僕のおじいちゃんはいつも家にいない。僕が生まれてからおじいちゃんの姿を見たのはたった一回だけ。
3年前の正月にひょんと帰ってきた。お正月なので家族みんなくつろいでいるところに突然何の前触れもなく。
僕は当時3歳なのであんまりよくは覚えていないけど、その時のおじいちゃんの姿はよく覚えている。
玄関にベルなしで入ってきて靴を脱ぎ捨てると一気に居間まで駆け上がってきた。
日焼けして長旅の汚れで全身真っ黒になり、満面笑みを浮かべてキラリと白い歯が光っていた。
駆け寄ってきた家族に特別な素振りを見せることなく、まるでいつもそこにいるような雰囲気でみんなに声を掛けていった。
そんな中ちっちゃな僕を見つけると側にまで近寄ってきてその小さな体を抱きかかえて高く持ち上げた。
手を伸ばせば空に浮かぶ雲でも燦々と輝く太陽でも掴めるような感じ。ここまで空が近くにあるように思ったことは一回もなかったし、それ以来も思ったがない。
その時の感覚は今でも忘れられない。
『不縛不留(しばられずとどまらず)』
その後すぐにおじいちゃんは落ち着く間もなく風のように立ち去っていった。
一日・・・いや半日も家にいなかったのに家の中は嵐が過ぎ去ったように散乱していた。
これはおじいちゃんがやったことではない。他のみんなが散らかしたのだ。
みんながみんな迷惑に思っていたわけでもないのだけど、普段いない人が突然家にいるのだからついつい遠慮しがちになってしまう。
誰も近寄ることなく、ぎこちなくその長い半日を送っていたのだ。
お姉ちゃんは縁側で寝転がりながら本を読み、お父さんは仏間で新聞を広げて食い入るように内容を見つめ、お母さんは台所でみんなの料理を試行錯誤しながら作り、お兄ちゃんは自分の部屋で黙ってマンガを読んで、お婆ちゃんは仏間で細かい裁縫仕事をしている。
そして誰もがそれらを片付けようとしなかった。
あれから3年の月日が経過した。
僕は小学校に入学して4ヶ月が過ぎて初めての夏休みを迎えた。
初めての夏休みを迎える僕の心は非常に弾んでいた。
学校から宿題もたくさん出たけれどそれ以上にこれからおよそ1ヶ月間、ずっと休みになるので何をしようか今からでも楽しみなのである。
自由研究にしてなにか調べようか、工作でも作ってなにか面白いモノを作ろうか。
学校から出されたワークはいつやろうかな。漢字のドリルもやらなきゃな。
プールで何メートル泳げるかな?端っこまで足をつけずに泳げるかな?
それよりも友達と遊びに行ったり、家族と遊びに行ったりすることが一番心待ちにしていること。
そんなことを考えているときだった。
スイカをみんなで頬張っていると、突然玄関のベルが鳴った。
真夏の真昼。みんな照りつける太陽と灼熱の暑さで外に出ることをはばかる時間帯に誰かがやってきた。
お婆ちゃんが玄関の引き戸を開けるとそこには―――おじいちゃんの姿があった。
「おじいさん!」
「やぁ、久しいの。ばあさんや。」
既に常人の感覚から言えば久しぶりという領域からは超えているのだがおじいちゃんには通用するみたいだ。
玄関先に靴を脱ぎ捨てるとそのままの勢いで仏間にまで入ってきて畳の上に大の字になって眠ってしまった。
みんなが唖然としている中、おばあちゃんは何事もなかったようにおじいちゃんが履いていた靴を一人淡々と直していた。
そんな僕もまたおじいちゃんの所へ布団を(引きずりながら)持っていって死んだように眠っているおじいちゃんに優しくかけてあげた。
おじいちゃんの寝顔をふと覗いてみると子供のような寝顔を浮かべていた。その表情を見ていると見ているコッチもなんだか心の底から嬉しくなってきた。
数十分くらいしておじいちゃんは長い眠りから目を醒ました。
起き上がって暫くボーっとしてから辺りを見回すとようやく我が家に帰ってきていたことを思いだして庭へと飛び出していった。
庭にある数年開かれていない水道の蛇口を思いっきり回してホースから出てくる水を滝のように浴びた。
水のカーテンに太陽の日差しがその間を通り抜けていく。水のカーテンからは小さな虹が垣間見ることができた。
キラキラと光る水の雫。華やかに彩る七色の小さな虹。そして水越しにぼやけて映し出される庭の木々。
普段何気ない風景がおじいちゃんの力によってこれ程にまで感じ方が変わってしまうのかと実感した。
そんな光景を見た僕は、何を思ったのか衝動に駆られて近くにある川へと直行した。
小さな足をフルに使い、兄からのお下がりで所々塗装が剥げている自転車のペダルを必死にこいで。
僕が家を飛び出した頃、お父さんとお母さんとおじいちゃんがテーブルを挟んで何かを話していた。
「・・・お養父さん、帰ってくる時には必ず連絡入れて下さいといつも言っているじゃないですか。」
「自分の家に帰ってくるのに何で連絡する必要がある?ここは儂の家だぞ?」
開き直りというか完全に悪気がないような顔をしている。
言っていることは確かに筋が通っているのであろうがそれがまた二人には納得いかない。
一方、団扇をパタパタと扇ぎながら話を聞いている。
「父さん。せめてケータイくらい持ったらどうなの?」
「ケータイ?何じゃそれ?何を携帯するのだ?」
二人は呆然とした顔になった。『ケータイ』と言えば殆どの人が『携帯電話』だと理解できるのにこの人は出来ないのである。
現在では子供も大人も老人もケータイ片手にメールや電話をしている時代。ケータイを持っていないにしてもケータイの存在は知っていて当たり前なのだと世間一般では考えられている。
「携帯電話のことですよ、お養父さん。今時持っていない人の方が少ないですよ。それに持っているだけでも便利ですよ。」
「儂はそんなものに頼るつもりは全くない。電話がしたかったら公衆電話を使うし、そんな『けーたい』如きに縛られたくもない。」
「そんな大袈裟な……。」
「大袈裟ではないわ。四六時中『けーたい』を片時も離すことができず頼り切っている輩にだけはなりたくないのだ。」
確かにこの意見には一理ある。
ケータイという便利な機器が登場して急速に普及していったのは、文字数が多い文章のやり取りが出来るメールという機能が備わっていることも要因の一つに挙げられる。
電話で直接話したくない話題でも文章を通じて伝えることによってリアルタイムに手紙のような文字のやり取りをすることが出来るのである。
自らの手で書いていく手紙より時間も手間もお金もかからないことから非常に便利なのである。
しかしその反面、多くの人と会話感覚でやり取りを行うためにケータイを片時も手放すことができない事態に陥ってしまう。
友情関係もケータイによって構成されているためこれが崩れると生きていけないという錯覚になってしまいやすい。
また『人間少し不便な方が暮らしやすい』という言葉があるようにあまり便利な生活を送っていることも良くない。
便利・快適を追い求めるあまりにその有難味が薄れてしまうからである。
「ケータイを持つのがイヤでしたら一箇所に留まって下さいな。子供達に悪い影響を及ぼしてしまいます。」
「そうだよ、父さん。長男は今年大学受験、長女は二年後に大学受験を控えているんだ。あの子達にも良い大学に進んで良い教育を受けてほしいから……。」
「ふん、なにが『良い大学に進んで良い教育を受けて』だ。結局その後に『一流の企業か官庁に就職してほしい』と続くのじゃろう。」
おじいちゃんはひねくれたように吐き捨てた。
「お前達がそうして育ったように子供に押しつけるのは大きな間違いじゃ。人それぞれ人生の歩んでいく道は違うのだ。それ故に親が子供の人生にまでレールを敷くのは傲慢と言うものじゃないか。」
そこまで言われると誰もが黙っていられなくなってしまう。特に自分の子供の育て方に難癖を付けられたら。
ここから先のやり取りは罵声が飛び交うのでとても筆舌に尽くしがたいので省略するが相当激しいやり取りが交わされたことを読者の皆様は想像していただきたい。
ともすれば罵声だけではなくコップや灰皿が飛び交い、果てはちゃぶ台返して睨み合いになるような展開も一段落してまた両者が向き直った。
向き直ったと言うより真ん中に第三者で情勢を見ていたおばあちゃんが仲裁に乗り出してその場を丸く収めたのである。
お母さんも必死にその場を収めようと努力したのだがおばあちゃんの方が年の功で諫めるのが上手だった。
お互い熱くなって結果、肩が激しく上下して息も絶え絶えである。
散らかった部屋を片付けてひっくり返ったコップの中に改めて冷えた麦茶を注ぐと男二人は一気にカラカラになった喉を潤した。
「……兎も角、ウチの教育方針は父さんに何と言われようと変える気はないからね。」
「あぁあぁ、ワシもお前さんみたいなのがいる家なんぞに居たくもないわ。」
「まぁまぁ。ここは落ち着いて話しましょうや……。」
二人の意見は交る気配すら見えない。それどころか第二ラウンドがいつ勃発するかわからない事態にまで深刻になってしまった。
おばあちゃんの仲裁があったにしろ未だに興奮が戻ってきている状況になりつつある。必死に二人の仲直りをさせようとしている女二人だが頑として向き合おうとしない。
そんな緊迫した中、僕は川からびしょ濡れになって帰ってきた。
「ただいま〜。」
衝動に駆られて川へ水浴びに行き、着替えの心配など最初から頭の片隅になくそのままの格好で川に飛び込んでいった。自転車も道連れにして。
そしてずぶ濡れになった服のまま自転車に飛び乗って町中を走り回っている間に少しは髪の毛や服が乾いたけれど依然として濡れたままであった。
当然家に帰ってくるとお母さんは真っ先に口から小言が飛び出した。
「もぉ!何処行っていたの!髪も服もびしょ濡れじゃないの!早くお風呂入っちゃいなさい。」
いつも通り、というかやっぱり言われることなのかも知れないのだがその時の僕はずっと笑顔だったと思う。
何故か?それはやりたいことをやってきてやり遂げてきたのだから悔いもないし怒られても平気だから。
その日の夜、みんな深い眠りについていた頃だった。僕は蚊帳の中で寝ていると突然おじいちゃんの呼び声で起こされた。
普段なら眠っている時間帯なので頭がボーっとしてまだ夢と現実の狭間にいた。
そんな時におじいちゃんの口からとても印象的な言葉が耳に入ってきた。
「一緒に旅に出ないか?」
僕は躊躇なく「うん」と一つ言葉で返した。
そうなると早速準備が始まった。夏休みの宿題に着替え、帽子など様々なモノをリュックの中に詰め込んでいった。
まだ陽も昇らない時間。辺りは漆黒の暗闇に包まれている中家族に気付かれないように静かに行動した。
そして辺りが徐々に漆黒の呪縛から解き放たれてくる頃におじいちゃんが運転してきた古い車の後ろ側に乗って僕達は密かに家から出発した。
僕は家から抜け出す時からの変な緊張感から解放され、数十年の間空気に晒された後部座席のシートへ横になった。
なんだか独特の肌触り・臭いがして、さらにゴトゴトと車が上下に揺れるのが何故か心地良い揺れに思い徐々に夢の世界へと引き込まれていった。
本日二回目な寝起きで外の景色を見てみると窓には一面海が映っていた。
既に陽も高く昇っており、海はキラキラとしているし浜辺は太陽の日差しを目一杯受けて黄金色に輝いている。
そして浜辺には水を求めるカニのように人がわんさか群がっていた。
運転しているおじいちゃんは僕が起きたと知るとこう呟いた。
「此処は人が多すぎる。おじいちゃんが知っている穴場があるからそこまで行こうな。」
アクセルを踏み込むとヴォーとけたたましい声を立ててスピードをあげていった。長年連れ添った愛車からギシギシという悲鳴にも聞こえる音も共にして。
手を移動させると何かに当たった。シートの上にはおにぎりが二つと紙パックのお茶が置かれていた。
起きたのは良いがお腹が空いていた。『こどもはしんちんたいしゃがいい』などと小難しい言葉ではなく率直にエネルギーが不足していた。
おにぎりには具が一切入っていなくて塩だけというシンプルな味付けだったがそれでも塩むすを食べたことがない僕にはその味は斬新であり、とても美味しかった。
数十分ほど海岸線から離れた道を進んでいくと舗装されていない道へと入っていった。
砂利や小石の中から名もなき雑草が顔を出している。はたまた水たまりがあったりと気分はジャングルを進む探検隊である。
それから暫くガタゴトガタゴトと揺られていくと目の前が突然ひらけた場所に出た。
ゴツゴツとした大きな岩が沢山転がっていて、時々波が岩に当たって波しぶきをあげている。
遠くを見渡してみると、その向こう彼方に見える空と海の境界線には横一文字に水平線が見えた。
空は様々な青い色が複雑に混ざり合っている。海に近い方は白く、宇宙に近い方はより濃い青い色に。そこに真っ白な雲が空の海をぷかぷかと浮かんでいる。
海からは爽やかで心地良い風が流れてきて、バックにある森の木々を通っていく際にさやさやと心和む音色を奏でていく。
「よっしゃ、到着じゃ。この辺りは塩の流れもそんなに早くないし泳いだかって心配ないわ。少しそこら辺で遊んどってや。」
そう言われると僕は早速服を脱いで靴を脱いで吸い込まれるように海へと飛び込んでいった。
幸い泳ぎ疲れたら陸へ上がってこれるようななだらかな浜辺もある。浅瀬が多く点在しているらしく深みもそれ程ない。
なによりこの辺りには海辺の生物が豊富にいるので好奇心が尽きることはまずないであろう。
一方おじいちゃんの方は車のトランクから古びたキャンパスや画材などを取りだしておもむろに準備を始めていた。
絵の具だけでも数え切れない程の量があり、例えば青色だけでも軽く10は超えている。
少し筆先の方が割れ始めた絵筆に絵の具を馴染ませて黄ばんできた画用紙の上へ色を置いていった。
先程まで全てを自然に委ね瞳の底から笑っていたおじいちゃんは絵筆を取ってからは鋭くなっていた。
獲物を狙っている鷹のように鋭く、そして威圧する眼差し。一見冷徹なように思われるが体の奥底からわき上がる創作への意欲が垣間見られる。
そしていつの間にか絶えず開いていた口もまた貝のように固くなっていた。
海から上がった僕は先程までと全く違うおじいちゃんの元へ歩み寄っていった。
「おじいちゃん〜、何しているの?」
「あぁ。この景色を描き残そうと思ってな。」
ふと視線を別の方へと向けるとトランクの中に大切そうに大きな風呂敷に包まれているモノを見つけた。
気になって包みを解いてみるとそこには全く同じ光景が描かれた絵が何枚もあった。他の場所で描いている絵の方が多いけれど同じ場所としか考えられない絵も複数ある。
僕は当然ながら疑問に思った。
「ねぇ、なんで同じ場所の絵を描いているの?普通は別の場所の絵を描かない?」
「はっはっは。確かにそうかも知れないな。だがワシから見れば全部違うのだよ。」
そうして風呂敷の中に隠されていた中の一枚を取り出すとそれを今描いている絵と比べられるように並べてみせた。
ちょっとした違いなのだが、岩の配置が違っていたり波の大きさが違っていたりとじっくり見てみればわかるような違いが鮮明に描き出されていた。
本当に些細な部分なのだが全てにおいて違う部分があり、僕はそれらの絵が同じ場所でも全然違うように思えてきた。
「確かに同じ風景なのかも知れない。しかし同じ風景が存在することなど有り得ないのだよ。風の音も、潮の香りも、木々のさえずりも、流れる時も。」
沖合の方から訪れた突風が私達がいる所をあっと言う間に過ぎ去っていった。その時に僕の心の中に突風からのプレゼントを授かったように感じた。
そのプレゼントは相手の名前も顔も全てわからない。だけどものすごく大切なモノだと思うけれど、みんなそれに気付かないし気付こうともしない。
みんな自分の手荷物だけで手一杯みたい。でも工夫すればその手荷物も楽に持てるようになれるのに。
僕はみんなが持っていない大切な何かを与ったみたいだ。そのプレゼントはおじいちゃんも持っているだろうし、これから後々の世代に受け継いでいってほしい。
その後1週間ほど僕とおじいちゃんの旅が続いた。
山に行ったり、川に行ったり、海に行ったりと場所を転々としたけれど非常に有意義でありなにより楽しかった。
そして僕達はいつの間にか帰るべき場所へと足が向いてそのまま進んでいた。
帰るべき場所、それは―――我が家。
家の前に車が到着すると家族総出で迎えに出てきた。
この一週間ずっと行方をくらませていた僕達を探そうと警察に相談したりあちこち探し回ったらしいけれど、結局見つけられなく自宅待機ということになった。
みんな心配していたらしく、僕の顔を見るなり突然の失踪に怒りながらも顔は涙でぐちゃぐちゃになっていた。
だけど気が付いたらおじいちゃんの車もおじいちゃんも既にいなくなっていた。
不意にいなくなったので辺りを探していると、僕のために幾つかの絵をその場に置いていっただけで何の痕跡も残すことなくまた何処かへ旅立っていった。
家族のみんなは『またどうせ帰ってくるだろう』と考えていたのだけれど僕だけはこのまま帰ってこないように感じた。
僕の予感は当たった。その後1年経っても、3年経っても、7年経っても、15年経っても帰ってこなかった。
そして時は移ろい……僕は大学を卒業する22の春を迎えていた。
桜のつぼみも開き始め、うっすらピンク色が見え隠れするようになってきた。
残雪も家の軒先や日陰になるところに所々残ってはいるのだけれど春の暖かさな日差しが徐々に辺りを包み込んできていた。
老朽化した会館の周辺には似合わないスーツを着込んだ男性や、慣れない袖振りで歩くのに四苦八苦している女性の姿が多く見受けられる。
そんな中、一人コンクリートの隙間からひょっこり顔を出して小さな花を咲かせているタンポポを見つめている僕がいた。
かしこまって退屈だった式典も無事に終わって、みんなそれぞれに別れを惜しんでいる。
でも僕だけ一人かがみ込んで道端のタンポポと話をしていた。
「ぇ?キミはまだ旅立たないの?マイペースだね。僕なんてやりたいことやり終える前に強制的に旅立たせるんだよ。酷いよね。」
父や母は兄と姉が一流企業へ就職してくれることを願い、そして二人もそれに応えようと努力した。
でも僕は自由奔放に育っていることもあったので期待はしていなく、自分の進みたい道へ進むように言っただけだった。
兄は一流の大学を卒業して、官庁への就職に不合格、さらに一流の民間企業への採用も失敗。現在三流企業へ就職。
姉は一流の大学に進学しようとしたけれど失敗。そのまま挫折して今は予備校の講師。
僕は三流の美術大学へ進学。すんなり卒業にまでこぎつけた。
結局三人の中で最も充実した生活を送っているのは僕だけみたいなんだ。
「僕はこれから絵を描きながら旅に出るんだ。日本だけでなく世界中も廻りたい。そして尊敬する人を追い越すために頑張るんだ。」
すくっと立ち上がると彼はスーツケースを右手に、画材一式を詰め込んだケースを左手に持った。
「さて、行こうかな。まずは海の見える場所へ……」
少し離れた駐車場に駐めておいた車のトランクに荷物を載せた。アルバイトをして少しずつ溜め込んだお金をはたいて買った中古車に。
座席についてネクタイを解くと助手席に放り出し、上着をハンガーに掛けて後ろの手すりに引っかけた。
エンジンを入れると年季の入った重めかしい音を立てる。ギアを変えてアクセルを踏み込むとノロノロと発進した。
そのまま出発すると、どんどん加速していってすぐにその車は見えなくなってしまった。
彼の何者にも縛られず何処にも留まらない長い旅はまだ始まったばかりなのだ――――――
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