入れ替え試験を行う。名前を呼ばれた者は前に出てくるように」
新入部員が加入してきたことに伴い、このタイミングで入れ替え試験が行われる。大会直前に二軍落ちした雪辱を是が非でも晴らしたいところ。
自分の名前が呼ばれるのを今か今かと待っている部員の顔を一通り眺めた後に「九十九」と呼ばれた。前回はトリで今回は一番初め、か。
そしてマウンドに上がったのは前回と同じ一ノ瀬キャプテン。舞台は整った。キャプテンの期待に応えるため、俺自身の未来のため、この場で全てをぶつける。
思い返せば以前この場所に立った際はひたすら『なんとかして残らないと』と戦うことから避けていた。でも、今は違う。一軍から降格したことで気持ちが吹っ切れた気分だ。
マウンドに立つ一ノ瀬キャプテンの姿が大きく見えて怯えていたが、こうして見てみても大して変わらない。胸を張って打席に立てているのが、自分でも分かる。
確かに凄いピッチャーではある。でも、戦う前から気持ちで負けていては勝負に勝つことは出来ない。逸らず驕らず、自分を信じてバットを振るだけだ。
第一球。ゆったりとしたモーションで低めへ投じた球は、真ん中から外角へと逃げていくスライダー。体から離れていく白球を追いかけず、合わせるようにバットを軽く出す。
ミートされた打球は低い弾道で三塁線の内側を駆け抜けていく。自分のイメージ通りに打てて、口元が思わず弛む。
次の球は内角高めへのストレート。仰け反らせる目的で投じたと思われるが、少し中へ甘く入った。今度は思い切りバットをフルスイングすると打球はグングンと伸びていき、白球は無人のスタンドへと突き刺さった。
一ノ瀬キャプテンの投球に翻弄されていた姿を前回目撃していた部員達は、俺の変わり様にみんな眼を点にしていた。
それはそうだ。俺だってここまで成長するとは思ってもいなかったから。
充実した設備が整っていた専用グラウンドから校舎隣の砂のグラウンドへ移ってから、それまで頑なに続けていた一発狙いの打撃練習から方向転換した。敢えて打撃投手に制球が定まらない選手を指名して臨機応変なバッティングが出来るように努めるなど、工夫して自分の目指すべき姿へと近づけていった。
これまで経験してきた環境から考えれば天と地の差だが、一つ分かったことは創意工夫次第で練習効率は変えられるということだ。やる気と根気さえあれば一軍に居た頃と変わらない密度の練習が可能だった。
内角・外角の見極め、流すか引っ張るか瞬時に判断、ストライクゾーンの判定。こればかりは打席に立って経験を積まないと得られない。
そこで、制球力がやや劣る投手が打撃投手になれば思った場所にボールをコントロールすることが難しいのであればどのコースに来るか確実に分からない。その点で言えば投球マシンよりも実践的な練習になる。そして投げている投手の制球力アップにも繋がるので投手の方からも喜ばれた。
また集中的に流し打ちの特打をしたい時には逆に制球力の高い投手を指名してひたすら外角へ投げてもらい、体に感覚を覚えさせるシンプルかつスタンダードな形を採った。馴染ませるためには反復して練習するのが一番の方法だ。
残りは理想形を頭で思い描きながら黙々と素振り。極力無駄のない動きでコンパクトなスイング。それだけを追求して、ひたすらバットを振った。
全体練習が終わって続々と他の部員が引き揚げていく中でもバットを握って素振り。ハードな練習でヘトヘトになった体や早く休みたいと思う心に鞭を打ち、ユニフォームは汗が染みこみ砂に塗れ、周囲が暗くなっても構わず振り続けた。
いつしか掌には潰れて固くなったマメの痕が散りばめられ、手の皮も以前より分厚くなっていた。
俺、こんな狂ったように練習したことなんかあったっけ?記憶を辿ってみるがそんなことをした覚えは一度もない。
『疲れを溜めたらアカン』『ケガしたら元も子もない』と言って適当な所で練習を切り上げていた。それで結果を残していたので誰も文句は言わなかった。
別に練習するのがダルいとかサボりたいという訳ではない。でも、恐らくどこか自分の中でストッパーをかけていたのだ。『“ガムシャラに練習する”なんて俺らしくない』とか『泥まみれになる自分がカッコ悪い』と無意識の内に思っていたのかも知れない。
俺よりもっともっと才能のある奴等は俺が休んでいる間もメチャクチャ練習していたんだから、サッサと練習を切り上げていた俺と奴等の差が開いていくだけじゃん。
長打へのこだわりを捨てたことで技術や体格ではない“精神”の大切さに気付くことが出来た。
『打ちたい』という気持ちは『打たなければならない』へと変わり、自分には見えない何かがゆっくりと巻きついてくる。その感覚に気付かなくても体は着実に縛られているから動きに制約がかかる。結果が出せず焦りに駆られ、どんどんと袋小路へと追い詰められていく。
火事場の馬鹿力で一時的に乗り切ることは出来ても、所詮はその場限りのことで長続きはしない。最も良いのは、その見えない何かに取り憑かれないことだ。
打てると思ったボールを打てばいい。結果は良い方がいいけれど欲はなるべく出さない。
野球のルールには2ストライクから何球ファールを打っても捕球されなければアウトにならないのだ。粘っていれば投手の集中は徐々に落ちてくるので制球が乱れる確率も高くなる。甘いコースに来れば捉えて、ボールゾーンになれば四球を選べばいい。
これをやることで『卑怯だ』『セコい』と罵られるかも知れないが構わない―――これは才能で劣る俺があかつきで生き残るために自分から選んだ道なのだから。
……入れ替え試験は過去最高の成績で文句なしの合格を勝ち取った。どん底から一軍に晴れて戻れたが、昔の俺とは違うことが一つある。
才能に溢れた面々が揃う中でもレギュラーを掴める自信がある。それも遠くない未来に。
梅雨が明けて夏の太陽が本領を発揮し始めた頃、甲子園行きの切符を賭けた戦いが幕を開けた。全国の頂点を夢見て、または一日でも長く野球を続けるために死力を尽くした熱戦が全国各地で繰り広げられる。
しかし全体の半数は初戦で敗れ、その時点で三年生はユニフォームを脱ぐことになる。夢破れて去っていく先輩の背中を瞼に焼つけ、明日に向かって歩き出す。
非情かも知れないが勝負の世界なので仕方ない。それでも……まだ、頭の整理が追いついていない。
人気のないグラウンドの上には夕焼けに染まった空が見える。今日最後の試合だったので次の学校を迎えるために素早く撤収する必要がないので、文句も言われることはない。
自分以外に誰もいないベンチからスコアボードを眺める。二列あるスコアボードの大半は0が刻まれているが、ウチの列は全て0が九つ並んでいた。
完封負けで初戦敗退。その事実が、阿畑の心に影を落とした。
昨年秋に悔し涙を流してからストレートの強化に励んだ。140キロを超える表示が出て会場がどよめいた。前回投げた時よりも抑えられたし、成長したとも感じていた。
でも、勝てなかった。
ワイが失点しなければ勝っていたかも知れない。だが『もし』『たられば』は存在しない。あるのは目の前の結果が全てだ。
「あ、やっちゃん。ここに居たんか」
今年からマネージャーになった茜がベンチに顔を出した。どうやらあちこち探していたみたいで息が荒い。「学校に戻るから早よ行こ」と急かしてくるが、茜の声が他人事のように感じる。
思い描いていた理想像と現実のギャップに、ショックを隠せなかった。
幼い頃、TVの中のエースに憧れた。
ピンチで迎えた強打者を渾身のストレートで空振り三振。その瞬間にスタンドから鳴り止まんばかりの歓声が湧き上がる。もし自分がその時にマウンドに立っていたら、と考えるだけでゾクゾクした。『いつかワイもこうなる』と心の中で固く誓った。
野球を始める際に希望するポジションを聞かれると真っ先にピッチャーと答えた。体の大きい年上の子がマウンドに立っていることが気に入らなくて、人一倍練習に打ち込む負けん気はあった。ストレートで打者をバッタバッタと切り捨てる本格派のエースが心の中に強く焼きついていて、その姿に少しでも近づけるように頑張った。
ワイの直球は周りの子よりも格段に早く力強いので打てるヤツは誰も居なかった……いや、一人だけおったな。腐れ縁のアイツが。
そのまま順調に年を重ね、中学時代もストレートを中心とした本格派エースとして君臨した。最後の夏であと一歩のところまで進んだことが大きな自信になった。
秋の大会の敗因はガムシャラになって投げるあまり単調な投球になっていた。試合後にスコアブックを見て気付いて反省した。配球について、緩急について一生懸命に足りない頭で勉強した。
目からウロコが落ちる思いだった。何も考えず思い切り投げなアカンとばかり思い込んでいた。テクニック一つで大きく差が出るなんて夢にも思ってなかった。
緩急の大切さを知ってからはカーブやチェンジアップを挟むように心がけた。すると面白いように打者から空振りを奪えるようになり、駆け引きの奥深さを学んだ。野球がさらに楽しくなった。
ストレートだけなら地区の中でも上位に食い込めるだけの実力があると自負していた。今度こそ抑えてやると意気込んで挑んだ今回の大会。
だが、結果は変わらなかった。
スピードにこだわった対価としてコントロールする力が落ちた。ここぞという場面で力が入りすぎてボールの勢いはあってもストライクに入らない。タイミングを外すつもりで投げたボールを狙い撃ちされて痛打される。自滅したも同然だ。
確かに前よりも抑えられるようになった。でも、勝てなければ意味がない。
今まで信じて疑わなかったエースの姿が霞んでいる。理想に近付こうと懸命に足掻いてきたが、ワイはどうすればいいのだろうか。
「……やっちゃん、行くよ?」
そこに茜が居ることは分かっていた。失意に打ちひしがれる姿を誰かに見られたくなかったが、幼馴染ということもあって気を許していた。茜の方もなんとなく気持ちを察してくれたのか何も言わなかったので、その気持ちに甘えた。
二人きりの時は前のように『やっちゃん』と呼んでいるが、親密さを疑われるのを嫌がってみんなの前では『阿畑さん』と他人行儀な言い方で貫いている。慣れてないことも加わって妙にくすぐったい気分になる。
催促するように声をかけられた時点で潮時だと悟った。いつまでもここに座っている訳にもいかない。腰掛けていたベンチから立ち上がった。
―――二度と不甲斐ない気持ちを味わいたくない。心の中で、そう強く思った。
二回目となる夏の大会は晴れてベンチに入れる18人の内の一人に選ばれた。二宮や八嶋など一部の同級生はレギュラーに抜擢されて正直羨ましくないと言えば嘘になるが、今の実力では9つのポジションの一つを任される位置にいないと割り切れた。
それでも、去年は試合を応援するためにスタンドから眺めていた視点はぐっと低くなった。やはり景色が全然異なっていたし雰囲気も全然違う。
目の前の試合は格下の相手に大差をつけてリードしていた。既に回も中盤に差し掛かっており、そろそろコールドが視野に入ってきた。
「九十九、出番だ」
余裕がある展開なので今後のことを鑑みて出番が告げられた。待ち侘びた状況に込み上げる興奮を抑えつつ、ヘルメットを被ってネクストバッターズサークルへと向かう。
前の打者がアウトになれば俺の打席になる。投じられる一球一球が、練習の時とは比べ物にならない気迫が籠もっているのがヒシヒシと伝わってくる。
これが、公式戦なのか。
平凡な内野フライに倒れると、満を持して立ち上がる。
『―――君に代わりまして、バッター九十九君』
スタンドには両校の野球部員くらいしか入っていないためか、ウグイス嬢のアナウンスが球場内にこだまする。
でも、自分の名前が呼ばれたことで、ようやく自分がこの舞台に立っていることを実感することが出来た。その喜びを噛み締めながら打席へと歩みを進める。
主審と相手キャッチャーに軽く会釈をして、バッターボックスに入る。遠くからスタンドに陣取るあかつき野球部の声援が耳に届くが、どこか他人事のように聞こえる。
ふわふわしている感覚。これは少し、アカン。
マウンドへと目をやると相手ピッチャーと目が合い、ギロリと睨まれる。大して怖くはない、がその表情は鬼気迫っていた。
まだ慣れないな、と思っていたらピッチャーは既に振りかぶっていた。ヤバイ、まだ気持ちが入ってないから待って。心の中で抗議するが相手に届くはずがなくボールは手元から放れる。内角低めへストレートが入ってワンストライク。
失礼を承知で思うが、ここまで打たれてきただけあって大した選手ではない。ウチなら万年二軍クラスの実力だろう。だが、公式戦の魔力なのか数段実力が嵩増しされているように感じた。
……だが、易々と打ち取られる訳にもいかない。俺も試合に出ているが競争に晒されているのだ。代わりは幾らでも存在する上に取って代わりたい連中は山程いる。
気持ちを落ち着かせるため一旦打席を外して息を整える。球場の空気を目一杯吸い込んで、体内に溜まった空気を静かに吐き出した。それだけで浮ついていた自分が一変した(ように思えた)。
改めてマウンド上の投手を睨むと先程よりも一回り小さく見えた。そして同じコースに投じられた球も弱々しく自分の眼に映った。コンパクトに向かってくる球を振り抜く。
引っ張った打球は一二塁間を綺麗に抜けていくヒットとなった。一塁ベースまで悠々と走り、その手に残る感触をじっくり味わう。
「俺はやれる」確かな自信が、その掌にあった。
引退する先輩からキャプテンを引き継いだ。二年生の中で抜きん出ている実力もそうだが、野球に対する情熱も人一倍ということも先代キャプテンが託した理由に挙げた。
多分自分がキャプテンになるんだろうなと薄々ながら察していた。先頭に立ってみんなを引っ張っていくことも嫌ではないし、後輩から頼られるとつい肩入れしたくなる性分なのも自覚している。
だが……改めて野球部を見直してみたが、環境としては最悪だった。
監督は野球のことは全く分からない素人の風が吹けば倒れてしまいそうなおじいちゃん。練習メニューから公式戦に出るメンバーの選定、部費の使い道まで全てキャプテンに全権を委ねていると言っても過言ではない。
学生として逸脱した行動さえしなければ万事OK、選手の自主性を全面的に支持してくれる。やりたいことを好きにやれる。
ならば―――まずはこのチームを変えよう。幸いなことに先代キャプテンから渡された部費には余裕がある。
「合宿やるでー!!」
監督の承諾は取れた。ツテで安い旅館の大部屋を確保することも出来た。練習する場所も見つけた。
いきなりの発表にも部員達の反応は上々だった。夏休みに秘密の特訓という感じが現実離れしていてテンションが上がっていた。
その期待に応えるべく、合宿では野球漬けの特訓メニューを組んだ。
旅館近くの浜辺で足腰を鍛えるためにランニングを延々と繰り返し、持久力を高めるために海で遠泳、グラウンドに戻ると全員がバットを持って素振り、そして総仕上げに部員総出で地獄ノック。
鬼軍曹ばりに檄を飛ばし、自分自身もユニフォームが汗が絞り出る程に練習した。全ては部員の意識を変えるため。
「試合で負けても仕方ない」という負け犬根性を捨てない限り、このチームは永遠に勝てない。「負けて悔しい」と心の底から思えるようになれば、自然とチームは勝てる方向へと進んでいく。
今回の合宿では守備を重点的に底上げするのが最終目標として掲げていた。俗に水物と言われる打撃はその日次第なので半分諦めているけれど、守備に関しては調子に左右されることはない。
地味でキツイと敬遠しがちだが守備を鍛えることで下半身が強化されて打撃に好影響を与えるという話もある。今までは部員達がやりたくないと言って疎かにしていたことが本番で守備のミスを招く結果になった。根本を変えるためにはここしかない。
合宿の集大成として朝から陽が暮れるまで続いた地獄ノックで足腰が立たない部員が続出したが、その後に組んだ他校との練習試合では目に見えてエラーやヒットが減少した上に得点力も向上して、万年初戦敗退のそよ風が創部以来の連戦連勝を飾ることになった。
新生そよ風ナインの滑り出しは上々、拷問に近い合宿で出た不平不満もチームの勝利でピタリと止み、阿畑新キャプテンの求心力も格段に上昇することとなった。
夏の大会が終わって三年生が引退した直後から、俺を取り巻く環境が微妙に変わり始めているのを肌で感じた。
これまでは一ノ瀬さんのカリスマによってチームが一致団結して頂点を目指す集団だったが、キャプテンが四条になると綻びが生じ始めたのだ。夏の大会も初戦で帝王実業に大差で敗れたこともあり、チーム内の不満が表に出てきた。
キャプテンの組み立てた練習メニューを自主性を盾にして公然と破る、不平不満を口にする者も増えた。
『二軍に落ちたヤツが調子に乗るなよ』
『アイツはあかつきにふさわしくない』
『無名校出身で大した実績もない分際でベンチ入りに選ばれるなんておかしい』
『なんでも監督やキャプテンに媚を売っていたらしいぜ』
『あぁ、エリートじゃないヤツはやっぱり汚いな』
目に見えて妨害をされる訳ではない。ただ、独り言のようにブツブツと小さな声がそこかしこから洩れてくる。
熾烈な競争から脱落したはずの人間が復活すると一気にトップ争いまで登り詰めた。その変貌は羨望から嫉妬へと変わるのに時間はかからなかった。
あかつきというチームは才能のある選手が各地から集まっている。その多くはこれまで成功者として実績を残してきた者達が多い。似た者が固まるからこそ異端者を排除する傾向が強いのだ。
推薦組とは言っても出身は無名の弱小校、特に秀でた能力もなければ大器の片鱗も見られない。そんな無名の選手に抜かされる事実を、今まで積み重ねてきたプライドが許さない。
僻み妬みの類なので特に気にしていなかった。そんなのに構っている暇があるなら練習すればいいし、一々気にしていたらキリがない。
しかし周囲はそんな風に割り切れる者は少ないらしく、一緒に練習しようと誘っても断わることが多くなった。巻き込まれたくないという防衛意識が尻込みさせるのだろう。
いつしか一人で練習することが増えた。それも『アイツは協調性がない』と陰口を叩かれる材料になる。俺がレギュラー争いの競争から外れるまで消えない、終わりの見えない嫌がらせ。
ネガティブな感情をここまで一身に受け続けてきたが、流石に限界が来た。気分転換にぶらっとロードワークへ出ることにした。
学校を出て風の赴くままに走って河川敷にまで到達すると、休憩も兼ねて草の上へと寝転んだ。
すぐそこまで迫った秋を予感させる澄んだ青空を気持ち良さそうに白い雲が泳いでおり、赤トンボは宙を滑るようにスーッと頭の上を横切っていく。
夏の強い日差しを浴びて育った草むらは、まるでふかふかなベットのように心地よかった。体を横たえる草の薫りが鼻腔に広がり、悶々とした気分が少しずつ晴れていく。
「あー、悪いんだ悪いんだ。サボってるー。キャプテンに言いつけてやるー」
失敬な、これは体内の熱を抑えるためのクールダウンや。断じてかったるいから抜け出したサボりではない。
そう反論しようと顔を上げて文句を言おうとしたら、人懐っこい笑みを浮かべた少年が立っていた。短く刈り上げたオレンジ色の髪、一点の曇りもない澄んだ瞳、声変わりを経てない高音。
尤も、小学生が九十九の姿を見て練習をサボった野球部員と分かるはずがない。
「そういうお前こそ、何を持っとんねん」
声をかけた少年の正体は、九十九と同学年で同じ外野を守る八嶋だった。
ユニフォーム姿にも関わらずその両手にはアイスが握られていた。八嶋は甘いものが好物で部活終わりの帰りに駄菓子屋へ立ち寄ってよく糖分補給をしている。
練習中にグラウンドを抜け出して買い食いとは大した度胸だ。何も言わずに片方の手をこっちに差し出してきたので遠慮せずに受け取る。
「……で、何で中(あたる)まで練習抜け出してきたん?」
口の中にアイスの甘さと冷たさが広がる。真夏の暑さから比べると幾分か和らいだものの、秋に差し掛かっても衰える気配を見せない太陽の下にいると未だに汗が滲む。
そうした環境の下で食べる冷たいものは格別だが、練習を抜け出して食べている状況というのも一段と美味さが増す。
一方で、俺のような悪知恵を駆使して練習を怠けようとしない八嶋が、どうして練習を抜け出して俺の所に来たのだろうか。理由を幾つか考えてみるが見当もつかない。
アイスを無言で頬張る八嶋であったが、唐突に話を切り出した時の表情は一転して深刻そうな表情を浮かべていた。
「宇宙(そら)に嫌がらせが移ったから、オイラ心配で」
宇宙と書いてソラと呼ぶ。やけに文学的な名前をつけてくれたな俺の両親は。自分の下の名前を呼ばれると不思議な響きだなと思うのだが、今はそれ以上に気になることが八嶋の口から飛び出した。
“移った”って、何?怪訝な表情で八嶋の横顔を食い入るように見つめ、話の続きを待つ。
「オイラも少し前まで色々と言われてきたんだ。『足だけが売りのキワモノ部員』とか『体格で劣るチビがどうしてベンチ入りメンバーに選ばれるんだ』って」
大きくて円らな瞳からポロポロと真珠のような涙が零れ落ちる。拳で拭いながら八嶋は話を続ける。
「中学の時は予選で一回も勝てなかった弱っちいチームだったけど、偶然試合を観に来ていたあかつきのスカウトの人がオイラの足を認めてくれて『ウチに来てもっと楽しい野球をやらないか?』って誘ってくれた。もしも『強豪チームでレギュラーを目指さないか』とか『君ならあかつきで一番になれる』って言われていたら断っただろうけど、『楽しい野球をやらないか』って言われた時には胸がときめいた。弱かったけど楽しかった野球を、もっと楽しめるってどんなことなんだろうか、って興味が凄く湧いたんだ」
涙は止まることなく延々と流れ落ちる。何事もないように装うが込み上げてくる嗚咽は殺しきれてない。
恐らくは思い出したくも無い出来事なのだろうが、それでも懸命に喋ろうとしているのを黙って耳を傾ける。
「最初の頃は練習についていくだけでやっとだったけど、だんだんと楽しいと感じることが多くなってきて、やっとのことでベンチ入りに選ばれた時はメッチャ嬉しいって思った。なのに、……どうして、一生懸命頑張って掴んだのにこんなこと言われなきゃいけないんだって……」
何でも素直に受け止める八嶋からすれば仲間内から湧き上がる心無い中傷の言葉はさぞかしショックだっただろう。それはある程度受け流せるオレの何倍も辛かったに違いない。
そもそも八嶋には何の罪もない。自分達よりも小柄で気に入らないというだけで心ない言葉を投げつける。みんな仲間で楽しくやれると信じていた八嶋が苦しんで悲しんだのは想像に難くない。
「どうしようもないから、こっそり一ノ瀬キャプテンに相談したんだ。そしたら偶然話を聞いていた二宮がメッチャ怖い顔で部屋を出て行って、それからピタリと嫌がらせが止まったんだ」
誰かに話したら恥。その気持ちはよく分かる。八嶋の頑張りも才能も、歪んだ見方しか出来ない奴等以外にはちゃんと伝わっている。
そして幸運だったことは、最も怒らせてはいけない相手が八嶋の味方になって積極的に事態に介入してくれたことだ。キャプテンからの信任も厚く実績もあり、何より強面で怒ると誰も手が付けられない二宮が。
恐らく「影でこそこそ中のことを悪く言うヤツが居たらこの場に出て来い。俺が相手してやるから覚悟しておけ!!」と一喝したに違いない。この手の輩は真っ向から喧嘩を売る程の根性が据わっているヤツはいないのが相場だから、八嶋はターゲットから外さざるを得ない。
そうなると不満の捌け口を変えざるを得ず、格好の標的として祭り上げられたのが俺、ということか。
しかも俺は満遍なく付き合っているが二宮は「態度がムカつく」とか「(人を刺すような険しい目つきをしている自分のことを棚に上げて)目つきが気に喰わない」と公言して憚らない。
特に後ろ盾がある訳でもなく一匹狼のような俺は敵にしても問題はない、もし仮に潰れてくれればレギュラーへの道がそれだけ近付く、ということか。底の浅いヤツは魂胆が分かりやすくて助かるわぁ。
咥えるアイスは既に全部溶けてしまって棒だけしか残っておらず、噛むと仄かに木の味が口の中に香る。
「宇宙……」
『宇宙』と書いて『そら』と呼ぶ。両親が付けてくれたありがたい名前ではあるが、少々無理がありすぎるのではないだろうか。名前を呼ばれるとつい、そういう考えが頭に浮かぶ。
心配そうな表情でこちらを見つめる。心配すんな、中。俺は負けへんから。卑怯な手を使って揺さぶってくる輩なんかに屈したりせぇへんからな。
「そろそろ戻らないとヤバイんと違う?」
「あ、ホントだ。行こうか」
パッパッと尻を払い、立ち上がって学校へ向かって駆け足で戻る。せめてもの罪滅ぼしに普段より心もち早いペースで。
無事グラウンドに到着した頃には既に全体練習が終わり居残りで練習する部員が何人か居るだけだった。
二人でクールダウンに軽く体を動かした後に部室に戻って着替える。大して体を動かしていなかった割には汗がじっとりとアンダーシャツに滲みていた。
帰ろうと廊下を歩いていくと、普段はあまり使われることのない会議室から不意に「九十九」と声がかけられた。誰だろうと振り返ると、そこにはキャプテンの四条の姿があった。
その体の前にはパソコンが置かれていた。明日の練習メニューを打ち込んでいるのか、それとも秋に控える地区予選への情報整理か。
「今日の練習中、姿を見かけなかったが……」
トレーニング論などにも精通している四条は部員の練習メニューも組んでいる。部員の様子を把握するのもキャプテンの仕事の一つということで、何か気付いたら必ず確認するようにしている。
厄介な奴に捕まってしまったな、と内心で苦々しく思いつつも、何食わぬ顔で「ロードワークに行ってた」と答える。一応は走っていたから嘘ではない。
こちらの顔をじっと見つめていたが「そうか」とだけ言って、再びパソコンに目を落とした。帰りが遅かったことを怪しんでいる様子だが、一応は本人の主張を聞いておくといったところか。
深く追求されるとうっかり現地を取られかねないので「ほな、お先に」と言葉を投げてそそくさと退散しようとすると、再び四条から呼び止められた。
「今日は僕しか見ていないから大目に見てあげるけど、明日からは大概にしとけよ」
―――バレてる!何故分かったのか、まさか八嶋の方から足がついたのか!?とアタフタしていると「口元」と指摘されたので慌てて口元を拭う。
口の周りに若干のベタつきが感じられたので手で拭ってみると、指先が微かに茶色く染まっていた。嗅がなくても分かるが、指先を鼻に近づけると甘い香りが漂ってくる。
これは間違いない。八嶋が持ってきたバニラアイスの外側をコーティングしていたチョコレート。
しまった!うっかり忘れてしまった!しかし分かっていて指摘する四条も四条ではないか。お前は小姑か。
……恐らく、何があったか全て知っているから見逃してくれたんだろうな。感情をあまり表に出さないので冷酷なように映るかも知れないが、案外仲間想いな良いヤツだと知っているからこその気遣いだと伝わる。
俺にも頼れる仲間がおるやん。そう思うと少し折れかけていた気持ちがすっと伸びたような気がした。
阿畑の性格は根っから明るい陽気な性格の典型的な関西人気質である。だが、その一方で研究熱心な一面があった。向上心は人一倍高く、自己研鑽の意識も強い。その姿勢はキャプテンに就任してから徐々に表れ始めていた。
三年生が引退した翌週には部室に研究用のTVを部室に持ち込んだ。監督は当初部員達が練習に身が入らなくなることを恐れて難色を示したが、阿畑の熱意に負けて容認することになった。それから阿畑のロッカーの周りには本やレジュメの類が次々と積まれていき、日を置かず山が二つも三つも出来上がってしまった。
様々な資料に目を通していたが、一番力を注いでいたのは変化球に関することだった。
それはある日、とある本の記述に阿畑は目を奪われた。
『変化球は扱う人によって変化が異なる。工夫次第で変幻自在』
基本的な握り方というのはあるものの、人によって変化の大きさや軌道が変わるのだ。
指の大きさや長さ、投げ方、投げるポイント、腕の振り加減、握力。様々な要素で同じ握り方の変化球も別物のボールへと変貌を遂げる。
言い換えれば、この世で一つしかない自分だけの“オリジナルボール”を創り出すことも夢ではない。
これまで変化球はストレートを活かす為にある程度と軽く捉えていなかったが、やり方次第では三振を狙える決め球にもなれるのだ。
阿畑は考えを改めて、自慢の直球と引けを取らないオリジナル変化球を編み出すことに着手した。
ほんの少し指の位置をずらしてみたり握り方を変えてみたり。その度に白球は面白いくらいに異なる変化を見せてくれた。
キャプテンとして部員の先頭に立って練習を引っ張っていく傍らで、オリジナル変化球の探求に没頭する日々が続いた。
そして試行錯誤を重ねた末、ようやく自分だけの変化球を生み出すことが出来た。
元々投げていたカーブを基本にして、スライダーのようなキレを加えたボール。部員相手に試してみるとブレーキのかかったボールをひっかけて凡打の山を積み重ねた。
その名も“タコヤキボール”。野球と同じくらい大好きな関西人の魂・たこ焼きからその名を拝借させてもらった。たこ焼きもボールも丸い、という共通点もあることだし。
秋の大会まで二ヶ月しか間隔が空いていない中、なんとか間に合った。
このオリジナル変化球を引っ提げて、目指すは地区制覇!あわよくば憧れの甲子園も手中に入れてやる!
達成感に包まれたこともあり、夢は膨らむばかりであった。
―――……意気揚々と大海原に漕ぎ出したはずなのに。船は目指す宝島に着く前に転覆してしまった。
試合を終えた阿畑は敗戦という二文字にただただ呆然とするしかなかった。
一回戦ではエースの力投に応える形で打線も奮起。序盤に先制点をもぎ取ると、着々と追加点を加えて危なげなく快勝した。
これまで勝利の味を知らなかったナインは一回戦勝利という結果に対して大いに沸き上がった。
地獄を見た合宿の成果も公式戦の場でもしっかりと発揮することが出来たのも収穫だった。打ち取った当たりをしっかりアウトにする味方の守備をしっかり信頼出来るレベルに達していたことに満足を覚えた。
そよ風高校は初戦を突破した勢いに乗って二回戦も勝ち、自分達の実力に半信半疑だった部員達の目にも自身の色が見え始めた。
だが、次の対戦相手は毎年ベスト8辺りまで駒を進める中堅校。破壊力と機動力を兼ね備えた打線で、相手のチームに打ち勝つことが伝統としているチームだ。
新たに手にした“タコヤキボール”の威力を試すには格好の相手でもある。もし仮に“タコヤキボール”で凡打の山を築けば、地区最強と謳われたあかつきにも通用することが証明される。
一回り目は順調な滑り出しを見せる。140キロを超えるストレートの勢いに負けて打ち損じたり、ブレーキのかかった“タコヤキボール”に芯を外されたり、阿畑の思った通りの投球が出来た。
だが、暗転したのは二巡目からだった。練習で打撃マシンを使っている学校だったので140キロのストレートに順応するのは予想以上に早かった。“タコヤキボール”も当初は戸惑いや困惑を見せていたが、球数を投げていく内にボールの軌道を読まれ始めた。
主軸の連打で先制点を献上すると、中盤には完璧に球筋を見切られて釣瓶打ちを喰らった。一方の打線の方も相手投手の低めに打たせて捕るピッチングに翻弄され、残塁の山を築くばかり。
そして結果は……無惨なコールド負け。9回を投げきることすら出来なかった。
守備優先で打線の底上げを怠ってきたことも敗因の一つではあるが、打線の援護を待つ前に崩れてしまったワイに全ての責任がある。
小手先のオリジナル変化球で舞い上がってしまった自分が恥ずかしかった。相手の投手は一年生ながら制球が冴えて要所要所でコーナーを突くピッチングでこちらの打線を完璧に封じ込めていた。
ストレートの球速はこちらよりも5キロは遅く、変化球に関しても空振りを取れるようなボールを持っていなかったのに、抑制の利いたコントロールだけで抑えていたのだ。投手の実力だけで見れば、間違いなくワイの方が上だった。
それなのにワイは“タコヤキボール”を過信したあまりに序盤から“タコヤキボール”を多投してしまい、相手の目を早く慣らしてしまった。タネの割れた手品が観客に通用しないのと一緒だ。
高い代償を支払わされたが、まだ次がある。来年の夏の大会が正真正銘最後のチャンスとして残っているではないか。
下を向いている暇はない。ワイ自身も、このチーム自体も、まだまだ発展途上にある。充分に上を目指せるだけの力を秘めていると信じている。
大敗したからこそ逆に割り切って次へ向けて進んでいけるし、課題も収穫もあった。あとはひたすらに前進するのみだ。
秋季大会のベンチ入りメンバーが発表され、先発メンバー9人の一人に名を連ねることが出来た。これで念願のレギュラー入りである。
飛び抜けた才能は持っていないが他のメンバーと比べても遜色ない実力があると評価されたことがスタメンに抜擢された要因だと思っている。部内では思わぬ人選に対して懐疑的に捉える声が依然として根強くあり、嫉妬交じりの批判は留まることを知らない。
しかし、地方予選で上位打線を打つ面々に負けず劣らずの好成績とチームへの貢献度を示すと、それまで実力を疑問視してきた声はピタリと止んだ。まだまだ不動のレギュラーとは言い難いが、それでも自分の地位を着実に固めつつあるという実感は自分でも掴んでいた。
今年のあかつきナインは実力のある個性豊かな面々が揃っていることから『スター軍団』と巷で呼ばれているらしいが、そんな中でも自分の姿を見失うことなくスタメンの中に入れているのは、一度どん底を味わって生まれ変わったからに他ならない。
周りが何を言おうと関係ない。このスタイルを貫くことが良いと自分で分かっているのだ。そう思うと、周囲の雑音も気にならなくなってきた。
今は“常勝無敗”を掲げるチームの勝利にどうするべきか、しか考えられなかった。
レギュラーになってから変わったことが一つある。チームメイトからアドバイスを求められることが多くなったのだ。
やはりスタメンに選ばれたことは相当凄いことらしく、少しでも上手になりたいと思っている部員がポツポツと現れるようになった。
自分の練習時間が削られる不安もあったが、相手の悩みに対して真摯に聞くように心がけた。一ノ瀬さんがあの時に的確な助言をしてくれなければ自分もあちら側に居たかも知れないと思うと、無下に断る気持ちになれなかった。
とは言っても特別秀でている訳ではないので教えるのに苦労したこともあったけど、「こうしたらえぇんと違うか?」と指摘した部分が格段に良くなった時は少し嬉しい気持ちになった。アドバイスすることで自分の技術を思い返したり、相手の良い部分を吸収する良いキッカケにもなった。
……そういえば一ノ瀬さんもよく二軍のグラウンドへ足を運んで後輩相手にキャッチボールやノックをしていたなぁ。今考えると後輩と接することで自分のことを見つめ直していたのかもしれない。伸び悩んでいる同僚ほど、後輩を指導する際には荒い言葉遣いで相手を全否定した上で「こうすべきだ!」と頭ごなしに言っているのとは明らかに一線を画していた。
やっぱり一ノ瀬さんは実力だけでなく人間性もある素晴らしい人だったな、と改めて痛感させられた。
俺もそれにあやかる訳ではないが、時間が空いた時や気が向いた時には二軍のグラウンドに足を運ぶようにした。俺のことを快く思わない連中にしたら「やっぱり三流は三流の者同士で仲良くするのが性に合っているらしい」と陰口の材料にしているらしいけど、言いたいヤツには好きなように言わせておいた。相手するだけ無駄だし、尊敬する一ノ瀬さんを穢していることに気付かない気の毒な奴等だと思えば放っておけた。
やっちゃんがキャプテンになってからというものの野球部の雰囲気が様変わりしてしまった。
とは言え、実績のない野球部に潤沢な予算がある訳もなく、練習に使うボールもマネージャーや部員で解れた部分を縫いながら使っているのが現状だ。涙ぐましい窮状をカバーするのがやっちゃんの閃きだった。
中古のビデオ付テレビを研究用として部室に持ち込み、野球に関する蔵書や雑誌も自分のロッカー近くに持ってきて山のようにうず高く積み上がっている。そして「これは良い!」と思ったものは積極的に練習メニューに組み込んでいった。
「精神統一の一貫や!」と言って部員全員で茶道に取り組んだり、「チームプレイの大切さを学ぶ!」とボランティアに駆り出したり、まるで暴君のように野球とは無関係なことを強制させたかと思えば、「先人の知恵を参考にした」と日本刀で素振りをしたり(監督に知られてこっぴどく叱られてた)夜中まで地獄のようなノックを行ったり、やっていることは破天荒だったけれどそれなりに効果はあったみたい。
これまでと比べて練習時間も格段に延びたし、練習量も比例して増えたことで過酷な状況に不満を口にする部員も少なからず居た(ウチも雑用やマネージャーの仕事が増えて「ここまでやらんでもえぇんちゃう?」と思った一人やけど)けれど、秋の大会で勝ち進んだことでそうした声も聞こえなくなった。
そして何より、辛く苦しい練習であっても楽しそうにやっている姿を見ると、ウチも愚痴をこぼしていられないという気持ちになった。
秋も更けてきて陽が落ちるのも早くなった。今日も辺りが暗くなるまで練習が続けられ、部員みんなが全身砂まみれになって部室に引き揚げていった。
ウチらも早く帰らないとアカンな……と思っている時に限ってうっかりグラウンドに忘れ物をしてしまった。明日でもいいかなと思ったけど、そういう訳にもいかず取りに向かう。
ちょっと室内に居る内に先程までは夕焼けに染まっていた空には幾つか星が浮かんでいた。昼間ならば熱を冷ましてくれる心地いい風も、今は肌に触れると体が身震いしてしまうくらいに寒く感じる。
今日も目一杯体を動かして疲れたし、小腹も空いてきたなぁ。帰りにデラたこ食べようかな。この寒い中であの大きなたこ焼きを頬張ると衣のふわふわっとした食感とプリプリとした弾力のある歯応えのタコが濃厚なソースが絶妙に絡んで口の中一杯に広がり……嗚呼、想像しただけで余計にお腹が空いてくる。
と、暗がりの中でシュッシュッと音が聞こえる。気になって音のする方へ歩いていくと、夕闇に染まるグラウンドで黙々と投げ込みをする一人の影があった。
誰やろ?練習終わってみんなクタクタやったんに居残りで練習をする人なんて。暗闇のせいで誰なのか判別がつかないのでもう少し音のする方へと近付いてみる。
トスバッティングに使う真ん中に大きな穴の空いたネットに向かって白球を投げ込む姿をじっと凝らして眺めていると、ぼんやりとその輪郭が見えてくる。
「……やっちゃん!?」
思わず声を上げてしまうと、全身から玉のような汗を滴らせていたやっちゃんがこちらに顔を向けた。
「その声、茜か」
どうやらこちらの姿が鮮明に見えてないらしく、声だけで判断しているみたいだった。
「何しとるん!?こんな時間に」
「いや、あれくらいの練習だと物足りないからな」
あれくらいと軽く言っているが、かなりハードな練習量で部員の多くは練習が終わるとヘトヘトになって帰っていくのに。
しかもキャプテンということでみんなを鼓舞するべく厳しい練習に率先して取り組んでいる。にも関わらず疲れた顔一つせず、さらに追加で練習しているなんて。
「キャプテンになってから自分の練習時間を確保するのはどうしても難しいからな、どっかで埋め合わせをせんといかんからこうしてこっそりやっとる訳や」
やっちゃんの創意工夫はこんな所にも表れていた。ネットの穴はストライクゾーンの高さと幅に合わせられ、常にコースを意識して練習が出来るようになっている。おまけに片付けの手間も省けて一石二鳥だ。
細かい点にまで野球のことを考えているんだな、と強く感じられた。
「そろそろ守衛さんの来る時間やし、もう帰ろうよ」
「おぉ、もうそんな時間かいな。ちょっと待っとれ、三分で支度するわ」
アンタ三分なんかで片付くはずがないやん。荒れたグラウンドも整備せんといかんし、着替る時間も勘定の中に含まれとらんやろうし。甘々な見立てに内心で文句をつけつつ、十分後には綺麗に片付けて家路についた。
いつも一人で帰っているから平気だと言ったがやっちゃんは「女一人で帰るのは危ない」の一点張りで譲らなかったので、仕方なく二人で帰ることになった。折角なのでデラたこに寄り道して奢ってもらうことにした。
「何でワイがお前の分まで払わないといかんのや……」とボヤいていたが、自分も小腹が空いていたらしく自分用にも購入して、近くの公園へ入って手近なベンチに腰かける。
別に肩肘張る関係でもないので遠慮なく大きな口を開けてデラたこを頬張る。上にかかっているソースや青のりが口元に付こうとお構いなし、口に入れた瞬間に訪れる至福の一時を味わうのに些細な手間など気にならない。
「美味いなぁ」
二人並んで大きなたこ焼きを頬張る姿は他人から見たらどういう風に映るのだろうか。チラリと浮かんだ疑念も、目の前にある丸い球体から湧き上がる湯気のように浮かんでやがて消えた。
誰か知り合いに見られたら、と想像しただけで頬が熱くなる。
アカン!別のこと、他のこと考えないと!
「どうしてやっちゃんは、そんなに自分のこと追い込むん?」
即座に思いついた話のタネは野球しかない。親密に会話している、というのも恋人ポイントに数えられるけど、そもそもウチらは幼馴染やから関係ない!と心の内で開き直る。大体こんなたこ焼きみたいな顔の人を好きになるはずがないやん。
いきなり振られた話題にやっちゃんから返事はない。三個目のたこ焼きを口に放り込んだばかりで、喋りたくても口の中が一杯で喋れないのだ。少しタイミングが悪かったなと反省。
ゆっくりと噛み締めて一回二回と喉仏が上下に動いて大きく息を吐いて、ようやく喋り始めた。
「別に追い込んでる意識はないなぁ。ただ、思うのは前の試合みたいに自分が不甲斐ないせいで惨めな負け方をするのは二度とゴメンや、ってとこかな」
これまで見せたことのない深刻な顔をして真面目に語るやっちゃんの姿に、今年の夏に行われた試合後に打ちひしがれていた姿が蘇った。
先輩を差し置いてエースナンバーを手にしたやっちゃん。自分はあと一年残されていたが、三年生にとっては正真正銘最後の大会だ。野球を続ける為には試合で負けるまで勝ち続けなければならない。負けられない責任と三年生の想いを、エースナンバーのユニフォームに袖を通したやっちゃんの肩に背負っていた。
しかし、結果は初戦敗退。味方の守備がマズかったにしても、自分の力が足りなかったばかりに先輩を引退へ追い込んでしまったのだ。通用すると信じて疑わなかった自分の実力が、いとも簡単に打ち砕かれてしまった。
三年生の未来を託されたにも関わらず裏切ってしまった責任は、自信を覆された衝撃は、マネージャーのウチには分からない。
偶然だが試合後にベンチで一人項垂れているやっちゃんを目撃したが、普段は軽口を叩いたり冗談を言ってチームメイトを笑わせていた陽気なやっちゃんのイメージと落差が大きすぎて息を呑む思いだった。何回も声をかけても気の抜けた返事しか返って来ず当時はイライラしたが、今思えばエースとして勝利に導けなかった責任を一身に感じていたのかも知れない。
あの時に味わった悔しさがあるからこそ、今こうして真剣な表情を浮かべているのだ。
そして今もやっちゃんの肩にはチームの命運が圧し掛かっている。これまで以上に重圧がかかっているにも関わらず飄々としている。
現状に妥協せず常に上を目指しているやっちゃんの姿は、誰にも真似出来るものではない。……まぁ、こんなカッコイイ感じに言っているけれど、目の前に座るやっちゃんは青のりやソースを口につけて幸せそうな表情を浮かべているが。
ふと目線を落とすと、膝の上にあるデラたこが一個だけ残っている。それを器ごと黙ってやっちゃんに差し出すと、怪訝な顔をしてウチの顔をじっと見た。
「どないしたん?いつもなら平気な顔して平らげるのに」
さらりと失礼なことを口走るが、寛大な気持ちで水に流す。
「うん、なんかお腹いっぱいになってしもうた。勿体無いからコレ、やっちゃんにあげるわ」
食べれないことはなかったが、何故かやっちゃんにあげたくなった。
突然の申し出にやっちゃんは遠慮なく自分の爪楊枝を伸ばして、そのまま口に放り込む。大分時間が経って冷たくなっているはずなのに、やっちゃんは実に美味しそうな顔をして噛み締めている。
頬が弛むと妙に愛くるしい表情に映る。大して見栄えのする顔ではないのに。
「……何?ワイの顔に何か付いとるん?」
指摘されて始めてまじまじとやっちゃんの顔を見つめていたことに気付く。そりゃ確かに人の顔をずっと見ていたら何かあるのかと思うだろう。
慌てて視線を外して「何でもない」と否定したが、やっちゃんの顔を見ていたことを指摘されただけで動揺していることが自分では一番驚いていた。
一年中ずっと練習漬けのあかつき大付野球部だが、流石に年末年始の一週間だけは練習が休みになる。学校自体が閉鎖されることもあるが、故郷を離れてやってきた部員は親元へ帰れる貴重な時間にもなっている。
野球が生活の中心の生活をずっと送ってきているので休み前は“貴重な休みを満喫しよう”と意気込んでいたが、いざ休みに入ると逆に落ち着かない気持ちになった。家でTVを眺めていても面白くないし、昼寝をしようと横になっても目が冴えて眠気が全くやってくる気配がない。そして気が付くと、暖かい家から出て寒空の下で黙々とバットを振っていた。
練習中は懸命に息抜きを求めているのに休みになると体を動かしたくなる自分のギャップに「職業病やな」と苦笑いせざるを得ない。昔ならダラダラと有効的に時間を潰していただろうが、常勝軍団の一員として担い始めてから意識が少しずつ変化してきたことを、九十九自身は気付いていない。
結局、家から一歩も外に出なかったのは大晦日と元旦の二日だけだった。
二日目は朝から流れる漫才番組を観て初笑いを堪能して、三時になるとトレーニングウェアに身を包んで走りに出掛けた。この二日間は大掃除以外に体を動かしてないので、そろそろ体を動かしたくてウズウズしてきた所だった。
街は眠ったようにシンと静まり返り、人とすれ違うことは全くない。正月独特の雰囲気を味わいながら軽快な足取りで街中を走り抜ける。
と、角から人が飛び出してきた。それなりのスピードで走っていたので咄嗟に回避することも止まることも出来ず、相手もこちらが走ってきたことに気付かず、出会い頭で衝突してしまった。ぶつかった拍子に後ろへ倒れ込み、強かに尻を打つ。
「痛ててっ……すんません」
前方不注意を詫びて相手に謝ると、「いえいえ、こちらこそ」と関西の訛りが混じった女性の声が返ってきた。
その声にどこか聞き覚えがあると思って相手の顔を確かめると、記憶の中にある幼馴染によく似た姿の女性が目の前に居た。
「―――茜?」
するりと名前が口から零れ出た。不意に自分の名前を呼ばれて驚きの表情を見せたのは一瞬だけで、相手もすぐに俺のことが誰なのか思い出した様子だった。
偶然の再会だった。小さい時にはやっちゃんも入れた三人でよく遊んだ仲の九十九は、昔とあまり変わっていなかった。最後に顔を会わせたのは中学二年の時だったから、およそ二年ぶりになるか。
二年という歳月は言葉以上に長く感じる程の重さがあるけれど、背丈が伸びくらいで他は外見も含めて雰囲気も二年前と一緒だったので茜には嬉しかった。久しぶりに会ったという喜びも手伝って、近くのコンビニで飲み物を買って公園に行き、互いに近況を話す。
九十九は地区で上位に当たるあかつき大学付属高校へ進学していた。野球だけでなく勉強もソツなくやれる印象があったから違和感は全く抱かなかった。そこで野球部のレギュラーに抜擢されたことを伝えられると驚いたけど。
地区内に留まらず他所からも部員が集まる強豪でレギュラーに選ばれるなんて予想もしてないし、昨年来から“スター軍団”と持て囃される面子が揃う中で知っている人がその一翼を担っていると思うと、その衝撃は倍増された。野球部のマネージャーをしているからその苦労や大変さも察せられた。
既に春の選抜大会に出場することが発表されており、そこでもスタメンに名を連ねることは想像に難くない。甲子園の舞台に立てることも容易に想像がつく。
「凄いやん!あかつきでレギュラーになるなんてメッチャ凄いことやん!」
手放しに喜ぶと九十九は「大したことやない」と素っ気無い態度を見せたが、照れくさくて返事に困っているのだと分かる。普段は臆面もなく飄々と話しているけれど、こういう時だけは言葉に詰まるのだ。
お返しとは言わないがウチのことも少し話した。そよ風高校に進学したこと、野球部でマネージャーをしていること、そしてやっちゃんと再会したこと。ウチの話すこと一つ一つに頷いて聞いていたが、やっちゃんのことが話題に上がっても九十九から何も聞いてこなかった。昔は仲良くつるんでいたイメージが強くあったから少し不思議に思ったけれど、それもすぐに消えた。
買った時には触れるだけでヤケドしそうになる程に熱かったコーヒー缶も、会話に花を咲かせる内に人肌の温もりとなり、今では中身もすっかりなくなり冬の寒さが缶に凍みついている。
九十九の方も同じ様子らしく、コーヒー缶を持っているものの口に運ぼうとはしない。無糖のブラックをチョイスする辺り、やっぱり大人だなぁと思わせる。
お互い喋りたいことも尽きてきた頃、九十九は中身のないコーヒー缶を手元で弄びながら爆弾を放り込んできた。
「……なぁ、茜。あの時の話って、まだ有効か?」
九十九が切り出した“あの時の話”。ウチの中ではてっきり終わった話だと思っていたので、この場でそのことが出てくるとは考えてもいなかった。
それは遡ること二年前、ウチが中学二年の時に九十九から突然付き合って欲しいと申し込まれたのだ。
野球部ではレギュラーとして活躍、勉強もそこそこ出来る、ルックスも悪くない、そして何事もソツなくこなす。周囲から「九十九先輩のこと好きなんだけど」と相談されたことも何度かある。まさかウチのことが好きだったなんて。
これまで幼馴染としてしか見てなかった九十九からの告白に、当時のウチは戸惑いを隠せなかった。どう答えればいいか分からず、「……少し考えさせて」としか言えなかった。
どっちつかずの曖昧な返答にも関わらず九十九は「そっか。じゃあ茜の答えが出るまで待っとるわ」とだけ言って、その場から去ってくれた。
それからも何度か九十九と顔を合わせる機会はあったが、告白そのものが無かったことのように振舞ってくれてウチとしては凄く助かったことを覚えている。律儀にウチの方から答えを伝えてくれるまで待ってくれているのだ。
しかし、幾度も考えたけれど答えは一向に浮かばなかった。
結論を先延ばしにする訳ではない。好きか嫌いかと聞かれれば好きと答えただろう。ただ、自分が九十九と付き合っている姿が想像出来なかった。
あの時と同じようにどう答えればいいか分からず窮していると、察してくれたのか「分かった」と一言言うと「まだ待っとるから」とだけ告げてその場を後にしていった。
その後ろ姿は二年前と変わらず堂々としていて、一人残されたウチの心がキュンと締まって苦しかった。
重苦しい冬が明け、春を予感させる季節の便りが次々と舞い込んできた頃、高校球児にとって憧れの舞台である春の選抜大会が幕を開けた。
大会期間中は春休みの期間とも重なっているので午前中から練習に打ち込める環境にあるが、今日だけは様子が違っていた。
時刻は午前十時を少し過ぎた辺り。春を予感させる朗らかな日和で、普段なら掛け声やミットにボールが収まる音が聞こえてくるのに、鳴りを潜めている。野球部の部室には全部員がTVの前に集結してその画面に注視している。
放送されていたのは同じ地区の強豪校、あかつき大学付属高校の甲子園大会初戦の試合。
それはキャプテンである阿畑の鶴の一声がきっかけだった。
「今日はあかつきの試合があるから、それを観るでー!!」
目的は地区最強を誇る戦力の分析もあるが、高いレベルの野球を見ることで日々の練習に活かせる絶好の教材になると阿畑は考えたのだ。
しかも対戦相手は昨夏全国制覇を成し遂げた帝王実業。“歴代最強”と謳われているあかつき大付に負けず劣らずの実力校である。
この試合を通じて何か糸口を見出せれば御の字、と阿畑は考えていた。
両軍ベンチ前に整列していた選手が一斉にホームベースへ向かって駆け出す。審判を挟んで対峙して、主審の号令で一堂が礼をする。熱戦の火蓋が間もなく切って落とされると思うと、自分の血が熱くなるのがヒシヒシと感じられる。
後攻のあかつき大付ナインが各自の守備位置へ散っていき、帝王実業の先頭打者がバッターボックスへと歩み寄っていく。主審の合図と共に試合開始を告げるサイレンの音が甲子園球場全体に鳴り響いた。
あかつき大付の先発は左の猪狩守。一年生ではあるがその実力は折り紙つきだ。初球のストレートはスコアボードの球速計に140キロと表示され、球威も申し分ない。
その速球を詰まらされて内野ゴロに仕留めると部員からは溜め息が漏れる。しかし、阿畑の表情は険しいまま変わらない。
実際にその投球を目の当たりにしたことはないが、データ上の猪狩守はこの程度で驚く選手ではない。
次の打者はストレートが一球外れてからの二球目。あまり間隔を空けず放たれた白球に喰らいつこうとバットを出すが、打者の手前で急激に内角へと切り込んで空振り。
このボールに「えぐいスライダーだなぁ……」と部員達は息を呑んでいるが、これは決して他人事ではない。打者の視点から“いきなり消える”感覚のスライダーは夏の大会で牙を剥いて自分達を襲ってくる可能性があるという危機感が足りない。
猪狩守は初回を二者連続で三球三振に抑える上々の滑り出しを見せた。強打が自慢の帝王実業打線を相手にしながら気後れすることなく対等に渡り合えるだけの実力。これは間違いなくウチにとって脅威となる。
今の球を当てることがこのチームに何人居るだろうか。頭の中で想像したがすぐに止めた。考えなくても分かる、のが辛い。
代わってあかつき大付の攻撃。打席に入る姿がカメラに映るが、それを見た部員から「小さな〜」という声が上がる。体格に恵まれた選手と並んだら一回りは小さいか。
だが体格が小さいのは決して悪いことばかりではない。体格に合わせてストライクゾーンが決まるので身長が小さければその分だけ狭まり、投手からすれば厄介な問題だ。それに海千山千の猛者が揃っているあかつきで先頭打者を任されるとなれば、警戒するに越したことはない。
速球の勢いに負けて打球は三塁手の正面に転がるが、それ以上に目に留まったのは阿畑の予想していた通りの快足。打ってからのスタートも早いが初速からぐんぐんと加速を続け、最高潮のスピードを維持したまま一塁ベースを駆け抜ける。しかし三塁手が落ち着いて対処したため判定はアウト。
やはり昨年夏の甲子園大会を制覇した王者。肩も強い上に送球も安定している。派手さはないものの守備の堅さを象徴するようなアウトだ、と痛感した。
二回表の攻撃では四番が内角高めのストレートを芯で捉えて三塁線を破るツーベースヒットで出塁。次の打者はコースギリギリに食い込むスライダーに体を上手く回転させて捉えた打球は、高々と上空に舞い上がった後にスタンドへと突き刺さった。
対するあかつきのクリーンナップも相手先発の山口に襲い掛かるが、勢いのある直球と切れ味の鋭い落差があるフォークで強気の投球に翻弄されて打線は完全に沈黙状態にあった。
そして三回裏。先頭打者として打席に立った姿に、阿畑は目が釘付けになった。肩に触れるか触れないかまで伸びた黒髪に、眠そうに映る細い目……紛れも無く、九十九だった。
そうか、アイツはレギュラーを勝ち取ったんか。幼馴染として率直に嬉しいと思うと同時に、何かすっきりと晴れない感情が心に湧いてきた。
ゆったりとしたフォームは以前と同じみたいだが、九十九を纏う雰囲気が少し変わったような気がした。中学時代の九十九は豪快なスイングで相手投手を粉砕するスタイルだった為に「どんと来い!」と構えていたが、画面の中の九十九にはピリピリした空気が全く感じられない。何を考えているのか、阿畑には理解しかねた。
初球。内角低めのストレートを悠々と見逃し。やはり、おかしい。左右へ柔軟に打ち分ける技術はあったが引っ張り傾向の強かった九十九にとって、今のボールは手を出していてもおかしくない。
あかつきへ行って何があったのか。昔と今のギャップに苦しみながらじっと画面を見つめる。
二球続けてフォークを投じるが九十九は見極めてボールが先行。しかし次は外角にカーブが決まって二ストライク二ボールと投手有利なカウントとなる。
相手投手は三振で決めにかかるが際どいボールもカットして粘り、相手に球数を多く投げさせる。四球ファールが続いてカウントは変わらないまま八球目。
内角へのストレートが若干高めに浮いたのを見逃さず、バットを振り抜く。だが球威に押されたか打球は勢いなくライト方向へ上がっていく。
二塁手が一歩二歩と打球を確認しながら後ろへ下がるものの、打球は本塁から右翼方向へ強く吹いていた為に予想以上に距離が伸びていく。白球は風に翻弄されながらフラフラと泳ぎながら芝に吸い込まれていく。
懸命に追いかける二塁手が気迫のスライディング。落としてなるものか!という気迫が勝ったのか、伸ばしたグラブに白球は収まっていた。
「惜しいなー」
「芯で捉えられなかったから仕方ないか」
「でも、あのセカンド凄ぇー」
様々な意見が飛び交う中、阿畑は一人だけ神妙な面持ちをして押し黙ってしまった。
あれは敢えて芯を外したのだ。もし仮に芯で捉えていれば九十九のパワーではスタンドまで届かず、ライト正面のライナーで終わっていただろう。出塁することを優先するならば、打球を殺してポテンヒットにする方が得策だと考えた打撃に違いない。
甘い球が来るのを待っていたのは事実だ。落差の大きいフォークに惑わされることなくしっかりと見切っていたし、ストライクかボールか区別のつかないボールをファールで逃げる技術も持ち合わせている。
打順は下位に甘んじているが、これはなかなか厄介な打者だ。長打狙いでブンブン振り回す打者よりも、こうやってネチネチと球数を放らされる打者の方が嫌らしい。
いつも長打を狙っていたお前がここまで変わるとは。
画面の中に映る幼馴染は劇的に生まれ変わったのに、大きな翼を得て大空へと飛翔したのに、今のワイはどうなんや。同じ二年間という月日を過ごしてきたのに、この差は何なのか。
考えるだけで焦燥の炎で身を焼かれる思いだ。
「……アカーン!何を油売っとるんや!さっさとグラウンドに出て練習するで!練習!」
いきなりの豹変ぶりに部員達からはブーイングの嵐。そもそもキャプテンが練習を休みにして中継を観ようと言ったのに、と皆揃って顔に書いてあるが気にしない。
負けへんで。届くはずのない遠く離れた甲子園のグラウンドに立つ幼馴染に、心の中で強く宣言した。
一ノ瀬先輩の敵討ちだと勇んで臨んだ帝王実業戦だったが、逆に大差をつけられて返り討ちにされてしまった。
決して“地区で敵なし”とか“スター軍団”と周囲から持て囃されて驕っていた訳ではない。単純に実力が足りなかったのだ。
散発の七安打で一点を返すのが精一杯、では勝てるはずがない。俺は四打数一安打一四球の成績だったものの、満足はしていない。まだまだ強くならないといけない、と改めて痛感させられた。
……少し気にかかるのはスタメン陣と控えの面子との間にある温度差。地区大会からスタメンも先発も固定、エースの猪狩も一ノ瀬先輩ほどではないが充分にスラッガーとして通用するので代打を送られる可能性は限りなくゼロに近い。秋の地区予選を含めて控えのメンバーが試合に出ることは一切無かった。
出番が望めずベンチに座るだけの面々は当然ながら不満を抱えていた。「何でアイツが使われるんだ」「オレを使っていたら違った展開になっていたかもしれないのに」と。
そうした陰湿な声は快進撃を続けていた間でも薄らと出ていたが、甲子園初戦で完敗を喫すると一挙に不満が噴出した。
非難の矛先に上がったのはチームを勝利に導けなかったキャプテンの四条、並み居る先輩投手を押しのけエースナンバーを勝ち取った猪狩、不安定で荒いプレーが目立つ五十嵐、そして―――特に秀でた才能もなく控えの面々よりも実力で劣ると言われているのにスタメンの座に座っている俺。
昔から天才だと言われることの多かった猪狩はそういう声や嫉妬に慣れているのか平気な顔をして流しているが、根が真面目な四条や五十嵐は心無い声にしょんぼり落ち込んでいる。揚げ足を取るのが上手やな、と内心で毒づいている俺とは違い心が澄んでいるので批判も額面通りに受け止めてしまうのだろう。
試合を終えたあかつきナインはその日の内に学校へ戻り、そのまま解散となった。バスに揺られて到着したのは夕暮れ時、明日から練習ということで多くの部員は早々に帰宅した。
俺は少し体を動かしたい気分だったので監督に申し出て室内練習場を開けてもらった。一人だけで使うのは勿体無いので電灯は一つだけ点けて、その光の下でバット一本だけ持ち込んで素振り。
バットを振っていると無心になれるのだが、今日は次々と色々なことが脳裏に浮かんでくる。あの場所から見える光景が、あの投手の配球が、あの時の結果が。懸命に振り払おうとバットを振りまくるが、こびりついた雑念は離れようとしない。
「一緒に練習してもいいかな?」
突然声がかかり驚いて振り返ってみると、室内練習場の入口に六本木の姿があった。あかつき大付の中でもずば抜けた守備センスを持っている六本木は守備の要として不動の地位を築いているが、人当たりが良く穏やかな性格なので部内で悪く言う者を聞いたことがない。
その手には手入れが行き届いたグローブとノックバット。熱戦を繰り広げた後に居残りで練習しようと考える奇特な奴は俺以外にも居たらしい。
「構わんよ。練習場を一人で使うなんて贅沢やし、それに一人より二人の方が効率えぇしな」
快く応じると六本木は「ありがとう」と爽やかな笑顔を見せた。涼やかな風貌を持っているというのは、それだけで得なのかも知れない。
六本木は軽く準備運動をこなして体を温めると、俺にノックを志願してきた。
「……大丈夫か?」
声をかけたのは理由がある。六本木は生まれつき心臓が弱く、現在でも定期的に病院へ通っているのだ。オーバーワークで心臓に負荷がかかって苦しみ悶える姿を目撃したのも一度や二度の話ではない。
監督も体の事情について知っており、細心の注意を払って練習メニューを組んでいる。尤も、自分の体の状態は自分が一番把握しているので、六本木は調子次第で柔軟に変更しているが。
「ありがとう。でも移動している間に休憩出来ていたから平気。もしダメだったら言う」
俺の気遣いに優しい笑顔で返してくる。しかし、俺は知っている。六本木という人物は見た目に反して意外と頑固なことを。
今の表情も一見すると穏やかではあるが、その言葉の中には一度口にしたことは周囲が身を案じて止めようとしても頑として受け付けない強さが含まれている。
心臓にハンデがあるからこそ、六本木は人よりも何倍もキツイ練習をしてレギュラーの座を守っている。天性のセンスに負けず劣らずの努力があることを監督も認めているのだ。
移動中に休憩したと本人は言っているものの長時間バスの中に拘束されて疲労が蓄積してないなんてあるはずがない。でも、そこは曲げるつもりはないみたい。
意思が固いと悟ってノックバットを握ると、六本木は早くも待ちの姿勢に切り替わった。立ち位置は通常の距離よりもやや近め。危ないかと思ったが自分で決めた距離なので文句も言えない。ボールの入ったケースを引き寄せ、準備は整った。
それからしばらくの間、ボールを打つ澄んだ金属音とグラブに収まる乾いた音だけが室内練習場に響いた。
“華麗”という言葉が実によく似合う。打球を追う動きに一切の無駄が無く滑らかに足が動いている。不規則なバウンドにも体の使い方を変えたりグラブで微調整することで対応する捌き方は既にプロ級の腕前だ。
地味で単調な上に見た目以上の過酷な練習ではあるが、これがあるから試合でも鉄壁を発揮出来るのだ。六本木の守備があることであかつきの失点が減っていると言われても異議を挟む余地はない。
それでいて右に左に大きく振られても本人はケロッとしているのが時々バケモノかよとツッコミたくなる。
ふと時間を見ると壁にかかる時計の針は八時に迫っていた。時が経つのを忘れるくらい練習に没頭していたことになる。
流石に受ける側は肩で息をしていたのでタオルを投げると、六本木は素直に受け容れた。
「……宇宙のノックは安定していて良い練習になったよ」
六本木は何事においても感謝の言葉を忘れない。それが例え後輩であったとしても、だ。
ノックを打つのは簡単に映るかも知れないが、実際はそうではない。素人だとバットに当てるのも難しいし、当たったとしても打ち手が思ったような打球が打てるとも限らない。
バウンド、強さ、方向、速さ。ほんの少しバットの角度やスイングの強さを変えるだけで打球は大きく変わってしまう。ノックには技術が要るのだ。
さらに俺は序盤こそ左右へ激しく振っていたが、後半はペースを落としていた。六本木の方もそんな些細な手心も見抜いている様子だったが、何も言わなかった。
散らかったボールの後片付けを二人で分担してカゴに入れていく。かなり集中して振り込んだせいか、ボールを掴む力がかなり弱まっていた。
「勝ちたかったなぁ……」
ホッと一息ついた拍子に本音がポツリと滑った。心の中で思っていたことが口に出てしまったことに慌てたが、後片付けに精を出していた六本木の手も止まって神妙な面持ちをしていた。
猪狩はよく投げたと思う。初めての大舞台にも関わらず強打の帝王実業打線をよく抑えてくれた。本来であれば頑張る後輩の為に援護をしてやらなければいけないのに、一点を取るのが精一杯だった。責められるべきは野手である俺達にある。
ヒットを打てたから満足なんかしていない。勝たなければ意味がない。悔しくないはずがない。それなのに、何も知らない連中は。
「宇宙のせいじゃない」
散乱するボールを拾いながら、それでいて力強い声で六本木は言い切った。
「誰も手を抜いてない。単純に僕らの実力が足りなかっただけ」
負けたことにクヨクヨしている俺を突き放しているように聞こえるが、そうではない。全力を尽くして負けたのは自分達が弱いだけであり、相手より強くなるしかないのだ。
レギュラーとして試合に出ている以上悔しさや無念さは誰よりも感じている。だからこそ疲れが残る体に鞭打って猛特訓に励んでいたのだ。俺も無意識の内にそういう気持ちがあったからこそ、居残りで練習していたのだろう。
そして六本木は何事も無かったように後片付けを再開した。汗が滴り落ちるのも構うことなく、淡々と。その後ろ姿が役者のように様になっていたが、その内側には燃えるように熱い心が秘められていた。
室内練習場の鍵を返しに行くと、部屋には灯りが点いていた。こんな遅い時間まで誰が残っているのかと思って部屋を覗くと、キャプテンの四条がノートパソコンの前に座ってスコアブックを見ていた。他には誰もおらず一人でデータ分析をしているらしい。
ふと顔を上げてこちらと視線が合うと「なんだ九十九か」と言って、再び目線を手元に落とした。
「居残りで練習するのも良いけど疲れを取るために休むのも大切だぞ。早く帰ったらどうだ」
ぞんざいな物言いではあるが、信頼されている証と思うと不平の言葉も飲み込める。それに、自分自身も疲れているにも関わらずこんな時間まで残っているのだから、頭が下がる思いだ。
しかし、今の四条の姿にいつもと少し様子が違うように感じた。余裕がないと言うかガムシャラになっているというか。表情が冴えないのは試合の疲れが残っているせいかも知れない。
鍵を所定の位置に返して自分も帰ろうと思った矢先、背中から四条の弱々しい声が聞こえてきた。
「―――済まない。僕が不甲斐ないばかりに君にまで迷惑をかけてしまった」
その声色に驚いて振り返ると、そこには暗い顔をして頭を垂れている四条の姿があった。普段は感情を表に出さず端的に物事を処理しているが、今は正反対の人物が目の前に座っている。部員の前では決して弱音を吐かないが、親しい者しかいないという気軽さから本音が漏れたのだろうか。
前任のキャプテンである一ノ瀬はエースで四番という類稀なる実力と絶大なカリスマの二つを兼ね備えていたが、残念ながら四条にはどちらも持っていなかった。
キャプテンとしての責務を果たそうと懸命に頑張るが、一ノ瀬さんと接してきた人からすれば今のキャプテンに物足りなさを感じてしまうだろう。潜在的に不満を抱えていることに対して自分が何の対処も出来ないことに、四条は悔しさを感じているのかも知れない。
心無い陰口のせいで親しい友人が厳しい状況に立たされている状況を解決に結び付けられない自分に苛立っているのだ。チームを一つにまとめられない責任を一身に受けて、四条は一人で頑張っているに違いない。
データと向き合うのが得意であっても血の通った人間なのだ。人並みの感情を持ち合わせた、チームメイトのことを大切に考えてくれている。
「キャプテンはしっかりやっとる。それに、俺のことなら心配いらん。文句言っている奴に一々構っとったら体が持たんで」
どんな言葉をかけるか直前まで迷った。弱味を見せると責任感が強い四条は不甲斐ないと自分を責めるので言葉遣いには気を遣う。でも、他人の分まで苦しみを背負い込んでいるキャプテンのことを思えば、これくらい苦労の内に入らない。
努めて明るく振舞ったつもりだが、果たして俺のメッセージを受け取ってくれたか分からない。でも、四条から返ってきた「気をつけて帰れよ」と短い言葉に幾分か声に張りが戻ってきたので、伝わったと解釈して家路につくことにした。
季節は巡り四月になった。新しい後輩が入部してきて、ようやく自分が最高学年になったという実感が湧いてきた。これまで以上にチームを引っ張っていかなければとやる気になる反面、自分に残された時間を嫌でも痛感させられ焦燥と不安が胸の奥底から込み上げてきた。
オリジナル変化球の出来はイマイチ、部員全体の戦力底上げは着々と進んでいるものの未だに地区の中堅レベルにも達していない。特に自分自身の成長が伸び悩んでいる現状は限りなく深刻だ。
果たして夏までに仕上がるのか、と内心で危惧している。焦りがさらなる不安を呼び込み、それを払拭しようと新学期に入ってからは一段と練習に力を入れるようになった。
「ワイがやらなアカン、ワイが……」
まるで何かにとり憑かれたように練習する姿に茜が心配して適度に休むよう促してくるが、休んでいる一分一秒が今は惜しい。チームの命運は文字通りワイの肩にかかってるんや。一刻も早くこの状況を打破しないと……
慢性的な疲労が体に蓄積されているのは薄々感じ取っていたが、無理を承知でオリジナル変化球の習得に没頭した。練習時間外でも暇があれば投げ込み、睡眠時間も削って研究に打ち込んだ。
「―――うっ」
右肩に激しい違和感を覚え、我ながら情け無い声が漏れる。次の瞬間にはこれまで経験したことのない激痛が腕から肩から発生して、あまりの痛さに耐え切れず地面へ転がり落ちるように倒れる。
茜の「やっちゃん!!」と悲鳴に近い声が耳に入ったのを最後に、目の前が真っ暗になって意識を失った。
最近アホみたいに練習しているので不安だった。
二十四時間三百六十五日いつでも野球のことを考えていると公言するやっちゃんは日頃から研究熱心で人よりも何倍も練習に励んでいたけれど、最近は野球に詳しくない私でも分かるくらいにペースを無視していた。
日に日に険しくなっていく様を見るのは辛くて何度も諌めたけれど「大丈夫」「問題ない」と繰り返すばかりで聞き入れてくれなかった。
そして今日、遂に練習中に突然倒れてしまった。すぐに救急車が手配されてやっちゃんは意識を失ったまま病院へ運ばれていった。
ウチも心配で心配で仕方なく、監督と一緒に付き添いで病院へ練習後に向かうことになった。
「検査の結果ですが、過度の過労という診断です。肩や肘・腕その他の箇所に異常は見られません」
結果を伝えられて一先ず胸を撫で下ろす。やっちゃんの体に異常がなかったのも安心した材料だ。もし仮に今後野球をするのに制約がかかったり最悪ドクターストップになったらと思うと不安で仕方なかった。
監督は部員が倒れるまで練習させた自らの監督不行き届きを詫び、医者から「今後は無理をさせないように」と注意を受けて面会を終えた。
「……監督、一つ伺っていいですか?」
思えば監督とは話をする機会どころか声もあまり聞いたことがない。
野球部では主にやっちゃんが前面に立ってあれこれ指示を出しているし、練習中も選手の中に入っていかずベンチに腰かけて見守っている。声を出すのは大会前のメンバー発表くらいだけど、それもキャプテンが決めた名前を読み上げるだけ。全てを選手に任せていると言っても過言ではない。
そのためか存在感も薄く、監督らしいことをしているイメージは全く湧かない。用事があってもやっちゃんに聞けば済むので、特別話しかける必要もない。
ただ、今は二人きりなので、この際だから前々から聞きたかったことを訊ねてみることにした。
「どうしてキャプテンはあんなに自分を追い込むんでしょうか……確かに、キャプテンとして“チームを引っ張っていかないと”という気持ちは分かりますが、自分が倒れるまでやらなくてもいいんじゃないかと考えるのですが」
黙って私の話に耳を傾ける監督。私から見ればおじいちゃん程に歳が離れているが、傾聴する姿勢は何故かホッとする安心感を抱く。普段から疑問に思っていたことがスルスルと言葉になって出てくるのも、それが関係しているのかも知れない。
私の話が終わると、監督は穏やかな語り口で喋り始めた。
「阿畑は心の底から野球のことが好きなんじゃろう。朝起きてから夜眠るまで、もしかしたら夢の中でも野球のことを考えているかも知れん。それでも飽きずに情熱を注ぎ続けるのは、野球に対する愛情がそれだけ強い証なんだと儂は思う」
ゆったりと、それでいて茶飲み話でもしているような気軽さで、監督は話を続ける。
「儂は野球のことは全く分からない。何も知らないから技術を教えたり心構えを説いたりすることも出来ない。しかも野球をする環境が整っている訳でもないし、監督がこんな有様だから試合にも勝てない。でもなぁ、みんな楽しそうな顔をして野球に打ち込んでいる。少しでも部員達が明るく元気に楽しく野球が出来るように影から応援することしか出来ないが、この老いぼれにはそれだけで充分じゃ」
時々、監督が自らノックバットを握ってノックをしようとすることがある。でも素人の監督がバットに当てることが出来ずに結局は他の部員が肩代わりしている。それでも監督は諦めずに部活の終わった後に一人グラウンドに残ってノックを打つ練習をしているのを、一度だけ見たことがある。この人はこの人なりに部員の為に何かしようと考えているのだ。
頭を下げて済むのであれば監督は喜んで謝るんだろうな。部員が無事に帰って来るのであれば。
監督にも監督なりの苦悩があることを、この時初めて知ったように思った。
体に異常は見られないとの結果を聞いて、ひとまず安心した。今後も野球を続けても問題はないが、くれぐれも行き過ぎた練習はしないようにと釘を刺すのを忘れなかった。
二日間も点滴を打たれてベットに拘束される退屈な時間を送っていたが、それもようやく解放された。体を動かすことを許されずボールを握ることしか叶わなかったが、しっかり充電したお陰で体は生まれ変わったように軽かった。おまけにオリジナル変化球のヒントも掴めた気がする。
そして三日ぶりとなるマウンドに立ち、息を一つ吐く。二日この場所に立たないだけで何故か久しぶりな感がする。土の匂いや風の香りが、妙に心地いい。
ゆっくりと腕を振りかぶり、軸足にしっかりと体重を乗せ、タメを作った後に左足で地面を踏みながら一気に右腕を振り切る。ボールは―――ふわりと宙に浮いたかと思うと左右へ小刻みに揺れながら落ちていく。
受けるキャッチャーも目でボールの軌道を追いかけるが、ブレながら落ちてくるボールに翻弄されて変化を読みきれない。慌ててミットを差し出すが、無常にもボールはキャッチャーの股を抜いてコロコロと後ろへ転がっていった。
その様子を一部始終見守っていた後輩も同級生も茜も目を点にして驚いているが、一人マウンドに立つ阿畑だけは確かな手応えを実感して思わずガッツポーズが飛び出した。
「……よっしゃー!これやで!」
病院のベットに寝かされている間、ずっと考えていた。気合を入れて投げることは大切だが、常に全力を出しているといつか今回のように躓いてしまう。投球も同じことではないか。それが今回のオリジナル変化球を誕生させるキッカケとなった。
速い球は空振りを奪える。これは野球をしている者なら知っている共通認識ではあるが、プロの世界は速いボールを投げる選手だけが活躍している訳ではない。スピードは遅くても成績を残している選手は大勢いる。
正確なコントロール、緻密に組み立てられた配球、そして無限の可能性を秘める変化球。
ストレートのように球威のあるもの、逆にストレートとの落差で打者のタイミングを外すもの、手元で急激に曲がって芯をズラすもの、大きな落差で空振りを狙うもの。その変化は千差万別。
変化球を考えていく中で、全てのボールが全力で投げ込むストレートのように目一杯の力で投げているものばかりではないと気がついたのだ。
その成果が今投げたボール。不規則に揺れながら落ちるボールは投げた本人もどう変化するかわからない、文字通りの魔球。何球か続け様に投げていく内に課題が湧き上がってきたが、これを軸に改良を加えていけばいい。……付き合わされるキャッチャーは受難かも知れないが、キャッチングの練習とでも思ってもらおう。
何度も回り道をしたけれど、ようやく手に入れた。確かな手応えをこの手で掴んだ感触を放さぬようにグッと掌を握り、それと共に一つのことを確信した。
これなら甲子園も夢ではない、と。
今年の新入生は去年と比べるとやや見劣りがする、という印象だった。そもそも投打に申し分ない実力を持って即戦力で入部した一ノ瀬さんや猪狩みたいな存在が毎年入るようなことが少ないのだが。
唯一見込みがあるとすれば猪狩の弟の進くらいか。流石に控えまで充実している戦力層の為に入部即一軍とはいかないが、その巧みなバットコントロールに堅実な守備は目を瞠るものがある。サラブレッドの系譜は健在、といったところか。
それにしても兄貴は先輩でも関係なく人を見下した態度を見せるのに、弟の方は穏和で人当たりが抜群に良い。全くの別人と言われても遜色ない。
新入生が入ってきても相変わらず陰湿な陰口は止む気配を見せない。矛先は通常なら生意気な後輩に向けられるが、その生意気な後輩は嫉妬や陰口に慣れていて効果がないのでレギュラーの座が危うい者へ向いている。
だがレギュラー組もその地位を着々と固めつつあり、そうした声はまだ確固たる基盤を築いていないライトの俺へ一点集中するようになった。与しやすいと思われるのは心外ではあるが、抜群の野球センスを持ち合わせている訳ではないので否定は出来ない。寧ろ努力で今の地位を勝ち取ったのだから、アイツ等もコソコソ集まって陰口を叩く暇があったら走るなりバットを振るなりすればいいのに、と思わなくもない。
そんな中、一つの事件が起きた。
OBから頑張る球児を応援したいと陣中見舞いでスポーツドリンクの差し入れがあった。マネージャーが冷やしておいて休憩中に各自で取りに来るように監督から通達された。
俺は二軍練習場で行っていた打撃練習が長引いたせいで休憩に遅れるのが少し遅くなってしまい、人混みがある程度捌けた頃合にドリンクを取りに行くタイミングになった。
しかし、四条の妹でマネージャーの澄香の表情が俺の顔を見た途端に表情が曇った。
「……どないしたん?」
一瞬で険しくなったのは理由がある。努めて何気ない風を装って訊ねてみると、澄香は申し訳なさそうに切り出した。
「すみません。こちらの手違いで用意していたドリンクがなくなってしまいました……」
申し訳なさそうに頭を下げる澄香。マネージャー達は選手のみんなは快く野球に集中してほしいという気持ちを持って全力でサポートに徹してくれている。細やかな気配り心配りには選手であるこちらの方が感謝しているし、彼女達の貢献ぶりには脱帽するしかない。
部員が一斉に殺到する中で手際よく全員へ均等に配るのは至難の業だし、目の届かないのもよく分かる。
人間誰だって失敗があるから彼女達には何の罪もない。悪いのは、こういう小賢しい嫌がらせを考え付く連中だ。やっていることは小学生レベルのイタズラだが、ここまでしてレギュラーが欲しいのかと思うと心が痛む。
OBの方は今どれだけの人数が在籍しているか細かい数字は知らないだろうから、かなり多めに差し入れをしていただいているに違いない。それでも足りなくなったということは、“誰かが複数持っていった”こと以外に考えられない。
内心で嘯いていると二宮が通りかかった。深刻そうな表情を浮かべている澄香に何かあったかと事情を聞く。すると何事もないように「そりゃ遅れて来た九十九が悪い」とバッサリ切り捨てた。
予め遅れることをマネージャーに伝えておけば九十九の分は確保してくれただろうし、もしかしたら元々数が足りなかったのかも知れない。そうすると事前に連絡を伝えなかった九十九の責任、という訳だ。
この二宮の見解に対して澄香は異議を唱える。一軍と二軍の練習場は隔てた距離にあり、アクシデントがあるとも限らないと指摘。寧ろルールを破る者の方が責められるべきだと強面で知られる二宮の主張に対して一歩も引く姿勢を見せない。
「無くなったもんはしゃーない。俺は自前のドリンクがあるから心配いらんから、マネージャーのみんなもそんな暗い顔せんといて」
解決の糸口が掴めず水掛け論に発展しそうだったので、ここは俺の方から折れることで決着を図る。そもそも物に執着する性格なので全員に配られて自分一人だけ貰えなくても大して気にならない。
まだ澄香の顔が冴えなかったので努めて明るく振舞ってその場を収めようとしたが、その態度も二宮には気に入らない様子らしく苦々しい表情を浮かべてその場から立ち去っていった。
そうこうしている間に休憩時間も明けて、練習を再開する。しかし、どうしてか再開後は心にモヤモヤとした空気が胸に残っているようで、練習に身が入らない。
たかがドリンク一本貰えなかっただけで拗ねるとは器が小さいと思うかも知れないが、全員が貰えて自分だけ除け者にされるのはやはり堪える。意識しないようにすると余計に考えてしまい、それが練習にまで響いてしまった。
効率の悪いままズルズルとやっていても時間と体力の無駄だ。精彩を欠いている時は思い切って練習を早めに切り上げるに限ることにした。
その帰り際、澄香に声をかけられた。
「九十九さん、今日は本当にすみませんでした」
言い終わる前に腰から折れるように頭を下げられ、困惑する。いくら人目が無くても年下の女の子にここまで謝られると男として申し訳ない気分になる。
僅かに肩が震えているのは感情を自分の中で押し殺しているのか。本当に兄妹揃ってよく似ている。
「そんな大袈裟に謝らなんといて、俺も悪かったんやし数が元々足りへんかったかも知れんし、な?」
相手を責める言葉を巧みに避けて頭を上げようとさせるが、澄香は一向に顔を上げようとしない。必死さがヒシヒシと伝わってきて、逆に胸が痛む。真面目さと責任感の強さは兄譲り、か。
「今日の九十九さん、なんだか上の空で動きも鈍かったですし……」
ズバリと自分でも感じていた点を指摘され、言葉に詰まった。
性格だけでなく観察眼まで兄の血を受け継いでいるのか。下手したら部員から選抜されるスコアラーよりも見る眼があるかも知れない。
「……兄に伺いました。九十九さんは今厳しい立場にあるから手助けしてやってくれ、と。誰が仕組んだことか大体の見当がついています。個別に誰かを贔屓する気持ちは一切ありませんが、正々堂々と掴んだレギュラーの座をこういう卑劣な形で奪おうとする人達を私は好きに慣れません」
ようやく顔を上げた澄香の眼元は僅かに赤くなっていた。悔しさと怒りと無力さが入り混じった瞳は、真っ直ぐ俺の顔を捉えていた。
それと共に、俺は可愛い後輩マネージャーを泣かせた顔も知らない相手に強い怒りが湧いてきた。
是が非でも守り抜いてやる。それが例え茨の道であろうが修羅の道であろうが、真正面からぶつかることなく搦め手からネチネチと攻撃してくる卑怯者に屈したりしない。
涙が滲む後輩の前で、一人誓った。
「……ありがとな」
そのままクルリと方向転換して歩き出す背中に向かって「どちらへ?」と澄香から声がかかる。「気が変わった」とだけ言い残してグラウンドへ向かって踏み出した。
やる気を失くしてノコノコと帰ったらアイツ等の思うツボ。今日やれなかった分を取り返すべく居残りで頑張ってやる。追われる立場には慣れてないが、譲る気は一切なかった。
上等や。束になってかかってこい。いつでも相手したる!
『己を知れば百戦危うからず』の故事通り、自分のチームを端的に分析評価して部員個々の能力を底上げしてきた。その結果としてチーム全体の戦力がアップしただけでなく部員一人一人の意識も変化を遂げていた。
これまでは“一回戦だけでも勝てれば万々歳”という軽い気持ちだったが、阿畑による意識改革によって“心の底から勝ちたい”と勝利に対して貪欲な姿勢へと変わったのだ。どうすれば勝てるか個人が真剣に考えながら練習に取り組むようになり、練習効率も格段に上がったことでさらなる技術の向上が見込まれた。
阿畑がキャプテンになった当初から蔓延していた“キャプテンの言うことを聞いていればいい”という雰囲気も抜けて部員それぞれが自主的に練習を行うようになり、自分に費やせる時間が一気に増えた。だが、まだまだ力不足な感じが否めない自分の実力を考えると、遊んでいる暇は毛頭無かった。
「……偵察や」
地方予選はTV中継が入るので他校の情報は比較的手に入りやすいが全ての試合を網羅している訳ではない。撮影ポイントも限られているので本当に見たいことや知りたいことが得られない場合も考えられる。やはり自分の眼で直接確かめる必要があると判断した。
幸いなことに時間には余裕がある。強豪校の練習を観察することで今後のメニューにも活かせる可能性もある。それに数字では測れない実力というのも確認しておきたい。
思い立ったら即行動。各種機材(と言っても万年初戦敗退の弱小野球部に潤沢な予算が付いている訳ではないので自前のハンディカメラ一つだけなのだが)をカバンに詰めて、いざ出発。
偵察に行くと知った部員達からは続々とお供したいと嬉しい申し出があったものの、この手のデータ収集は一人で集中したかったので固辞した。まぁ、その多くが偵察名目のサボりという下心が透けて見えていたので、留守を守る茜に「ワイがおらんでもサボらんように見張っといて」と釘を刺しておくのを忘れなかった。責任感の強い茜なら部員に檄を飛ばしてくれると分かっているから安心して託せられる。
一方で部員達からはキャプテン以上に容赦が無いことで知られているので勘弁して欲しいと懇願する目でこちらを見ていたが、これも鍛錬の一環と諦めろと突き放す。
そして単身向かった先は、地区最強と謳われるあかつき大学付属高校。
流石は全国にその名を轟かせる強豪校。スケールが何もかも大きい。
校舎に併設されているグラウンドはそよ風の三倍は広い敷地でありながら、その全てを野球部が専有して使っている。陸上部やサッカー部と使う範囲を相談しながら練習しているウチとは大違いだ。
グラウンドの広さもそうだが、それ以上に大勢の部員が各々の練習に汗を流していた。これだけの人数がいれば紅白戦どころかトーナメント戦をやっても人が余るだろう。
おまけに軽快な動きを見せる部員がちらほらと存在しており、この時点で自チームの戦力を凌駕している。これだけ居るんだから何人かトレードして欲しいなぁ。
視察されることに慣れているのか、部外者が練習を見学していても不審そうに見てくる部員は一人もいない。もし仮にウチで部外者が覗いていると、そわそわして練習に手がつかなくなるのがオチなのに。
やはり地区内では敵なしと名高いあかつき大付、格が違う。
「おーい、おっちゃん。こんな所で何しとんねん」
失礼な、誰がおっちゃんや!ワイはまだピチピチな高校三年生やで!おっちゃん呼ばわりされたことに文句を言おうと振り返る。
そこに立っていたのは上背のあるスラリとした体型、高校球児に定番の坊主頭とは対照的に潤いのある黒髪が肩まで伸びており、やる気なさげに映る細い眼。
―――パッと見た瞬間、どこか見覚えのある姿だなと感じ、そして確信した。
「……お前、九十九か?」
名前を呼ばれた反応で全てを悟った。中学まで一緒だった九十九と再会するなんて、妙な縁だ。本人もワイの声を聞いてピンと来たらしく目を大きく見開いて息を呑む表情を浮かべる。
「もしかして……きよし師匠!?」
誰が西川きよし師匠や。大体ワイがきよし師匠に間違われるなんて恐れ多いことやわ!!無条件反射のように九十九の口から出たボケを間髪入れずにツッコミを返すのは体に染み付いた一種の文化だ。
大袈裟なくらいのリアクションに九十九も懐かしかったのか笑っていた。
「せやな、お前にはきよし師匠は言い過ぎたわ、長宗我部」
「誰やねんソレ!そんな珍しい名字やったら一度聞いたら絶対忘れられないわ!」
昔もこうした他愛ないことで掛け合い漫才みたいになったなぁ。図らずも過去と変わらない友人の態度に少しだけ気持ちが弛んだ。
「しかし何でお前二軍のグラウンドに居るんや。見るんなら一軍やろ」
「ぇ?二軍?何ソレ?」
驚きのあまり発した言葉に九十九は少し面倒そうな表情を浮かべて説明してくれた。
「ウチは部員数が多いから特に優れたヤツだけが一軍に上がるシステムになっとるんや。だから大半の部員は砂のグラウンドやけど、一軍に上がると野球部専用の芝が張られたグラウンドで練習することになる。待遇も環境も天地の差が開いている、ってことや」
「へー……ところで何でお前はここにおるん?」
「ん、こっちに野暮用があったから居るんや。俺は一軍や」
「おー、天下のあかつきで選ばれた一軍に居るなんてやっぱ凄いなぁ」
努力型の阿畑とは対照的に天才肌の九十九は昔からライバル関係にあったが、常に阿畑の一歩先を進んでいた。呑み込みが早く効率が良い為か少ない練習で高いパフォーマンスを発揮して、大人達の覚えが良かった。勉強はもちろん、バレンタインも圧倒的大差をつけられて完敗。せめて野球だけでも勝とうと足掻いたが、飄々とワイの少し上を超えていった。
そんな九十九があかつきで一軍に居ると言われても疑うことなく信じられたし、むしろ当然だとさえ思えた。
「腐れ縁の誼や、俺が一軍グラウンドに案内したるわ」
「おー、おおきに!恩に着るわ!」
そんなこと言って返してもらったことないわ、と即座にツッコミを返すその切れ味は相変わらずであった。
腐れ縁の幼馴染の計らいであかつき大付の一軍練習場(グラウンドと言うよりも専用球場の方が表現的に正しい)に通されたのだが……目の前で繰り広げられている練習に息を呑んだ。
140キロを軽く超える直球を投げる投手やプロでも通用する変化球を投げる投手がいるブルペン、軽々とスイングしただけでピンポン玉のように白球を飛ばしていく打者、痛烈な打球も涼しい顔をして難なく処理する野手、風のように疾駆する野手。
一軍と二軍では天地の差と九十九は言っていたが、その通りだった。同じ時間を生きているはずなのに次元が違った。
地区内のみならず地区外からも優秀な選手が集まってくるあかつき大付の精鋭も優れた環境の中で練習するとここまで成長するのか、とある種の衝撃を受けた気分だった。一瞬の輝きではなく常にこのレベルの動きをやれることこそ“強豪”と呼ばれるのだ。
よく高校球児が目標として『全国制覇』と口にするが、此処は覚悟を持って臨んでいる。部外者のワイにもそれがヒシヒシと伝わってきた。
―――甲子園出場を最終目標に置いている自分達とは根本的に違うのだ。
意識が異なれば行動も変わる。部員達の決意に応えられるだけの設備も整っている。圧倒的な戦力差がつくのは当然のことである。
始めの内は九十九に幾つか質問を投げかけていたが、いつしか口数が少なくなり考え込むようになった。それを感じ取った九十九が「少し休憩しようか?」と声をかけてきたが、丁重にお断りした。
今日ここに来たことは間違いではなかった。あとは夢に向かって行動あるのみ。
「色々と参考になったわ。ほな、また!」
一応の謝辞を伝えて、あとは脇目も振らず校門を後にした。あまりの変わり様に呆然とその場に立ち尽くす悪友を一人残して、今回の偵察は終了した。
群を抜いて強い理由は分かった。優秀な選手が集まるだけでなく、内部で激しい競争が行われ、選手一人一人が高い志と目標を持って練習することで才能が磨かれている。
もし仮に他の学校があかつきを真似しようとしても難しいだろう。予算的な面もそうだが、部員個人の意識の段階で既に違うのだ。甲子園に出ることが夢なのと全国制覇を本気で獲るのが目標なのとでは、練習に臨む姿勢もやる気も比べ物にならない。
環境でも意識でも劣っているワイ達が隙のない王者に真っ向からぶつかって太刀打ち出来るはずがない。
……でも、あかつきさえ倒せれば、残りはどんぐりの背比べ状態。油断なく戦えば勝機は必ずある。あかつきの次に強いと言われているパワフル高校も打線の破壊力と足を絡めた機動力は警戒に値するが、確固たる投手が不在なので今のウチと当たっても五分の戦いに持ち込めると予想している。戦力で劣るが勝てない相手ではない。
ただ問題なのはワイ以外の部員が本気で勝利に対して貪欲になれるか、だ。一人一人が勝ちたいという気持ちを強く持っていれば接戦を制する確率がグッと高まる。これまでのようにマグレの勝ちやワイ一人の力に頼った勝ちでは、勝ち進んだとしても甲子園に辿り着く前に間違いなく敗れるであろう。棚ぼたで甲子園に行けるほど、世の中は甘くない。
ワイもいい気になって他所の様子を見に行ったが、現実を突きつけられた今では『何しとんじゃ!!』と自分を叱りつけたい気分だ。あかつきの強さの秘密を知れたのが収穫ではあったが、そこから巨大な敵を倒すヒントも見つけられた。
あとは来るべきその時に向けて少しでも可能性を高めていく必要がある。その為に残された時間は、もう残っていなかった。
低く垂れ込めた分厚い雲からシトシトと弱い雨が降る日々が何日も続き、アジサイの花が路傍を彩り始めた頃、夏の大会の抽選会が開かれた。
各学校のキャプテンが一堂に集い、粛々とした雰囲気の中で組み合わせを決めるクジが引かれていく。そよ風の代表として阿畑も参加している。
また昨年の成績がトーナメントで反映され、ベスト8にまで進んだ学校はシード校として予選一試合が免除される。前回覇者のあかつき大付も当然ながらシードにその名前が刻まれ、初戦は二回戦からに決まった。
その初戦は一回戦の勝者と対戦することになるのだが、その不運な二校の中に思わぬ高校の名前が刻まれることとなった―――
「―――続きまして、昨秋のそよ風高校のVTRになります」
一軍の選手がミーティングルームへ一堂に集う中、マネージャーの澄香がVTRの再生ボタンを押す。スクリーンに映像が流れ始めると一斉に視線が画面に釘付けとなる。
対戦相手は昨秋ベスト4まで勝ち進んできた実力校。あかつきからすれば5回コールドで圧勝するレベルではあるが、この地区においてはそれなりに強い部類に入るであろう。
「全体的に守備が鍛え上げられていますね。エラー数も5つと少なめです。特に警戒するべき選手はエースの阿畑くらいでしょうか」
“阿畑”というキーワードを耳にしてピクリと反応する者が一人居た。皆画面を食い入るように見つめているので、その微妙な変化を察知する者はこの中にはいない。
幼馴染の名前で反応してしまうなんてまだまだやな、と九十九は心の中で自嘲する。
球速は140キロを上回ったり下回ったり。コントロールに関してはキャッチャーの構えた場所にある程度投げ込めている。変化球はカーブとフォークが主体ではあるが、空振りを奪える程の変化ではない。
130キロを超えるストレートと適度に制球が荒れる投手が多い中では通用するかも知れないが、強豪からすればどんぐりの背比べにしか映らない。150キロの速球とエグい変化球を放るプロ御用達のピッチングマシン相手に練習しているウチは例外かも知れないが、打撃練習のために通常のピッチングマシンを導入している学校からしたら逆に打ち頃のボールだ。
案の定、打順が一回りする頃合になるとタイミングを掴んだ相手が猛攻を仕掛けてきた。内野の頭を越える打球が徐々に増え、連打を浴びて集中が落ちてきた所を今度は外野の間を真っ二つに切り裂く痛烈なライナーを喰らう。これで試合の流れは決した。
……思えば、アイツの投球をこうやって真剣に見たことがあっただろうか。今思い返してみるが記憶にない。身近に居る気楽さから興味も湧かなかった、というのが妥当な理由だろうか。
フォームは意外にも無駄のないキレイな投げ方をしているなぁ、と一人別の方向で感心していた。
「とにかく打ち急ぐな。相手の球をしっかりと見極め、甘いコースをしっかりと叩け!」
最後に監督が総括してミーティングを締めた。確かに今のあかつきなら負けるはずがない相手ではあるのだが、果たしてアイツはどう立ち向かってくるのかな。
来るべき決戦を想像しただけで、胸が躍るのを九十九は感じずに居られなかった。
くじ引きの結果を伝えた部員達の顔には一様に“絶望”の二文字が刻まれていた。
初戦は大した相手ではないのに、次に当たるシード校の相手はまさかの地区最強のあかつき大付属。夏の終わりが既に見えているから落胆の色が大きく、キャプテン阿畑のくじ運のなさを嘆く部員も居た。
そんな中でも阿畑は「こうなった以上は腹を括れ」と言わんばかりに清々しく笑っていた。
抽選会から戻った阿畑はその日から、あかつき大付に関するありとあらゆる映像資料を見始めた。レギュラー一人一人の打席を研究して少しでも可能性を高めようと躍起になっている。
最後の夏に向けて取り組んできた秘策もあるが、その分析には莫大な時間を費やした。そのお陰か傾向と対策が大まかに掴めてきたのだが、一人だけ分からない人物が存在した。
昔のイメージではガンガン長打を狙う“飛ばし屋”だったのに、今は下位でしぶとく粘って執拗に投手を困らせる嫌な打者。あかつきに行ってから印象がガラリと変わった九十九だ。
あかつきの荒波に揉まれて成長したらしく、持ち前のバットコントロールにさらなる磨きがかかっている。どんなボールにも必死に喰らい付いて泥臭くてもヒットを狙うその姿は、華々しさを追いかける昔の姿とはかけ離れていた。
成長したのはワイだけではない、ってことか。大きく様変わりした幼馴染の姿を睨みながらそう思った。
いつか迎えるその時を考えるだけで背中が震えた。強大な敵への恐怖か、それとも立ち向かうことの楽しさか。多分その両方を感じているのだろう。
シトシトと降り続く長雨の時季もようやく終わりを告げ、厚く覆われていた灰色の雲は一掃されて一面晴れ渡る青空へ変貌を遂げた。今度はギラギラと肌を焼く灼熱の太陽を疎むが、それもまた夏本番を予感させる風物詩にさえ思える。
七月中旬、高校球児の夢舞台へ向けた熱戦の火蓋が満を持して遂に切って落とされた。堅苦しい開会式は全校揃って参加する唯一の場面であるが、半月後には決勝まで勝ち進んだ二校にまで絞られる。負ければその時点で終わり、誰もが一つしかない切符を賭けて死力を尽くす争いが始まったのだ。
あかつきは日程に余裕があるので実感が湧いてこないが、自分達は一回戦を免除されただけであって二回戦からは他の学校と条件は同じ立場だ。負ければその瞬間から高校三年間の全てを捧げた野球人生は幕を下ろす。昨年夏の覇者も万年初戦敗退の弱小校も今年から参戦してきた新規校も、扱いは等しく横並びである。
だからこそ、皆最後のアウトをコールされるまで懸命に足掻く。どんなドラマが待っているか分からないから。例え九回に八点差で大差で負けていても、土壇場でひっくり返してサヨナラ勝ちを収めるのが野球というスポーツなのだ。
大会期間に入ったのでベンチ入りした選手は体調管理に重きを置いたメニューに置き換わる一方、追い込みをかけるべく特別な練習機材も導入されている。自主性を尊重されているので、どんな練習をするか選択するのは選手に任されている。
初戦を数日後に控える中、多くの選手は軽めの調整だけで家路につく中で九十九だけ一人残っていた。
ある人を待っているものの時間を持て余しているらしく、部室に置かれていた新聞を手にとってペラペラと捲る。既に一回戦の結果が新聞紙面に掲載されていて、自分達の知らない内に開会式を共に迎えた学校の半数が姿を消した事実をイマイチ実感することが出来なかった。
この数年ずっと予選を勝ち上がってきたあかつきの一員ではあるが、今年もそうだと決まっている訳ではない。そんな驕った気持ちで臨めば間違いなく足元を掬われてしまうことを、九十九が最も痛感していた。
と、ミーティングルームに一人の影が入ってきた。マネージャーの澄香だ。
「いやー、悪いな。マネージャーも忙しいのに余計な仕事一つ頼んじゃって」
「お気になさらず。兄も相手校の最も新しい情報が知りたいと仰っていましたし、皆さんにはベストコンディションで戦っていただきたいので」
手にしていたのは一台のハンディカメラ。内臓されているデータには先日行われたそよ風高校の試合が収められていた。昨年秋のデータから偵察に赴く程度ではないとされていたが、九十九は秘かに澄香へ頼んで録画してきてもらったのだ。
ハンディカメラにケーブルで機器に繋げると、九十九は大型スクリーンの最前列に陣取った。流れ始めた映像はバックネット裏に固定された角度からマウンド上の阿畑の投球をしっかりと捉えていた。
……やはり速球を中心に配球を組み立てている、か。恐らく球速は130キロ後半か140キロに届くか。時々申し訳程度にカーブを織り交ぜて相手打線に的を絞らせないように工夫しているのは昔と変わらないな。対戦相手のレベルがそんなに高くないこともあって連打を浴びる場面は見られない。力のあるストレートで空振りを何度も取っているから三振を狙いに行くスタイルは健在の様子。
一通り阿畑の投球を眺めた後、座席から立って投球に合わせてタイミングを測ってみる。ふと気付くと、澄香は不思議そうな表情を浮かべてこちらを見ていた。
「どないしたん?」
声をかけると少し恥じるような顔を一瞬だけ浮かべ、申し訳なさそうに口を開いた。
「……すみません。普段は対戦相手の持ち球と変化の度合い、それにストレートの速さくらいしか興味を持たれない九十九先輩が今日はいつも以上に熱を入れられているみたいなので珍しいなぁ、と」
「あぁ、言ってなかったか。アイツ、阿畑は俺の幼馴染で中学時代まで一緒に野球やっとってん」
そういえば誰にもそんなこと言っていなかったなぁと今更ながら気がついた。“誰がどこ出身だ”とか“どんな選手と一緒に練習したか”なんて俺自身は一切関心が無かったし、今この時の相手を知らなければ役に立たないと考えていた。
だからこそミーティングでは経歴ではなく能力だけを見てきた。一通り相手の傾向を掴んだらそれ以上に知りたいと思わなかった。
澄香の合点がいったらしく、いつもの顔に戻っていた。
「昔はどんな感じだったんですか?」
「アイツは昔から本格派の選手になりたかった。ストレートもそこそこ速かったから三振も仰山奪っていた。今の映像を見ていると、昔からのスタイルを変えていないと俺は思う。力のあるストレートを軸にして時々カーブを投げるくらい、やろ?」
「仰る通りです。割合はストレートが九割弱、カーブは一割という配球でした。ストレートには相当な自信があるみたいで―――」
「いや、決め付けるのはまだ早い」
澄香の分析を途中で九十九が遮る。
分析能力においては兄である四条に引けを取らない。澄香の見立てが間違っているとは思えない。だが、阿畑に関する知識ならば九十九の方が上だ。
「中学最後の試合でウチみたいな強豪と当たった時、それまで通用していた自慢のストレートがポンポンと弾き返される。さらにアイツは一度ウチへ偵察に来て一軍のレベルを目の当たりにしている。総合的に考えれば自分のストレートが通用しないと分かっているはずや。それとアイツは才能を努力で補うタイプやから必ずウチのことを研究しとる。何か裏があると思えてならんのだが……」
秋季大会の映像を見ている時に抱いた違和感は今も消えていない。道を別ってアイツが昔のまま進んでいるとは九十九にはとても思えなかった。
腐れ縁の仲だからこそ相手の動きも読めるし、俺自身も出来れば俺の手で引導を渡してやりたいと強く願っている。物事にあまり執着せずありのままを受け容れる俺が柄ではないくらいに執念を燃やしているのは、勝ちたいという気持ちと悪友へ成長を見せ付けてやりたい気持ちが強いから、だと思う。
ただ、今やれることをやるだけ。あとは明日の試合を迎えるのみ、だ。
同時刻、そよ風高校野球部の部室。
一世一代の決戦が控えるので当日にピークが来るように考えて軽めの練習メニュー。初戦を勝ったこともあり、部員達のムードも良く士気も高い。
中には決起集会としてチームで焼肉に行かないかと提案があったが、流石に却下した。万が一にも生焼けの肉が中ってコンディション最悪なんて状態で挑むことになれば、それこそ目も当てられない結果になる。
そもそも一回戦で130キロ前半のストレートとあまり落ちないチェンジアップしか投げられない投手相手に二点しか取れなかった打線なのだ。全国でも屈指の実力があるエースが登板するのだから下手をすると完全試合を献上しかねない。
阿畑としては可能な限り調子が上向いた状態で試合に臨んで欲しかった。むしろ部員達の能天気さが少し羨ましくさえ思えた。
ダラダラと残っている部員達をさっさと帰すと、一人部室に残ってあかつきの傾向とデータを最終確認する。何度も何度も繰り返し見てきたが、どこか抜けがないかと心配になる。一歩間違えば惨めな結末を迎える、という重責が自分の肩にズシリと圧し掛かる。強者に挑むからにはこちらの隙を少なく、相手の弱点を突く。
大丈夫、ネズミだってネコに勝てるのだ。同じ高校生なんだから勝てないはずがない。そう思うしか、信じるしか、希望がない。
「こんな遅い時間まで残ってて良いんですか?キャプテン」
いきなり後ろから声がかけられてギョッと肝が冷える。振り返ってみると、そこに立っていたのは茜だった。
「なんや、茜か。驚かすなや、心臓が止まるかと思ったわ」
「心配せんでもやっちゃんの心臓は図太いからちょっとやそっとでは止まらんから心配せんでもえぇよ」
さりげなく傷ついて気持ちが少しだけ落ち込んだがお構いなしに茜は訊ねてくる。
「それよりも何で前の試合であんな投球したん?負けたらその時点でやっちゃんの夏は終わりやで?ハンデとかしとって足元を掬われたら元も子もないと思うけど……」
茜が指摘したのは先日行われた試合のことである。秘密兵器である“アバタボール”を封印してストレートとカーブしか投げなかったのだ。
味方の援護があったからこそ勝てたものの、阿畑の方もいつも以上に打ち込まれて一点を失っている。確実に勝てる相手と捉えて挑んだ結果、危うく苦杯を舐めるところであった。
どうしてハンデを背負ってまで戦わなければいけないか茜には理解に苦しんだ。確かに次のあかつき大付属は強敵ではあるが目先の勝利も大切なのではないか。
「リスクは重々承知しとる。けどな、こちらの手の内はなるべく晒したくないんや。特に、アイツが居るから用心するに越したことはない」
九十九は中学まで共に戦ってきた同志だ。必ずこちらのやり方について研究してくるに違いない。相手を騙すことで僅かでも勝てる確率を高めておきたかった。未だに本格派を追い求めていると思わせておいた方が好都合だから。
そもそも阿畑の計画では圧倒的大差をつけて初戦は勝つ予定だったが、こちらの打線が思っていた以上に湿っていたのと相手打線の気迫が想定を超えて阿畑を襲った為に僅差での勝利となった。実力が拮抗していると思わせれば、その分だけ『与しやすい相手』という印象を持ってもらえるのでこれも怪我の功名か。
泣いても笑っても、全ては次の試合で決する。大した相手ではないとふんぞり返っているあかつき相手に、精一杯足掻いてやる。
天は澄んだ青が空一面に広がる快晴。先攻は三塁側に陣取るそよ風高校、対峙するのは昨年夏・秋と地区を制覇して今日が初戦を迎えるあかつき大学付属高校。
スタンドには空席が目立つものの一塁側スタンドにはベンチ入りの叶わなかった大勢の野球部員が占拠して声を上げている。バックネット裏には物好きなおっちゃん連中がちらほらと見受けられる。
「うわー、あっちのベンチ凄ぇなー」
三年生の多くがベンチ入りしている三塁側と比べて、一塁側には大半が180センチを超える筋肉質な者が大勢揃っている。多少は鍛えているものの大小凸凹なこちらが見劣りするのは当然のことか。
「アホウ、戦う前から怯えてどうするんや」
ポカリと頭をメガホンで叩かれる。誰だと思って後ろを見るとキャプテンがそこには立っていた。
「相手は同じ高校生や。それに、どこも初戦は体が硬くて動きも鈍くなるのはどこも同じ。ウチは一度試合をして体も心もほぐれているからその分だけ有利や」
なるほど、と頷く部員達。単純で助かったと内心で胸を撫で下ろす。ただでさえ苦しい戦いが目に見えているから士気だけでも高めておかないと洒落にならない結果になりかねない。勝てると思い込ませることに損はない……過信し過ぎると一気に片がついてしまうが。
「心配すな!お前等なら大丈夫や!気合入れて行くで!」
声をかけると「オー!!」と威勢のいい声が返ってきた。一人ひとりの表情を眺めてみてもやる気で満ち溢れている。とりあえず、良い傾向だ。
あとはワイの出来次第や。気を引き締め、整列のため一気に駆け出した。
甲子園行きを賭けた決勝戦で再会、だったっけ。残念ながらシチュエーションは若干異なるが、互いに譲れない戦いであることに変わりはない。整列して対峙した面子の中に俺等二人が含まれた時点で約束は守られた。だが阿畑、負ける気はないからな。
「互いに、礼!」
主審の一声で一斉に「よろしくお願いします」と言いながら頭を下げる。そのタイミングで周囲のスタンドから観客の拍手が選手の下に降り注いだ。挨拶が終わると両者ベンチへ向かって散らばっていく。こちらは後攻めなのでグラブを持って守備位置であるライトへ駆け足で向かう。
並んでから守備位置に就くまで一連の流れはある種厳かな儀式のように感じることがある。ダルくてなぁなぁに済ませた時は決まって結果が出なかった、という経験も何度も味わっている。
さて、ウチのエースは簡単に打ち崩せないで。果たしてどうするかな、阿畑よ。精々足掻くことだな。
「ストライク!」
試合開始を告げるサイレンが球場内に鳴り響く中で主審の第一声はかき消されてしまった。ど真ん中に放られたストレートは140キロを計測しているが、それ以上に懸念したのは打席に立つ打者の顔色だ。完全に相手の勢いに呑まれている。確かに表示以上に球威やノビがあるのは分かるが、すぐ顔に出してしまうのはイカン。次の打者にマイナスの影響が伝染してしまう。怖がってくれれば相手の思うツボ、あとは迫力あるストレートでグイグイ押すだけで……
「―――ストライクアウト!!」
怯えきった打者は勝手に三振してくれる。例えバットを振ったとしても腰が引けたスイングでは外野まで運べない。当てることすら難しければ勇んでいた気持ちもいつか挫けてしまう。そうなれば勝利など夢のまた夢だ。
初回はストレート九球で三者連続三球三振という滑り出しになった。せめて三振になるくらいならファールで粘って球数を稼いでくれまいか、とは望みすぎか。
まぁ、裏の守りで相手を勢いづかせなければ良いだけの話だ。可愛い後輩の無念はワイが討つ。
圧巻のピッチングだった。これが敵ならゾッとするが味方だと思うと頼もしく感じる。弱小校とは言え付け入る隙さえ与えないとは流石だ。伊達に巷で“ゴールデンルーキー”と騒がれるだけはある。生意気で傲慢な所は鼻につくが、それだけ胆が太くなければ一ノ瀬さんの後釜としてエースナンバーを背負えない、か。同年代どころか一コ上の先輩をも抑えて絶対的エースとして既に不動の地位を築き、次世代のキャプテンとして目下期待されている猪狩守は着々とエリート街道を歩んでいる。
そんな可愛げのない後輩を楽にさせるために先制点をプレゼントしてやるか。
先頭は“あかつきのイダテン”こと八嶋。快足を活かしてボテボテのゴロでも内野安打へ変えてしまう。塁に出ても俊足は健在で積極的な走塁を試みることで相手投手の集中を乱す。
この八嶋を得点圏に置いてクリーンアップを迎えることが理想形ではあるが……ストレートを上から叩いてセカンドゴロ。悔しそうにベンチへ戻ってくる姿は子どもっぽくて微笑ましい。続く四条も低めのストレートを詰まらされてファーストゴロに倒れる。
そして迎えるはあかつきが誇る安打製造機ことキャッチャーの二宮。
馴れ合うことを嫌う一匹狼ではあるが兄貴肌で後輩を引っ張るだけの力はある。リードも強気な性格からか打者の意表を突いて大胆に攻めるタイプで、女房役にあれこれと注文をつける猪狩守も文句を言いながらも二宮のサインに従っている。
卓越したバットコントロールの持ち主でヒットにする技術はあかつきで右に出る者はいない。巧みな技術のみならず長打力も兼ね備えているので少しでも甘いコースに入れば柵越えも充分に考えられる。飛ばし屋の多い中軸の中でも打率・長打を併せ持つため監督からの信頼も厚い。さて、この厄介者を阿畑はどう攻略するか。
初球。ふわりとした緩い変化球を投げてきた。これまでストレートしか投げておらず、先日のミーティングで披露されたデータには存在しない軌道のボールで面喰った表情を浮かべたが、それでも変化に合わせてバットを振る。しかし起動を完璧に捉えきれず、少し芯を外した打球は高々と舞い上がった後にセンターのグラブへ収まった。
何だあの球は。変化した軌道やスピードから推察するとチェンジアップの類か。タイミングをずらすという点では効果的だし、投げる投手も多いけれど……あれだけのボールは一朝一夕で習得出来るような代物ではないぞ。その上に何故この前の試合で投げなかったのか。九十九の疑念は募るばかりで、浮かない顔をしたままライトの守備に向かった。
(あれは危なかった〜……)
冷や汗を流しながらベンチに戻ってきた阿畑は一息つく間もないままヘルメットを手に取る。打撃は好きだが四番に座れる程の実力はないので五番に入る。それでも主軸を任される責任は重い。
各打者の傾向を分析すれば苦手コースが見えてくるので、それに基づいて配球を組み立てている。八嶋は足が速く警戒すべき打者ではあるが内角に食い込んでくるストレートが苦手だと判断して見事に凡退させた。
しかし分析しても穴がない打者もいる。三番に据わる二宮はその代表例だ。どのコースも平均以上に打てて、しかもストライクゾーンから少し外れたコースでもヒットに出来る技術もあり、その上に長打も打てる。隙が全く見当たらない。
本来ならば温存しておきたかったが仕方ない。初球にアバタボールを投げることにしたが―――コントロールが乱れて高めに浮いてしまった。おまけに変化の乏しいアバタボールはど真ん中へフラフラと落ちていくではないか。大体三イニングに一回の割合ですっぽ抜けるが、まさか初っ端から来るなんて。アカン、これは外野フェンスを越えてもおかしくない!……だが、予想外のボールに拍子抜けしたのか打ち損じてくれて一命を取り留めた。しかしラッキーは二度も続かない。今度からは気を引き締めて当たらないと。
そうこう考えている内に前の打者が三振して戻ってきたのでバッターボックスへと向かう。センターの奥に聳え立つスコアボードの上の旗は爽やかな風に煽られて気持ち良さそうに泳いでいる。マウンド上には端正な顔立ちの若武者が仁王立ちして待ち構えている。
アレが猪狩守か。地区どころか全国にその名を轟かすスーパーエース様の評判は耳に挟んでいる。豪腕から放たれるストレートは速度・威力・ノビ・球質どれも素晴らしく、まともに捉えるのは至難の業だ。ストレートだけでなく変化球も一級品でスライダー・カーブもそれだけでウイニングショットになり得る。打ってもホームランを量産、おまけにイケメン。
どれもワイに勝ち目がないやんか!と叫びたくなる程に小憎らしい。人間どこかしら弱点のあった方が可愛げがあるんやで?
バットは短めに持つ。ここまで全てストレートのみ。どのタイミングで変化球を投げてくるか分からないが軌道はイメージ出来ている。芯で捉えられなくても大人しく三振を相手に献上するつもりは一切ない。感覚を大まかに掴んだらボールに当てて一矢報いてやる。
その初球、スピードから察するにストレート。真ん中高めに来たのでコンパクトに腰を回転させてスイングする。タイミングはばっちりだったがボールの下を叩いてバックネット裏へと白球は飛んでいく。少し手が痺れたがすぐに慣れた。
続けて間を置かず二球目。今度は先程より少し遅い球が外角へ大きく外れる。ボール球か、いやこのスピードは恐らくスライダー。右打者から見れば内角へ抉るように切り込んでくる感覚だ。そう考えると右打者のアウトコースギリギリに入るので……目いっぱい腕を伸ばして喰らい付く。不恰好にはなったが当てることは出来た。弾かれた打球は一塁側スタンドへ突き刺さるように飛び込んでいった。
カウント的には追い込まれたものの未だに空振りはなし。どうだ!簡単に三振なんかせぇへんで!大見得を切るようにマウンド上を見据えるが猪狩守は涼しい顔をして受け流された。
次の球はインコースに沈むカーブを悠々と自信を持って見逃す。二ストライク一ボール。右打者にはインコースの変化球は捨てろと徹底させていたが、これで間違いではなかったことが証明された。この変化球はつい手を出してしまう衝動に駆られてしまうが、持ち球一つ一つがプロでも通用するボールなのでウチの部員では捉えられない。相手に気持ち良く投げさせないことがキーとなる。
四球目。やや遅い球がインコース真ん中の高さに投じられた。球の速さから推察するにスライダーだと判断して見送るが……ベース手前で突如視界からフッと消えた。切り込んでくるのではなく、落ちたのだ。驚きで目を剥いていると「ストライクアウト!」と背中からコールされた。
手の内を隠していたのはウチだけではなかった、ということか。だが裏を返せば“警戒に値する”と認められたのと同じだ。三振したことのショックよりも認めさせたことの誇りが胸に大きく占めながら、堂々とベンチへと引き揚げることにした。
フラフラと白球が舞い上がる。明らかに力負けした打球は風の勢いに押されても芝のグラウンドまで運ばれるのが精一杯だった。余裕を持って落下点へと入り、落ち着いてグラブに収める。スリーアウト。次のイニングは俺からだったな、と考えながらベンチへ足早に駆ける。
両チーム未だにノーヒット。この回は猪狩守がフルカウントからコントロールが乱れてランナーを一人出したものの後続はきっちりと抑えた。猪狩守なら当然かも知れないが、阿畑がウチを相手にして互角に張り合うとは意外だ。直球でグイグイ攻めてくる阿畑をウチの打線が捉えかねている、と言った方が正しいか。
だが変化球よりもストレートが好物の三本松も五十嵐も揃って「タイミングは合っていたのに打ち損ねた」と口にしているのが気になる。そうこう考えながらヘルメットを被ると、打席へと向かった。
十四メートル余り先に居る幼馴染は最後に会った日からそれほど変わっていなかった。軽く会釈だけしてバッターボックスに入る。さて、阿畑。どう出るか俺は楽しみで仕方ない。つまらなかったら承知せんぞ。
ゆったりとしたフォームで動作に入り、マウンドの土をしっかりと踏み締めて腕を振る―――拍子抜けするくらいに遅い、山なりのボール。これがさっき二宮が打てなかったチェンジアップか。種が明かされれば単なる棒球……!!何だ、この球は!?
落ちながら小刻みに揺れている。軌道が全く読めない。そしてフラフラと右へ左へ不規則に揺れながら内へ入ってくる。間に合わない。慌ててスイングするも虚しく空を切るのみ。何やこのボール。細工でもしとるのと違うか、と喰いつきたくなる衝動を堪えて一旦打席から外れる。ふとマウンドをチラリと見ると久しぶりに対峙した幼馴染はこちらの視線に気付いたのかニヤリと口元を上げる。成る程、奴も奴なりに成長しとる、ということか。
続けて二球目は外角高めにストレートを投げられたがカットしてファール。球速表示された数字は140キロと、これはデータ通り。先程のボールは目算で100〜110キロ台なので球速差が結構ある。これは厄介だな、と思った。
二ストライクと追い込まれた三球目。今度は外角低めへストレートが放られる。そのコースは俺の得意コース。もろたで!タイミングばっちりで踏み込み、バットを出す。ボールとバットが交わる刹那、ボールが僅かに外へ逃げる。アカン、このままだと打ち上げる―――!
弾き返した打球は三塁手の横を掠めてレフトへ転がっていく。鋭い打球は勢いが強すぎて一塁を廻ったところでストップ。何はともあれ塁に出たものの……正直な所、早くベンチへ戻りたかった。一刻も早く阿畑のストレートに隠された秘密をベンチに伝えたかった。
この試合で初めてヒットを許した相手が九十九とは何たる因果かな。マウンドでそう思わざるを得なかった。簡単に打ち取れない相手だと分かっているからこそ手の内を全て明かしてぶつかったが、ワイの想定を上回っていた。あのコースなら当ててもファールか内野フライにしかならないと考えていたが、上手く流してレフト線を破る痛烈なヒットに変えてしまうとは、流石としか言い様がない。
もう一つの武器、それは『ストレートと同じ振りから投げるシュート』だ。ストレートが得意な主砲・三本松や五十嵐を仕留めたのはストレートに見せかけたシュートである。
練習中の何気ない一言がキッカケだった。
「……やっちゃん、なんかストレートが内に喰い込んできてない?」
最初に気付いたのはマネージャーの茜だった。投げ込みをしている際にボールが僅かにシュートしているのを見つけて声をかけてきたのだ。
ストレートがシュート回転するのは良いことよりも致命傷と捉える投手が多く、その理由としてフォームが乱れたりバランスを崩している時に起きるからだ。“ストレートに力があるからこそ変化球が活きる”が信条の阿畑には由々しき事態と考えて指摘してくれた。
すぐにハンディカメラを据えて自分の直球を確認すると確かに何球かシュート回転して内に変化していた。しかし腕の振りは全く同じでスピードも少し落ちたくらいなので自分では気付かなかったのだ。それでいてベース手前で急激に曲がり始め、ボール一個分の変化量がある。
「……これってもしかしたら武器にならんか?」
もし仮にシュートを自在に投げられるようになったら。ストレートに混ぜてシュートを投じたら。腕の振りやスピードは変わらないので打者からすれば「打ち損じた」程度にしか感じない。発想を転換すればアバタボールに次ぐ武器として使えるかも。思い立ったら即実行。リリースを意識して投じることだけ気をつければ問題なくシュートを投げられるようになった。
前の試合で直球主体の投球をしていたこともありあかつき打線はストレートに的を絞っていた。相手の狙いの裏をかく小さく変化して芯を外すシュートは大きな効果を果たした。警戒に値しないと踏んでいた弱小校のエースの掌の上で相手に天下に名を轟かせる強豪校は面白いように踊らされた。
だが九十九によりストレートの秘密を暴かれたことで、阿畑とあかつき打線の心理戦の様相を呈することになる。
やっちゃん最後の試合になるかも知れない試合は緊迫した投手戦が続いている。ウチの打線は世間で騒がれているゴールデンサウスポーの相手にならないのでやっちゃんだけが頼りだけど、相手には幼馴染の九十九がいる。勝ちたいけど、勝ってほしいけど。複雑な気持ちが胸の中で渦巻いている。知っている人が含まれているだけで肩入れしたくなるのは人間の心情だが、ウチは見守ることしか出来ない。
九十九にヒットを打たれてから得点圏にランナーを進められる場面が増えてきた。今も俊足のランナーを背負い、クリーンアップと対峙している。打席に立っているのは眼光鋭くやっちゃんを睨みつけて怖い印象がある。少しでも怖気づくと一気に崩れてしまいそう。スコアを付けながらグラウンドで繰り広げられる一挙手一投足をハラハラしながら目に焼き付ける。ペンを握る手は拭っても拭っても汗が滲み、心臓はバクバクと暴れて息を吸うのも苦しくなることも。守備に就いている間は何もしれあげられない。ただ祈るしかない。お願い神様、少しだけ力を貸して下さい。
アバタボールを二球投げて追い込むと締めに内角へシュートを投げたがカットされて逃げられた。前の打席ではアバタボールをファールで凌いで四球を選んでいたし、二球目のアバタボールもファールになったが鋭い打球を放っていてタイミングも少しずつ合ってきている。シュートもアバタボールも通じないマウンド上のやっちゃんの頬には大粒の汗が浮き出ている。疲れが徐々に顔に出てきていて、ここが中盤のヤマだと察する。負けないで。心で強く念じる。
渾身のストレートが内角低めに決まる。主審の腕が、上がった。見逃し三振。ウチの願いが通じたか、気迫で勝ったか。この回も無事に無失点でベンチに戻ってきた。ノートに急いで結果を書き込んで、帰ってきたやっちゃんの為にタオルを掴む。
「ナイスピッチ」
タオルを渡すとやっちゃんは「おおきに」と言ってニコリと笑った。まだ大丈夫そうや。子どものような無邪気な笑みを見れて少し胸のつかえが取れた。
正しく文字通りの“やっちゃん頼み”。神様お願い、頑張っているやっちゃんを勝たせてあげて下さい―――!!
地方予選は甲子園という本番までの過程、端的に言えば練習試合と同列。それは常勝無敗・完全勝利を運命づけられたあかつき大付の宿命とも呼べる。実際に今まで地区予選では向かう所敵なし、圧倒的大差を相手に見せ付けて予選は勝ち上がってきた。大抵はコールド勝ち、九回フルイニングを戦うこと自体が稀だった。
そんな俺等が、初戦でこんな苦戦を強いられるなんて、誰が想像しただろうか。相手はお世辞にもレベルが高いとは言えない、吹けば消える弱小校。慢心するようなやからがスタメンに名を連ねているはずがないはずだが、格下のエースに無失点で抑えられている。世に魔球と呼ばれるナックル(みたいなもの)を扱うという想定外の展開に戸惑ったり、微妙に変化するシュートに芯を外されたりとハプニングがあったことは認める。でも、データと異なる投球に意表を突かれても対処出来るだけの能力はあると自負している。
相手の球筋を見極め、甘く入ってきたボールを痛打。内野の守備は鍛えられているのか堅いけれど、外野は頭を越せば長打になる。回が進む毎にランナーが出る機会が増え、得点圏に進む場面もあった。が、決めきれない。鋭い当たりが野手正面に飛んだり阿畑の気迫が上回ったり、土壇場で踏ん張っている。流石は阿畑と褒めてやりたいが、俺等の方もいつまでもお前に付き合っている程暇はない。
中盤辺りから監督の表情が険しくなった、ように感じる。サングラスをしていて普段から感情の起伏がある訳ではないが、味方の試合を見ていて苛立っているのは察せられる。サインは極力出さず選手の意思を最大限尊重、怒鳴ったり八つ当たりをしないので自由にプレー出来るが、今は押し殺している感情が逆に怖い。
選手の間にも焦りが少しずつ出ている。何故この程度の投手に手こずっているのか、と。チーム全体が重苦しい雰囲気に包まれ、表情も堅く暗い。これまでの経験則からすればこうなると本来の力を発揮出来ないことが多い。圧倒的大差をつけられ地力で覆せないときと酷似している、と知っている自分も辛い。今この場に居る面子は阿畑だけでなく自分自身とも戦っている分、プレッシャーも重い。目前の打者のことしか考えていない相手の気楽さが少し羨ましい。
……もし、だ。阿畑がそのことまで含めて今日の試合に臨んでいたら、相当の策士やな。
双方共に攻め手を欠いて膠着した試合展開が続いていたが九回裏、先頭の七井が内角低めのストレートを引っ張りライトの頭を超える二塁打を放ったことで試合は大きく動こうとしていた。
これまでノーアウトでチャンスを迎えていなかったため、先頭打者の長打に観客席からはサヨナラ勝ちの期待から大いに涌いた。広角に打ち分ける七井が力に任せて強引に外野まで運ぶのは意外ではあるが、これで突破口は開けた。
「よーし!ここは一つオレが勝負を決めてやる!」
興奮を隠さず勇んで打席に向かうのは俺の前を任されている五十嵐。どんな状況でも諦めない闘魂の持ち主だが、熱血の裏返しか思考が読み易い。“七井が作ってくれたチャンス、必ず活かしてやる”というのが前面に出ている。俺だったら―――この手のバッターは乗せると怖いからノラリクラリとかわして……
『―――ストライクアウト!!』
フラフラと揺れるアバタボールに全くタイミングが合わず二球で追い込まれて、締めは高めのストレートに釣られて三球三振。端から“ストレート狙い”って顔しとったもん。俺だって同じ配球するわ。悔しそうな表情で戻ってくる五十嵐と入れ違いで打席へ足を向ける。
(ここまで二の一、ほんで四球が一つ)
主審に軽く会釈をして打席の土をスパイクで均す。何回も繰り返してきたルーティーンを儀式のように行いながら今日の球筋を頭の中で蘇らせる。
人をおちょくるようなナックルもどき、打者手前で少しだけ変化するシュート、そして力の込められたストレート。三年前の阿畑とは別人になって俺の前に立ち阻っている。正直な話、お前がここまでやるとは思わなかった。それは認める。
だがな、俺は甲子園行きの切符を譲る気は毛頭ない。お前を倒して、俺は頂点を奪る。幼馴染やからと言って容赦はせん!
ロージンを手にマウンドから見下ろす幼馴染の面に見得を切る。その視線に気付いたのか口元が僅かに緩んだように映った。
守備は定位置に近いがライトはやや前か。七井の足は決して速い訳ではないのでヒット一本でホームまで戻って来れない。繋ぐのは大事だが、敢えて攻めに出るのも手、か。外野の間さえ抜ければ七井でも生還は可能。点が入った時点でサヨナラ勝ち。だが強攻策に出て失敗すればツーアウトになって一気にチャンスが萎んでしまう。俺はどうすればいい……?
迷いが生じて結論が出ない状態を答えが出るまで阿畑が悠長に待ってくれる訳もなく、投球動作に入る。基本に忠実なフォームではあるが、力が分散されず効率的である。腕の振りが全て一緒なのでボールが手元から離れるまで予測がつかない。白球に目を凝らして集中する。コースは、高さは、そして速さは。
―――遅い、ナックルもどき!
多投しているナックルもどきはどこに落ちるか分からないので監督からは『捨てろ!』と指示が出ている。軌道に惑わされて空振り、またはボールの上っ面を叩いて内野ゴロやポップフライを量産している。先程も試合を決めると意気込んでいた五十嵐は見事に術中に嵌まり掠ることなくお膳立て通りに三球三振に終わっている。が、このボールは時々まっすぐ落ちることもある。変化しなければ単なるチェンジアップ、ただの棒球。つまり絶好球!実際に初回の二宮の打席では投じた初球が変化せず高めに浮いた。幸いなことに意表を突かれて打ち上げたことで命拾いしたが、回も重ねて疲れが溜まっている今もこの棒球が来ないと決まった訳ではない。外せばストライクを一つ献上する賭けだが、当たれば見返りは大きい!意を決して踏み込む。
フラフラと落ちるボール。躊躇せずバットを出す。軌道の延長線上にバットを出すが、無常にもバットの先をスルリと抜けて落ちていく。アカン、やらかした。直後、白球は再び視界から消えた。収まるはずの場所にボールが、ない。顔を上げると七井は二塁ベースを蹴って三塁へと走り出し、阿畑が慌てた様子でホームベースへカバーに入る。落差が大きくキャッチャーの予想を超えて後ろに逸らしてしまったのだ。これで一ストライクにはなったが一アウト三塁でさらにサヨナラがぐっと近づいた。
思わぬ形でピンチが広がったことでキャッチャーが主審にタイムを告げてマウンドへと歩み寄る。内野陣も合わせてマウンドへ集まってくる。間を空けるためだが、こちらにも考える時間が与えられたことになる。決定的な場面で動くのか。チラリとベンチを伺うがそういう仕草は一切見られない。任されたと受け止めるか、放任されていると見るか。兎に角、俺は自分で考えて答えを導き出さなければならない。
マウンドを眺めると申し訳なさそうに頭を下げるキャッチャーに笑って肩を叩く阿畑。何と言葉をかけているのか此処まで聞こえてこないが、怒っているようには見えない。
一分程で輪が散って試合が再開すると……内野・外野共に明らかな前進守備を敷いてきた。相手は点を取られれば負け、ここまで抑えてきたエースの熱投に応えるべく“絶対にホームに還さない”という気迫が一人一人から伝わってくる。こういうガツガツした感じはウチにはない一体感だ。土壇場に強いチームは形振り構わず勝ちに来るものだ、こういう風に。
チーム一丸となって守る布陣ではあるが、一つ着目するポイントがある。前進守備ではあるものの、スクイズを全く想定していない守備位置であることだ。まるで俺が打つと信じて疑わないと言わんばかりに。
罠かも知れない。そう思って一球様子を見ることにした。うっかり誘われてホームゲッツーなんて結末なんかしたら最悪だ。追い込まれる危険性もあるが相手の出方を確かめる。モーションに入るがファーストもサードも前へ突っ込んでこない。ストレートが内角低めに外れる。バッテリーも警戒している節はない。もしスクイズを頭に入れていれば外角に大きく外していてもおかしくない。
スクイズは一切考えてない。それは分かった。が、本当にやっていいのか?
天秤の片側にあるのは確実性。一アウト三塁で守備はスクイズを考慮に入れてない。コツンと転がせば今まで届きそうで届かなかった一点が手中に収まる。三塁ランナーである七井の足でも充分に生還出来るくらいのバントも俺にだってやれる。でも、天秤の反対側に乗るモノが決断を躊躇させる……強豪というプライド。
全国制覇を掲げ、地区では揺るぎない圧倒的実力を誇るあかつき大付が、初戦を最終回スクイズで辛くも勝利を収める。その影響は決して小さくない。俺達は相手に力の差を見せつけて勝たなければならない、という呪縛が頭から離れない。
仮に、だ。俺がスクイズせず強攻した挙句凡退したとする。次に控えるのは守備の人・六本木。打撃は決して得意ではないが、勝負はやってみないと分からない。可能性の世界では0と100は存在しない。爽やかな風貌の六本木がたこ焼き顔のブサメンを打ち砕く様はなかなかの絵面だが、現実的には相当厳しい。ここまで三打数ノーヒットに抑え込まれている。それに二アウトではスクイズも出来ない。
先発している猪狩守は相手打線をほぼ完璧に抑えている。援護に恵まれない中でも無失点で踏ん張っているのは一ノ瀬さん引退後にエースを襲名しただけのことはある。伊達に世間から“超高校生級”とか“ゴールデンルーキー”と騒がれていない。しかし、炎天下で投げ続けた疲労もあるだろうし、何かアクシデントがあるかも知れない。猪狩守が降板しても他校のエース級が揃っているけど抑えられる保障はない。芸人がプロ相手に勝つことだってある。『窮鼠猫を噛む』の故事もある通り、一気に流れが傾いて土をつけられるかも知れない。
今後同じような場面が巡ってくるのか。例え到来しても、そのチャンスを活かせるだろうか。今俺が悩んでいることを迷わず実行する奴が、この面子に居るか……ベンチ入りしている連中も含めて。恐らく“スクイズ”という選択肢が頭に浮かぶ奴は誰もいないだろう。恵まれた環境で育ってきたからキレイに勝つことしか考えられない。それがあかつきで野球をする者の宿命であり代々受け継がれてきた誇りでもある。泥を被ってでも掴む勝利より胸を張った敗北を選ぶ奴ばかり集まっている。そもそも醜態を晒してでも勝ちたい気持ちのある俺が異端だと後ろ指を差されるのがオチ、か。でも―――スタメンに入る九人の中で最も相応しいのは俺だ。
特筆すべき才能はない、それでもスタメンに選ばれたのは他の奴等には持っていない何かがあるから。総合力で俺より優れた奴が沢山いるのに監督は俺をレギュラーにしてくれた。覚悟は固まった。批判は甘んじて受ける。笑いたきゃ笑え、怒るなら怒れ。俺は一向に構わない。この選択に悔いはない。
足が上がる。バットを寝かせてボールが来るのを待つ。内野手が度肝を抜かれた顔をして全速力で駆け出す。視界の端でそんな姿が目に入ったが、九十九が見ている先の相手は表情が変わっていなかった。いや、その顔が少し笑っているようにも映った。まるで「やっぱりやってきたか」と言っているように。
ギリギリまで引き付けてバットに当てる。コツンと情けない音を出してボールは地面に落ちた。一塁へ走り出したのと時を同じくして三塁に居る七井もホームへ向かって慌ててスタートを切る。スクイズのサインが出てないので準備していなかった七井は虚を突かれて遅れたが、それも頭に入れてある。
白球はコロコロと一塁線寄りのグラウンドを転がっていく。マウンドの阿畑ではなく一塁手が慌てて捕りに行くが、守備位置と出足の遅れが致命的だ。ランナーを生還させまいと懸命に猛ダッシュで追い上げ、グラブで捕球する暇も惜しく素手でボールを掴んで態勢を崩しながら白球をホームへ投げる。だが、七井がホームへ滑り込むのとほぼ同じタイミングの出来事であった。大柄な体がキャッチャーから逃れるように滑り込み、軽くベースに触れる。ボールがキャッチャーの手に届いた時には全てが終わっていた。
「スクイズ警戒した方が良くないですか?」
内野も集まる中で捕手が指摘した。一アウト三塁で一打サヨナラの大ピンチ。相手は下位で長打の可能性は低い。その言い分は確かに筋が通っている。昔の姿を思い浮かべて成長したな〜と目を細める。
『スクイズ』の一言で内野陣の表情が一様に硬くなる。連携プレーは何度もやってきたが本番となると責任が重石となって双肩に圧し掛かる。
ワイの中でも充分に考えられる選択肢だと思う。が、口にしたのは真逆のことだった。
「それは考えんでもえぇんとちゃう?」
エースの言葉が信じられないと顔でこっちを見ている。そりゃそうだ。点が入れば負け確定という場面において、ありとあらゆる可能性を想定しないといけないのに。
「だって相手は天下のあかつきやで?スクイズなんて泥臭く点を取りに来るかいな。勝つんやったら正々堂々と。そんなイメージやない?」
確かに、と頷く一同。説得力のある言葉で素直に納得した様子。まぁ、ワイ自身はそう思ってないんだが。
九十九は「勝ちに形なんか関係ない」という考え方の持ち主だった。50m走でもフライングギリギリで走り出すし、遊びでも自分が勝つために全力を尽くす。汚いとかそういうのではなく、単純に負けるのがイヤなのだ。一見すると冷めていて勝ち負けにこだわりがないように映るが、意外と気にしている。「やれ」と言われなくても、チームの勝利のためにやる男だ。
ここまでヒット一本、フォアボール一つ、ショートゴロ。相性は悪くないから可能性は五分五分か。引っ張れば外野まで持っていくパワーもあるけれど、確実性を求めるならばスクイズ。見極めは難しいが、スクイズも考慮させて守りの動きが硬くなっては元も子もない。ここは見栄を張ってでも味方の心配を少しでも和らげる方が吉、と見た。
試合が再開され、一球だけ相手の動きを見るべく様子を見る。コースは内角低めに力を込めたストレート。犠牲フライ狙いなら間違いなく振ってくる、他ならば見送ってくる。それで判断しても遅くはない。深刻に考えず、あくまで気楽に捉えた。
結果は悠々と見逃し。犠牲フライを狙って打てるだけの力はあるはずなのに反応しなかった。まぁ強攻すれば引っ掛けて内野ゴロになる低めに外したコースだったが。これでヒットかスクイズか分からなくなった。あかつきのカラーに染まっていれば、あくまで完璧な勝ち方を目指すだろう。次の選択は外角高めへストレート。九十九の得意コースで打たれる危険もあるが、果たしてどう出るか。負けと隣り合わせにある状況を、無意識の内に楽しんでいた。
息を一つ吐いて、静かに腕を上げる。渾身のストレートを、ワイの魂を乗せたストレートを、十数メートル先のミットに目掛けて思い切り放つ。
その瞬間、こちらの呼吸に合わせて九十九がバットを寝かせるのが目に入った。
(やっぱりやったか、九十九)
手元から離れた白球は情けない音を出してコロコロと地面を転がり、次に気付いた時には主審の「セーフ」という声しか耳に届いていなかった。
ワイの全てを賭けた三年間が終わりを告げた。不思議と悔しさも悲しさも涌いてこなかった。
これが勝ったチームのベンチか。そう感じざるを得ないくらい、重苦しい雰囲気で出迎えられた。無邪気に喜んでいるのは八嶋一人くらいで逆にベンチ内で浮いている。他は下を向いたり淡々と片付けをしたり、凱旋した俺に声をかける者は皆無だ。なんだこれ、お通夜モードやないか。負けた時でも幾分かマシだぞ。暗い気持ちになりながら監督へ報告に伺う。
監督は腕組みをしたままベンチの端で仁王立ちしたまま微動だにしない。サングラスの奥に隠れる瞳に俺はどう映っているのだろうか。思わぬ相手に苦戦を強いられる展開を前にして腸が煮えくり返っているのだろうなー、と推測。「名門あかつきの名を汚して」と怒鳴られても文句は言えない。全ての責任は自分に背負い込むと最初から覚悟している分だけ気持ちは楽だった。最悪レギュラー剥奪をその場で言い渡されても悔いはない。
「……よく、やった」
―――あれ?
普段と変わらない、知らない人が耳にしたら“渋い”と言われる声が、予想してない言葉となって耳に入ってきた。
強烈な雷を落とされる最悪の事態も覚悟し、二つ三つお叱りの言葉を受けるだろうと思っていたのに。俺のやったことは決して“あかつきらしい”勝ち方ではなかったのに、滅多に褒めない監督から最大限の称賛の言葉、だと?一瞬何を言われたか呑み込めず呆然としてしまった。総評を終えるとベンチ裏へと引き上げていく監督の背中がいつものように頼もしく感じた。
多分、打席で思い悩んだ葛藤に気付いていたのだ。順調に勝ち星を積み重ねてきた中で迎えた地方予選で想定外の苦戦を余儀なくされ、勝つことの難しさと直面したことを。周囲の期待がプレッシャーになることを。そして……圧倒的戦力の中に潜んでいた驕りを。俺は監督へ静かに頭を下げた。全てを理解してくれた良き指揮官がいることに誇りと幸せを感じながら。
ベンチ内の自分の荷物を手早くまとめて撤収してそのまま球場へ迎えに来たバスに乗り込む。ベンチに入れなかった応援組は別のバスで学校まで先に戻るがベンチ入りした面々は今日の反省を行うために練習場へ向かう。相変わらず勝利の余韻など一切感じられない、皆口を噤んで喋ろうとしない。重苦しい空気のまま学校に到着すると、着替えや荷物を片付けるために更衣室へ逃れるように直行する。
そこで事件は起きた。
「あんな形で勝ってみっともないと思わないのかねぇ」
静まり返るロッカールームに洩れた言葉は意外な程にはっきりと大きく聞こえた。音は絶え間なく出ていたはずなのに、その言葉は雑音にかき消されることなく室内に響いた。一人が呟いた独り言は誰とは言ってないが誰かを標的にしていることは全員分かった。そして矛先を向けられた俺にも、はっきりと伝わった。
こんな時でも貴様は味方の足を引っ張りたいのか。批判は甘んじて受ける気になっていたが、姿も見せずコソコソしてる奴のやり方は癪に障る。今までは流していたが今日という今日は堪忍袋も限界や。声のした方へ歩み寄ろうと一歩踏み出した時―――
「てめぇに何が分かる!!」
怒号が飛ぶと同時に一人が固まりに飛び込んだ。胸倉を掴まれ壁に押し付けられる恰好になる。眉間に皺を寄せ怒りの形相を浮かべているのは二宮。大して掴まれているのは……ベンチ入りしている同学年の外野手。
「文句ばかり裏でコソコソ行って男らしくねぇ!!自分がレギュラーになれないから評論家気取りか?情けねぇ。僻む暇があったら練習しろ!」
「……っ!!」
彼は目立たないが入部試験でも高評価を受けて即一軍を勝ち取って以来ずっと二軍に落ちることなく一軍を維持してきた。一年の秋季大会で既にベンチ入りを果たしている。走攻守に穴がなく総合力では俺を上回っている。もしレギュラーを外されれば彼がライトの守備を任されるだろうな、と思っていたが……優等生が何故?拘束されて黙り込む辺り二宮の言っていることは真実だと受け止めるが、何も反論しないので二宮が容赦なく畳み掛ける。
「中の時もそうだったな。仲間を使って見えないトコからネチネチと言いやがって。確かに九十九の態度は俺も気に食わねぇ。だがな、アイツはやる時はやるんだ。口だけのお前と違って、な」
あぁ、道理で。普段からソリの合わない二宮が俺を庇ったことに疑問を抱いていたが腑に落ちた。八嶋の件にも絡んでいたのか。
それまで言われるままだった彼が反撃に出た。
「……お前に何が分かる!天賦の才を持ってレギュラーになることを運命付けられた奴に、幾ら努力しても届かない辛さや苦しみが!!」
吐き出された長年の鬱憤が、彼を何故ここまで堕ちるまで歪んでしまったのか何となく読めた。
確か彼は「全国大会で輝かしい功績があった」と言っていた。その才能は本物でエリート揃いのあかつきでも如何なく発揮していたし、この三年で成長してきた。だが、届いているはずのレギュラーの座が、手に入らない。しかも自分より実力の劣る九十九が選ばれた。彼も苦しんでいたのだ、俺と同じように。実力でも実績でも俺より上回っているのにどうしてレギュラーとして選ばれないのか、と。
「分かんねぇな、そんな手前勝手な解釈して勘違いしている奴の気持ちなんか」
魂の叫びもバッサリと切り捨てる二宮。頭に血が上っていることを差し引いても飾ったり和らげたりする言葉は一切含まない。
「こっちはいつも周囲の期待を背負って戦ってんだ!身内同士で足引っ張る暇なんかこれっぽっちもねぇ。勝つために必死なんだよ!」
荒げる声は目の前の彼だけに向けられていない。後輩を楽に投げさせてやれず、プレッシャーをかけてしまった自分を責めていた。二宮の素直な指摘にスタメン勢が一様に俯くのが目に入った。誰もが得点圏で結果を残せなかったことを悔やみ、不甲斐ない自分に苛立っていた。心のどこかで“強豪らしく”とキレイに飾っている自分が居たからこそ、今日の苦戦だ。相手投手のデータが全く異なっていたのも単なるアクシデントに過ぎず、言い訳の材料にはならない。
公式戦で毎回空いてを寄せ付けず勝ってきた。ヒットを量産して、ホームランも打って、エースがピシャリと抑える。理想的な勝ちを続けてきて、それに慣れてしまっていた。ファールで粘り、四球を選び、是が非でも塁を進めて、点をもぎ取る。そんなガムシャラさを忘れていた。九十九のスクイズを除けば犠打飛ゼロ、ヒットばかり求めすぎて初球を叩いて凡退も多い、四死球も決して多くない、得点圏では決めに行く意識が強すぎて三振ばかり献上、ランナーを進める意識は皆無、結果的に残塁数ばかり多くなる。横綱相撲ばかり追い求めていたからこそ、今日の試合だ。何様のつもりだ、俺達は。特別な存在なんかじゃない、相手と同じ高校生なんだ。レギュラーがそんな気持ちで居たからこそ、勘違いする奴が大勢出てくる。これは俺達の問題なんだ。いや、部に在籍する人間全員が間違った考えを改めなければならない。
「僕達は決して遊びで試合に臨んでいる訳ではない」
切り出したのは四条だ。二宮が掴んでいた手を放して後ろへ下がる。
「文句があるなら僕に言ってくれ。今日の試合であんな無様な試合をしないと自信を持って言い切れる人が居るならこの場で申し出てくれ。今後あかつきはみっともない展開を保証してくれるなら僕は喜んで監督に進言するよ。但し、100%絶対に約束出来ないのであれば、今後一切他者を貶める言動・行動は慎むこと!もし仮に行った場合は例えレギュラーであっても厳しいペナルティを科す!……いいね?」
二宮から引き継いだ四条が時折感情を込めて語る気迫に押され、皆沈黙してしまった。“我こそは”と名乗り出る猛者も現れなかった。
日頃からレギュラーに対して悪質な嫌がらせが横行している現状に頭を抱えていた四条が、断固とした姿勢を表に出したので雰囲気に圧倒された。一ノ瀬の後を継いで協調型のキャプテンとして部をまとめていたので今回の豹変ぶりに驚いた、というところか。今日は一段と頼もしく映るのは、いつものギャップを含めていても実にカッコいいと感じた。
一方、完全に封じ込められた彼を筆頭とする集まりは反撃する気力さえ失ったようで萎れてしまった。前々から陰口を叩いて部内の規律を乱した連中は翌日には二軍へ落とされた。ベンチ入りメンバーも複数人が急遽入れ替えられた。個人的にはそこまでしなくても、と思わなくもないが。
この日を境にあかつき大付野球部は生まれ変わった。程好い緊張と溢れる向上心、そして笑顔が増えた。練習にも活気が出て、ベンチ入りの適わなかった面子も応援に気合が入り、スタメン勢はあかつきの誇りと勝利へのこだわりを胸に精一杯戦った。初戦とは打って変わって全く危なげなくトーナメントを一歩ずつ勝ち上がっていくことになる。
当初の予想を覆す善戦に試合後は新聞各社やテレビ局の記者が殺到した。これまでの人生で遭遇したことのない光景に監督は緊張からロクに喋れなかったが、阿畑は胸を張って毅然と対応した。その晴れやかな表情は決して敗者が見せる顔ではなく、何か大きなことを成し遂げてやりきったように映った。先にインタビューを終えて帰りの途についたあかつき側と比べても勝者と敗者が入れ替わっているのではないかと思うマスコミの人も少なくなかった。
「あと一歩という所で敗れてしまいましたが……」
「部員は一生懸命守ってくれました。最後はああいう形で負けてしまいましたが、悔いはありません」
対等に渡り合ったことを誇りに感じているように見え、その潔さと屈託の無い笑顔に記者達の印象はさらにアップした。
通常よりも長い質疑応答を終えて母校へ戻った時には陽も傾いて夕暮れとなっていた。熱戦を演じた燃えるような熱さも、どこから吹いてくる風が和らげてくれた。
マネージャーを含む野球部の部員全員は帰ってきて荷物を部室に置いただけですぐにグラウンドに集合した。この予選で負けた時点で三年生最後の夏が終わりを迎える。引退する三年生は前に整列して後を引き継ぐ一年・二年が向かい合わせに並んでいる。ここで最後の言葉をかけるのも、キャプテンとしてチームを牽引してきた阿畑の仕事だ。“何を喋るか”なんて全く考えていなかったので気持ちの整理はついていなかったが、とりあえず今思いついたことを口にすることにした。
「今日で三年生は引退や……ホンマ、ワイのワガママにみんな振り回されてイヤな気持ちになったと思う。だが、明日からはお前等の野球部や。これからは好きにやっていって欲しい」
喋り始める前から目を潤ませてる奴が居るのは分かっていたが、話し始めると全体に伝染してしまってしんみりした空気になってしまった。
今振り返っても、部員達には迷惑をかけっぱなしだった。特にキャプテンに就任してからは効果が分からない野球と無関係な練習を強制させたり、前任と比べて明らかにハードな練習量を課したりした。批難はうなぎ上り、文句も相当出ていたのは知っている。夏の大会でも二回戦で当たるあかつきを欺くために初戦はストレートとカーブしか投げない大博打も打った。お陰で危うく初戦敗退の憂き目に遭うところだった。
決して慕われるキャプテンではない、自分勝手なキャプテンだった。そんなワイを見て泣いている奴が居るなんて。
「……おいおい、みんな揃って泣き顔で。気色悪いやん」
少し場を盛り上げようと努めて明るい声をかけたが、誰も笑わない。
「すみませんキャプテン。俺達が点を取っていれば……」
お世辞にも点が望めるような打線ではないと最初から分かっていた。相手は二年生ながらあかつきのエースとして甲子園を経験したプロ級の豪腕投手。ワイみたいに相手を引っ掻き回さなくても自力で押し切れる。無茶に付き合わせたこっちが悪いのだ。それでもワイの熱投に応えようと必死に喰らい付いてくれた。一度だけ一アウト二塁のチャンスを作ってくれただけでも御の字だ。充分すぎるくらいに頑張ってくれた。
今日の試合は痛烈な打球も弾かず要所では堅守に助けられた。軌道も変化量も投げる度に変わるアバタボールをキャッチャーはよく捕ってくれた。いつも以上の力を出してくれた味方には頭が上がらない。
「……俺等が打てていれば、先輩達と甲子園に行けたのに」
ほう、ワイの他に本気で甲子園へ行けると信じていた奴が居たとは。しかも“行けたかも”と期待形ではなく“行けた”と断定してくれた。予想外の言葉に胸が詰まる。年長者として最後の最後まで立派な姿と見せようと感情を抑え、全ての引継ぎを終了した。キャプテンは指名せず、後輩達で決めさせることにした。もう、ワイの居場所はないから、という決意でもある。
想いは託した。激動の一年間を後ろで走ってきた後輩は、確実に意思を受け止めてくれた、はずだ。
儀式のようなセレモニーを終え、それぞれが帰宅の途についた。明日からは新しい野球部が始まる。感動的なスピーチに「きっと来年は甲子園に行きます!」と張り切って宣言していたけれど、ウチの眼から見ても夢物語に終わりそう。やっちゃんみたいな野球に熱心でそれなりに才能があってチーム全体を引っ張りながら自分は人より何倍も努力する人が居ない。しかもあかつき大付や近年力をつけて勢いのある学校を倒せるか疑問だ。初戦敗退しないよう気をつける、が関の山だ。
三年生が今日で引退する、と言ってマネージャーの仕事が減る訳でもない。試合後の片付けは選手が中心だが、雑務はマネージャーに分担される。おまけに今日はスコアラーとしてベンチ入りしていた茜は他の子よりやることが多く、結局完全に陽が暮れた頃にようやく帰れることになった。
あー、疲れた。明日は練習休みやけど明後日は部室の掃除があるなー。整理整頓なんかしとらんからダラダラやって一日潰れるんやろな。しかも分別なんか分からんから仕分けはウチ等に廻るし。考えるだけでイヤになるわ。そんなことを思いながらすっかり暗くなった校舎を歩いていると。
部室の灯りが、ついてる……?
不思議に思ってそっとドアノブを回す。音を立てないように中を伺うと、そこには散らかし放題だった自分の場所を掃除しているやっちゃんの姿が。しかもバケツを持ち込んで雑巾がけまでしている徹底ぶり。
「……何しとるん?」
口を突いて出た言葉にやっちゃんは飛び上がるくらいに驚いた。邪魔をするつもりはなかったが、結果的に手を止めさせたことになった。
「お前、こんな時間に何でおるん?」
「色々仕事残っとって、さっき終わったトコ。今から帰ろうと思ってたら、部室の灯りが点いてて気になって」
「そうか。もう少しで終わるから一緒に帰ろか。夜道は危ないから送ってやる」
それだけ言うと再び掃除を再開した。意外にも作業は女性のウチから見ても細やかで丁寧にやっていた。昨日まで雑然と物が置かれていた場所は見違える程にキレイに片付いた反面、見慣れた光景がないことに違和感と寂しさを覚えた。
珍しい姿を眺めていたい気持ちもあったが、何だかじっとしているのが勿体無いように思った。部室の隅に置いてある箒とちり取りを手に、床を掃く。スパイクの裏についた砂や小石、それに積み重なった埃がどんどん溜まっていく。
「おいおい、疲れとるやろ。座っとれや」
「ウチよりやっちゃんの方が疲れとるやん、試合で投げとったんやし。二人でやった方が早く帰れるやん」
「そうか。ほな頼むわ」
短い言葉のやりとりは(なんだか夫婦みたい)と思ってしまった。長年連れ添って生まれた阿吽の呼吸、みたいな。それきり互いに言葉を交わすことなく淡々と作業に没頭した。少しずつ、やっちゃんの居た跡が消えていく、そんな気がした。終わった時には完全にやっちゃんの空気が感じられない真っ白なキャンパスとなっていた。どこにでもある部室へ変わったことが、逆に淋しく感じた。
大きな紙袋の中に部室で読んでいた本を入れて二つ手に提げて帰るやっちゃんの横を、微妙な間を空けて並んで帰る。同級生の子に見つかったら一大事だ。次に顔を合わせたら「野球部のキャプテンと夜道を並んで歩いていたけど、付き合ってるの!?」と芸能レポーターばりの質問責めに遭うか、事実に尾ひれがついて色々な所に拡散するか。否定して噂を収束させる苦労を友人の事例で見ているので、そうならないように祈るしかない。
「茜」
いきなり呼ばれてビクリと肩が撥ねる。ちょっと、人が考え事しとる時に不意打ちなんて反則や!心の中で猛烈に抗議するが、動揺を抑えてやっちゃんの方に向き直る。
そこには、デラたこの移動販売車が。デラたこはこの辺りによく来るたこ焼き屋で、特徴は普通のたこ焼きより二回りも大きいのが売りの、正にデラックスなたこ焼きだ。大きいのに値段は良心的なので伸び盛り食べ盛りの学生に人気で、ウチも小腹が空いてたら時々お世話になっている。味も文句なし、中のタコも大粒でコリコリした食感が口の中で弾け、甘めの濃いソースが食欲を刺激してたまらない。
「いるか?」と訊ねられたので頷く。今日は色々とあって疲れたし、動いていたのでお腹も空いてた。デラたこを食べても家のご飯が入るだけの余裕はある。
「お、兄ちゃん。高校球児か?」
声をかけてきたのは車の中に居た店員さんで、歳は二十代後半、少し歳の離れたお兄さんみたいな人だった。
陽によく灼けた黒い肌をしたお兄さんは腕っ節が太く、その巨体だと手狭なのでは?と心配したくなるくらいだ。それでいて笑うと白い歯がキラリと光って、人懐っこい顔をしていて親近感が湧く。
「はい。今日が試合でしてん」
「……そのユニフォームはそよ風の子か。確か今日は二回戦だったな。どうだった、結果は?」
「ははは、残念ながら負けてしまいまして」
「そうかー。よし!今日はオマケで二個付けてやる!」
「ホンマー!?おおきに!」
車内のお兄さんは流れるような手つきで生地を型の中へ流し込むと、1センチ弱に切られたタコを放り込み、慣れた様子でクルクルとひっくり返していく。
「俺も昔は高校球児だったが、腕はそんなに良くなくて。最後の試合だけ勝てたけど、その一つだけ。練習は辛かったけど、その勝ちはメッチャ嬉しかったのは今でも思い出になってる。兄ちゃんの今日の対戦相手はどこだったんだ?」
「あかつきです。まあ自分が頑張ってゼロに抑えていたんやけど、最終回に力尽きてサヨナラ負けですわ」
「……何!?あの強豪のあかつき大付、だと!?」
まんまるになったたこ焼きを舟形の器へ盛り付けていく手が一瞬止まった。高校野球に詳しいお兄さんに、地区最強のあかつきと対等に渡り合ったという衝撃はウチら以上に衝撃的だったみたいだ。
「……凄いなぁ、兄ちゃん。よし、今日は特別の特別だ!お連れさんの分も含めてタダにしてやる!」
「え、そんな悪いですよ……」
「兄ちゃんの健闘を称えて、や。誰もこの凄さに気付いてもらえんかも知れんが、この負けは勝ちに等しい負けや。下なんか向かず、堂々と胸を張っていて欲しい。これは俺からのお願いだ」
「……なら、お言葉に甘えさせてご馳走になります」
「うむ!素直でよろしい!お疲れさん!」
やっちゃんに元気な声で労いの言葉がかかる。お兄さんの心意気にウチも軽く頭を下げるとひまわりのような笑顔を見せて手を挙げてくれた。
「良い人やな」やっちゃんはいつもより多い八個入りのたこ焼きを持ちながら呟いた。「そやね」と短く返したが、あのお兄さんからウチら二人はどう映ったのだろうか。気にしても仕方のないことが頭から離れなかった。
両手に大きな紙袋を持つやっちゃんは手が塞がっているので自然と手の空いているウチに預けられた。先程の場所から少し歩いた所に公園があり、休憩も兼ねてたこ焼きを食べることにした。ベンチに腰かけ、人気のない公園でまだ温かいたこ焼きを頬張る。作り置きではない上にお兄さんの気持ちが込められていて、夜風に当たりながら食べるたこ焼きはいつも以上に格別だ。けど。
チラリと隣を伺う。爪楊枝でプスリと刺して大きな口を開けて一個を放り込むやっちゃんの横顔。悦に入る素顔は緩みきった顔と合わせてよく分かる。
『二人仲良く並んでたこ焼きを食べるなんてアツアツやね』どこから聞こえてきた声を懸命にかき消す。他所から見れば『単なる幼馴染であり野球部のキャプテンとマネージャーという関係であり、それ以上でもそれ以下でもない』と弁明しても疑うレベルだ。親密さは逆に誤解と捉えかねないのが痛い所でもある。幼馴染でキャプテンとマネージャー。漫画でよくあるカップルの構図で、ベタベタと言っても過言ではない。だから違うって!
思考を、とりあえず目線だけでも変えないと。足元に視線を落とすと紙袋の縁から中身が頭を覗かせている。そうだ、野球だ。話題を投げれば余計なことから紛れる。
「今日の試合、惜しかったね」
互角に渡り合ったのは予想外だった。あの全国でも上位に食い込める戦力を誇るあかつきを相手に。打線の援護に恵まれなかったのは簡単に想像がついたけど、破壊力抜群の敵打線を九回サヨナラまでゼロに封じたのは茜の目から見ても凄いと分かる。これはひょっとしたら、ひょっとするかも?と期待してしまったくらいに。
この日のためにやっちゃんは徹底してあかつき大付というチームを研究し、丸裸にした。勝つために、相手を欺くために、全力を尽くした。“壮大だ”“現実には有り得ない”と他人から言われた甲子園行きを本気で挑んでいた。その前に必ず立ち阻かる巨大な敵を前々から考えていたこともあるが、やっちゃんは夢に向かって真剣に向き合った。地道なことをコツコツと積み重ねたからこそ、今日の試合があるのだ。自分の進むべき道を心得て、ひたむきに努力するのも一つの才能だとウチは思う。だからこそ神様はその頑張りを認めて少しだけ力を貸してくれた、と信じてる。
本人も笑っていたし大丈夫だろう、愚痴の一つ二つくらい今日は聞いてあげてもいいかな。軽い感じで考えていた。
それまでパクパクと食べていた手が、不意にピタリと止まってしまった。次に食べるであろうたこ焼きに爪楊枝を刺したまま目線を落として動かない。あれ?どうしたんやろ?夜で暗いこともあり表情を伺えないので、どんな顔をしているのか分からない。……もしかして、ウチ地雷踏んだ?人の機微には敏い方だと自認しているが、まさか。
「……ワイな、もし負けるなら九十九の手で討たれた方がえぇと思っとった」
来るべき日に備えて色々と準備してきたが、所詮は弱小校の足掻きであり、どこまで通用するか蓋を開けてみるまで誰にも分からない。最悪の場合、全く通用せず圧倒的大差をつけられてコールド負け、という無様な結果が待っている。どうせボコボコに打たれるなら、幼馴染で気心の知れた相手に介錯される方が幾分か楽だ。それくらいの覚悟は試合に臨む前から持っていた。勝ち目が薄いことも悟っていた。
「けどな、投げとる内にワイの中で“勝ちたい”って気持ちが強くなっていってん」
一巡目は九十九に外角のシュートを上手く流されてヒットにされたが、他は完璧に抑えた。それからは不規則に揺れ落ちるアバタボールが時々ストライクゾーンから外れて四球が増えたりタイミングを合わせられてヒットになったが、まだやっちゃんの方が優勢だった。打線は五回にようやく初安打が出るまで一人のランナーも出せない展開だったが、思わぬ苦戦を強いられて焦りやプレッシャーが見える相手とエースの熱投に意気上がる味方では天地の違いが出ているのは茜にも理解できた。だからこそチャンスで固くなって凡退したり、普段ならバッティングセンターで同じ球が投げられても萎縮して打てない相手投手のボールをジャストミートしている。両チームの雰囲気はいつしか球場内にも伝染して、開始前とは別の空気に入れ替わってしまった。あかつきを応援していた人達はざわついたし、ウチを応援していた人はより熱気が込もったし、どっちも応援していない人達は下克上を期待する顔になった。
勝つためにやってきたことが、徐々に現実味を帯びてきた。そうなると一度勢いづいた想いは加速していった。回を追う毎に惜しい当たりが増え、編んだ数も右肩上がりに伸びていった。悲しいかな、打球の飛ぶ方向がショート正面またはショートの守備範囲内(それもウチのショートとは比べ物にならないくらいに広い)で、もし仮に他のコースに飛んでいたら今頃は奇跡の撃破だと湧き上がっていたに違いない。それ程に勝利はウチらの近くまで来ていた。
負けても悔いはないと臨んで、いざ勝ちが実際に手の届く所まで近付いた。欲が出ない、そんな聖人は高校生に居ない。
「……九十九にスクイズされた瞬間、『やっぱりな』と思った。アイツに引導を渡されるのも悪くない、と思ったからや。アイツやったら形なんか構うことなく勝ちに来るのは分かっていたからな」
声が、震えている。
ここまで明るい顔をして、悔しさを微塵も表に出さなかった。それもやっちゃんの強がりだったのだ。
「でもな……やっぱり、勝ちたかった。カッコつけて澄ました風でいるけど、ワイがあそこで諦めるべきじゃなかったんや……っ!!そうすれば、今は……もっ……笑え……」
言葉は嗚咽で途切れ、涙は既に決壊して頬の両側に流れを生み出して伝い落ちている。
堪えていた感情が、蓋をしていた気持ちが、一気に噴き出した。一体どれだけ溜め込んでいたのか想像もつかないが、人前で涙を流す姿を良しとしないやっちゃんのことを思うと、かなり我慢していたことだけは察せられる。
そっと、やっちゃんの頭に手を載せる。このまま抱きしめてあげたかったが、そこまで踏み込んでいいか分からずやめた。それでもやっちゃんは思い切り泣いた。ウチは黙って隣に居てあげることしか出来なかった。
激戦から二ヶ月。九十九は久しぶりに野球部のグラウンドに足を踏み入れた。
すっかり顔ぶれは変わり、自分達が在籍していた頃の光景は消えていた。あの場所で練習していたのがたった二ヶ月も前なのに、もっと昔のことみたいで無性に懐かしい。後輩は俺の姿を見ると会釈するが、もう俺は引退した部外者だ。ユニフォームを脱いだので制服姿で革靴なのが妙に浮いている。
今日は可愛い後輩を激励に来たのではなく、千石監督に呼ばれたのだ。理由は何となく見当がついている。怒られる、叱られる心配がないのは気が楽だ。この辺りは野球部時代の癖がまだ抜けていない。
監督室のドアをノックすると返事があった。「失礼します」と声をかけて扉を開ける。そこには座るべき位置に変わらず腰掛けている千石監督の姿が。
「おぉ、九十九か」
『久しぶりだな』とか『時々顔を出せよ』なんて気の利いたことは一切ない。誰が来たか確認しただけで、九十九は監督に一礼してから部屋に置かれた椅子に座る。
この時期に呼び出しとなると進路に関することだ。全国に名の轟いた強豪校で甲子園にも春夏出場した実績もあり、各球団のスカウトも視察に訪れている。その影響で進路相談は担任と別で行われるのが常だ。学業成績だけでなく野球の技量も内申になるのだ。
三本松と七井のコンビは既に揃って体育大へ推薦が決まっている。また二宮は同期の中で最も注目を集め、来月のドラフトで上位指名が噂される。その中には一ノ瀬さんの球団も含まれているらしく、黄金バッテリー復活かと期待する声もチラホラ耳にしている。周囲で少しずつ進路が固まってきた頃に呼び出しを受けた次第である。
「……残念ながら興味を持った球団から申し入れは今のところない」
ドラフトで指名したい選手へ内々に連絡する話は知っている。レギュラーとして確かな活躍はしたしスカウトの視線を感じたことも一度や二度ではなかったが、元々プロになれると期待してなかった。俺より才能のある奴が選ばれてないのに、一足飛び越えて俺を選ぶような物好きなスカウトや球団なんか居ない。俺でも先に八嶋や六本木、三本松・七井を選ぶ。
「……が、実はお前に興味を抱いて是非来て欲しいと伝えてきた大学があった」
「へぇ。それはそれは……」
学校名を聞くと驚いたことに九十九も知っている大学野球の名門校だった。近年は大学野球の全国大会でもある明治神宮野球大会に出場を逃しているものの長い歴史のある伝統チームだ。そんな学校からお呼びがかかるとは夢にも考えていなかった。相手から指名があった時点で推薦入学は確定も同然だ。一も二もなく快諾した。モタモタ迷って相手の気が変わらない内に返事をして既成事実にしておきたかった。
「そうか。ではその旨を先方に伝えておく」
「はい、よろしくお願いします」
これで用事は済んだ。けど。
「……監督、一つ伺いたいことがあります」
生真面目な口調と同じように真剣な面持ちで監督と正対する。特に急ぎの用はないらしく次の発言を促す。
「どうして俺をスタメンの九人に入れたのでしょうか?自分が選ばれたことは率直に嬉しかったですし、選ばれた以上はあかつきの名を辱めないよう全力でプレーした所存したですが……俺より実力のある選手は多いと思っていたので意外だと思った次第でありまして」
使い慣れない言葉が口の中でこんがらがって、言いたいように言えないのがもどかしい。それを察して監督は口を開いた。
「九十九には他の者にはない、何かがあると感じた。確かに身体能力や技術で上回る部員が居たのは事実だが、行儀が良すぎて物足りなさを覚えた。その点で考えれば苦労を重ね、勝つことに貪欲な姿勢を土壇場で現す九十九という存在は当時のあかつきに欠けているものを兼ね備えていた。この点は今でも九十九を選んだことを間違いだったとは一切思ってない」
理由を聞いて納得がいった。そうか、やっぱり監督は見ていてくれたのか、と。個を磨くことが武器になると指摘してくれた一ノ瀬さんにも感謝だ。似たような色で統一されれば面白味もないし、思わぬ場所で転げる可能性もある。クセの強い阿畑みたいな相手に総じて経験不足が祟って敗戦の憂き目を見ていたかも知れないと考えれば、今でも背筋が凍る。偶然阿畑と同じ時を長く過ごしてきたので思考も似ていたこともあるが、才能溢れる選手には持ってない“個”を俺は備えていたのだ。それもあかつきの洗礼を受けず順風満帆に一軍生活を送っていたら自分の持ち味に気付かず、その他大勢の一人として埋没していたかもしれない。“自分は選ばれた人間だ”と勘違いしたまま、三年間を終えてもおかしくなかった。
「……大学に行っても野球を続けるつもりなら、ウチの施設を使っても構わないからな」
これは暗に『たまには顔を出せ』と言っているのは、長年の経験から分かった。不器用な人だなと思いながら「では、お言葉に甘えさせて頂きます」とだけ残して部屋を後にした。まだ、俺の居場所が残っていて、戻れるんだなと噛み締めながらのんびりと歩き出した。
十一月下旬。プロ野球界ではドラフト会議も終わり、来シーズンに向けて各球団は着々と動いている。そんな動向とは全く縁がない、そよ風高校の進路相談室に阿畑は一人で待っていた。木の温もりと表現すれば多少響きはいいが、そんな香りはとっくに薄れてただの年季が入ったオンボロ木造建屋に一人生徒が待つには退屈ばかり感じる部屋だ。
別に悪いことしとらんと一応は胸を張って言える(一応、がつく点が情けないが……)ので心配ないが、何故自分が呼ばれたのか理解に苦しんでいた。
放課後の弾けた雰囲気で足音や喋り声が廊下から伝わるので、どのタイミングで来るか読めない。関係ない音ばかり静かな部屋に響くが、扉の前に立つ音だけは明らかに待ち人の到来を予感させた。瞬時に背筋を正して間もなく引き戸が開かれた。
待ち人、来る。木暮監督だ。
「いやー、すまんすまん。色々あって遅れてしもうた」
そうやな、お陰で十五分も待ち惚けを喰らいましたわ!とぶつけてやりたかったが相手は一応目上の人間なので胸の中にしまっておく。関西人は時間に厳しいので十分も待たされれば苦情レベルに相当するが元顧問では些か分が悪い。この人は怒らせると喋り方がゆっくりになることも加わって途轍もなく説教が長くなるので、気軽に軽口も叩けない。
ここで普通なら「ご無沙汰してます」と社交辞令の一つを挟むのだが、頻繁に野球部へ顔を出しているのでそれも使えない。少し迷って軽く頭を下げて腰を下ろす。気まずくはないが、相手の思惑がイマイチ掴めないのでやりづらい。
「……ところで阿畑や、ドラフトはどうだった?」
まるで近所の子どもに聞くような感じで訊ねてきた。あぁそうか、ドラフトの結果はまだ伝えてなかったな、と今更ながら思い出した。
あかつき戦を終えてから数日後、練習を時々見に来ていたオッサンが急に声をかけてきた。口元に髭を蓄えたその人は、時折来たと思うとフェンス越しにじーっと部員達の動きを観察して三十分くらいしたらいつの間にか居なくなるのが常だった。特に声をかけてくることもなく眺めているだけだったので風景同然に深く気にすることはなかった。それが突然いきなり「阿畑君」と名前で呼ばれたから少し驚いた。まぁ試合翌日の朝刊やスポーツ紙に写真付きで大きく記事が掲載されたので一躍名前と顔が知れ渡ったことだけは察しがついたが。このオッサンも時の人に近い状態になったワイに労いの言葉をかけるのかと思ったら違っていた。懐から何かを取り出して差し出してきた。
その小さな紙を見て仰天。なんと―――プロ野球のスカウト!?
「驚かせて申し訳ない」と慣れた様子で話し始めた。影山と書かれたスカウトさんはこの地区の担当で今秋のドラフト候補を探して様々な場所に顔を出しているらしい。まさかプロのスカウトから注目されているとは夢にも思わず、嬉しさが徐々に込み上げてくる。夏の大会までは自分のことだけで手一杯だったから周りに気を配るだけの余裕は皆無だった。
話を伺うと、前々から気に留めていたらしい。今年に入ってからは独特の軌道を描きながら不規則に変化するボールを習得してからは評価がグンと上がり、先日のあかつき戦が決め手になったとか。上層部に情報を伝えると前向きな反応が返ってきて、“下位でいいなら”という条件つきでドラフト指名の検討に入った、と伝えてきた。
TVの中で活躍する姿は物心ついた頃から抱いていた憧れだ。あの部隊に立てるかも、と言われれば自然とテンションが上がる。夢と追いかけていたものがすぐそこまで。考えただけでワクワクしてきた。「あまり期待しないで待ってくれ」と言われたものの、そう言われて期待しない人など居ない。ドラフト会議当日はラジオ放送をこっそり聴いて自分の名前が呼ばれるのを待っていたが……遂に、呼ばれることは無かった。
後日影山さんが直接詫びに訪ねてきた。積極的に指名するよう交渉したが、来年のことを考えて今年は指名数を絞る傾向が強く、その旗色を覆せなかったのだとか。将来有望な選手も即戦力も固まっていたが渋る要因だ、と。糠喜びをさせて本当に済まない、と深く頭を下げられてスッキリした。自分自身も『なれたらえぇなぁ』と思っていたので執着していても仕方ない、と素直に割り切れた。
「残念ながらご期待に添えませんでした」
未練を一切感じさせない、さっぱりとした顔で言い切った。
監督も報告を受けて一言「そうか」と呟いただけで、それ以上詮索する姿勢は見せなかった。
「それで、進路は決まってるのか?」
「いやー……それはまだ」
燃え尽き症候群なんて大層なものではないが、あかつき戦を終えてから目標が見つからないのが最近の悩みだった。引退したにも関わらず野球部へ頻繁に顔を出すのは後輩への指導もあるが毎日の習慣が抜け切れないせいでもある。一応は進学希望なので勉強もしているが志望校も定まっておらず、担任から早く決めるよう毎日のように催促され急かされる。懸案のドラフトも終わった今どうしようかと本格的に考えないと思っていた矢先に呼び出しを受けたのだ。
「阿畑や。実は折り入ってお前に話がある」
監督から切り出されたのは、とある大学への推薦の話だった。その学校は長い歴史を誇る文科系大学で、今の阿畑の偏差値では到底合格するのが絶望的な難関校である。その推薦も特に優れた学力を残した者にしか与えられないと聞いていたので、何故自分が?と思った。だが、一般推薦の他にスポーツ推薦の枠も若干数設けられており、夏の大会の成果とキャプテンとしてチームを引っ張ってきた功績を鑑みて今回その推薦に阿畑を推すことが決定した。その大学の野球部は全国的にも知名度があり、有名なプロ野球選手を何人も輩出している。
ただ、枠の募集人数に対して倍率を遥かに超える人員が殺到するので確実に合格する保証はない、と前置きも合わせて説明された。当然のことながら学力試験も行われるし、締切期限も間近。試験日まで残された時間はあまり残されてない。
「……やります!」
他人が躊躇する選択も阿畑は迷うことなく即決した。こんな機会がなければ縁もない大学へ受験するチャンスはそんなに多く巡ってこない。それに難関な方が明確な目標として意識できて燃える。ここから自分の学力をどこまで底上げ出来るかが勝負になる。
大学受験という新しい目標が出来て、抜けていた魂が戻ってきた。周囲もその変貌ぶりに眼を丸くする程に勉強漬けの末に吉報が届いたのは、秋も大分暮れて冬の便りがそろそろ届くかという頃合だった。
三年生の冬はあっという間に過ぎていき、年が明けて季節も春となった。
厳しい寒さを耐えていた固い蕾も春の訪れと共に柔らかくなり、入学式を迎える頃には立派に大きく開花して季節を彩る。
四月。周囲の木々が桜色に染まった中、初々しさと緊張が入り混じった面持ちの若者が一堂に会していた。
近代学院大学入学式。この歴史ある学校は今時珍しく男子生徒は学ラン姿で出席する慣わしとなっている。同じ制服でも高校時代と全く印象が異なるのは肩書きが違うからか。なんだか周りの人間が皆大人に映る。ただ、この光景は今日と四年次の卒業式のみで、明日からは私服で大学生デビューを飾る。
堅苦しい式典の類は退屈でしょうがない。一応は晴れ舞台ということでしゃきっとしているが、知り合いの居ない新天地では息を抜ける暇がない。肩肘張った状態は常でないので入学式に参加している九十九は若干ブルーになっていた。
「九十九!」
いきなり自分の名前を呼ばれ、反射的にそちらの方に顔を向けた。新入生だらけの中でも自分の名前を呼ばれるとしっかりと拾えるのは長年の慣れか習性か。誰やろ?俺を知っているなんて。
だが、声の主を視認して途端にテンションが下がった。軽い詐欺に遭った気分だ。
「なんや、阿畑か」
もし昔同じ学校だった可愛らしい女の子に声をかけられたら『運命だねー』と口説けるチャンスだったのに、顔を合わせてみたらたこ焼き顔の冴えない野郎。ドキッとした俺のトキメキを返せ。
「お前なんでこんな場所におるん。確かに部外者が紛れていても気付かれんけど、会場入るのに許可証ないとダメやで」
「大丈夫、そこら辺は蛇の道はヘビって言うやん……って、ちゃうわ!この恰好見れば分かるやろ!ワイも今年からこの学校の生徒や!」
確かに周囲と同じく学ランを着ているし、許可証も持っている。しかし“馬子にも衣装”とは言うけれど、全然似合ってない。垢抜けてないこともあり大柄な中学生と言われてもあまり違和感がない。今日このまま遊園地に行って試してみたいわ。
―――ということは。
「……また、一緒になったな」
「……やな」
あの日別れたはずの道は、また繋がって一つの道になった。
互いに置かれた場所でガムシャラに努力した結果、それなりに充実して満足できる高校生活を過ごすことが出来た。思えば昨年夏のあの激戦から一度も顔も合わせてない。でも阿畑の顔には何かをやり遂げた達成感が滲んでいた。
恐らく阿畑の方も同じことを思っているらしく、男二人が向かい合って無言で見つめ合っている。喧騒に包まれる中で静寂な空気が流れる。
「……気色悪っ!!」
「おいこら!久しぶりの再会でそれはないやろ!!」
堪えきれず思ったことを口に出すと、ギャーギャーと過剰に反応してくれた。おかげでカチカチに固まっていた気持ちが大分楽になった。
これもまた一つの運命か、因果か。まぁ、こいつと一緒な学生生活も悪くない。
魔球“アバタボール”を駆使して並み居る強打者を手玉に抑える阿畑、一発はないものの巧みなバットコントロールとここぞという場面での勝負強さで存在感を発揮する九十九。この名コンビがそう遠くない未来に大学野球界を席巻することを、まだ二人は知らない。
ただ、一つだけ言えることは、互いに培った三年という月日でそれぞれが試練を乗り越えて大きく成長したことが未来への糧となったことか。
また別れる時が訪れるかも知れないが、再び顔を合わせればこうしてふざけ合うだろう。
自然体で付き合える仲と呼べる間柄だから互いに引き寄せる関係なのかも知れない。この糸はちょっとやそっとで切れそうにない。
付かず離れず、四字熟語にすると“不即不離”の関係。腐れ縁のように奇妙な友情だが、こういう関係も悪くない。
[ 不即不離 ] END
BACK TOP NEXT