春を照らすカクテル光線






 泉野高校。石川県金沢市にある公立の高校で、県内でトップクラスの進学校として広く知られている。偏差値の高い有名大学へ入学する生徒も決して少なくない。
 学業の面で優秀な成績を残している泉野高校であるが、この秋にスポーツ面でも注目される出来事があった。
 毎年一回戦負けの弱小野球部が、春の選抜高校野球石川県予選において、なんと準優勝に輝いたのだ。創部以来の快挙に、学校関係者や生徒・卒業生は歓喜に沸いた。
 決勝戦では国民的メジャーリーガーも輩出した名門の星城に大差で負けたものの、準決勝では近年力をつけている航空学園能登に完封勝利を収めるなど、実力校相手に互角以上の戦いを繰り広げた。
 あわよくば、このままの勢いで北信越予選に臨んで、高校球児憧れの聖地である甲子園の舞台を踏めるかも……!!と期待を膨らませる人も少なくなかった。
 しかし―――現実はそんなに甘くなかった。
 北陸三県に新潟・長野を加えた五県の成績上位校がトーナメント形式で戦う、北信越予選。北信越地区に割り当てられた出場枠は、三つ。その限られた三枚の切符を賭けて、各校が凌ぎを削るのだ。
 石川県二位の泉野高は、初戦で福井県一位の敦賀実業と対戦。過去甲子園に何度も出場しており、プロ野球選手も数多く輩出している伝統校だ。投打にバランスの取れたチームで、福井県予選でも危なげなく勝ち進み優勝している。
 対する泉野高は、徹底的に鍛え上げられた鉄壁の守備と技巧派右腕の岡野の好投で勝ち上がってきた。失点を如何に少なく抑えるかが、勝敗のポイントとなる。
 試合は一点を争う投手戦になると予想された。泉野高の先発は、エースの岡野。敦賀実業の先発は、プロ注目の絶対的エース藤原。
 初回。泉野高の岡野はスローカーブを低めに集めてゴロを打たせるピッチングで三者凡退に抑える上々の立ち上がり。一方、敦賀実業の藤原は一四〇キロ後半のストレートを主体にカットボール・カーブ・縦に落ちるスライダーを多彩に織り交ぜ、三者三振と圧巻の滑り出しを見せる。
 泉野高の岡野は再三ランナーを出すものの、要所を締めるピッチングで五回まで無失点に抑えた。それに対して敦賀実業の藤原は五回まで一人のランナーも出さないパーフェクトピッチングで、泉野高打線を完全に封じ込めていた。
 岡野の踏ん張りでどうにか持ち堪えていた泉野高だったが、攻撃の糸口さえ掴めず苦しい展開だった。
 六回表、敦賀実業の攻撃。先頭の増川がセンター前ヒットで出塁すると、続く直井が送りバントでランナーは二塁に。次のバッターをレフトフライにして二アウトとするが、続く升がレフトの頭を大きく越えるツーベースを放ち、二塁ランナーが生還。遂に試合の均衡が破られた。岡野は後続を抑え、味方の援護を待つ。
 しかし……
 八回に四番で女房役の新藤がライト前ヒットを放って藤原の完全試合を阻止したが、反撃もここまで。好投手藤原の前に手も足も出ず、一点に泣く形で泉野高は初戦で姿を消した。
 その後、北信越予選は開催県の地元・星城が優勝、泉野高を破った敦賀実業が準優勝という結果で幕を下ろした。この二校に加えて、三位決定戦に勝利した新潟名峰が春のセンバツ出場権をほぼ確実とし、敗れた航空学園能登が補欠に回る見込みとなった。
 初戦敗退の泉野高はセンバツ出場がほぼ絶望的な状況だが、ナイン達は落ち込むことなく夏を見据えて動き出していた―――

 年が明けて、一月二十六日。金沢は雪化粧で白く染まっていた。
 雪の降らない地域では冬の間もグラウンドで練習出来るが、雪国ではそうもいかない。雪に閉ざされた間の練習は室内がメインとなり、屋外と違って多くの制約がある中で練習を行わなければならない。野球に力を入れている私立の強豪校なら設備の整った専用の室内練習場で練習が行えるのでハンディは少なく出来るが、それ以外の高校では著しく影響を受けることになる。日本海側及び東北の高校が春夏通じて全国制覇を成し遂げていないのは、冬の環境による練習の差があるからと言っても過言ではないだろう。
 弱小公立校の泉野高も御多分に洩れず、他の運動部と少ない屋内スペースを分け合いながら練習に励んでいた。ボールやバットが使えない代わりに、下半身や体幹を重点的に鍛えるトレーニングで肉体強化を図っていた。
 その日、泉野高野球部の面々に、ある通達が言い渡された。
『十六時、グラウンドに集合』
 ……そんなに積雪量がないにしても、何故グラウンドに集まる必要があるのだ?首を傾げる部員も少なくなかった。
 岡野もそう感じている内の一人だった。
(……どうして、この寒い中わざわざ外に出なければいけないんだよ)
 気だるそうな表情をしながら、グラウンドへ向かう。どこか“冷めている”性格の岡野は、合理性が見出せないことに関してとことん消極的な姿勢を見せる。熱血や根性といった体育会系の特徴とは一線を画している。
 そもそも、学校側から何か言われること自体、珍しい出来事だった。万年一回戦負けの野球部に期待する者は殆ど居らず、監督と部長も野球を全く知らない素人だったこともあって、“自主性”の名の下に部員達が思いのままにやれた背景がある。
 内心不満を抱えながらグラウンドに行くと、既に他の部員が集結していたが……それ以上に目立ったのは、部外者の存在だ。
 明らかに高校生には見えない大人達がカメラ片手に何かを待っている様子。しかも、新聞社だけでなくテレビ局の腕章をつけた記者の姿もちらほら見られる。
 どうしてウチにマスコミの人々が来たのだろうか。最初は疑問を抱いた岡野だったが、すぐに氷解した。
(―――そうか、今日はセンバツ出場校の発表日か)
 本来であれば、北信越予選で一回戦敗退の泉野高がセンバツに出場出来る可能性は、限りなくゼロに等しい。それでも、泉野高には一縷の望みが残されていた。
 それは……“二十一世紀枠”
 二十一世紀最初の年である二〇〇一年から設けられた出場枠で、練習環境が整っていなかったり部員不足に苦しんでいるなど何かしらのハンディを抱えながらも奮闘する学校や、ボランティア活動等の野球以外の活動で他校の模範となる学校に、出場の機会を与えるのが目的で創設された。
 各地区毎に推薦校が選定されるが、概ね都道府県予選で準々決勝進出または同等程度の成績を残すことが条件となっている。
 泉野高は『県内屈指の偏差値を誇る進学校で、部員が主体となって練習に取り組んでいる』ことが評価され、北信越地区の推薦校に選ばれた。……後半部分に関しては単純に指導出来る人間が居ないので仕方ないだけなのだが。戦績に関しては石川県予選準優勝なので問題なしだ。
 ……身の蓋もないことを言えば、報道陣が殺到している段階で結果は推して知るべしだが。
 指定された十六時の五分前、校舎から校長がグラウンドに姿を現した。こちらはユニフォーム姿で上着を羽織ってないのに、校長はしっかり分厚いコートを着ている。
 思えば、校長がこのグラウンドに立ったのは初めてなのでは?まぁ、用事もないのに来られても邪魔なだけなんだが。
 部員達が校長の前に整列するのを確認して、校長はおもむろに口を開いた。
「先程、高野連から連絡がありました」
 そこまで言うと校長は一旦言葉を区切った。
 ……別に焦らさなくても答えは分かっているのに。岡野は寒さに震えながら次の言葉を待つ。
 部員達の顔をじっくりと確かめた後、校長はゆっくりとした口調で再び話し始める。
「センバツへの出場が……決定しました!!」
 直後、整列していた部員達から歓喜の声が上がった。隣同士で肩を組む者、天に向かって腕を突き上げる者、雄叫びを上げる者、それぞれがそれぞれのやり方で喜びを爆発させていた。
 そして、普段感情の起伏があまりない岡野もまた、珍しく表情を綻ばせて舞い込んでいた吉報に興奮していた。
(分かっていたけれど……やっぱり嬉しいなぁ)
 甲子園。高校球児憧れの聖地。その夢舞台に、立てる。
 自分が甲子園のマウンドに立っている姿を想像するだけで、体が震えてきた。叫びたい、みんなと一緒に騒ぎたい。体の内から突き上げる衝動を堪えるのに必死だった。
 形はどうであれ、選ばれた以上は全力を尽くす。冬の金沢の地で、春のセンバツに向けて強い決意を胸に刻んだ。

 時は進んで、三月十六日。開会式を一週間後に控えるこの日、世間が注目する組み合わせ抽選会が執り行われた。
 各地区の予選から選ばれた三十三校と二十一世紀枠で出場する三校の計三十六校の割り振りが決まる、非常に重要なイベントだ。
 泉野校からはキャプテンの新藤と監督の二人が抽選会に参加し、他の部員は学校で抽選結果を待つこととなっていた。
(……対戦相手、どこになるんだろう)
 前日チームメイト達と雑談している最中に対戦相手がどこになるか話題になった際には「興味ない」と話していた岡野だったが、やはり気になっている様子だった。
 授業中ながら集中が続かず、先生に見つからないようこっそりスマートフォンを確認していた。抽選結果は特設サイトにて順次更新されていく仕組みで、トーナメント表に次々と学校名が埋まっていくものの泉野高はまだ登場していなかった。
(出来れば、あまり強くない所がいいなぁ)
 甲子園に何度も出場している強豪校は、戦力面だけでなく甲子園で戦ったノウハウも持っているので手強い相手だ。無名の公立校である泉野高からすれば、全国的に知名度や実績のある強豪校は是が非でも避けたいのが本音だが……こればかりはクジを引く新藤の運次第だ。
 秋の石川県予選では、実力校が潰し合う地獄のブロックと反対側のブロックを引き当てた実績がある。その引きの良さを信じるしかない。
 ふと、スマートフォンを見ると情報が更新されていた。泉野高の結果が、出ていた。
 対戦相手は。その高校名を確認した瞬間、岡野はガクリと項垂れた。
「どうした、岡野?」
 岡野の異変に気付いたらしく、板書していた教師が声をかけてきた。
「いえ、何でもないです」
 平静を装いつつ返事を返す岡野に、教師はそれ以上詮索せず再び黒板の方を向いて続きを書き始めた。岡野も小さく溜息を一つ吐いてから板書を写すべく、ペンを取る。
 抽選の結果、泉野高は大会四日目第三試合に組み込まれた。その対戦相手は―――近畿地区代表の大阪東雲。
 野球激戦区として知られる大阪府の私立高校で、野球エリートが全国各地から越県留学で集う強豪校。数年前には春夏連覇を達成しており、昨年夏の覇者でもある。つまり、昨年夏の地方予選から秋の近畿地区予選まで、一回も負けていないのだ。
 現在の高校野球界で最も強いとする声も多く、今大会でも優勝候補筆頭に挙げられていた。
 勢いに乗っている最強と謳われる相手とは誰もが戦いたくないと考えるのだが……新藤はそこを引き当ててしまったのだ。
(よりにもよって東雲かよ……)
 この時ばかりは、新藤のくじ運の悪さを恨むしかなかった。

 三月十九日。泉野高ナインは、憧れの聖地・甲子園に立っていた。
 十八日から二十日までの三日間、センバツに出場する高校が順次公式練習を行うことになっている。ただ、三日間で全三十六校が練習するには時間的制約があり、各校与えられた時間は僅か三十分だけだ。
 それでも、岡野は夢の舞台を踏めたことに心の底から感動していた。
(……夢、じゃない。これが、あの、甲子園……)
 野球を始めた頃から、高校野球の試合をテレビで見ていて「いつかあそこに立ちたい」と思った回数は数知れず。しかし、それは妄想のようなもので、自分がその場所に立てるとは思っていなかった。地方予選一回戦も勝てない万年弱小校の泉野高で「目標は甲子園!」と息巻いても、夢物語だと笑われるのは分かっていた。
 その夢物語がまさか実現するとは、想像もしていなかった。
 内野の土を、スパイクでグッと踏み締める。確かな感触が感じられる。これは夢でも妄想でもない、紛れもない現実だ。本当に甲子園に居ると確信した瞬間から、喜びが胸の内からじわじわと込み上げてきた。
「投内連携やるぞー! 外野はキャッチボールしながら待機!」
 キャプテンの新藤が呼び掛ける声で、岡野は我に返った。
 感慨に耽るのは後でいい。まだまだ夢は終わらないのだから。
 自らのグラブを右拳で叩いて気合を入れる。今は目の前の練習に集中だ。
 甲子園のマウンドの感触を入念に確かめていたら、あっと言う間に持ち時間の三十分が来てしまった。夢の中に居るような気分だったが、また同じ場所に立てる機会は残されている。名残惜しい気持ちに後ろ髪を引かれつつ、岡野はマウンドから下りて片付けに入った。

 三月二十三日。遂に、待ちに待った日を迎えた。
 選抜高校野球大会の開会式が執り行われ、夢の舞台が華々しく幕を開けた。
 入場行進では初出場の泉野高ナインも一糸乱れぬ行進を見せた。前々日からこの日の為に入場行進の練習をしてきた努力が実を結んだ。
 滅多なことでは緊張しない岡野も、今日は明らかに緊張した面持ちをしていた。手と足が揃って出てないか、チームメイトの動きとズレてないか、顔やユニフォームに何か付いていないか。様々なことで頭が一杯になり、とても楽しむ余裕など無かった。
 それでも、内外野を埋め尽くす超満員の大観衆から送られる拍手や歓声を浴びて、今までに経験したことがないくらい興奮していた。テレビの中の世界に、自分が立っている。全方位からスポットライトで照らされている。そう思うだけで、無性にワクワクしてきた。
 参加校三十六校の入場が無事に終わり、各種セレモニーに移る。国歌斉唱、各種来賓の挨拶、選手宣誓の後、大会の開会が宣言された。
(……いよいよ、始まるんだな)
 事前の公式練習の時もどこかふわふわと体が浮いているような感覚だったが、開会式に参加したことでようやく地に足がついたような気がする。これから始まるんだと気合が入ると共に、意識の外にあった現実が思い起こされてきた。
(あの東雲と、対戦するのか)
 昨年夏の優勝した時のメンバーも今回の大会でも名を連ねており、控えの層も厚い。相撲で例えるならば、大阪東雲が横綱で泉野高は前頭、いや十両か。実力差は一目瞭然、鎧袖一触で吹き飛ばされるのは明らかだ。コールドが無いので、どれだけ点差が開いても九回まで続く。嬲り殺しに遭う可能性も十二分に考えられる。
(……止めだ。始まってもいないのに負けることを考えてどうするんだ)
 想像が悪い方向へ傾いていたので、一旦リセットする。悪いイメージは無意識の内に肉体へ波及して、想像が現実のものになることも多々ある。邪念を振り払おうと、空へ目を向けた。
 淡い水色の海に、純白の雲が幾つか浮かんでいる。陽の光も柔らかく、とても心地いい。三日後の試合も、こんな気持ちのいい中でやりたいな、とぼんやり思った。
 そうこうしている間に、開会式が終わった。いよいよ、熱戦の火蓋が切って落とされようとしていた―――

 開会式に参加した泉野高ナインは、午後から宿舎の近くにあるグラウンドで練習を行った。ウォーミングアップを終えたら、実戦形式の守備練習に入る。投手が投げた球を打者が打ち、野手が打球を処理する。野手も投手も入れ替わりで行い、試合勘を取り戻すのが狙いだ。
 岡野も新藤とバッテリーを組み、テンポ良く投げ込んでいく。変化球も交えながら、バッターを次々と打ち取る。
 一時間程続けると部員達は皆揃って額に汗を浮かべていた。そのタイミングで休憩に入った。
「なぁ、新藤」
「んー?」
「東雲を想定した練習だと思うけど、こんなんで大丈夫なん?」
 岡野は素朴に抱いた疑問をぶつけた。
 東雲のエースは最速一五五キロの豪速球と落差の大きいフォークで三振の山を量産していく本格派。対する岡野は、最速一三〇キロ台のストレートと八〇キロ台のスローカーブの緩急を軸に打たせて取る技巧派。根本的にタイプが全く異なるのだ。
 また、大阪東雲の打者と比べて泉野高の打者のレベルも格段に劣るので、今抑えられても何ら意味が無いのではないか。
 すると新藤は事も無げに返す。
「平気、平気。生きた打球を捌くのが今日は目的だから」
 ノックなど通常の守備練習ではノッカーが打った打球を捌くことになるが、どうしても打者が打ち返した打球とは性質が違ってくる。どんなにハードな守備練習を行うよりも、実践形式の守備練習の方が感覚を取り戻すには適していると言うのだ。
「そういうものなん?」
「そういうものや」
 新藤からそう言われると、何だかそんな気がしてきた。リトルリーグ・中学軟式と野球エリートの道を進んできた新藤の言葉には重みがあった。野球未経験者で引率と見守りがメインの監督とは訳が違う。
 その才能を求めて県内の強豪校だけでなく県外の名門校からも幾つかオファーがあったとされ、実際ドラフトで指名されても不思議でない程の逸材だった。さらに品行方正、学業優秀、イケメンと非の打ち所がない。全くもって羨ましい。
 本人もプロ野球選手になる夢を叶えるべく野球の強い高校へ進学したかったが、両親の強い反対を受けて泉野高を選んだ経緯がある。それでも長年の夢を諦めきれず、高校でも野球部に入って野球を続けてきた。
 大黒柱としてチームを引っ張るだけでなく、練習メニューの作成やチームメイトへの指導などプレー以外の面からも支えてきた。このチームは文字通り“新藤のチーム”なのだ。新藤が抜けた途端、魔法が解けるように元の万年一回戦負けの泡沫チームへ転落する。
「それより“あのボール”、良かったよ」
 新藤が口にした“あのボール”とは、北信越予選に敗退した後から取り組んでいる球種のことだ。本来ならば夏の大会を想定して取り組んできた秘密兵器だったが、二十一世紀枠でセンバツ出場が実現したことで、急遽予定を前倒しして精度を高めてきた。
 今日岡野が投げてみた感覚は、自分が想像していた以上の出来だった。受けていた新藤も同じように感じていたのであれば、自分の感覚が間違っていなかったことになる。
「じゃあ……」
「あぁ。東雲戦でも使えそうだ」
 司令塔である新藤から太鼓判を押された。即ち、合格ラインに達した証だ。完成した喜びよりも間に合って良かった安堵の方が大きかった。
 これで、多少は対抗出来る。岡野は新たに手に入れた武器に、少しだけ希望を見たような気がした。

 三月二十七日、大会四日目。泉野高ナインは決戦の日を迎えた。
 空には一面青空が広がり、一日通して晴れの予報が出ている。気温も二十度前後と過ごしやすい予想となっている。野球をやるには絶好のコンディションと言えそうだ。
 しかし……泉野高ナインは思いも寄らぬ展開に巻き込まれることとなる。
 第一試合。宮城県の仙台才英と熊本県の熊本実業の試合。一回表に仙台才英が三点先制するも、その裏熊本実業はすぐさま同点に追いつく。その後もお互いに点を取り合う乱打戦の様相を呈した。八回裏を終えて七対五と熊本実業が二点リードして九回表に入る。
 後がない仙台才英はノーアウトから連打で一二塁のチャンスを作り、続くバッターが左中間を破る痛烈な打球を放ち、同点に追いついた。さらにノーアウト三塁と一打出れば勝ち越しの状況で、レフトへの犠牲フライ。仙台才英がこの回一気に逆転に成功する。
 試合を引っくり返されて迎えた九回裏、熊本実業の攻撃。二者連続三振で二アウトと追い込まれるが、次の打者が起死回生の同点ホームラン。値千金の一発で試合は再び振り出しに戻った。
 十回表、一アウト三塁の場面で意表を突くスクイズ。これが決まって仙台才英が勝ち越しに成功する。それでも十回裏に熊本実業は二本の長打で同点に追いつき、がっぷり四つの状態が続く。
 十一回は両軍無得点に終わり、十二回の攻防に移る。
 今大会からはタイブレーク制が導入され、延長十二回で決着がつかなかった場合には十三回からノーアウト一二塁の状況から攻撃が始まることになる。このまま史上初のタイブレークへ持ち込まれるのか……!! 大観衆が息を呑んで見守る中、またしても試合が動いた。
 十三回表。仙台才英の先頭打者が四球で出塁すると、続くバッターが失投を見逃さずフルスイングした打球はライトスタンドへ。ツーランホームランで二点勝ち越した。
 今日何度目かのリードを許す展開ながら、熊本実業も諦めていない。その裏、四球とヒットで一三塁とし、続くバッターがライト線を抜けるタイムリーツーベースで一点を返す。ノーアウト二三塁と絶体絶命の大ピンチとなった仙台才英だが、三振とショートフライで二アウトまでこぎつける。一打出れば熊本実業の逆転サヨナラ、抑えれば仙台才英の勝利。熊本実業はここでベンチ入りメンバー最後の野手を代打に送り、勝負に出る。
 一ボールからの二球目。内角のストレートを弾き返した打球は、ショート正面のゴロ。大多数の観衆はこれで勝負は決まった―――と思った。
 だが、落ち着いて捌いたショートが送球したボールは、ファーストの手前でイレギュラーに跳ねた。慌ててファーストがボールを収めようとミットを差し出すも、無情にも白球はファーストの頭を大きく越えていった。その間に二塁ランナーが生還。その瞬間、熊本実業の逆転サヨナラ勝利が確定した。
 試合時間四時間を超える死闘は、劇的な幕切れで決着した。試合終了直後、打球を処理したショートがあまりのショックに泣き崩れ、チームメイトが両脇を支えるように退場していく姿は、多くの人の心を揺さぶる名シーンとなった。
 予定開始時刻より一時間以上遅れて始まった、岐阜県の美濃商と佐賀の佐賀大付の第二試合。両チーム共に立ち上がりを三者凡退に抑え、第一試合と違い静かな幕開けで始まった。
 その後も互いに得点圏までランナーを進めるもののあと一本が出ない状態が続き、スコアボードに次々とゼロが並んでいく。
 一方、第三試合の泉野高ナインは、目前に迫っている試合に備えて甲子園球場の室内練習場で準備運動を始めていた。先発を託された岡野も体を動かして、試合開始の時を待つ。
 大一番を前にしても、岡野は緊張していなかった。公式戦初登板だった県予選一回戦の時も、北信越予選出場が懸かる県予選準決勝の時も、自分にとって未知の領域だった北信越予選一回戦の時も、緊張したことは無かった。ただ、今までと比べて重圧は遥かに掛かる状況なので、自分でも多少はワクワクやドキドキがあると思っていた。でも、いざ本番が差し迫った状況に置かれても、拍子抜けするくらいにフラットな精神状態だった。
 室内練習場に据えられたモニターには、テレビの中継映像が流れている。試合は五回裏まで進み、両者無得点のままだ。
 六回表、美濃商の攻撃。一アウトから四球と盗塁でランナー二塁、さらにセカンドゴロの間にランナーが三塁に進む。次の打者がピッチャー強襲のセンター前ヒットを放ち、美濃商が先制点を挙げた。六回裏、七回裏と佐賀大付は三者凡退に抑えられ、このままの展開だと美濃商が逃げ切る……と予想する人も多かっただろう。実際、室内練習場で出番を控えている泉野高ナインも、試合に向けて最終調整の段階に入っていた。
 しかし……八回裏、二アウトながらランナーを二塁に置いた場面。バッターの打ち上げた打球は、フラフラとセカンドの後方へ飛んでいく。完全に打ち取った当たりだったが……セカンドとライトの間にポトリと落ちた。スタートを切っていた二塁ランナーは三塁を蹴り、一気に生還した。これで試合は振り出しに戻った。
 登板に向けて肩を作っていた岡野は、同点に追いついたのと同時に急遽ペースを落とした。体を冷まさないよう配慮しながら、モニターに映し出される試合の行方を注視する。
 九回の攻防でも決着はつかず、本日二度目の延長戦にもつれ込んだ。
 美濃商も佐賀大付も再三チャンスを作るものの、得点に至らない。試合は膠着したまま十二回を終え、遂に史上初のタイブレークへ突入する。
 十三回表、ノーアウト一二塁で美濃商の先頭打者が打ち返した打球は、右中間を切り裂くタイムリースリーベース。さらに犠牲フライで追加点を挙げ、点差を三点に広げて攻撃を終えた。
 その裏の佐賀大付の攻撃。先頭打者が放った痛烈な打球はピッチャーの脇を過り、センターへ抜ける……と思われた。直後、美濃商のショートが飛び込み、打球はショートのグラブに収まった。それをセカンドへトス、さらに一塁へ転送してダブルプレーが成立。ノーアウト一三塁と絶好のチャンスだったが、ワンプレーで二アウトと逆に追い込まれた。
 それでも続く打者がライト前ヒットで一点を返して意地を見せるも、反撃はここまで。最後はセンターフライに打ち取り、試合終了。三時間半に及ぶ熱戦に終止符が打たれた。
 第二試合の終了を見届けた岡野は、待ちに待った出番を前にして別のことに考えを巡らせていた。
(……これは、ナイターになるかな)
 時刻は十六時五十五分。試合開始は十七時を過ぎるのは間違いない。そうなれば日没までに試合が終わる可能性は限りなくゼロに等しい。当初第三試合は十四時半開始予定の見込みだったが、前の二試合がいずれも大幅に延びたことが影響して、センバツでは異例のナイターに突入するのはほぼ確実な状勢だ。
 予定から大幅にずれ込んだ為にコンディションはどうか、人生初のナイターでどうなるか、と不安は多々あるが、それでも岡野は試合前からワクワクしていた。
(甲子園で、ナイター。まるでプロ野球みたい)
 極めて異例な状況下にありながら、そんなことを考えていた。能天気かも知れないが、あれこれ心配して萎縮するよりはマシだと割り切っていた。
 思っていたよりかなり遅れてしまったが、遂に幕が上がる。その時に向けて、着々と準備を進めていった。

 第二試合で戦った両校が退場するのと入れ替わりに、第三試合で対戦する泉野高と大阪東雲の両校がグラウンドに入場する。グラウンドキーパーが試合開始に向けて懸命に整備する中、先攻の大阪東雲は素振りで、後攻の泉野高はキャッチボールで、それぞれのベンチ前で体を動かしてその時を待つ。
 登板を控えている岡野も、最終調整のためチームメイトを相手に軽めのキャッチボールで仕上げに入る。いつ試合が終わるか見当がつかず、コンディションを整えるのは難しかったが、肩はまずまずの仕上がりでホッとする。
 グラウンド整備がいよいよ佳境に迫ろうとする中、キャプテンの新藤がナインを集めて円陣を組む。真ん中に立つ新藤が、おもむろに話し始めた。
「みんな知っていると思うが、テレビも新聞もネットも東雲の勝つと予想している」
 プロの解説者から高校野球ファンに至るまで、王者大阪東雲の勝利はまず間違いないとする見方が大勢を占めている。一方の泉野高は悲観的な意見ばかりで、中には一切触れられていない記事もあった。その事実は泉野高ナイン全員が知っていた。
「誰も俺達が勝つと思っていないのなら、俺達に期待していない奴等を見返してやろうぜ!」
 新藤の檄に全員が「オウ!」と応じる。そうだ、俺達は負けに来た訳じゃない、勝ちに来たのだ。例え圧倒的な戦力差があろうと、誰も勝ちを望んでいなくても、勝ちたいんだ。
「やるぞ!」
「オー!!」
 キャプテンの一声で、チーム全体の士気が鼓舞された。やってやろうじゃないか、史上最大の大番狂わせを。体育会系の熱っぽさに欠ける岡野も、この日ばかりは周りの熱に感化されたか、闘志を滾らせていた。

 内野の土に水が撒かれ、ラインパウダーで線が引かれていく。グラウンド整備もいよいよ佳境に入った。両校ナインもベンチ前に並び、試合開始の時を今か今かと待っていた。
 テレビや新聞、ネットの予想では“大阪東雲圧勝”とする見方が九割九分、唯一石川の地元新聞社だけが“諦めなければ勝機は必ずある”と半ば自棄[やけ]っぱちな見方をしていた。特に関西メディアは大阪府代表の大阪東雲を応援する色合いが強いのは理解出来るが、全国展開している大手メディアから見放されているのは流石に堪えるものがある。
 でも……みんなが大阪東雲の勝利を望んでいるとしても、負ける気は一切無い。
 驚かせてやる。下馬評を覆してやろうじゃないか。
 そうこうしている内に、審判団が裏から出てきた。グラウンド整備も完了しており、決戦の舞台は整った。
 どんな結末が待っているか想像がつかない。試合終了のその時、自分は笑っているか泣いているか。どうせやるなら、悔いが残らないよう全力を尽くそう。
 そして……ほぼ同時に両校ナインがホームへ向けて走り出した。審判団も駆け足で近付いてくる。
 大観衆の拍手を受けながら、両校ナインがホームベースを挟んで整列する。
(……オーラが、違う)
 間近で大阪東雲の選手を見たが、みんな自信に満ち溢れているように感じた。これが全国制覇を成し遂げた者の風格なのか。
 それでも……怖じ気づいたり怯んだりする気持ちは無い。相手は同じ高校生なのだ。必ずどこかでチャンスはあるはずだ。
「お互いに、礼!」
「「お願いします!!」」
 主審の一声で両校ナインが頭を下げる。直後、場内から再び拍手が湧き起こった。予定していた時間から大分遅れたが、いよいよ試合が始まろうとしていた。

『先に守ります、泉野高校の守備を……』
 ウグイス嬢の場内アナウンスが流れる中、後攻めの泉野高ナインがそれぞれの守備位置に散っていく。先発を託された岡野も、ゆっくりとした足取りでマウンドの傾斜を登っていく。
 綺麗に均されたマウンド。誰の足跡もついていない真っ新[まっさら]なマウンドに登れるのは、後攻めの先発ピッチャーだけの特権だ。岡野は一度帽子を脱いで一礼してから、プレートに立つ。
 バックネット裏から内野スタンド、外野スタンドまでぐるりと見渡せば、人で埋め尽くされている。これだけの観衆が見守る中で野球をやるのは、生まれて初めての経験ではないだろうか。
 刹那、体が震えた。心臓がバクバクと激しく脈動して、息が苦しい。
(落ち着け……落ち着くんだ)
 岡野は懸命に自分へ言い聞かせるように心の中で繰り返す。目を瞑り、ゆっくりと深呼吸する。異様な雰囲気に呑み込まれないよう、普段のルーティーンを行う。
 吸う、吐く。吸う、吐く。……よし、何とか落ち着いてきた。
 瞼を開けると、視線の先にはどっしり腰を下ろした新藤が両手を広げて待っている。この大舞台でも新藤はいつも通りだ。その姿を見て、少し安心した。
 グラブに収めておいた白球を手に取る。新品同様の、真っ白なボール。普段の練習で触っている、汚れが染み付いて使い古されたボロボロのボールとは全然違う。その感触を楽しむように、掌の中でコロコロと弄ぶ。
 十二分に感触を確かめてから、投球練習に入る。まずは八割程度の力でストレートを投げ込む。手元から離れた白球は真っ直ぐ新藤の構えたミットの中へ吸い込まれた。感覚は、悪くない。肩の状態もまずまずといった所か。
 その後も規定の投球数に達するまで黙々と投げ込む。投球練習が終わるのを見届けた主審がプレートにかかった土をブラシ丁寧に払い、ホームプレートの方へ駆けて行く。
『一番 セカンド 中居君』
 ウグイス嬢のアナウンスが流れると、バッターズサークル付近で投球練習を見ていた中居がゆったりとした歩みでバッターボックスへ近付く。
 ヘルメットの庇に手を添えて主審に頭を下げると、中居は左打席に入って手にしていたバットを構える。
「プレイ!!」
 主審が高らかに試合開始を宣告した。直後、サイレンが球場内に鳴り響いた。
 さあ、勝負の始まりだ―――!
 岡野は一つ息を吐いてから、両腕を大きく上げる。左足を上げて一度タメを作り、そこから右腕を体の横から思い切り振り抜く。
 試合開始を告げる運命の第一球は……一度ふわりと舞い上がり、頂点に達した後は重力に逆らうことなく新藤のミットへ落ちていった。意表を突かれた中居は呆然と見送るしかなかった。
 このボールは岡野の代名詞であるスローカーブではない。名前も無い、ただの棒球だ。
「ストライク!!」
 山形[やまなり]の軌道を描いたボールはストライクゾーンのど真ん中を通過していた。主審は声を大にしてストライクとコールする。予想外の一球に球場内は大きくどよめいている。
 この奇襲作戦は、バッテリーの二人が事前に相談して決めていたことだった。
 投手の心理として、入り始めの第一球はストレートを選ぶ確率が高い。試合開始の初球から積極的に振ってくる打者が少ないのもあるが、一つ目のアウトを早く取りたい気持ちが強い。
 想定外の一球にも打席に立つ中居に表情の変化は見られない。やはり頂点を極めた大阪東雲でレギュラーを掴み取った人は違う。揺さぶりにも動じる気配は微塵も無い。
 さて、ここからだ。初手はこちらが取った。次はどう攻めるか。
 マウンド上から待っていると、新藤がサインを送ってきた。岡野はそれに頷いてから投球動作に入る。
 要求されたのは外角高めへのストレート。中居も今度はバットを出してきたが、打球は前に飛ばずバックネットに直撃する。
 カウントは二ストライク。まずは追い込んだ。それでもバッテリーは気を緩めず、テンポ良く投げ込む。
 三球目は外角低め。中居も再度打ちに来た。しかし、白球は中居から逃げるように沈んでいき、バットに当たったものの僅かに芯から外れた。打球はショート正面に転がり、それをショートが落ち着いて捌いて一アウト。
 一つ目のアウトを取れたことで、岡野は凝り固まっていた体が解れたように感じた。先頭打者を打ち取ったのもあるが、左打者を抑えたことの方が大きかった。
 昨年秋の石川県予選を終えた後、岡野は新藤から指摘されたことがあった。
 それは―――左打者の対戦成績が目に見えて悪いこと。
 早いストレートもウイニングショットと呼べる変化球も無い岡野は奪三振を望めない。そのため、制球と緩急を駆使して凡打を誘う戦法が基本となる。サイドスロー自体珍しいこともあり、右打者が相手なら詰まらせたり打ち損じさせたりで比較的抑えられることが出来た。その一方で左打者の被打率が対右と比べて明らかに悪かった。
 要因は幾つか考えられる。右打者の視点からはリリースギリギリまで腕が見えないのに対して、左打者の視点からはボールの軌道や腕の振りが見えやすいこと、左打者のインコースを攻める球種を持っていないこと、等々。
 大阪東雲はスタメン九人の内、六人が左打者という構成。左打者を如何に抑えるかが試合の鍵となる。
『二番 キャッチャー 城島君』
 二番打者の城島が右打席に立つ。直後、三塁側のアルプススタンドからブラスバンドの大合奏が湧き起こる。
 近畿勢は地理的要因から、応援に訪れる人数が圧倒的に多い。勿論一塁側のアルプススタンドには地元石川から全校生徒のみならず卒業生も加わった大応援団が陣取っているが、それでも球場全体では大阪東雲を応援する観客が多数を占めているため、若干押されている感がある。
 おいおい、完全にアウェーじゃないか……。マウンド上の岡野は心中で自嘲する。
 この異様な雰囲気に萎縮したり浮ついたりしても不思議でない状況だったが、岡野は全く場に呑まれていなかった。
(そういえば誰かが言ってたっけ。“敵方の応援は自分への応援に置き換えろ”って。正しくその通りだな)
 岡野は体育会系特有の“熱血”や“根性”といったキーワードとは対極にある性格の持ち主だった。周囲が特定の方向へ一丸となって走っていても、岡野は一人引いた所から傍観しているような人だった。“冷めている”と言えばそれまでかも知れないが、周りに流されないだけ気持ちの制御が上手いということだ。
 ゆっくり間合いを取ってから投球に入る。初球の膝元へ沈み込むシンカーを打ち上げた。小フライとなった打球は三塁ベースの横付近でサードが危なげなくキャッチした。これで二アウト。
 ここまで順調に来た。ただ、ここからが正念場だ。
『三番 センター 木村君』
 アナウンスされた直後、三塁側のアルプススタンドから大音量の黄色い歓声が上がった。アイドル顔負けのハンサムボーイがバッターズサークルから歩み寄ってくる。この木村こそ、今日最も警戒すべきバッターだ。
 総部員数二百人を超える大阪東雲において一年の夏からレギュラーに抜擢され、昨年夏にはクリーンナップの一角を任されて全国制覇にも大きく貢献した。プロのスカウトも注目しており、来年のドラフトの目玉になると期待されていた。
 大阪府予選・近畿地区予選を通じて打率六割七分、ホームラン七本と大当たり。おまけに選球眼も良く四球も選べるし三振も少ない。さらに盗塁も六つ記録しており、塁に出てからも気が抜けない。
 大歓声に背中を押されるように悠々とした足取りで左打席に入ってくる。打席に立っているだけで大打者が醸し出すオーラが全身から漂わせていた。
 木村の名前は知っていた。甲子園での活躍がテレビや新聞などで取り上げられるのを、目で見て耳で聞いていた。ただ、それはあくまで自分とは関係のないと捉えていた。地方予選で一回戦も勝てない弱小校でレギュラーにもなれてない自分が、こんな雲の上の人と同じ舞台に立つなんて有り得ないと信じて疑わなかった。そんな人物と、十数メートル挟んで今対峙している。
 正直、怖い。凡人には到底敵わない相手だと分かっている。出来ることなら勝負は避けたい。でも、後ろに控えているのは木村に勝るとも劣らない実力を有する強打者達。逃げるという選択肢は端から存在していないのだ。
 ならば……逃げられないなら玉砕覚悟で真っ向勝負するしかない。
 半ばヤケクソ気味に開き直ると、呼吸を整えて投球動作に入る。
 初球。木村の腰付近から膝元へと内に入るシンカー。これを木村は見送り、ストライク。
(……よし!)
 昨年秋に用いたフロント・ドアが決まると、岡野は内心でガッツポーズした。以前は三割程度の成功率だったが、何度も繰り返し練習を重ねて成功率を六割程度まで向上させた。ストライクゾーンの出し入れを身に着けたことで、投球の幅が広がったことになる。
 気を良くした岡野は続けて外角低めの隅を狙ってストレートを投げる。入るか入らないか際どいコースだったが、主審の腕が上がった。正直ボールと判定されても致し方ないと思っていたが、思わぬ形で追い込んだ。
 新藤がサインを出してきた。―――例のアレだ。秘密兵器を惜し気もなく投下して一気に勝負を決める算段のようだ。
 高鳴る鼓動を懸命に抑え、意識を集中させて投球動作に入る。右腕を鞭のように撓らせ、渾身の一球を放つ。
 内角高めへ来たボールに木村は打ち返すべくバットを振ってきた。刹那―――ホームベースの手前でボールが内へ切り込んできた。
 木村のバットに当たった打球は、鈍い音の後に勢いなくフラフラと舞い上がった。セカンド方向へ飛んだ飛球をキャッチすべくセカンドが走る。
 だが……思った以上に打球は伸びていく。セカンドもまだ落下地点に入れておらず、懸命に追いつこうと駆ける。宙を舞っていた白球が落ちてきたが、まだセカンドは足を止めない。
 最後の最後、一縷の望みを託してセカンドが飛び込んでグラブを伸ばしたが―――無情にも白球は芝生に落ちた。
 どん詰まりの当たりがヒットになった。その結果以上に岡野は衝撃を受けていた。
 相手の裏をかいた新球種は嵌まっていた。咄嗟に肘を畳んで合わせたが、それでも芯を外した打球は完全に殺されていた。誰もが内野フライになると思った打球がポテンヒットになったのは……スイングスピードの早さと、強引に運べるだけのパワーがあったから。これが真芯で捉えられたらどれだけの飛距離になるか……と想像しただけで背筋が凍る。
 初ヒットが出て歓喜に湧く三塁側アルプスの大声援も、岡野の耳には届いていなかった。
「しゃーないしゃーない! 切り替え、切り替え!」
 ショートから励ます声が掛かり、岡野は我に返った。そうだ、試合はまだ始まったばかりだ。一々落ち込んでいたら気が保たない。
 完全試合もノーヒットノーランも露と消えたけど、まだ完封が残っている。自分の実力を鑑みれば「何を勘違いしているんだ」と突っ込まれそうだが、発想を思い切って転換させることで気持ちを立て直すことが出来た。
 まだ続く歓声とブラスバンドの演奏で場内は盛り上がる中、四番打者の松岡が左打席に入ってくる。この松岡も一年生ながら昨年夏の大会ではベンチ入り、秋の大会からチームの四番を任された。両打ちでありながら打率六割超、ホームラン六本と当たっている。隙の見当たらない強打者で警戒が必要だ。
 俊足の木村が塁に出た。初回から積極的に走ってくることも当然考えられる。岡野はランナーを二度見て木村を牽制する。新藤も木村を警戒しているらしく、初球は外角高めに外すストレートで様子を見ることに。
 投球動作に入る。直後、新藤が腰を浮かせた。走った!岡野も思い切り外す。
 立った状態でボールを受け取った新藤が即座に二塁へ送球する。矢のような送球がノーバウンドで二塁に達したのと木村が二塁へ滑り込んだのは、ほぼ同時だった。
 かなり際どいタイミングだが、果たして判定は……!?
「―――アウト!!」
 塁審の手が上がる。その瞬間「あぁー」と落胆の溜息が球場内のあちこちから漏れる。
 ベンチへと引き揚げていくナインが目の覚める送球でピンチの芽を摘んだ新藤を称賛するが、当の本人と岡野だけは険しい顔をしていた。
 クイックモーションも上手くいった、直球も完璧なコースへ投げ切れた、捕球から送球まで無駄なく動けた、送球自体も申し分ない……これだけ好条件が揃っていたにも関わらず、紙一重の差でアウト。分かっていたつもりだが、改めて木村の実力を見せつけられた気分だ。
 表現するなら、“怪物”。その怪物を今後どうやって抑えればいいか、想像もつかなかった。

『後に守ります、大阪東雲の守備を紹介します……』
 場内アナウンスでポジション順に名前が読み上げられていく。その中で今日大阪東雲の先発投手・長瀬が投球練習を行う。
 長瀬は一年生ながら秋の大会からエースナンバーを託された。一九〇センチを超える長身から繰り出される最速一五六キロのストレートとツーシーム、それに落差の大きいフォークを武器に奪三振を取るスタイルの本格派だ。細かい所を狙わず力で捻じ伏せるタイプと言えよう。
 泉野高の切り込み隊長である樫野、続く西脇と大本が長瀬の投球を食い入るように見つめている。いや、“見ている”と言うよりかは“呆然と眺めている”と表現した方が正しいか。
 何度か一四〇キロ中盤のストレートを投げるピッチャーを対戦してきた経験はあるが、一五〇キロ超の投手は初めてだった。十キロ増えるだけで次元が違っていた。体感速度ではもっと早いように映る。
 長瀬のストレートはは常時一五〇キロ前後。普段練習で使用している打撃マシン(北信越予選進出のお祝いに学校から進呈されたのだが、予算の都合上他校が買い替えた際に使わなくなった中古を譲ってもらった)の上限は一四〇キロなので、ストレートの早さに目が慣れるまで一巡目は捨てたも同然か。
 そして長瀬の投球練習が終わり、いよいよ泉野高の攻撃が始まる。
『一番 レフト 樫野君』
 樫野はチーム一の俊足で、おまけに選球眼も良く小技も利く。内野安打も期待出来るので、切り込み隊長の役割を任されていた。
 初球。長瀬の躍動感溢れる投球フォームから放たれたストレートは若干高めに浮いたが球威に押される形で樫野が空振り。球速は一四七キロ。
 スコアボードに表示された球速の数値を目にした新藤が眉をしかめた。二球目もストレートだったが空振り。あっという間に追い込まれた。
 三球目。外角低めへのストレート。樫野は自信を持って見送る。コースギリギリのボールだったが、果たして判定は……?
『ストライクアウト!!』
 主審の腕が上がる。ストライク判定に樫野も思わず天を仰いだ。
 最後のボールも球速は一四五キロ。自己ベストからおよそ十キロも遅い。その数値を見て新藤の表情が曇った。
 二番の西脇、三番の大本も三球三振に仕留められ、泉野高の攻撃は呆気なく終わってしまった。九球全てストレートだったにも関わらず、一球もバットに当てられなかった。
 ……元々打撃面は壊滅的に弱いので、落胆はしていない。味方の援護が来るまで粘る。いつもと同じように投げ続けるのみだ。大本の三振を見届けた岡野はゆったりとベンチから出て行った。

 二回表。木村の盗塁死で先程のイニングは攻撃終了したので、打順は引き続き松岡から始まる。
 入手出来る範囲のデータから新藤が分析した傾向によると……特定のコースや球種を苦としておらず、右・左打席で成績が変わることもない。コース次第で引っ張りも流し打ちも柔軟に対応することが可能。それに加えて一発狙いも単打狙いも使い分けられる。なかなかに厄介な相手だ。
 どう攻めるか。岡野の答えは決まっていた。『余計なことを考えず、新藤のサイン通りに投げる』その一事に尽きた。
 初球。内角高めのストレート。松岡はこの球を捉えたが、打球は右に大きく逸れて一塁側の内野スタンドに飛び込んだ。
 一度目にしたとは言え、ほぼ初見のストレートを完璧に捉える適応力は大したものだ。流石は全国制覇を成し遂げた大阪東雲で四番を任されるだけはある。
 ここで新藤は再び例のアレを要求してきた。岡野は了解の意味を込めて頷く。
 投じたのは先程と同じ内角高めのコース。松岡も再度ストレートのタイミングに合わせてスイングしてきた。
 しかし―――ベースの手前でボールは内に切れ込むような変化を見せた。バットには当たったものの、打球は上がらず痛烈な打球がファースト方向へ転がっていく。正面で捕球したファーストがそのまま自らベースを踏んで、一アウト。松岡は悔しそうな表情を浮かべてベンチへ戻っていった。
 一方の岡野は、満を持して披露した秘密兵器でアウトが取れて安堵した表情をしていた。
 苦手としていた左打者対策に習得した新球種、それは―――スライダー!
 右打者からは逃げていく軌道で変化するスライダーは、サイドスローの投手が用いるとオーバースローやスリークォーターの投手と比べて打ち辛いと言われている。体の横から投じられる上に横方向の変化が加わることで、ボールのキレが増すように感じるためだ。
 右投手が左打者を打ち取るのに代表的な球種として挙げられるのは、カットボールだ。スライダーと同じ軌道だが、ストレートに近い球速で打者の手元で急激に変化するため、打者は対応出来ず凡打を打たされてしまうのだ。岡野のスライダーもカットボールの軌道と酷似していた。変化する幅は小さいので空振りを奪うのは難しいが、芯を外す程度は期待出来る。木村には強引に外野まで運ばれてしまったが、引けを取らない実力者の松岡は抑えられたことで、岡野のスライダーが通用することを証明した。
『五番 ショート 稲垣君』
 岡野が確かな手応えに自信を深めていると、稲垣が左打席に入ってきた。
 稲垣は典型的な巧打者タイプのバッターだ。バットコントロールに優れ、ミート力も非常に高い。柵越えは望めないが長打を打てるだけの技術は有している。木村・松岡の両者が返し損ねたランナーを稲垣が返すこともあれば、木村・松岡がランナーとして出塁した後に稲垣が返すこともある。稲垣が五番に据わることで打線に厚みを増しているとも言えよう。
 初球。新藤は外角に逃げていくシンカーを要求してきた。一回表に先頭打者の中居を打ち取った時のように凡打を誘うのが狙いだ。岡野も最悪歩かせても良いと割り切って考えているので、思い切って腕を振ることだけ意識した。
 岡野が投じたボールは外角低めのコースから沈むようにストライクゾーンの外へ逃げていく。ほぼ新藤の構えた場所に投じることが出来た。
 しかし―――稲垣は体勢を崩しながらバットを出し、さらに届かないと悟った直後には左手をバットから離した!
 右手一本でバットに当てた打球は、サードの頭を越えてレフト線ギリギリに落ちた。打球の行方を確かめた稲垣は一塁を蹴って二塁に悠々到達した。
 体勢を崩され、尚且つ片手一本で芸術的な流し打ちを放つあたり、流石は大阪東雲でクリーンナップを任されているだけはある。そして本人はさも当然と言わんばかりに涼し気な表情をしていた。
『六番 ピッチャー 長瀬君』
 高校野球の世界では、投手が強打者という話はよくあることだ。長瀬もそうした部類に入る一人だ。
 打率は二割前後で三振数もチームワーストと、一見すれば警戒するに値しない成績のように映る。しかし、注目すべきなのはホームラン数。ホームラン六本は四番松岡と並んでチーム二位の数字だ。常に狙うはスタンドイン、三振上等のフルスイングこそ長瀬の打撃スタイルだ。多少粗は見られるが、それを補って余りあるフリースインガーと言って良いだろう。
 意気軒昂な態度でバッターボックスへ向かってきた。その顔には「俺の手で先制点を掴み取る!!」とはっきり書かれていた。
(……暑苦しいなぁ)
 岡野は自分と対極にある性格の長瀬に若干の鬱陶しさを抱きながら打席に入るのを待っていた。
「さあ来ーい!」
 長瀬は打席に立つと一声威勢よく吼えてからバットを構える。
 初球。アウトコースへのストレートにフルスイング。バットには当たらず、空振り。その差、数十センチ。
 二球目。今度は先程からボール一個外したコースにストレート。これも空振り。先程と比べるとボールとバットの差は縮まった。
 すると長瀬は一旦打席を外して一回二回と自分のスイングを確認する。スイング自体は悪くない。何も考えず全力でスイングされるのは投手側からすれば御しやすいが、反面で万が一の怖さもある。追い込んだが、追い込んだ気が全然しない。
「よっしゃー!! 行ける行ける!!」
 長瀬は自らを鼓舞するように叫ぶ。本当に騒がしい人だな、と岡野は冷めた目で見ていた。
 新藤も間を置かず次のサインを送ってきた。アウトを取る道筋は割と簡単に結び付いたらしい。
 三球目。外角高めから外へ逃げていくスライダー。二球ストレートが続いていたので、長瀬はそのタイミングに合わせてスイングしたものの、バットは虚しく空を切った。勢い余って体が二回転して転ぶ有様だった。
 その後、七番の草薙にはカットで粘られた末に四球を出してしまったが、続く八番の国分をセカンドゴロに抑え、三アウト。初めて得点圏までランナーを進められたが、無失点で切り抜けることが出来た。
 控えのメンバーが拍手や声掛けで戻ってきたナインを温かく迎え入れてくれた。特に強力打線を二回零封と素晴らしい立ち上がりの岡野には皆が「ナイスピッチ」と声を掛けてきたが、曖昧に応えるだけで奥のベンチに直行した。
 ベンチに深く腰を下ろすと、それまで張り詰めていた緊張の糸が緩んだのか、安堵の溜息が漏れた。
(……あと、七イニング)
 調子自体は悪くない。ここまでランナーは出しているものの決定打は許していない。上出来だ。
 ただ、楽観視はしていない。一巡目は様子を探っている部分もあるから、本当の勝負は二巡目に入ってからだ。タオルで顔を拭いながら気を引き締めていた。

 二回裏。泉野高は四番の新藤から攻撃が始まる。
 リード面を含めた守備に着目されがちな新藤だが、打撃面でも一定の成果を残している。ホームランこそ無いが、公式戦での打率は五割を超えている。さらに広角へ打ち分けられ、二塁打も多い。警戒するに値するだけの実力を有していた。
 泉野高ナインも「新藤に回せば何とかしてくれる」を合言葉に精一杯頑張ってきた。文字通り、彼が希望の星だった。
 しかし―――その微かな希望は、たった一球で絶望に塗り替えられた。
 初球。長瀬が投じたのは……一五二キロのストレート。真ん中高めの甘いコースだったが、空振り。
 二球目。内角低めへ一五〇キロのツーシーム。新藤は見送ったが、ストライクの判定。これで追い込まれた。
 三球目。先程と同じコースにボールが来た。新藤も今度こそ当ててやると意気込んでバットを振るが……バットに当たる直前にボールが突如視界から消えた。バットは虚しく空を切り、ボールはキャッチャーミットに収まった。
 長瀬の決め球、フォークが完璧に決まった。
 成す術なく、空振り三振。唯一期待の持てるチームの四番が何も出来ず仕留められ、ベンチ内に重苦しい雰囲気が漂う。
 唇をギュッと固く結んで戻ってきた新藤はベンチに座ると「やはり、か」と漏らした。
「何が?」
 岡野が言葉の真意を訊ねると新藤は口惜しげに返した。
「相手は、俺以外のバッターに手を抜いている」
 大阪東雲バッテリーは、新藤以外の選手に手を抜いていると言うのだ。本気を出さなくてもこの程度のバッターは抑えられると高を括られた形だ。それを証明するのが、明らかな球速の差だった。初回三人に対して全球ストレートを投じたが、一五〇キロを超えた球は一球も無かった。一方で、新藤に対しては一五〇キロを超える球を二球も投じている。
 実際、五番打者の原に対して投じたストレートは一四七キロと再び一五〇キロを下回っていた。近畿地区で先発した試合では八割以上の割合でストレート系のボールは一五〇キロ台だったのに、である。即ち『新藤以外は全力を出さなくても大丈夫』と言われたも同然だ。
「まずい……非常にまずい」
 深刻な表情で戦況を見つめる新藤が独り言を呟く。
 泉野高には致命的な弱点があった。一四〇キロを超える本格派の投手に滅法弱いのだ。新藤を除けば大半がお世辞にも上手いと言えない実力の選手で、全国区レベルの投手と対戦した経験は皆無に等しい。打撃投手を務める岡野は技巧派、控え投手は岡野より速いものの一三〇キロ中盤が殆どで調子次第で後半に乗るくらい。結果、一四〇キロ以上のストレートを持つ投手が登板した場合、目に見えて打撃成績が低下した。
 それに加えてフォークやスプリット、縦に落ちるスライダーなど“ストレートに近い速度で落ちる変化球”がある場合、さらに打撃成績が落ち込む傾向があった。石川県予選準決勝で対戦した航空能登の先発然り、北信越予選一回戦で対戦した敦賀実業の藤原然り。
 そうこうしている内に六番の関口も空振り三振に抑えられてしまった。これで六者連続、おまけに一球もバットに当たっていないというおまけ付き。
 これはひょっとしたら不名誉な記録が生まれてしまうのではないか……お通夜モードのベンチから逃れるように岡野は急いでベンチから出てきた。
 ゼロに抑え続ければ負けることはない。そう信じて、出来るだけ悪い方へ思考が傾かないよう、努めて前向きな気持ちであろうと岡野は自らに言い聞かせながらマウンドへ向かった。

 三回表。夕陽に照らされて茜色に染まる雲が空を泳ぐ中、その時は遂に訪れた。
 甲子園球場の照明が点灯され、グラウンドが蛍光灯の人工的な光で照らし出された。合わせて、ライト線とレフト線に線審が配置された。
 通常の試合であれば日中に開催され、日没前までに後片付けも含めて全てが完結する。ナイター設備が整っている一部の学校を除けば、日没までに練習が終わる学校が大半だ。無論、弱小公立校である泉野高もナイター設備など存在しないので、大多数の方に入る。
 辺りが薄暗くなっていく中、照明に照らされて野球をやるのは泉野高ナインにとって初めての体験だった。
(これが、カクテル光線で照らされた景色か)
 マウンドに上がる岡野が周囲を見渡しながら感慨深げに思った。
 スタジアムを照らす照明のことを“カクテル光線”と表現することがある。それは幾多の名勝負を生み出してきた甲子園球場でも同じで、カクテル光線の下で生まれたドラマも少なからず存在した。
 いつもと違う環境に戸惑いを感じていない。寧ろ、イレギュラーな環境を楽しんでいた。
 歴史に名を刻む、なんて大それたことは考えていない。純粋に、今置かれたこの状況を目一杯楽しもうとしていた。
 岡野は知っていた。気持ちが乗っている時は、自然と良い結果に結び付くことが多いことを。
(……もしかして、三者凡退に抑えられるかも?)
 自分の実力を鑑みれば、強打で知られる名門の大阪東雲打線を二イニング無失点で抑えられている事自体が奇蹟なのに、願望も込めた少しだけ高望みをしてみた。気分が高揚しているせいか「ひょっとしたら、ひょっとするかも?」と考えずにいられなかった。
 その後、九番香取と一番中居をテンポ良く抑えて二アウトまでこぎつけるも、二番城島に四球を与え、さらに三番木村にセンター前へ弾き返されて一打先制のピンチを招いてしまう。この状況で四番松岡をセカンドゴロに打ち取り、どうにか無失点で凌ぐことが出来た。
(……調子に乗り過ぎた)
 岡野は自戒も込めて反省しながらベンチに戻ってきた。
 淡い期待は無情にも厳しい現実の前に粉々に打ち砕かれてしまったが、それでも得点は許していない。岡野にとって大きな奇蹟はまだまだ継続中だった。

 日は沈み、空は濃紺から黒へと移り変わる途中にある五回表。
 この回先頭の九番香取は初球から積極的に振ってきたが、高々と打ち上げてしまった。打球はライト方向へ飛んで行き、ライトの大本も余裕を持って落下点に入った。
 しかし……上空を見上げる大本の様子がおかしい。一度完全に止まった足が、また動き始めた。上を見ながら前進してきたが足を止める気配は見られない。どんどん速度を上げていくが、大本の手前で白球が跳ねた。香取は打球が落ちたのを確認して二塁を窺う動きを見せたが、ワンバウンドで捕った大本が素早くセカンドへ送球すると一塁へ戻った。記録はヒット。
 堅守が売りの泉野高は当然のことながら外野の守りもかなり鍛え上げられていた。それにも関わらず目測を誤ったのは、不慣れな暗い中でのプレーが影響したのだろう。
 不運な形で先頭打者を出してしまった。それでも岡野は特に気にすることなく、気持ちを切り替えていた。
 打順は一番に戻り、中居が打席へ入ってきた。第一、第二打席共に抑えており、印象は決して悪くなかった。
 内野はゲッツー狙いのダブルプレーシフトを敷いたが、中居はここでバントの構えを見せたことでファーストとサードがバントに備えてやや前寄りに守る隊形となった。岡野としてはゲッツーが理想だが、最悪ランナーを進められてもアウトを確実に一つ取れるならバントでも構わないと思っていた。
 初球。内角高めへストレート。中居はバントの構えを崩さず、来たボールをしっかり転がした。打球は三塁線寄りに転がったものの、ボールの勢いが強かったのでそのまま切れると岡野は判断した。サードの原も同じ見立てらしく、敢えて処理せず転がる白球の行方を見守る。
 やがて転がる勢いが弱まり、白球は三塁線のラインに迫っていった。観衆も含めた全員の視線が白球に注がれる中……白球はラインの上でピタリと止まった。
「フェア!!」
 無情にも告げられた三塁塁審のジャッジに原はがっくりと肩を落とした。中居は既に一塁を駆け抜けており、香取も二塁に進んでいた。アンラッキーが重なる形で連打を許してしまった。
 切れると思っていた岡野も少なからずショックを受けたが、それでも深刻に捉えないよう気丈に振舞った。
 ノーアウトから二者連続でヒットが出たことにより三塁側のアルプススタンドは大いに盛り上がっていた。ブラスバンドの演奏も心なしか熱を帯びているように聞こえるし、大応援団の歓声やメガホンの音も先程より大きくなったように感じる。押せ押せムードに流石の岡野も萎縮する気持ちが芽生えた。
「―――」
 原が岡野に向けて声を掛けてきたが、三塁側から発せられる大音量に掻き消されて聞き取れなかった。口の動きから察するに「ゴメンな」と言ったのだろうか。岡野は聞こえるか分からないが「気にするな」と返した。伝わったかどうか分からないが、原が片手で拝んだことから恐らく意図は伝わったのだろう。
 さて、どうするか。
 次の城島は第一打席がサードへのファールフライ、第二打席ではフルカウントの四球。出塁は許しているが印象は悪くない。
 問題なのは……次に控えている木村だ。第一打席では初見のスライダーを強引にライトへ運ばれ、第二打席では低めのストレートをセンターへ綺麗に弾き返された。ここまで当たっている上に相性も最悪だ。
 木村の前にランナーを溜めない事が肝要と考えていたので、既にランナーが二人出ているこの状況は芳しくない。トリプルプレーならば一発逆転でピンチから脱却出来るが、望みは薄い。ダブルプレーでアウト二つ取れれば上出来、最悪でもアウト一つは稼いでおきたい。アウトさえ取れれば一旦流れが切れるので、悪い流れも断ち切れることだろう。
 城島はトリプルプレーの可能性がある引っ張りは避けたいから、右方向へ流してくることだろう。その場合、右打者から逃げていく軌道であるスライダーは避け、シンカーで詰まらせるのがベストか。
 初球。相手の出方を窺うべく外角高めのストレートを選択したが……城島は果敢にも振ってきた!しかも流すのではなく強引に引っ張ってきた!打球は左中間方向へ転がっていく。
 通常であればショートの守備範囲内だったが、ゲッツーシフトを敷いていた為にショートは通常の守備位置から二塁寄りに守っており、三遊間は広く空いている状態だった。幸いなことに打球の勢いはそんなに強くないが、それでも抜けてしまえば確実に先制を許してしまう。逆を衝かれたショートが懸命に追いかける。
 走って、走って、追いつくかどうかの瀬戸際。このままでは間に合わないと悟ったショートがダイビングキャッチを試みる!
 『絶対に止めてやる』という強い執念が実を結び、ボールはグラブの中に収まった。瞬時に立ち上がって送球する体勢となったが……ランナーはそれぞれ次の塁に進んでおり、バッターランナーも既に一塁ベースを駆け抜けていた。
 味方のファインプレーもあって先制点こそ阻止したが……これで全ての塁が埋まってしまった。ここで迎えるは、今日一番当たっている木村。絶体絶命の大ピンチである。
 遠くへ飛ばすことも、手堅くヒットを狙うことも、やろうと思えばセーフティスクイズも出来るバッター。三振、内野フライ、どん詰まりのピッチャーゴロかキャッチャーゴロ以外なら高確率で失点してしまう、非常に厳しい状況だ。
 犠牲フライまたは内野ゴロなら一点、ヒットなら二塁ランナーも生還するだろうから二点、外野の間を抜ければ走者一掃で三点、そして最も怖いのは……フェンスの上を越えてスタンドインすれば一挙四点。ここまでヒットどころか一人のランナーも出せておらず完全試合ペースで抑えられている味方打線が四点も取れるとは思えない。たった一点でも、途轍もなく重たい。
 ……いやいや、ネガティブなことばかり考えるのは良くない。ボテボテのピッチャーゴロならホーム封殺でゲッツーだ。内野に転がれば一点は失うがダブルプレーになる可能性だってある。そして何より、三振や内野フライになる可能性だってゼロじゃない! 何事もチャレンジしなければ道は拓かれないのだ!
 ここまで不運な形で出塁を許してきたせいか、悪い方向へ傾いていた思考を意識して持ち直す。流石に三連打を浴びて心配に感じた新藤が声を掛けようと立ち上がりかけたが、岡野はそれを手で制して気丈に振る舞った。
 誰かが言っていたっけ。『神様はその人が乗り越えられるだけの大きさの試練を与える』と。誰が言ったか覚えてないけれど、言われてみれば確かにその通りだ。俺はこのピンチを凌いで、一回り成長してやろうじゃないか。
 体育会系特有の熱血体質とは真逆のドライな性格の岡野だったが、成長意欲も勝負に対する意欲も人並みに持っていた。好きだから続けてきた野球だが、実力差がある相手だから負けても仕方ないとは思わない。『窮鼠猫を噛む』の諺ではないが、才能で大きく劣る凡人でも舐めて臨めば痛い目に遭うことを思い知らせてやる!
 三塁側から送られる大阪東雲の応援はボルテージを上げて最高潮に達していた。ブラスバンドの演奏も熱を帯び、大観衆から湧き起こる声援も一段と増して大きくなっていた。ここまで当たっている木村に皆期待を寄せているのだ。その熱量を自分に向けられていると置き換えれば……完全アウェーで心細さを覚えていたが、何だかやれる気がしてきた。
 球場の雰囲気を体内に取り込むようなイメージで、大きく空気を吸う。体が膨らむ感覚と同時に、ポジティブな気が全身に満たされていくような気がした。
 ……よし、やれる!
 間違いなく、この打席は今日の試合の行方を左右するターニングポイントとなる。後悔することないよう、出し惜しみせず全力でぶつかってやる!
 初球。外角低めへのストレート。木村は微動だにせず見送る。ストライクゾーンの隅ギリギリを狙ったボールだったが、主審の腕が上がった。ストライク。
 指に掛かったボールは我ながら素晴らしい出来だったと内心で自画自賛した。感触も悪くない。
 二球目。もう一度全く同じコースへストレート。先程と比べて微妙なズレはあったが、ほぼ同じ場所に投げ込めた。これも木村は悠々と見送り。二ストライク。ポンポンとテンポ良くストライクを重ね、追い込んだ。
 しかし、油断は禁物だ。第一打席でも同じように二球で二ストライクと追い込んだが、ウィニングショットのスライダーを強引にライトまで運ばれてヒットとされた。生半可なボールでは抑えられない。今日一番の、最高なボールで勝負だ!
 新藤のサインは……スライダー!! 岡野も勝負球に選ぶならスライダーだと決めていたので、バッテリー間で思惑は一致していた。コースは内角低め。無理に引っ張ってもファールになるかファースト正面のゴロになり、アウトになる可能性が極めて高い。
 但し、少しでも甘くなれば間違いなく痛打される。失敗は許されないこの状況で、自分の全てを出し切る気持ちで一球に魂を込める!
 一つ息を吐いて、集中を高める。ランナーは気にならない。走られる可能性はゼロなのでバッターとの勝負に全精力を注げる。岡野の目には木村の姿と新藤が構えるミットしか映っていなかった。感覚が研ぎ澄まされている良い兆候だ。
 ゆっくりと、自分のリズムで投球に入る。踏み込む左足、振り切る右腕、手元から離れる寸前まで白球と触れる指先。ピースがそれぞれあるべき場所に嵌まる感覚が、手に取るように伝わってきた。
 ボールが指先から放たれた瞬間―――比喩ではなく文字通りに自己最高のボールを投げられたと直感した。野球人生で一番のボールと断言しても良い程に、渾身の一球が投げられた。
 岡野の脳裏には、木村がスライダーに手が出ずに天を仰ぐ光景が映し出された。奇蹟の一球に流石の木村も打てな―――
 ―――刹那、背筋に冷たい感触が走った。直後、未来を予想した映像が一瞬の内に消え去り、現実に引き戻された。
 それまで悠然と見送っていた木村の右足がゆっくりと動くのが見えた。まさか、打つ気なのか。ベースを過ぎた辺りから内へ切り込んでいく軌道を描くボールに、木村のバットがピンポイントで合わせるようにスイングされる。
 大丈夫、強引に当てたとしても詰まらされるかファールになる。湧き上がってくる不安を打ち消すように岡野は自分自身に言い聞かせる。タイミング、ポイント、この二点が合致しなければ打ち返されるはずがない。
 それでも、木村は躊躇なくバットを振ってくる。例えるならばプロゴルファーのような、軸がしっかり据わったスイング。スムーズに出てきたバットは……岡野渾身の一球を見事に捉えた!
 澄んだ音を置き去りにして弾き返された白球は高々とセンター方向へ舞い上がった。反射的に打球の行方を目で追うが、既に白球は誰の手にも届かない高さまで飛翔していた。黒一色に染まった空を勢い良く切り裂いていった白球は……無人のバックスタンドに突き刺さった。
 満塁ホームラン―――。
 外野フェンスの上を越えていった瞬間、球場全体から揺れるような大歓声が沸き起こった。
 木村は周囲の喧騒に表情を変えることなく、ゆったりとした歩調でダイヤモンドを回っていき、先に生還した三人に出迎えられる形でホームをしっかりと踏んだ。待っていたランナーから祝福のタッチに軽く応じてからベンチへ引き揚げると、ベンチに居たメンバーが最高の結果を出してくれたチームの主砲を熱烈な祝福で迎え入れた。
 その様子を、岡野はマウンドの上から呆然と眺めるしかなかった。他のナインも最悪の結果に言葉を失っているようだった。
(嘘だろ……あのボールを……)
 最高傑作と自信を持って断言出来る球を、いとも簡単に打ち砕かれてしまった。その衝撃の大きさに岡野はがっくりとうなだれるしかなかった。
 声にならない言葉が零れる。この球が通用しないのなら、あの化け物をどうなって抑えればいいのだ。完璧な一球をスタンドまで運ばれ、それまで保っていた闘争心が根底から崩れ去っていく音が聞こえた。
 球場全体が一躍お祭りムードとなり盛り上がる中、新藤がマウンドに駆け寄ってきた。
「今の球はこれまで受けてきた球の中で一番良かった。ただ、相手が一枚上手だっただけだから。打たれたことは忘れて、切り替えていこう」
 新藤が懸命に慰めてくれたが、その言葉は自信を喪失した岡野の心に響いていなかった。岡野は無言で一つ頷くと、新藤はそれ以上声を掛けず元の守備位置に戻っていった。
 最高潮まで盛り上がった余韻が球場内に漂う中、四番の松岡が打席に向かってきた。
 それまでの反動からか、人生最高のボールを打ち砕かれたショックが大きかったからか、岡野はどこか上の空だった。
 初球。内角低めにストレートを要求されたが、球威のないボールが中央付近にずれた。甘い球を松岡も見逃さず痛打し、目の覚めるような当たりが一二塁間を駆け抜けていった。
 満塁ホームランで一挙四点先制した直後に四番の松岡もヒットで繋いだ。三塁側のアルプススタンドから湧き起こる応援が再びボルテージを上げてきた。
 さらに続く稲垣も低めへ沈むシンカーを巧みにすくい上げ、ふわりと上がった打球はサードの後方にポトリと落ちるヒットを放った。一塁ランナーの松岡が二塁を蹴って果敢に三塁を狙い、打球を処理したレフトが急いで三塁に送球したが悠々セーフの判定。その間隙を突いて稲垣も二塁を陥れた。
 不運な形で全ての塁が埋まり、ここ一番と踏んで全身全霊を尽くして送り出した人生最高のボールをスタンドに運ばれ、さらに連打を許して再びピンチを招いてしまった。悪夢のような展開で、流れは完全に相手のペースだ。これ以上失点した場合、さらなる大量失点に繋がる恐れがある。それだけは何としても避けたい所ではあるが、手持ちのカードを全て出し尽くしてしまった状況の中でこのピンチを打開する糸口は全く見当たらない。
 流石にマズイと感じた新藤が居ても立ってもいられず、主審にタイムを要求した。内野陣もマウンドに集まってきた。
「参ったな、流れが悪過ぎる……」
 険しい表情で語る新藤。ネガティブなことは滅多に口にしない新藤だったが、ここまでの展開に動揺が隠しきれない様子だった。
 怒涛の攻撃に決壊寸前で何とか踏ん張っているものの、もう一押しされれば間違いなく崩れてしまうだろう。ただでさえ完全試合ペースで封じ込まれている打線がこれ以上引き離されれば、逆転の目は完全に潰えることとなる。しかも全国でもトップクラスの破壊力を持つ大阪東雲打線を相手に孤軍奮闘してきた岡野が明らかに戦意を喪失してしまっている。どうすればこのピンチを乗り切れるか、全く分からなかった。
「おい、あれ!!」
 不意にセカンドの野沢が声を上げた。何かと思って野沢の視線の方向を見ると、全員が驚きで目を剥いた。
 普段はベンチの奥でじっと立って戦況を見つめている監督が、今はベンチの最前線に立って一人の部員に何か語りかけていたのだ。異常事態にマウンドに集まる全員の顔が強張る。
 野球未経験な監督は常々「俺の仕事は日々の見守りと引率だ」と言っており、実際練習に関して口出ししたり指示を出すことは一切無かった。試合が行われる際も、ベンチの奥から戦況を見つめるだけで伝令やサインを出したことは一度も無かった。
 監督が部員に対して要求したことは一つだけ。
『頼むから、警察沙汰になるようなことだけはしてくれるな。それだけ守ってくれれば、後は何をしてもいい』
 その約束を守ってくれるのであれば「テストの結果が多少悪くても大目に見る」とさえ口にした。教職に就いている者としてはあるまじき発言ではあったが、幸いなことに赤点を取る部員が出たことは無かった。試験前にテスト対策で部員全員が一堂に会して集中勉強会が自主的に行われていたことも一定の効果を挙げていたが、各々が勉強を疎かにしない意識を持っていたことも大きかった。
 ほぼほぼ放ったらかしにされてきたが、この監督のおかげで部員達はのびのびと練習することが出来た。効率の良いメニューを自分達で考え、怠けている者が居れば他の部員が注意し、自発的に朝練や居残り練習に取り組んだ。“任されている”ことは“頑張る”ことがセットになっていると皆考えていた。
 けれど、今この危機的な状況で、初めて監督が動いた。
 監督の横で話を聞いているのは、控えメンバーの柳井だ。柳井は岡野や新藤と同学年のキャッチャーで、肩もそれなりに強くて長打も期待出来る選手だったが、新藤という絶対的存在が同学年に居たことでサブに回ることとなった。それでも本人は腐ることなく別のポジションに挑戦し、今では外野やサードを守れるようになった。新藤に万一の際のバックアップ要員でなく、代打や交代に伴う守備要員という形でチームに欠かせない存在になっていた。また、非常に明るい性格で、モノマネをして周囲を笑わせたりベンチから積極的に声を出したりと、チーム内のムードーメーカーでもあった。
 その柳井が監督から伝えられた内容を復唱する。内容に齟齬がないことを確認した監督は、柳井の肩を叩いてマウンドへ向かうよう促した。監督から送り出された柳井はベンチ前から全速力で駆け出し、グラウンドに入る前に主審へ帽子を取って一礼してから再び走り出した。
「……監督は、何て言っていた?」
 強張った表情で新藤が訊ねると、柳井は一つタメを作ってから話し始めた。
「『いつも使っている遅い球はどうした?』って」
 開口一番に核心を突く一言に新藤は言葉に詰まった。さらに柳井は続ける。
「それと『自分達の方が実力で劣ると分かっているのに、相手の土俵で勝負しても勝ち目は無い。背伸びして負ければ必ず後悔することになる。だから、普段着の自分で、悔いが残らないよう精一杯やり尽くせ』だって」
 柳井から伝えられた監督の言葉に、岡野は頭を殴られたような衝撃を受けた。
 いつもボーっと見ているだけの監督だとばかり思っていたが、案外ちゃんと見ているんだなと岡野は感心した。
 新藤とは事前に打ち合わせして『今日はスローカーブを使わない』と決めていた。理由は簡単だ。岡野のスローカーブはストレートとの球速差で打者のタイミングを狂わせるのがメインで、スローカーブ単体で勝負出来るだけのクオリティがないからだ。弱小校や中堅校レベルなら通用したが、強豪校相手に通用しないのは既に分かっていた。秋の県予選決勝戦では県内で三本の指に入る強豪・星城が相手だったが、中継ぎで登板した岡野は先頭打者にスローカーブをスタンドまで運ばれていた。
 変化の幅も落差も大したことがない岡野のスローカーブは、芯で捉えられれば遠くまで飛ばされてしまう。全国でも指折りの強力打線を擁する大阪東雲が相手では些か分が悪いと判断した新藤が、新球種であるスライダーを軸にした配球で勝負することを提案し、岡野もそれを了承した。
 監督の言葉を伝えられてもなお、新藤の表情は晴れなかった。拒んでいるのではなく、葛藤しているのだろう。確かに、スローカーブを使えば緩急で投球の幅は広がるが、一歩間違えればさらなる大量失点に繋がる恐れがあるからだ。
「新藤」
 険しい表情のまま黙っている新藤に、柳井は優しく声を掛けた。
「お前はウチの顔だ。そのお前がそんな怖ーい顔してたら、チーム全体も暗ーくなってしまう。ほら、もっと笑え!」
 そう言うなり柳井は自分の指で口角を持ち上げ、ニコッと笑った。その顔に釣られて何人か笑みを溢[こぼ]した。すると今まで覆っていた重苦しい空気から一転して和やかな空気に入れ替わった。満塁弾を浴びてさらにノーアウト二三塁と絶体絶命の大ピンチである状況も一瞬だけながら忘れさせてくれた。
「……それも監督の指示か?」
「いんや。俺の個人的感想さ」
 新藤の問い掛けに柳井は軽い調子で答えた。
「……そうか」
 それから新藤は息を一つ吐くと、先程とは打って変わって明るい表情を浮かべて力強く宣言した。
「逆境上等! この状況を楽しもうぜ!」
「おう!!」
 新藤の呼び掛けに全員が力強く応じる。心なしか全員の表情も先程と比べて明るくなったように感じる。それはまた岡野も同じだった。
 自分も球場の雰囲気に呑まれていたと初めて気が付いた。「何とか抑えないと」「無様な試合にだけはしたくない」という気持ちだけが先走って、いつの間にか無意識の内に気負っていたのだ。柳井のアドバイスのお陰で、憑き物が落ちたような気分だ。
 ガムシャラにならなくても良い。いつも通り、肩肘張らずのらりくらりと躱[かわ]せば良いのだ。元々実力差があるのは承知の上だ。打たれたら「やっぱり相手が上手だった」と割り切るしかない。
 新藤の一声で締めると、内野陣は各々の守備位置に散っていった。新藤は戻り際に岡野へ短く「頼むぞ」と声を掛けてから戻っていった。マウンドには一人岡野だけとなった。
 バッターズサークルには、不敵な笑みを浮かべながらこちらを見つめる長瀬。多分「俺がここでダメ押して試合を決めてやる!」と思っているに違いない。だって、顔に書いてあるから。
 ただ、ここまで二打席対戦して何[いず]れも空振り三振に抑えている。何も考えずブンブン振ってくれるから逆に助かっていた。確率は低いが当たれば外野の頭を越えていくので、そういう“事故”に遭遇しないよう祈るしかない。
 岡野の中では「こういう風に攻めて、決め球はこれ」という投球のビジョンが出来上がっていた。打たれるイメージは微塵も抱いていない。あとは新藤がどう組み立てるか。
 打つ気満々で打席に入ってきた長瀬。一声景気づけに咆えてからバットを構えた。
 一拍の間を置いて、新藤が要求してきたのは……岡野が考えていたボールと一致していた。岡野も即座に頷く。
 初球。バッテリーが選択したのは……岡野の代名詞であるスローカーブ!
 ふわっと浮き上がる軌道のボールに長瀬は面喰ったという顔を見せた。それでも黙って見送ってなるものかと果敢にバットを出してきたが、バッターから逃げるように落ちていくボールを捉えきれず豪快に空振り。勢いがつき過ぎたあまり、堪え切れずに尻餅をついてしまった。
 良し、狙い通り。イメージした通りの結果に内心気分を良くした。
 二球目。今度はストライクゾーンへ入ってくるスローカーブ。長瀬も次こそは捉えてやると血眼になってボールをギリギリまで呼び込む。そして意を決してフルスイングしたが、無情にも空を切った。実は僅かにストライクゾーンに届かないコースに投げ込んだので、悪球打ちでもしない限り当たることは無いのだ。
 テンポ良く二ストライクまで追い込めた。次のボールは予め決まっていたらしく、新藤が間を置かずサインを送ってきた。岡野もその三球目に選ぶならそのボールだと思っていたので、一も二も無く応じる。
 一方で打席に立つ長瀬は明らかに苛ついた表情を浮かべていた。二球続けてスローカーブで翻弄されたことに対する怒りか、それとも真正面から勝負しないことに対する不満か。どちらにせよ、冷静さを欠いているのはこちらにとって好都合だ。
 三球目。遊び球を挟むことなく三球勝負を選択したバッテリーの答えは、内角高めへのストレート! 得意コースと逸った長瀬は反射的にバットを振ったが、先程まで二球続けて投じられたスローカーブに目が慣れていたために球速差の緩急についていけず、空振り。喉から手が出る程欲しかったアウトがようやく取れたことに、岡野は安堵の溜め息を洩らした。
 しかし、依然としてピンチは続いている。顔を歪めて悔しがる長瀬と入れ替わりに七番の草薙が右打席に入ってくる。
 草薙は第一打席で粘られた末に根負けしたバッテリーが歩かせてフォアボール、第二打席では外へ逃げて行くスライダーを泳がせてファーストへのファールフライに打ち取っている。何も考えずガンガン振ってくる長瀬とは対照的に、慎重にストライクを見極めてくるタイプという感じだ。打順は七番と下位ではあるが、近畿大会ではホームランを放っており油断大敵だ。
 初球。ここでもスローカーブを投げ込む。草薙は外れると踏んで見送ったが、外角低めの隅ギリギリに決まってストライク。
 変化球をコーナーに決める為に、制球力を上げる練習を秋から冬にかけて繰り返し行ってきた。ウイニングショットを持たない岡野にとって、コントロールは投球の生命線だ。配球は全て新藤に、守りは後ろに控える野手に全てを委ねている。自分は失投しないよう最大限気をつけて、新藤が構えた場所に目掛けて思い切り投げ込むだけだ。それが上手く機能したからこそ、夢の大舞台に立てているのだ。
 二球目。再び、外へ逃げて行くスローカーブ。草薙はストライクかボールか見極めが難しかったのか、カット。打球は後方へ飛んでいった。これで二ストライク。一見すると全く同じようなコースに同じボールを投げたように捉えられるが、実際は先程からボール一個分外に外していた。なので、見送ればボールになっていた球を草薙は手を出してしまったこととなる。
 三球目。ど真ん中付近に投げ込まれたボールに草薙もバットを出す。しかし、ボールはベース手前で外へスライドしていった。絶好球だと思ってスイングした草薙のバットは途中で止めることが出来ず、バットの先端に当たった打球はフラフラと力なく打ち上がり、一塁ベンチの前でファーストの関口が落ち着いてキャッチした。内野フライなのでタッチアップは出来ず、ランナーはそれぞれの塁に釘付けだった。
 満塁ホームランから連打で作ったノーアウト二三塁の大チャンスだったが、あっと言う間に二アウトとなってしまった。怒涛の六連打で膨らんだ押せ押せムードが急速に萎[しぼ]んでいくのを肌で感じ取った三塁側のアルプススタンドは、明らかに応援の熱量が弱まっていた。
『八番 ライト 国分君』
 流れが変わったことを肌で感じているのか、左打席に入ってくる国分の表情は幾分硬いように映った。一方で、立て続けにアウトを重ねた岡野はグランドスラムのショックから立ち直ったのか、血色が大分良くなった。本来であれば国分の方が優位に立っている筈なのに、立場は逆転していた。
(……さあ、ここからどう抑えようか)
 右打者二人を抑えたことで、岡野は完全に息を吹き返していた。強打者揃いの大阪東雲を何としても抑えなければならないと意気込んでいたが、今思えば前のめりになり過ぎていた。喪失していた自信も監督の言葉とスローカーブが効果的に利いたことで蘇っていた。それはマスクを被る新藤も同じなようで、笑みを浮かべながらこちらを見ていた。柳井の一言で救われたのだろう。そしてまた、新藤が笑っていることで岡野の方にも気持ちに余裕が持てた。
 岡野は息をフーッと吐くと、右腕をグルリと一回転させる。これで準備は整った。
 初球。国分の胸元へ目掛けてストレートを放り込んだ。厳しいコースを衝かれた国分は大きく仰[の]け反[ぞ]る。危ないボールに球場全体からどよめきが湧き上がるが、岡野は平然と聞き流す。
 これはあくまで次への布石。万一当たったとしても塁が埋まるだけで押し出しにはならない。ある意味で開き直った態度の岡野は一切動じていなかった。
 二球目。今度は内角低めにストレート。先程のボールが残像となって刻まれていたからか、国分は踏み込めず見送り。これがストライクの判定となり、一ボール一ストライク。
 三球目。外角からストライクへ入ってくるスローカーブ。外から内へ入る変化球は打者から見れば打ちやすいボールではあるが、二球続けてストレートを投げられた後に二十キロ近い球速差のある遅いボールに国分は完全にタイミングを狂わされてしまった。泳がされてボールの下を叩いてしまい、打球は勢いなく打ち上げてしまった。悔しがる国分と対照的に、マウンド上の岡野は穏やかな表情で打球の行方を見守る。
 高く上がった打球はそれ程遠くまで飛ばず、セカンドの野沢が余裕を持って落下点に入った。落球すれば即失点となる絶対に失敗出来ない場面だったが、何の波乱もなく無事にボールは野沢のグラブに納まった。
 長かった五回表が、ようやく終わりを告げた。三つ目のアウトを取った瞬間、岡野は思わず拳をグッと握って控え目に喜びを表した。
 四点を失ったのは痛いが、ノーアウト二三塁と絶体絶命の大ピンチを無失点で凌いだのは結果的に大きかった。そして何より、大阪東雲に傾いた流れをこちらへ手繰り寄せたのは、チームにプラスとなる好材料だった。
 引き揚げてくるナインの表情も一様に明るい。満塁弾を浴びたショックは消え去り、攻撃に向けて良い弾みがついたと実感した。
 望みを繋げば、勝機はいつか訪れる。そう信じて、岡野はこれからも投げ続ける意志を固めた。

 五回裏の攻撃は四番の新藤から始まる好打順だったが、ここまで一人も出塁を許していない長瀬の前に沈黙。ノーアウト二三塁の大ピンチを切り抜けて流れを引き寄せたと思っていたが、現実はそんなに甘くなかった。それでも六回表はこの日初めて三者凡退に抑え、掴んだ流れを相手に渡すことはなかった。
 スローカーブを使い始めたことで緩急が活きるようになり、それによって投球に幅が広がって抑えられるという好循環が生まれた。大阪東雲もスローカーブへの対応に苦慮しているらしく、まだ芯で捉えることが出来ていない。この調子で抑え続けることが出来れば、逆転の目もきっと見えてくるはずだ。
(……まぁ、その前にランナーを出さないことには話にならないけど)
 岡野はヘルメットを被りながら心の中で自嘲気味にぼやく。
 先にも触れた通り、泉野高は相手の先発投手である長瀬の前に一人のランナーも出せておらず、攻撃の糸口さえ掴めてない。頼みの新藤も長瀬本気の投球を前に成す術なく二つの三振に抑え込まれている。他の野手陣も同じように三振の山を築いている有様だ。この惨憺[さんさん]たる結果を不甲斐ないとは思わない。元々地力のないチームなのだから致し方ないと割り切っていた。
 この回も七番の松田が三球三振、続く八番の野沢もどん詰まりのピッチャーゴロと呆気なく二アウトとなってしまった。アウトになったのを見届けた岡野はゆっくりとバッターボックスへ向かう。
 高校野球では、エースピッチャーが主軸を打つというケースは意外と多い。プロ野球で活躍する一流のバッターでも、高校時代に四番を任されていた投手や元投手という人は少なくない。
 それに対して岡野はどうかと言われると……打順が示している通り、バッティングに期待はされていない。非公式戦も含めた通算でもヒットは数える程度しか打っていない。その代わり、本職の投球では十二分にチームの勝利に貢献しているので誰からも文句は言われない。
 岡野自身、漫画やドラマに出てくるような“エースで四番”という姿に憧れを抱いている。しかし、空想の世界の“エースで四番”と呼ばれる人は、唸るような豪速球か魔球と表現される決め球の変化球を必ず持っているのがお決まりのパターンだ。一方で岡野はそのどちらも有していない。前提条件の段階で資格から外れていた。現実は非情である。
 一方で、今マウンドに立っている長瀬は最速一五六キロのストレートと切れ味鋭いフォークが武器の本格派。さらに打順は六番ながらホームランが期待できるロマン砲。“エースで四番”を体現するなら長瀬のような人を指すのだろう。
 そんなことを考えていると、不意に岡野の中で反骨心がふつふつと湧き上がってきた。
(……どうせ三振するなら、全部全力で振ってやる)
 到底敵[かな]わないとは思うが、それでも何の抵抗もせず見逃し三振でアウト一つを相手に渡すのはやっぱり面白くない。ならば、当たらないのを承知で振ってやろうじゃないか。バットに当たる可能性は限りなくゼロに近いが、当たれば“もしかすると?”が起きるかも知れない。一寸の虫にも五分の魂と言うじゃないか。当たって砕けろの精神でぶつかってやる!
 そう心に固く誓い勇んで臨んだものの……初球、二球目と全くタイミングが合わず空振り。マウンドに立つ長瀬からは闘争心というものが微塵も感じられない。『さっさとアウトになればいいのに』とでも思っているのか、はたまた『無駄な足掻きを』と呆れているのか。そんなの知ったことか。こっちはこっちで一生懸命やってるんだ!
 二ストライクと簡単に追い込まれてしまったが、それでも挫けることなく岡野はバットを握る両手に力を込める。
 三球目。岡野が「今だ!」と思いバットを出した瞬間、ボールが視界から消えた。長瀬の決め球、フォークボールだった。ストレートのタイミングで待っていた岡野のバットは落差にも球速差にも対応することが出来ず、無常にも空を切った。
(やっぱりダメだったか……)
 諦めかけたその時―――予想外の事態が起きた。
 岡野のバットをすり抜けていったボールは、城島が構えたミットにも収まらずに股の下を通り抜けていってしまった。岡野はその状況を頭で理解するよりも先に駆け出した。
「「走れー!!」」
 反射的に走り出した岡野に向けて、一塁ベンチからチームメイトの檄[げき]が幾つも飛んできた。内心「マジか」と思いながら全速力で駆ける。普段気にすることのない一塁ベースまでの距離が、今は物凄く遠いもののように感じた。
 日々の練習メニューの中にはベースランや短距離走も組み込まれていたが、どちらかと言えば瞬発的な速さより持久力のある走りのタイプである岡野はチーム内でも下位に沈んでいた。それでも「まぁピッチャーだから」と大目に見てもらってきたが、まさかこんな事になるとは。今までも決して手を抜いていた訳ではないが、もう少し足が速くなる努力をしておくべきだったと悔やんだ。
 後ろの状況がとても気になるが、振り返っている余裕なんか無い。そんな暇があるなら足を前へ出すことに注力すべきだ。万一これでアウトになろうものなら、後からみんなに吊るし上げられるのは明白だ。
 ようやく転がり込んできたチャンス、絶対に手放してなるものか―――!! 後先考えずガムシャラになって疾駆[しっく]する。歯を食い縛り、息が荒くなって胸が苦しくなっても懸命に堪え、すぐ先にある一塁へ全力で走る。
 頼むからアウトになってくれるな―――!! その一心ですぐそこまで迫った一塁ベースだけ眼中に入れてひたすらに足を前へ前へ繰り出す。
 あと二歩……―――あと一歩……―――踏んだ!!
 それまでの猛烈な勢いそのままに一塁ベースを駆け抜ける。これまでの人生で一番真剣に走ってきた反動からか、胸が張り裂けそうなくらいに苦しい。ペースをゆっくり落として止まってから呼吸を整えると、ようやく苦しさから解放された。
 さぁ、判定は……!? 走ることで頭が一杯だったので判定にまで気が回らなかった。これでアウトだったらショックで立ち直れそうにない。岡野は恐る恐る後ろを振り返る。
 そう言えば一塁塁審の人はセーフともアウトともコールしていなかった。これは一体どういう事なのか? 整然と立っている塁審からさらに後方へ目を向ける。
 その先に広がっていたのは……バックネットの前で諦めたように立ち尽くすキャッチャー城島の姿。その右手には白球がしっかりと握られていた。マウンド上の長瀬は大記録を逃した悔しさからか顔を歪め、ファーストの草薙も腰に手を当てて俯[うつむ]いていた。
 と、いうことは……
「セー……フ?」
 全力疾走した直後の疲労感で頭がぼんやりする中、岡野は半信半疑の心境で漏らした。
 ふと一塁側ベンチに目を向けると、チームメイトのみんなが手を叩いたり歓喜の雄叫びを挙げたりして自分の出塁を心の底から喜んでいる姿があちこちで見られた。その様を眺めて、初めて自分が間に合ったんだと実感が湧いた。
 記録は振り逃げ。胸を張って成果を誇れるような形ではないが、結果的に完全試合を阻止することが出来た。この際、不恰好は置いておこう。
 岡野はベースコーチを務める仲間からジャンパーを渡されるとそれを羽織った。ランナーとして役目を果たすのは勿論だが、体を冷やしてパフォーマンスを落とさないようにするのも大切なことだ。そうこうしている間に一番打者の樫野が打席に入ってきた。
 マウンド上の長瀬はこちらが気になるらしく、頻[しき]りにチラチラと目を向けてくる。大して足の速くない一塁ランナーなんか思い切ってランナーは居ないと割り切れば良いのに、と岡野は思った。
 長瀬は余程ランナーが目障りなのか、牽制球を投げてきた。大して足の速くない自分が単独で走る気などさらさら無い岡野は、リードも大きく取ってないこともあって悠々と一塁に戻れた。
 それでも長瀬は間を挟んでから再び牽制球を入れてきた。些[いささ]か盗塁を警戒し過ぎている感があった。
(……もしかして、クイックが苦手なのか?)
 一塁から長瀬の様子を観察した岡野は一つの仮定を立てたが、何か違うとすぐに頭を振った。
(それか、初めて出したランナーが気になって仕方ないのか)
 こちらの理由の方がしっくり来る。自分もピッチャーだから分かるが、それまで一人のランナーも出さない完璧なピッチングを続けてきて、それが不意にパタリと途切れると途端にランナーのことが気になってしまうのだ。それに加えて、伸び伸びと自分のペースで投げてきたのにセットポジションやクイックなど投球でも変化が起きるので、調子やリズムが乱れて一気に崩れてしまうケースも少なくない。神経質になっていると思うかも知れないが、それだけピッチャーは繊細な生き物でもある裏返しだ。
 初球。長瀬の投球は外に大きく外れた。城島が構えた位置からかなり離れており、腕を大きく伸ばして捕る程だった。元々長瀬は制球は良くない方ではあるが、今日初めてのクイックに体がまだ対応出来ていないみたいだ。
 二球目、今度はフォークがベースの手前から落ちてしまった。城島が咄嗟に体を張ってボールを止めたので後ろに逸らすことは無かったが、もし止めていなければ岡野は二塁へ進んでいたかも知れない。岡野もまた盗塁する気は無いが、次の塁への意識は常に持っていた。今のケースでは刺されると思って動かなかったのだが。
 ここまで二球続けてボールがかなり荒れている。目に見えて制球に苦しんでおり、もしかしたら四球で自滅というのも有り得る。
 すると、城島が右の拳で左胸を数回叩いて「自分を信じろ」と送った。長瀬も一度プレートから足を外して間合いを取る。自滅しない術[すべ]を知っているようで、この辺りは甲子園を制した覇者の貫禄を感じさせる。
 少しだけ落ち着きを取り戻した長瀬が投じた三球目。ここで打席に立つ樫野が相手の意表を突く行動に出た。
(―――セーフティ!?)
 ベンチからそのような指示は出ておらず、味方である岡野も寝耳に水の奇襲だった。もしかすると樫野なりの揺さぶりかも知れないが、既に二アウトなので失敗すればその時点で攻撃が終了となる場面でこの選択は、少々ギャンブルが過ぎる。
 真ん中高めに投じられたストレートは、先程と比べて球威も球速も劣っていた。ボール先行でストライクを早く取りたくて置きに行ったのだろうが、その狙いは樫野にとって好都合だった。
 真っ直ぐ突き進んできた白球はバットに当たると三塁方向へ転がった。それと同時に樫野は弾かれたように一塁へスタートを切る。岡野もボールの行方を確認してから二塁へ走り出した。
 勢いを完全に殺し切れず、コロコロと転がっていく。ただ、見た感じでは三塁線を切れる可能性は低く、このまま行けばフェアゾーンの中で止まりそうだ。
 完全に裏をかかれた大阪東雲守備陣だったが、サードの松岡は出足が遅れた分を挽回するように猛チャージをかけてくる。チームナンバーワンの速さを誇る樫野も快足を飛ばすが、松岡のフィールディングも決して悪くない。今の段階だと勝負は五分五分。いや、松岡の方が僅かに上回ってアウトになるか。かなり際どいタイミングだ。
 ―――その時だった。
 捕ろうと差し出した松岡のグラブだったが、打球はグラブの下を掠[かす]めるように通り過ぎていった。まさかの捕り損ねに松岡は慌ててブレーキをかけてボールを素手で掴んだが、既に樫野は一塁ベースを駆け抜けた後だった。一塁ランナーの岡野も二塁に達していた。
 記録は、松岡のエラー。アウトを取り損ねてしまった責任を痛感しているのか、松岡は長瀬に向かって申し訳なさそうに頭を下げた。
(……まさか、ウチに流れが来ているのか!?)
 二塁ベース上から俯[うつむ]く長瀬の背中を眺めながら、岡野は半信半疑の気持ちでそう思った。
 振り逃げで今日初めてのランナーが出た直後、一か八かの賭けだったセーフティバントはエラーを誘った。ここまで付け入る隙が全く無かった大阪東雲だったが、ここに来て異変が起きている。あまりに都合の良い展開に、狐につままれるような気分だった。
 蟻の一穴という言葉がある。『どんなに堅固な堤[つつみ]であっても、蟻が開けたほんの小さな穴一つが原因で崩壊してしまう』という意味だ。岡野の振り逃げは大阪東雲からすれば取るに足らないアクシデントだったかも知れないが、それをキッカケに歯車が狂ったとも考えられる。
 予想外の事態に未だ信じられないという顔のまま、西脇が右打席に入ろうとしていた。急に巡ってきたチャンスに心の準備が整っていない様子だ。岡野自身もまた夢なのかと疑っている部分があった。六回ツーアウトまで完全試合ペースで封じられてきたのに、失策絡みではあるが二者連続で出塁しているなんて俄[にわ]かに受け容れられない。
 味方のエラーも絡んで一二塁となった場面。ここまで快投を続けてきた長瀬は依然としてランナーが気になる様子で、二塁の岡野や一塁の樫野の方を何度もチラチラと見てきた。一塁ランナーの樫野は警戒に値する俊足の持ち主かも知れないが、そもそも前を走る岡野の足は樫野と比べれば遥かに劣るのだから樫野の足は事実上封じられているも同然なのだが、長瀬はそう感じないらしい。
 西脇は右打者ながら樫野に次ぐ俊足で、これまでも内野安打を幾つも重ねてきた。遠くへ飛ばすパワーは無いが左右へ巧みに打ち分けることが出来るバッターだ。
 注目の初球。カットボールが外角へ大きく外れた。まだコントロールは荒れているようだ。特に、変化球に関しては岡野が出塁して以降はまだ一度もストライクが入っていない。
 チラチラとそれぞれの塁に視線を送って釘を刺してから、長瀬はセットポジションに入る。クイックで投じたボールが高めに浮いたのを、西脇は見逃さなかった。
 甘いコースに入ってきたボールを、西脇はコンパクトに振り抜いた。ジャストミートした打球は痛烈な勢いで三遊間に飛んでいった。今日初めてとなるヒット性の当たりに、岡野も樫野も即座にスタートを切る。
 これは間違いなく抜ける……!! 場合によっては三塁を回って本塁突入も十分に考えられるので、岡野は心の準備を固めて走る。
 しかし―――!!
 大阪東雲のショート稲垣はボールがバットに当たった瞬間から動き出し、三塁方向へ弾かれるように走り出した。刻一刻と打球との距離を詰めていき、遂に追いついて白球をグラブに収めた。三遊間の深い位置で逆シングルの体勢でキャッチした稲垣はそれだけで凄いプレーだが、そこからさらに流れるような動きで華麗にファーストへ送球。西脇自身も決して足が遅い方ではなく、寧ろ一生懸命に走っていたが、それ以上に稲垣の送球はずば抜けて素晴らしかった。
 西脇は一縷の望みを託して頭から滑り込んだが……それよりも先に稲垣の投じたボールが稲垣の元に届いていた。
 三塁ベースの上から西脇が渾身のヘッドスライディングする様を見届けた岡野は、がっくりと肩を落とした。
(……まぁ、仕方ないか)
 ツーアウトから振り逃げという締まらない形ながら完全試合を阻止し、続く樫野のセーフティバントで相手のエラーを誘い、か細い糸を手繰り寄せた結果一二塁まで攻め立てた。振って湧いたチャンスだったが、稲垣のファインプレーに関しては率直に「凄い」と褒めるしかなかった。相手は夏の覇者・大阪東雲。無名の弱小公立校の意地を示したと捉えれば満足か―――
「―――セーフ!!」
 誰もが三つ目のアウトが成立した、泉野高の攻撃が終わったと思っていたに違いない。その予想を覆したのは、一塁の塁審の一声だった。
 一塁塁審は両手を横に大きく広げ、高らかにセーフを宣告した。
 稲垣の送球がファーストの草薙に送られたのを最後まで見届けた長瀬も、稲垣から送られたボールを受け取った草薙も、間に合わなかった悔しさから地面に突っ伏していた西脇も、思いがけない判定に困惑しているのか皆揃って信じられないという顔をしていた。岡野もまた「何で? どうして?」と無意識に呟いており、まるでキツネに抓[つま]まれた気分だった。
 全員の視線が一点に集まる中、注目の一塁塁審は両腕を大きく横に振る仕草を見せた。
(……ベースの踏み忘れ、だと!?)
 塁審のジェスチャーは、ファーストの足がベースから離れていた時に示されるもの。俄[にわ]かには信じ難い話だが、完全にアウトのタイミングだったにも関わらずセーフの判定が出ている以上は、草薙の足が一塁ベースに触れていなかったと考えるしかない。
 チェンジになったと思い込んでいた草薙は、三塁ベンチに戻る途中で呆然と立ち尽くしてしまった。ほぼほぼ手中に収めていたアウトを取り零[こぼ]してしまった責任を痛感しているのか、その顔から血の気は失せていた。
 一方で、万事休すと肩を落としていた泉野高ナインだったが、一転してセーフの判定に息を吹き返した。望みが繋がったことで攻撃の機運が急速に高まっていくのがヒシヒシと伝わってきた。
 二アウトとなってから怒涛の三連続出塁で、全ての塁が埋まった。振り逃げをきっかけに生じた綻びは広がりを見せ、大阪東雲は負の連鎖を断ち切れずにいた。四死球で一点、ヒットが出れば二塁に居る俊足の樫野も生還する確率が高いから二点、長打が飛び出せばランナー一掃で一挙三点も入る。ここまで泉野高を完璧に封じ込めてきた難攻不落の強敵・長瀬を遂に捉えるチャンスが到来した。
 この流れ、どこかデジャビュを感じる。岡野はどうしてそう感じたのか考えてみると、あっさりと答えを導き出すことが出来た。
(……そうか、さっきのイニングと似ているんだ)
 多少異なるが、不運な形で全ての塁が埋まった流れは重なる部分が多かった。決定的に異なるのは、アウトカウントの違いだ。
 先程の自分の場面では、ノーアウト満塁で三振か内野フライ以外ならアウトになっても失点してしまう状況だった。アウトを稼ぐことも大切だが、得点を与えない方法も同時に模索しなければならず、相当プレッシャーがかかるケースだった。
 それに対して現在は、塁が全て埋まっている条件は同じだが決定的に違うのはアウトカウントだ。二アウトなのでバッターが一塁に到達する前にアウトとなれば、どれだけの人数がそれよりも前に生還していても得点としてカウントされない。どんな形であれ、打者をアウトにしてしまえば無失点で切り抜けられるのだ。
 僅かなミスも許されない状況だった自分と比べれば、今の状況はバッターを打ち取ることだけ考えればいいので精神的な負担は少ないように感じるが、長瀬は相当追い詰められている表情をしていた。
 これが同点で九回裏ならば一打サヨナラの可能性もあるので全く気が抜けないだろうが、今は六回でおまけに四点のリードがある。しかも泉野高は岡野が振り逃げで出塁するまで一人のランナーも出せなかった貧打線だ。恐るるに足らない相手なので必要以上に警戒することもないと思うのだが……長瀬はそう感じてないらしい。
 頻[しき]りにスパイクでマウンドを均したりボールを両手で捏[こ]ねたりと、落ち着きを失っているのがはっきりと分かる。想定外の連続で動揺を隠しきれていなかった。
 それまで静まり返っていた一塁側のアルプススタンドからは今日一番の歓声が沸き起こっていた。その声援に背中を押されるように三番の大本が打席に向かう。
 大本は公立中学で四番を任されていた経験があり、最後の大会では主軸としてチームを地区ベスト十六に導いた。一発は無いが外野の深くまで飛ばすことが出来る上に、選球眼も優れている。ここまで二打席は完全にやり込められていたが、ペースを乱されている今なら捉えられる可能性は充分にある!
 土壇場で繋がったチャンスに、未だ信じられないといった風の大本だったが、打席に立つと一転して眼光が鋭くなった。満塁の絶好機ながら微塵も気負いが感じられない。プレッシャーの圧かる場面でも自然体を貫ける大本は得点圏で新藤に次ぐ好成績を残している、頼りになる男なのだ。
(『ピンチの後に、チャンスあり』とはよく聞くけど、本当にそうなんだな)
 使い古された表現ではあるけれど、野球に限らず様々な場面でその表現が正しいことを強く実感する。ピンチとチャンスが入れ替わったことも含めて、神様はどちらかに偏ることはしないらしい。
 神様で思い出したが、『グラウンドには野球の神様が居る』と聞く。ただ、一方で『グラウンドには魔物が棲んでいる』とも言われている。どちらも信憑性が高いことで有名だ。もしかすると、神様と魔物は表裏一体の存在なのかも知れない。
 岡野が考えを巡らせている間も、観衆のどよめきは収まっていなかった。その中で、長瀬は投球動作に入る。
(―――あっ!?)
 ボールが長瀬の手元から離れた瞬間、岡野はマズイと直感した。
 異様な雰囲気に呑まれたためか、不安定なメンタルが影響したか、白球は大本の体の方向に向かっていく。大本も咄嗟に体を引いてボールから避[よ]けようとする。間一髪のところで避けられたが、もし負傷退場となれば、ただでさえ貧打に泣く泉野高にとって計り知れない痛手になっていたことだろう。危ないボールに球場内あちこちからどよめきが立つ。
「―――デッドボール!!」
 ざわつきが収まらない中で、主審がデッドボールを宣告した。その判定に岡野は当初「何故?」と疑問を抱いたが、すぐさま主審は二の腕付近を指差した。見た目には分からなかったが、恐らくボールを躱[かわ]そうとした際にユニフォームの袖を掠めていったのだろう。
 大本が一塁に向かって歩き出すのと共に、岡野もホームへとゆっくり歩みを進める。突然の乱調で押し出しという最悪の結果を招いてしまって愕然と立ち尽くす長瀬を尻目に、岡野は誰にも阻まれることなくホームを踏んだ。自らの振り逃げがきっかけで繋がった流れに乗じる形で、遂に一点を返した。まだ三点差あるが、この一点は泉野高にとって意義のある大きな一点だった。
 ベンチに戻ってきた岡野を控えのメンバーが盛大に歓迎してくれた。別に自分の手で叩き出した訳ではないけれど、みんなが頬を紅潮させて次々とハイタッチを求めて来られると何だか嬉しい気分になった。
 岡野が祝福を受けている一方で、大阪東雲の方でも動きがあった。喜多川監督がこのタイミングで伝令の山口を送り出してきた。まだヒットを許していないのに失点を喫するという前代未聞の事態に動揺するナインを一度落ち着かせようとする監督の意図が読み取れる。
「岡野、肩つくるぞ」
 メンバー達からの祝福が一段落すると柳井が声を掛けてきた。既に柳井はレガースなどの装備も着けていて準備万端な状態だった。
 怒涛の展開ですっかり忘れていたが、まだまだ試合は続いていくのだ。あと三イニング、泣いても笑っても九つのアウトを取らなければならない。止められない限り投げるつもりだった岡野はすぐさま羽織っていたジャンパーを脱ぐと、グラブを掴んでベンチ前に出て行く。
 次のバッターは、四番の新藤。ここまで全力投球の長瀬を前に二打数二三振と完璧に封じ込まれている。それでも、貧打に喘[あえ]ぐ泉野高にあって唯一頼れる主砲なのだ(スラッガータイプではなくアベレージタイプのバッターだが)。
 その新藤はと言えば……大阪東雲が守備のタイムを取っている間も表情を変えず黙々とバットを振っていた。チームの命運を背負っていることは重々承知している筈だ。巡り巡ってきた千載一遇の大チャンスにも動じることなく普段通りの姿であることに、頼もしさを覚えた。
 岡野が体を動かす準備が整う頃にはマウンドに出来ていた輪が散って、各々が守備位置に戻っていく。
『四番 キャッチャー 新藤君』
 アナウンスがコールされると、一塁側から今日一番の歓声が上がる。歓声の大きさが新藤に対する期待値の高さを表している。その声を背中で受けながら、打席に立つ。マウンドの長瀬は先程の忙[せわ]しなさが消え、堂々とした姿で君臨していた。
 柳井を相手に軽めのキャッチボールを開始した岡野も、この対決の行方を注視していた。ここでさらに追加点を奪えれば同点、もしかすると逆転の可能性も出てくる。反対に、前二打席と同じように圧倒的な力で捻じ伏せられた場合は、ここまで膨らんだ反逆の機運が一瞬で萎んでしまう。この試合の今後を左右するターニングポイントと言っても過言ではない。
 注目の初球。長瀬は―――セットポジションではなく、ワインドアップを選択した。直後、糸を引くようなストレートが外角低めに決まり、一ストライク。その素晴らしいボールに新藤は全く手が出せなかった。
 満塁という状況ではランナーが盗塁を仕掛けてくることは皆無。ならば、制球が定まらないセットポジションではなく、これまで快投を続けてきたワインドアップで投げる方が良い。開き直ったことで長瀬は復活の兆しを見せていた。
 二球目。今度は内角高めへ再びストレートが投げ込まれる。唸る豪速球に新藤のバットはビクとも動かなかった。二ストライク。球速表示は一五五キロを計測した。たった二球で追い込まれてしまった。
 ワインドアップに戻ったことで、長瀬は完全に立ち直ったようだ。それは即ち、泉野高にここまで吹いていた風が止んだことを意味した。
 ここまで新藤は、前の二打席から数えて八球連続でバットに掠らせることすら出来ていない。全力の長瀬を前に、赤子の手を捻るようにあしらわれている状態だった。
(……ここまで、かな)
 本来の調子を取り戻した長瀬のピッチングを見せられて、岡野は完全に流れが止まったと悟った。決して新藤のことを信じていない訳ではないが、二打席連続で三球三振に抑えられており、今の打席でも全くバットを振らせてもらえていない。吹いている風もいつかは止む。寧[むし]ろ、ここまで夢を見させてもらえた方だ。泉野高の実力から考えれば、ノーヒットで一点返せただけでも奇蹟に等しい。
 次のイニングに備えて気持ちを切り替えるべく展望を描きながら肩を温めていた、その時。
 ―――キーン!!
 柳井に向けて投じたボールが指先から離れた瞬間、クリアな高音が岡野の耳に飛び込んできた。聞こえたのと同時に、音のした方へ反射的に顔を向ける。
 聞き間違えるはずがない。これまで何千何万回とその音に触れてきたのだ。金属バットの芯で白球を捉えた時に発せられる、野球を知らない人が聞いても爽快さや清々しさを感じる、あの特徴的な高音。
 瞬時に目を向けた先にあったのは、バッターボックスの中でバットを振り切った姿で固まる新藤の姿。その視線はある方向一点に向けられていた。
 ボール。そうだ、ボールは。次のイニングに向けて意識を集中させていたので、ボールの行方が分からなかった。新藤の視線の方角を頼りに、自分もその先を追いかける。
 白球は―――低空をやや弧を描きながら一直線に飛んでいき、勢いを落とすことなくレフトスタンドに突き刺さった。その軌道はさながら、夜空を切り裂く一筋の彗星のようだった。
 満塁、ホームラン……?
 目の前で起きた出来事があまりに衝撃が大きすぎて、岡野は息を呑んだ。比喩[ひゆ]でも例えでもなく、一瞬世界から音が消えた。
 一拍の間を挟んで……今度は球場が揺れた。地面が、空気が、建物が、震えた。この場に立ち会った全員の予想を遥かに超えるドラマチックな展開に、魂を揺さぶられた人々の発した叫びが共鳴することで振動しているのだ。
 文字に表せない大多数の声に背中を押されるように一歩を踏み出す新藤。起死回生の逆転満塁ホームランを叩き出したヒーローも当初こそ何が何だか分からないような表情を浮かべていたが、歩みを進めていくにつれて自分のした事の凄さを実感したらしく、一塁を回ったと同時に新藤は雄叫びを挙げると会心の笑みで右腕を天に向かって突き上げた。
 あの新藤が、常に冷静さを失わず感情を表に出すことがあまり無い新藤が、こんなにも喜びを爆発させるなんて。それくらいに今のホームランを打てたことが嬉しいのだろう。
 岡野も「ここで打ってくれたら」と微かな期待は抱いていた。でも、それは「センター返しで一・二点入ったらいいなぁ」という程度の願望で、スラッガータイプではない新藤にホームランまで求めていなかった。第一、この場面で一発が出れば試合がひっくり返ることに気付いてすらいなかった。それがまさか二ストライクから逆転のグランドスラムが飛び出すなんて……新藤の才能は重々承知していたつもりだったけど、今回の一発で改めて“凄い奴”だと思い知らされた。
 目を爛々[らんらん]と輝かせて弾けた笑顔を浮かべながら、新藤はダイヤモンドを周る。
 水を打ったように静まり返る三塁側のアルプススタンドを除けば―――観衆は歴史の一ページに立ち会った感動から、割れんばかりの拍手と歓声で新藤を称[たた]えた。完全アウェーだった雰囲気は新藤の一発によってガラリと変わっていた。
 ふと気が付けば、岡野の体は小刻みに震えていた。人は魂を揺さぶられるような場面に遭遇した時や心を打たれるような感動に触れた時には体が震えると聞いていたが、今の自分が正にそれだと実感した。
 そうこうしている間に、興奮の収まらない新藤が三塁コーチャーとタッチを交わす、珍しい光景が見られた。前の三人は既にホームを踏んでおりしており、ホームベースの周りでヒーローの帰還を今か今かと待っていた。ペースを落とすことなく、しっかりとした足取りでホームベースとの距離を縮め……遂に凱旋のホームを踏んだ。その瞬間、絶望的だった点差は霧散して王者相手に勝ち越した。
 ハイテンションの三人から手荒い祝福を浴びた新藤は、弾けんばかりの笑顔を湛[たた]えながらベンチに向かう。そこには、一振りで試合を引っくり返したヒーローの帰りを待ち侘びる仲間達の姿。新藤は一人一人にハイタッチを交わし、熱い抱擁を交わし、喜びを共有していった。
 そして―――ベンチ前で立っていた岡野の番がやってきた。
 何と言えば良いか、何を言えば良いか。言いたい単語が幾つも浮かんでは消えてを繰り返し、内容がまとまらない。
「―――ナイスホームラン」
 悩みに悩んで口に出した言葉は、ありきたりな一言だった。余計な言葉を付け加えなくても、これだけで伝わると思ったからだ。
 すると、新藤から思いがけない言葉が返ってきた。
「……君の為に、打った」
「え……?」
 あまりに似つかわしくない言葉に、岡野は思わず言葉が洩れてしまった。
 いつもの新藤ならば、爽やかな笑顔を見せながら「ありがとう」と軽く返すだけなのに。それに“チームの為に”とは言うけれど、特定の誰かに対して肩入れするような発言はこれまで聞いたことが無い。言葉の真意を図りかねてポカンと立ち尽くしていると、畳み掛けるように新藤が続けた。
「いつもいつも抑えてくれるのに、俺達が不甲斐ないせいで負けてばかり。今日だって俺の読み違いのせいで満塁ホームランを打たれてしまった。それでも君は文句一つ零[こぼ]さず淡々と投げてくれる。だからこそ、この打席だけは何が何でもホームランを打ちたかった。いつも頑張ってくれる君の為に!」
 熱っぽく語る新藤の姿を、岡野は初めて目の当たりにした。素面[しらふ]だったら照れ臭い台詞も平然と言ってしまう辺り、大仕事をやってのけた興奮冷めやらないようだ。その暑苦しさを嫌に感じなかった。むしろ、嬉しかった。
 勝負に対してこだわりや執念を持たない自分は、他人と比べれば必死さやガムシャラさに欠けると思う。誤解しないで欲しいが、別に『負けても良い』とは思っていない。勝ったら嬉しいし、負ければ悔しい。強打者と対峙すれば“三振を奪いたい”“凡打に仕留めたい”と発奮することだってある。ただ、“限界を超えてやろう!”とか“石に齧[かじ]り付いてでも抑えたい”という感覚が薄いだけだ。勝ちたい一心で怪我をしたら元も子もないし、何より楽しくない。だから“身の丈に合った範囲で頑張る”という考えの持ち主……と、自分は捉えている。
 援護に恵まれず勝てないことに関しても、仕方ないと割り切っていた。そもそも公立校の泉野高で新藤のような才能に恵まれたサラブレッドは極めて稀な存在であり、大半の部員は平々凡々な能力なのだ。新藤一人でかなり底上げされているが、元々は万年初戦敗退の弱小校である。似たようなレベルの学校が相手でない限り、大量得点は望めない……というのが岡野の認識だった。それ以前に、自分もちょっとコントロールが良いだけで大したことのないピッチャーなのだ。自分の実力を棚に上げて人様に多くを求めるのは間違いだ……と思っていた。
 ただ、それも自分の思い込みに過ぎなかった。
 投手である自分が“抑えたい”と思うのと同じように、野手のみんなも“打ちたい”と思っていた。打てなくてもしょうがないと諦めるのではなく、“何が何でも打ってやる”と心の内で反骨心を燃やしていたのだ。樫野の意表を突くセーフティバントも、西脇渾身のヘッドスライディングも、泥臭くても不恰好でも繋ごうとした執念が実った結果だった。その積み重ねが無ければ、新藤の逆転満塁弾は生まれなかった。
 その新藤が今日一番悔しい思いをしていたのだろう。打撃では成す術なく二打席連続で三球三振、守備でも勝負所で痛恨の満塁弾を献上。人一倍責任感が強い性格もあり、不甲斐ないと感じていたことだろう。
 だからこそ、巡ってきた満塁の場面で並々ならぬ決意で臨んだに違いない。自身のプライドと野球人生を賭けて打席に立ち、そして結果で応えた。
 逆境を一振りで覆す。少々おとぎ話のように出来すぎた展開ではあるが、それを体現するからスターと呼ばれるのではないか。
 新藤は言い終えると急に恥ずかしさが込み上げてきたのか、目線を外した。心なしか顔がさらに赤くなっているようにも見える。この辺りの人間味が感じられるポイントに好感が持てる。
「……あと三イニング、頼んだぞ」
 バツの悪そうに告げると、そそくさとベンチへ入っていった。直後、原はレフトフライに倒れて三アウト。長かった泉野高の攻撃が遂に終わりを迎えた。
 岡野はスコアボードに目をやる。六回裏の場所に“5”の数字が刻み込まれた。あまりに都合の良い展開だったので一瞬「夢でも見ているのか」と錯覚を抱いたが、確かに刻まれた数字を確かめたことで今起きた事が現実のものだと再認識出来た。自分の振り逃げから始まった流れは、最終的に試合を引っくり返してしまった。逆転した事実がようやく浸透すると共に、喜びがせり上がってくるのをヒシヒシと感じた。
 一方で、味方が一生懸命に繋いで勝ち越してくれた事にプレッシャーを覚えた。この一点しかないリードを最後まで守り通さなければならないという責務に、背筋が自然と伸びた。
(みんながやってくれたんだ……だったら俺だって)
 重圧はあるが、それ以上に仲間から託された思いに応えたいと意気に感じる気持ちの方が強かった。
 あと三イニング、九つのアウト、これを取るまで絶対に一点もやらない。強い決意を胸に固め、岡野はいざ七回のマウンドへ向かった。

 八回裏。泉野高の攻撃は九番の岡野、一番の樫野が連続三振。続く二番の西脇も初球を打ち上げてしまった。打球は前に飛ばず、キャッチャー後方へのファールフライで終わった。
 大阪東雲の長瀬は結局(六回を除いて)一人のランナーも許さない完璧な投球で泉野高を圧倒した。精密機械に生じた小さなバグが結果的には試合の行方に大きく影響を及ぼしてしまったこととなった。一度狂いが生じると立て直すのは至難の業なのは万人共通らしい。
 岡野もまた長瀬から味方が追加点を引き出してくれるとは全く思っていなかった。あの神懸[が]かり的な流れがあったからこそ五点も取れたのであって、打てない姿が通常運転なのだ。悲しいかな、援護に恵まれないのは慣れている。
 でも、今は奇跡的に勝っている。それだけで気持ちの面で楽に感じていた。余裕があるからか、序盤と比べて岡野の表情は幾分穏やかに映った。
 肩慣らしを終えた岡野が九回のマウンドに向かう。その背中に向けて一塁側アルプススタンドから沢山の拍手が送られる。その拍手が『頑張れよ!!』と言われているような気がして、自分に向けて手を叩く人々の思いに岡野は自然と背筋が伸びた。身が引き締まるのと同時に、心強さを覚えた。
 マウンドに登ってから一つ息を吐くと、いつも通り投球練習へ移る。投じたストレートの球速表示は一二七キロ。まだ慣らしの段階なので七割方の力で投げているが、それでもいつもなら一三〇キロは超えている。ストレートは調子を測るバロメータで、平均値を下回る場合は調子が悪いか疲労が蓄積しているかのどちらかの場合が多い。
 序盤から中盤にかけて球数を費やした影響で、いつもより疲れているように感じる。特に試合前半は気持ちが昂[たかぶ]って飛ばした余波が今になって出てきたのもある。それでも岡野は、意地でも「交代したい」と口にしたくなかった。幾つか理由はあったが、“折角ここまで投げてきたのだから途中で降りたくない”という気持ちが一番強い。それに……投げるのが、単純に楽しい。
 確かに疲れは感じているが、調子自体はそんなに悪くないように思った。スピードは落ちているが生命線のコントロールに狂いは無いし、ボールのキレも十分ある。変化球もストレートと似たような感じだった。
 何球か投げ込むと、新藤がマウンドに駆け寄ってきた。
「……いけるか?」
「今の球受けてみて分かるやろ? 大丈夫」
 岡野は「今更何を言ってるの」と言わんばかりの反応を示すと、新藤の方も「それもそうだな」と笑った。新藤が笑ったのに釣られて岡野も笑みを浮かべた。
「あと一イニング、頼んだぞ」
 そう言うと新藤は右の拳を突き出してきた。岡野もそれに倣[なら]って自らの右拳を出すと新藤がコツンと拳を合わせてから元の守備位置に戻っていった。グータッチをして颯爽と去っていく、まるで漫画のワンシーンだなと他人事のように思った。
 本当は「気を抜くなよ」と言いに来たのだろうが、途中で止めたのだろう。そもそも破壊力抜群の大阪東雲打線を相手に気を抜けるはずがない、と岡野は本心で思っていたのだが。
 この回は打順が先頭に戻り、一番の中居から始まる。打席へ向かう中居に向けて、三塁側から幾つも声が飛んでいる。マウンドの上からでははっきりと見えないが、神に縋[すが]らんばかりに祈っている人もあの中に居るのだろう。
 四対五と一点追いかける展開のまま九回の攻撃を迎える。このイニングで同点に追いつかなければ、三アウトとなった時点で試合終了となる。去年のセンバツで負けてからずっと勝ち続けてきた王者・大阪東雲が今、窮地に立たされている。点差が逆だったら『無名の公立校があの大阪東雲を相手によく健闘したな』と称えるだろうが、リードしているのは泉野高だった。俄かに信じ難いスコアだが、当事者である岡野自身もまだ半信半疑の心境だった。
 『夏を制覇して勢いに乗る優勝候補筆頭格の大阪東雲が順調に初戦を勝ち上がる』、これが大半の人の予想だった。その予想を立てた人の中には『ここから鮮やかに逆転を遂げて、王者の貫禄を見せつける』と考えているかも知れない。その方が波乱の無い筋書きよりも魅力的で面白いから。もしかすると、よく分からない無名の学校が勝つことを誰も望んでないかも知れない。
 でも……!!
(ここは譲れない。勝ちたい)
 自分達は負ける為に甲子園まで来たんじゃない。勝ちに来たんだ。
 組み合わせ抽選の結果を知った時、軽く絶望もしたしクジを引いた新藤の運の無さを恨みもした。穏やかな青空の下で執り行われた開会式、岡野は圧倒的戦力を前に成す術なく蹂躙[じゅうりん]されるのではないかと本気で危惧した。試合が始まる前まで、自分達が勝つイメージが湧かなかった。
 それでも―――信じられないことに、今勝っているのは自分達の方だった。“事実は小説よりも奇なり”の例えがあるけれど、正しくその通りだ。小説やドラマ、マンガ、映画と世の中に楽しませてくれる物は数多くあるが、目の前で起きている出来事に勝るものはない。
(……危ない、危ない。まだ終わっていないのに勝ったような気になっていた)
 新藤がマウンドに来たことが脳裏に過[よぎ]って、妄想の世界から現実に意識を戻した。勝った時のことは三人抑えてからじっくり味わえばいい。
 緩んだ気持ちを(もしかしたら頬も)引き締めてから、一つ息を吐く。いつものルーティーンを終えると、雑念は綺麗に払われて頭の中がクリアになった。
「プレイ!!」
 主審が試合再開を告げる。ここから、九回表のイニングが幕を開ける。
 このまま逃げ切る為には何としても先頭打者の出塁は阻止しておきたい。この局面で女房役の新藤は、初球に何を選択するか。
 注目の初球。内角ボールゾーンからストライクゾーンへ食い込んでくるシンカー!! 意表を突くフロントドアに中居も手が出せず、白球はストライクゾーンを通過して新藤のミットに収まった。一ストライク。
(……よし)
 まずストライクが取れて気分を良くする岡野。
 ボールゾーンからストライクゾーンへ入る変化球は僅かなズレが生じても外れてしまう上に、コントロールが乱れればバッターにぶつかる可能性もある。リスク承知で投げ切る度胸と精度の高い制球力の双方を満たさなければ成立しない、難しいボールだった。
 中居が見逃したのはボール自体に勢いがあったのもあるが、それ以上に新藤の配球が利いているのが大きかった。
 六回表に三者凡退で抑えたのを皮切りに、それまでの展開が嘘のように破壊力抜群の大阪東雲打線は鳴りを潜[ひそ]めてしまった。唯一ヒットを一本許したが、得点圏にランナーを抱えることもなくスルスルと試合は進んでいった。それもこれも新藤の読みや勘が冴え渡ったお陰だ。
 例えば、直球狙いのバッターには遅い変化球を、じっくり球数を稼がせたいバッターには三球勝負を……といった具合に、相手の裏を掻く配球が面白いように嵌[は]まった。逆転を許してからは焦れた大阪東雲の各バッターが早打ち気味になったのも相まって、少ない球数でアウトを積み重ねられたのはありがたかった。
 ボールが返ってきてすぐに新藤はサインを出してきた。それに岡野は小さく頷くと、間を挟まず畳み掛けるように投げ込む。初球から厳しいコースを突かれて内心の動揺を抑えるのに気が取られていた中居は若干反応が遅れた。外角低めのストレートも中途半端なスイングでは当たらない。これで二ストライク。
 ポンポンとテンポ良く二球で追い込んだことで、岡野は気持ちの面でゆとりを覚えた。何が何でもストライクを取らなければいけない場面は、思っている以上にしんどいし、疲れる。
 新藤はこの局面で長考した。次の一手を決めかねている訳ではなく、打者に色々と考えさせる為に取った間合い……だと思う。岡野も新藤のサインが出るまでの間、大阪東雲のブラスバンドが奏でる音に耳を傾けていた。野球の強豪校である大阪東雲は球場で演奏する機会が多い影響からか、その音は洗練されているように感じた。聴いている人の心を躍らせる、と表現すれば良いか。
 ……うん、気分がノってきた。恐らく打席に立つ中居を鼓舞するべく演奏しているのだろうけど、音は聴こえる全ての人の耳に届く。自分に向けて演奏していると勝手に解釈しても何の問題もない。
 テンションが昇り調子になったタイミングで、新藤がようやくサインを出してきた。これを待っていた筈はないのに、二年間バッテリーを組んでいるとお互いの考えがシンクロすることが多くなったように思う。
 今演奏されているのはプロ野球でも使われている定番曲だった。岡野も心の中でそのメロディを追いかけながらモーションに入る。
 リズムに乗って勢いよく腕を振り抜くと―――放たれたボールは浮き上がるような軌道を見せた。岡野が一番自信のあるボール、スローカーブだ。
 中居はゆっくりと曲がりながら落ちてくるスローカーブを捉えるべく、打ち気を堪[こら]えてグッと待つ。右足を上げたままの体勢でタイミングを図る。
 そして、満を持して……上げていた右足を踏み込んだ!!
 必ず仕留めると強い決意を持って繰り出されたバットは―――向かって来るボールを捉えはしたが、上っ面を叩いてしまった。打球は一二塁間方向へ弾んでいく。中居は一瞬悔しそうな表情を見せて一塁に向けて走り出す。
 これが鋭い当たりならば一二塁間を切り裂いただろうが、僅かにタイミングが早かったが為に打球の勢いはそれ程でもなかった。セカンドの野沢が余裕を持って追いつくと、難なく捌[さば]いてから落ち着いて一塁に送球する。野沢が投じたボールが大きく逸れる波乱は起こらず、一塁の関口が構えたミットへ無事収まった。その後に一塁ベースを駆け抜けた中居は天を仰いだ。
 まず、一アウト。先頭打者を抑えたことで、少しだけ緊張が解[ほぐ]れた。一塁側からはパラパラと拍手が湧き起こったが、それもすぐに三塁側から発せられるブラスバンドの演奏音で掻き消された。
『二番 キャッチャー 城島君』
 独特の抑揚をつけたアナウンスが球場内に木霊[こだま]すると、城島がやや頬を強張らせて打席に入ってきた。四点のリードを引っくり返され、内心忸怩たる思いを秘めているに違いない。ここまで四球と内野安打がそれぞれ一つ、後の打席では凡退している。岡野自身、城島に打たれているというイメージを抱いていない。しかし、油断は禁物。
 息を深く吸い込み、肺いっぱいに溜め込んだ空気を静かに細く長く吐き出す。いつものルーティーンをこなした岡野は、戦う準備が整った。
 頃合を見て新藤がサインを送ってきた。岡野も二つ返事で頷く。これもいつもの流れ。特別な手順を挟まない、呼吸をするように自然体のまま投球に移る。
 岡野が投じた球は、城島の肘の辺りに向かって突き進む。城島が危険を察知して身を引くのと前後して、ボールは懐の方へ変化を始める。城島から逃げて行くような軌道を描き、最終的にはストライクゾーンを通過して新藤のミットにボールは収まった。スライダーをフロントドアで投げ込み、初球はストライクとなった。
 一歩間違えれば体にぶつけて死球となるリスクも充分あったが、大胆な攻めにも臆さずに投げ切れることが出来た。一点リードしているという精神的優位に立てていることが気持ちを後押しした。
 間髪入れず、二球目へ。外へ逃げて行くスローカーブで誘うも、城島は悠々と見送る。こちらは外れてボール。まぁ、この一球に関しては『打ってくれればラッキー』程度に考えていたので、ボールと判定されても特に気にしていない。
 三球目。今度はスローカーブをフロントドア気味に投げる。これも外れて二ボール、ボールが先行してバッティングカウントとなった。今の球も問題はない。この二球は“見せる”のが狙いだったから。
 四球目。岡野が投じたのは、真ん中高めへのストレート!! これまでじっくり見てきた城島も甘いコースに来たストレートを見逃さず、振ってきた。
 芯で捉えた打球は―――サード正面への痛烈なライナー。打球速度が速かった為にサードの原も一度は取りこぼしてしまうが、慌てることなく掴み直してから一塁へ送球。城島も懸命に走るが、ボールが先に一塁へ到達した。
 これで、二アウト。史上最大の大番狂わせまで、あとアウトカウント一つ。一塁側のアルプススタンドから再び拍手が起きた。
 歴史的快挙が目前に迫っている状況にあっても、岡野に緊張している様子は見られなかった。城島に芯で捉えられた直後は流石にヒヤッとしたが、原が落ち着いて処理してくれたことで瞬間的に跳ね上がった心拍数は通常通りに戻った。
 二球続けてスローカーブを、しかも極力遅くなるよう加減していたので、城島は遅いボールに慣れ切っていた。そこへ全力投球でストレートを投げ込むことで、スローカーブの遅さに目が慣れていた為にバットの振り出しが僅かに遅れてしまったのだ。この僅かな差がタイミングを狂わせ、打ち取ることに結び付いたのだ。……とは言え、紙一重の差ではあったが。
 九回二アウトではあるが、岡野に浮ついた気持ちは一切抱いていなかった。何故ならば―――
『三番 センター 木村君』
 ネクストバッターズサークルで自らの出番を待っていた木村が、ゆっくりとした足取りで打席へ向かう。その姿を三塁側のアルプススタンドから祈るような視線で見つめる女子生徒が何人も見受けられた。
 それもそのはず、木村はここまで四打席全てでヒットを放っていた。満塁ホームランの次の打席でもヒットを打ち、六回以降で出塁を許したのは木村ただ一人だけだった。『木村だったらもしかすると!?』と期待を抱くのも当然のことだ。
 一方で、岡野からすれば印象は最悪だ。ここまでスローカーブを除く全ての球種を弾き返されている。相性云々[うんぬん]以前の問題に、実力で雲泥の差が開いているのだが……今最も相手にしたくないバッターだと断言出来る。
 本音を言ってしまえば、勝負を避けたい。しかし、歩かせて次の松岡にホームランを浴びれば逆転されてしまう。一方で、木村にホームランを打たれてもまだ同点だ。虎の子の一点を守り抜く為には、敬遠するよりリスク承知で勝負するしか選択肢はない。
 ふと、新藤と目が合う。すると新藤はマスクの下でニコリと笑った。その笑顔を見て、岡野も少しだけ気持ちが解れた。例えるならば、膨らみ過ぎてパンパンになった風船から余分な空気が抜けて、程々の大きさになった。そんな感じだった。
 大丈夫、やれる。具体的に根拠は無いけど、そんな気がした。でも、それだけで充分だった。
 いつも通り、大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。毎回やっているルーティーンは相手が誰であっても変わらない。
 さぁ、臨戦態勢は整った。あとは全力でぶつかるだけだ。
 初球。インローの隅を狙ったストレート。やや中に入ってしまったが、木村は泰然として見送る。一ストライク。
 ……追いかける展開で、しかも残されたアウトカウントは一つという状況で、木村は堂々と見送った。ガムシャラに振るのは分かるが、相手の意図が掴めないので気味悪さを覚える。
 二球目。外角低めへ逃げて行くシンカーを投じるが、木村はこのボールをカット。打球は三塁側のスタンドに飛んでいった。これで形の上では追い込んだが、全く追い込んだ気がしない。あの満塁ホームランを打たれた時も二球で二ストライクと追い込んだ状況だった。苦い思い出が否が応でも脳裏に蘇る。
 三球目。バックドア気味に外から切れ込むスライダーを投げてみたが、これもカットされる。続けて内角高めにストレートを投じるが、これは外れてボール。カウントは、一ボール二ストライク。岡野は木村が何かを待っているような気がした。
(……スローカーブ、かな)
 ここまで満遍なく投げているが、唯一スローカーブだけはまだ投げていない。相手がスローカーブ待ちだとしたら、どう攻めるか。相手の望み通りにスローカーブで勝負するか、それとも別のボールで仕留めるか。ただ、木村は自分が求めるボールでなければカットで逃げれる技術があり、球数が嵩む可能性も否めない。これ以上疲労が蓄積すれば、不慮の事故が起きないとも限らない。
 岡野は新藤の出したサインに全てを委ねるつもりだ。果たして、新藤の答えは。
 少しだけ間を挟んで、新藤の指が動く。サインは、スローカーブ。相手がこの球を待っていると承知した上での選択だ。但し、真ん中低めからボールゾーンへ落ちていく感じであった。こちらも馬鹿正直にストライクゾーンで勝負はしない。あわよくば空振り、または上っ面を叩いてゴロを打たせるのが理想だ。
 努めて、と言うよりはいつも通りに。岡野は一つ息を吐いてから投球動作に入る。
 しかし―――!!
 ボールが指先から離れた瞬間、「これはヤバイ!!」と直感した。疲労で握力が弱まったか、タイミングが若干ズレたか、腕の振りがブレたか。原因は幾つか考えられるが、いずれにしても脳内で警鐘が激しく鳴らされていた。指先から放たれたのは、回転が申し訳程度にかかったスローカーブ。それもストライクゾーンど真ん中。正に“打って下さい”と宣言している失投だった。
 嗚呼、どうしてこのタイミングで失投が出るんだ。岡野は自らを恨んだが、時既に遅し。手から離れてしまった以上は「待った! 今のナシ!!」と止められない。岡野の目には、白球が放物線を描いてスタンドまで飛んで行く光景がありありと見えた。折角みんなが死に物狂いで掴んだリードが、瞬く間に水の泡となって消えてしまう……悔やんでも悔やみきれない一球となること間違いなしだ。
 野手のみんなに何と言って詫びればいいか。決して油断していた訳でも気が緩んでいた訳でもない、むしろいつも以上に気持ちを引き締めていた筈[はず]だったのに一体どうしてこうなったのか。逆に、平常心で臨まなかったからこういう結果になったのか。
 岡野が自責の念に駆られている間も、白球はお構いなしに進んでいく。新藤もこのタイミングで飛び出した失投に目を丸くする。そして、木村は待ってましたと言わんばかりに力強く右足を踏み込んできた。体を捻って勢いをつけ、ど真ん中に吸い寄せられるボールへ自らのバットを鋭く振り出す。
 頼む、お願いだから当たらないで―――!! 藁[わら]にも縋[すが]る思いで祈る。
 白球がベース付近に差し掛かる。躊躇いなくスイングされたバットは無防備なボールを確実に捉えるべく、猛スピードで進んでいく。タイミングはバッチリ。万事休すだ。
 そして―――ボールがベースの上に達した。振り出されたバットも全く同じタイミングでベースの上に達する。しかし……両者は交わることなく、バットはボールの下を通過していった。
 絶好球を捉え損なった木村は目を点にして、勢い良く振り出した反動でやや体勢を崩して左膝を地面に着けた状態で固まった。阻まれることなく前へ前へと進んでいったボールは、新藤のミットに音も無く吸い込まれていった。
(……え。何、どうなっているの?)
 当初、岡野は目の前に広がっている状況を理解出来なかった。百パーセント被弾したと覚悟したのに、自分の想像を遥かに越える結末を迎えた。ここまで四打席全てで打ち込まれ、さらに自分史上最高のボールを完璧な形でホームランにした、あの木村が絶好球を空振り。どうして? という気持ちが真っ先に浮かんだ。
「―――ストライクアウッ!!」
 頭が真っ白になっていると、主審の声が耳に飛び込んできた。どれくらいの時間ボーっとしていたのだろうか。恐らくほんの一瞬のことだろうが、岡野にとっては凄く長い時間のように感じた。
 直後、三塁側ベンチから大阪東雲のメンバーが出てきた。目に涙を溜めていたり唇を噛んでいたりと、皆一様に悔しさを滲ませていた。ふと気付けば、一塁側ベンチからもチームメイトが続々とグラウンドに出てきていた。こちらはヒマワリのような弾けんばかりの笑顔を咲かせていた。
「ほら、行くぞ!!」
 背中をポンと叩かれて、岡野は我に返った。状況を呑み込めずフリーズしていた岡野だったが、続々と両軍ナインが整列していく光景を見て、ようやく自分が木村を三振に仕留めた事を理解した。
 岡野は慌ててホームベース付近に並んでいる味方の列へ合流する。ふと、向かいの選手と目が合って、何だか気まずく感じて目線を少しだけ落とす。
「互いに、礼!!」
「「ありがとうございました!!」」
 スタジアム内に試合終了を告げるサイレンの音が鳴り響く中、下げていた頭を上げた選手が向かいの選手の元へ歩み寄り、握手やハグを交わして互いの健闘を讃え合った。岡野も夢見心地ではあったが、相手から握手を求められたので右手を差し出す。握手をしながら岡野は相手の顔を見ながら、「日焼けした肌と真っ白な歯のコントラストは高校球児っぽい」とか「負けた直後なのに爽やかな笑みを浮かべるなんて凄いなぁ」と多少ズレた印象を抱いていた。
 球場全体から両校ナインに向けて温かい拍手が送られる。握手を終えて去っていく相手の背中をじっと見つめながら拍手の音に聞き入っていると、隣に居たチームメイトから肘打ちが入る。ハッとした岡野はみんなから少し遅れてバックスクリーンの方に体の向きを変える。
『ご覧の通り、五対四で泉野高校が勝利致しました。勝利しました泉野高校の栄誉を讃えて同校の校歌を斉唱し、校旗の掲揚を行います……』
 ウグイス嬢のアナウンスが終わると共に、校歌のイントロが流れてきた。タイミングを合わせて岡野は校歌を歌い出すが、隣の柳井が大きな声で歌い始めたのでそれに倣って声のボリュームを上げる。
 甲子園で、母校の校歌が流れている。
(……あぁ、本当に勝ったんだな)
 いつもより声を張って校歌を歌っている自分の姿を思い描いて、ようやく試合に勝った事を実感した。勝者のささやかな余韻に浸りながら、岡野はこの一時をじっくりと噛み締めていた。
 時刻は既に七時を過ぎており、センバツでは異例となるカクテル光線に照らされながら校歌斉唱という形で長い一日は幕を下ろした。

 * * *

<以下、試合後の談話>

○泉野高校・桑田監督
―――昨年夏の覇者である大阪東雲を相手に、見事な逆転勝利。今のお気持ちは?
「選手達が本当によく頑張ってくれました。その一言に尽きます。私はただ見ていただけです」
―――五回表の守りの場面、先制された後にノーアウト二三塁の状況で伝令を送られました。その意図は?
「私は野球に関して門外漢ですが、そんな私でも選手達が明らかに浮き足立っているのは分かりました。『普段通りにやれ』と、それだけ伝えました」
―――次の試合に向けて、抱負を。
「選手達が試合に気持ちよく臨めるよう、善処する。それだけです」

○泉野高校・新藤選手
―――六回裏の攻撃、起死回生の逆転ホームランは本当に素晴らしい一発でした。
「自分の読み違いもあって四点も取られ、前の二打席でも三球三振に倒れ、不甲斐ないと感じていた。そんな中で、味方が必死に繋いでくれた。捲土重来のチャンスに、『絶対打つ』と強い気持ちで臨んだ。打ったのはフォーク。体が上手く反応してくれた。本当に、打てて良かった」
―――前評判を覆す、見事な勝利でした。その勝因は?
「岡野が本当によく粘ってくれた。四点取られたが、もっと失点を重ねていてもおかしくなかった。バックの守備にも助けられた。チーム一丸となって諦めず頑張ったからこそ、掴んだ勝利だと考えています」
―――次の試合に向けて、抱負を
「相手がどこになるか分かりませんが、自分達の野球を貫いて全力でぶつかるだけです」

○大阪東雲・喜多川監督
―――夏春連覇を掲げて乗り込んだセンバツの舞台で、まさかの初戦敗退。率直なお気持ちを聞かせて下さい
「選手達には『相手がどこであろうと全力で当たれ』と言い聞かせていたつもりでしたが、私も含めて驕りや緩みがあったのだと思う。完敗です」
―――敗因はどの辺りにあるとお考えですか?
「相手の岡野君をあと一歩のところで攻めあぐねたのが大きかったかと。それと、初回に木村が刺されたことで盗塁を自重したのも、今振り返れば間違いだった。もっと積極的に動いていれば、展開は違っていたかも知れない」

○大阪東雲・木村選手
―――五回表の攻撃、素晴らしいホームランでした。
「監督から『相手のウイニングショットを仕留めろ』と常日頃から言われていたので、それを実践出来たのは良かったです」
―――満塁ホームランを含めて、五打数四安打と一人気を吐いていた。
「四安打よりも、僕自身は最後の打席が本当に悔やまれる。最後の打席でもウイニングショットに絞っていた。それでも、自分の中のイメージと違っていた為に仕留められなかった。言い訳に聞こえるかも知れないが、本来のボールだったらスタンドまで運んでいた自信があった。失投に対応出来なかったのは、単純に自分の実力不足」
―――不本意な形でセンバツの舞台から去ることになりましたが、夏に向けて何かありますか?
「この悔しさをバネに、夏へ向けて一回りも二回りも成長して甲子園に戻ってきたい」

 * * *

 三月三十一日、第一試合。初戦で優勝候補筆頭の大阪東雲を撃破する大番狂わせを演じた泉野高の次の相手は、上州第一。上州第一は走塁が売りのチームで、積極的に盗塁を仕掛けたり果敢な走塁を仕掛けたりと、リスク承知でランナーを一つでも先の塁に進める戦術を特徴としていた。送りバントやスクイズも絡めるなど、抜け目の無い攻撃で貪欲に一点をもぎ取っていくスタイルで、守る方からすれば気が抜けない相手だった。
 一回表。先攻の泉野高は先頭の樫野が一二塁間を破るライト前ヒットで出塁すると、二番西脇が送りバントでランナーを二塁へ進め、続く三番大本は四球を選ぶ。一アウト一二塁の場面で四番新藤がセンター前に弾き返し、泉野高は幸先良く先制点を挙げた。
 その裏、上州第一の攻撃。岡野が投じた第一球からセーフティバントを敢行され、これが決まってしまう。出端からランナーを背負う展開で、続く二番の初球から上州第一は盗塁を仕掛けてきた! だが、これを新藤が素早く反応してランナーを刺すことに成功した。その後は内野ゴロ二つで抑え、まずまずの滑り出しとなった。
 だが、四回表に先頭打者の三番にツーベースを浴びると、上州第一はここで四番に送りバントを指示。これが決まって一アウト三塁の場面で、次の五番バッターがスローカーブを打ち上げて浅めのセンターフライに。犠牲フライには飛距離が物足りないから走らないか……と思ったが、三塁ランナーはタッチアップ!! センターの西脇がすぐさまバックホームしたが、送球が逸れたことでランナーが生還。同点に追いつかれてしまった。
 その後は両者一歩も譲らない、膠着した展開となる。泉野高は何度か得点圏にランナーを進めたがあと一本が出ない。対する上州第一も再三に渡ってランナーを出すものの、盗塁死や走塁死でチャンスの芽を潰してしまう。そのままイニングは進み、遂に九回が終わっても決着がつかず延長戦に突入した。
 十回表、泉野高の攻撃は七回から登板した上州第一の二番手ピッチャーの前に三者凡退に抑えられ、見せ場もなく終了。その裏、泉野高は九回一失点と好投していた岡野から二番手の白玉にスイッチした。
 白玉は入学当初はショートを守っていたが、投手の適性を見出した新藤の薦めもあって野手から転向した、異色のピッチャーだった。投手としての経験は浅いが、一四〇キロに迫るストレートとナックルカーブで力押しするスタイルである程度結果を残していた。
 十回裏は空振り三振一つを含めて三者凡退に抑えたが、十一回裏には先頭の九番バッターに左中間を破られるツーベースを打たれ、ノーアウト二塁のピンチを招いてしまった。一番バッターが一塁線に転がる絶妙な送りバントを決め、これで一アウト三塁。一打サヨナラと絶体絶命の大ピンチとなった。
 打順は二番。二人歩かせて満塁策を採っても、待ち構えているのは四番。それならサヨナラ負けのリスク覚悟で二番と対峙した方が良い、と考えたバッテリーは勝負を選択した。
 だが……白玉の制球が定まらず、三球続けて外れて三ボールとなる。投手転向して経験の浅い白玉はコントロールに自信がない投手なので、ここまでカウントを悪くしてしまえば潔く歩かせる選択肢もある。
 四球目。白玉がモーションに入ったのと同時に三塁ランナーがスタートを切った!! バッターもバットを寝かせてスクイズの構えを取る。万一外された場合バッターは四球となるが、飛び出した三塁ランナーは行き場を失って挟殺となる可能性が極めて高い。このカウントから博打を打たないと踏んだが、まさか勝負に出てくるとは!!
 視線の端で三塁ランナーが走り出すのを捉えた白玉は咄嗟に腕の振りを外角高めに向きを変えた。同様に新藤も立ち上がり、白玉がウエストしたボールを捕球する体勢を整える。
 完璧に外した……誰もがそう信じた。
 しかし―――!!
 白玉が投じたボールはバッターが飛び込んでも当たらないよう大きく外したのだが、傍目から見ても明らかにボールが高かった。咄嗟の出来事だった分だけ制球に狂いが生じたか。
 バッターの方も体を投げ出してバットを伸ばすが、到底届きそうにない。そしてまた、受け止める側の新藤もまた瞬時に立ち上がると懸命に左腕を伸ばす。このボールさえ掴んでしまえば、例えフォースアウトに出来なくても三塁ランナーは元の塁に戻る。投げ出したバットが当たっても、転がった方向次第では命拾いが出来る。ただ、捕れなければ……待っているのは敗北の二文字だ。
 頼む、捕ってくれ―――!! 泉野高を応援する全ての人達の祈りや願いが新藤に注がれる。
 体を、腕を、指の先まで、目一杯まで伸ばす。“絶対に捕る!!”新藤の強い決意が全身から滲み出ていた。
 果たして、白球は―――新藤が差し出したミットから数十センチ先の高さを通り過ぎていく。
 バックネットに直撃したボールがポトリとグラウンドに落ちるのとほぼ同時に、三塁ランナーが頭から滑り込んだ。
 劇的な幕切れと呼ぶにはあまりに呆気なく、泉野高ナインの春は終わりを迎えた。
 歓喜に沸く上州第一の面々とは対照的に、片膝を着いてがっくりと肩を落とす新藤とマウンド上で泣き崩れる白玉。ショートの松田とセカンドの野沢に支えられて白玉が立ち上がると、球場全体から温かい拍手が送られた。
 運命の女神が微笑まなかった、と岡野は思わなかった。これだけ一人一人が精一杯頑張ったのだから力を与えてくれたはずだ。かと言って、上州第一に実力で劣っていたとも思わない。むしろ、拮抗していた。では、両者の勝敗を分けたのは……何だろうか?
 決着を見届けた岡野は他のメンバーと共にベンチを出る。ホームベースを境に向かい合わせで挨拶を交わすと、自陣ベンチの前に整列して上州第一の校歌を直立不動の姿勢で聞く。
(……ああ、負けたんだな)
 聴き慣れないメロディが流れる中、上州第一の選手達が嬉しそうに校歌を斉唱している姿を見て、岡野は自分達が負けたことを実感した。瞳を潤ませたり、悔しそうに唇を噛む仲間達に混じって、新藤だけはじっと前を見据えて立っていたのが印象に残った。

 試合が終わった泉野高ナインはバスで宿舎に戻った。まだ敗戦から時間が経過していないこともあり、悲しみを引きずる部員も多かった。
 荷物を片付け終えると、監督から食堂に集まるように指示があった。新藤の呼び掛けで集まることはあっても、監督がみんなを集めるのは滅多に無かったので珍しいことだった。
 食堂には既に監督が待っており、部員は食堂の椅子に続々と座っていく。全員が揃ったのを確認して、監督がおもむろに話し始めた。
「みんな、今日はお疲れ様」
 一人一人の顔を確かめてから、続けて「よく頑張った」と労いの言葉を掛けた。
「本当に素晴らしい戦いだった。野球のことはあまり分からないけど、手に汗握る展開で“野球って面白い”と心の底から感じた試合だった。最後はああいう形で終わってしまったけど、俺はみんなの戦い振りを誇りに思う」
 試合が終わった後に監督が感想を述べるのも、初めての出来事だった。しかも、べた褒めである。いつにない反応に部員達もやや戸惑いつつも黙って耳を傾ける。
 そこまで一気に捲し立てた監督だったが、直後に一転して険しい表情に切り替わった。
「実は……みんなに黙っていた事が一つある」
 突然の告白に、ざわつく一同。隠し事なんかしないイメージが強かったので、何を言われるのか分からず動揺が広がる。
 監督は一度言葉を切って間を置くと、一つ呼吸を挟んでから意を決した表情で口を開いた。
「……今年度いっぱいで、泉野高を離任することとなった」
 端的に告げられた内容に、全員が言葉を失った。
 確かに、三月は異動の時期である。三月の終わりには新聞に公立校の教師の異動先が掲載され、それを見て初めて担任の離任を知る……というケースも多い。
 それがまさか、監督も含まれているなんて……誰もが考えてもいなかった。ずっとこのままの体制が続くと信じて疑わなかっただけに、その衝撃は計り知れなかった。
「上には『監督が変わると知ったら絶対に動揺するから内緒にしておいて欲しい』と頼み込んだ。そして、センバツの期間中は新年度に入っても引き続き指揮を執る旨の了承を貰った。全ては、みんなが野球に集中出来るようにする為に」
 “俺の仕事は見守りと引率”が口癖だった監督が、裏でそんな事をお願いしていたなんて全く知らなかった。適当そうに見えて案外生徒思いな一面があるんだなと、見直した気分だ。
 監督の方も喋っている内に込み上げてくるものがあったのか、目に涙を浮かべ鼻を啜[すす]り、言葉に詰まった。その姿に釣られて他の部員達からも嗚咽が漏れ始める。
「……俺が辞めると知れば、真面目なお前達のことだから“最後に監督へ餞[はなむけ]の勝利を!!”といつも以上に躍起になるのは目に見えている。でも、それは違うと俺は思う。気持ちが空回りして、絶対に良い結果に結び付かないと思った。でも……お前達は、あの大阪東雲を相手に、勝ってくれた。途轍[とてつ]もない事を成し遂げてくれたお前達を、俺は凄く誇りに感じる!!」
 そこまで言うと、監督の双眸[そうぼう]から大粒の涙が溢れた。その涙を皮切りに、それまで部員達が懸命に堪えていた感情が一挙に限界を超え、あちこちで泣き始めた。涙腺が決壊して滂沱の涙を流す部員達の姿を目の当たりにして、感情の起伏に乏しい岡野も胸がギュッと締め付けられる思いになった。
 監督はポケットから取り出したハンカチで顔を乱暴に拭うと、笑みを作って全員に向けて優しく語りかけた。
「……後任には、野球に詳しい人が赴任することになっている。ずぶの素人だった俺とは違って、これからはちゃんとした指導も受けられる。泉野高から離れるけど、どこに行ってもお前達のことは応援するからな!」
 伝えたい事を全て言った監督は、体を半回転して全員に背中を向けた。その背中が、小刻みに震えているのを岡野は見逃さなかった。
(……もっと、この監督と一緒に野球をしたかった)
 岡野から見た監督は、“グラウンドの端っこに立っていたり片隅に置かれたパイプ椅子に座っていて、常に腕組みをしながら練習を眺めている”という印象が強かった。練習中も練習外も監督から声を掛けられた記憶はあまり無い。指導者よりは傍観者の方が当てはまる気がする。
 でも、そんな付かず離れずの距離感が岡野にとってちょうど良かった。
 よく分からないまま的外れな技術を教えられても迷惑だし、経験に裏付けされた体育会系特有の熱血指導も鬱陶[うっとう]しい。かと言って、練習中に新聞を読んだり携帯電話を触ったりと興味が無いことを全面に態度で示されても何だか面白くない。……何度か椅子に座っている時に舟を漕いでいる姿に遭遇したが、こちらも授業中意識が飛んだ事が『断じて無い!』と言い切れないので、お互い様だと勝手に解釈している。そう考えると、これまでの野球人生で一番合っている監督だったと思う。門外漢だと分かっているからこそ、邪魔をせず遠くから見守ることに徹してくれた。その配慮が今振り返れば、とてもありがたかった。
 けれど……だからこそ―――!!
(……もう少しだけ、自分達の野球を見ていて欲しかった)
 人は、失ってから初めて失ったものの大切さを知る。岡野自身手を抜いた事は一度も無かったが、もっと手を尽くしていれば結果は違っていたかも知れないと考えると、悔しくて悔しくて堪らなかった。
 岡野の頬を、一筋の涙が伝う。暫しの間、控え室は部員達の泣き声に包まれていた。

 数日後、金沢に戻った泉野高ナインはいつもの日常を送っていた。監督は甲子園から帰ると赴任先の学校に移り、新しい監督が着任する始業式の日までは代理で別の先生が日替わりで受け持つこととなった。部員が自主的に練習するのは前と変わらないが、毎日見守る人が違うのはまだ少しだけ慣れなかった。
(……あの舞台で、投げていたんだな)
 変わり映えのしない母校のグラウンドをランニングしながら、岡野はぼんやりと考えていた。
 センバツはいよいよ佳境を迎え、昨日行われた準決勝では出場三十六校から決勝に進む二校に絞られた。日本一の栄冠を賭けて、今この時に遠く離れた聖地で激闘が繰り広げられていることだろう。
 自分達があの場所で大阪東雲と対戦して勝利した事がまるで嘘だったように思うことがある。まやかしではなく、確かに甲子園の土を踏んでいたのだ。その証拠に、甲子園の土が詰められた小瓶が岡野の部屋の勉強机の上に置かれている。“飾る”のではなく“置いてある”のだ。岡野の中では、あの場所に居た事を誇るのではなく、出場した者全てが貰える参加賞みたいな位置づけだった。
 その昔、テレビで負けた高校の選手が泣きながら土を掻き集める姿を「あれは一種のセレモニーみたいなもの」と冷めた感じで見ていたが、当事者として経験した今では自分が間違っていたと考えを改めた。あの土は何でもない土かも知れないが、高校球児にとってあの場に居た事を示す唯一無二の価値がある代物なのだ。だからと言って自慢する気にならないが。
「おー、岡野」
 岡野を見かけた元クラスメイトが手を振ってきた。岡野も軽く手を振って応じる。
 金沢に帰ってきてから、声を掛けられることが増えた。同じクラスのチームメイトだったり近所の人だったりと些細なことだけど、これも甲子園に出た効果が出ているのだと思う。まぁ、それも一月すれば忘れるだろうと割り切っていた。別にちやほやされたいなんてこれっぽっちも思っていないし……前言撤回、これを機に可愛い女の子が声を掛けてくれるのは大歓迎、ウェルカムだ。でも、そうした子はみんな新藤の元に行く。現実とは非情なものだ。
 今回のように、学校で手を振ったり声を掛けたりするのは顔を知っている男子生徒だけ。美少女がネット越しに練習している姿を熱いまなざしで見つめる、マンガみたいな展開は一切無し。ちょっとくらい夢を見ても罰は当たらないと思うのだが。

 こうして、今日も何の波乱も起こらないまま練習を終えた。
 着替えを済ませ帰り支度を整えて部室を出ると、偶然新藤と鉢合わせした。どうやら新藤の方もこれから帰るらしい。
「これから帰るん?」
「あぁ」
「じゃあ一緒に帰らんけ?」
「いいよ」
 短い言葉のやりとりを交わした二人は、それから肩を並べて歩き始める。
 自転車で通える範囲の生徒は自転車通学だが、大半の生徒はバスを利用して通っている。岡野も新藤もバス通学組だった。
 校門を出た二人は押しボタンのある信号が青になるのを待って、横断歩道を渡って向こう側の歩道へ。学校の向かいにあるパン屋の駐車場にはバス待ちの生徒が大勢居た。繁華街の片町・タテマチへ行くにも、在来線の始発である金沢駅へ行くにも、このバス停から乗るしかない。方向は違うが、岡野も新藤も目的のバスが来るのを待つ。
 バスが来るまで手持ち無沙汰なので、岡野の方から話を振った。
「……新しい監督って、どんな人なんかな?」
「さあ。来てみないと分からん」
「あと少しで新入生も入ってくるな」
「……そうやな」
 分かりきったことではあるが、淡々と応じる新藤。四月は変化の月だ。新入生が加わり、クラスも変わり、先生も変わり、顔触れもがらっと変わる。それが良い方に作用することもあれば、悪い方へ転がることもある。でも、それはその時になるまで分からないことだ。
「でも、変わらんこともある」
 そこまで言うと、岡野は突然口を噤んでしまった。自分がこれから発しようとした言葉が、あまりに恥ずかしい事だと気付いたからだ。
(自分達が、自分達であることだ)
 恐らく、監督が変わって野球部の方針が変わっても、自分はこれまで通り程々に頑張ることを続けていくに違いない。限界を超えて練習したせいで怪我をする、なんて本末転倒だ。ゲームみたいに練習で稼いだポイントを割り振って能力が上がる、そんな端的かつ劇的な成長はまず起こり得ない。地道に努力を重ね、時には一進一退を繰り返しながら、コツコツと石を積み上げるように成長していくのだ。
 ……こんな分かりきった事を今更改まって言う必要が無いと寸前で気付いた岡野は、それきり口を閉ざしてしまった。
 それから二人は喋らず思い思いに過ごしていると、先に新藤が乗るバスが到着した。赤色の車体の真ん中にある扉が開くと、そのバスを待っていた生徒達が続々と乗り込んでいく。新藤も荷物を担いで乗車口に向かう。
「岡野」
 ぼんやりしている所に、新藤が不意に振り返って声を掛けてきた。
「これからも変わらず、よろしくな」
 言い終わったタイミングで扉が閉まり、バスは発車していった。
(……ずっりいなぁ)
 自分が伝えたかった事をさらっと言うなんて、ズルイ。主人公補正でも掛かっているんじゃないかと疑いたくなった。足元に転がっていた小石を蹴飛ばしてささやかな抗議を表す。……まぁ、仕方ないか。王道を往くスターだもん。
 凡人は凡人なりに、やっていくだけだ。進むスピードは違うけれど、足を止めなければ前には進んでいく筈だ。
 そうこうしていると、岡野が乗るバスが滑り込んできた。乗車口が開かれると岡野は吸い込まれるように車内へ乗り込む。席は空いているから座れそうだ。
 今日のご飯は何かな。肉だといいな。そんなことを考えながら窓の外を眺めていると、バスは発車した。



   (終)



 この作品は『サインは、スローカーブ』の続編となります。
 今回もタイトルも前作同様、山際淳司さんの小説『八月のカクテル光線』をモチーフにしました。短編集『スローカーブを、もう一球』に収録されておりますので、機会がありましたら是非読んでみて下さい。

 『小説家になろう』と『カクヨム』で連載形式で書いていましたが、完結に至るまで十ヶ月も要してしまいました……当初「今年の初めには完成させたいな」と思っていましたが、年末年始はのんびりしている間に終わってしまい、「今年の十連休中には完結させる!」と意気込んだものの遊び過ぎて進まず……でズルズルと後ろ倒しになりました。本当にすみません。
 前作の登場人物は芸能事務所Aのアーティストで統一しましたが、今回は別事務所のアーティストのメンバーを当てはめてみました。ちなみに泉野高関係者は前作と同じ事務所のグループで統一しています。
 当初は『野球に疎い監督が甲子園出場決定で野球に詳しいコーチ(イメージ的にはダイヤのAに登場するコーチ)を雇う→従来の方針と大きく違いが生じて困惑する部員→様々な葛藤を乗り越えて一致団結する一同』みたいな展開も考えていたのですが、自分の手に負えないと賢明な判断を下してボツに。対立軸をすっきりさせたのは良かったと今は思います。

 前作『サインは、スローカーブ』は二万字弱でしたが、今回はそれを三倍増の六万五千字。……最初は「前と同じくらいの文章量」を想定していたのですが、書いていく内に膨らんでしまいました。どうしてもノってくると色々と加えたくなる性分ですので、こればかりは仕方ないと諦めていますが。
 書き始めた時、オチと九回裏の終わらせ方は全くの白紙でした。そんな見切り発車だから完結に時間が掛かるんだ……と自分で自分を責めたくなるポイントです。
 それでも、五回表と六回裏の攻防に関しては、自分でも書いていてテンションが上がりました。物語の熱が筆に乗り移ると自然と文章が増えるのは別に良いのですが、もっと別の場所の文章を削れば良かったかな……というのが反省点です。

 岡野と新藤の物語に関しては、これで完結……の予定です。
 この作品が生まれたのは、『サインは、スローカーブ』を執筆している段階で「もし続編を書くならば、こういう展開にしたいな〜……」と発想が膨らんだのがキッカケでした。言わば“ボーナスステージ”的位置づけですので、“ボーナスステージのエクストラステージ”はありません。
 そもそも、泉野高の実力は“石川県内でベスト16に食い込めるかどうか”レベルですので、前回勝利した航空能登も“二十回対戦して一回勝てる”感じでした。県内三強には到底歯が立たない……は前作でも書いています。ですから今回対戦した大阪東雲に関しては“一万分の一”の確率を拾った……という認識です。
 ここまでドラマティックな話を書いた以上、この話を上回るだけの作品を果たして書けるか……と言われれば、正直自信がありません。私自身が「書いてみたい」と思えるような構想が浮かべば別ですが、今段階では「無い」と思います。

(2019.07.06. up.)

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