遠前町にあるレストラン『ブランネージュ』。十年程前にこの地に店を構えてから確かな味と丁寧な接客で着々とリピーターを増やしていった。
フランス語で“白い雪”という意味の通り、白を基調とした洋風の外観は住宅街の中に自然と溶け込み、訪れた客が敷居の高さを感じさせることは一切ない。
料理は極力価格を抑えていながら食材に関しては全くの妥協をしていないので、リーズナブルでありながら最高の味を堪能出来ると評判になっている。
それに加えて細かな部分にまで行き届いたおもてなしで、来店されたお客様は建物に足を踏み入れてから帰られるまで実に心地いい時間を送ることが出来る。
そしてこの日もまた一人の客が来店した。栗色の長い髪が印象的な、活発そうな女子高生という感じか。
時間はランチタイムも過ぎた昼下がり。今でこそ空席があちらこちら見受けられる程度だが、ピークタイムはこんな状況ではなかった。
先日ブランネージュの特集記事が地元の雑誌に掲載された影響からか、正午を迎える前から店内は超満員となってウェイターは足を止める暇もなくフロアを動き回っていた。
「いらっしゃいませ」
駆け寄ってきた店員を手で制し、慣れた風にスルスルと空いていた窓際の席に座る。柔らかな陽光が大きく作られた窓から降り注ぎ、艶のある髪の毛がキラキラと光っている。
「シェフの気まぐれサラダで」
「かしこまりました」
どうやら店のことをよく知っている客らしい。店員も客がよく知っている人物と認識しているらしく、注文を受けるとすぐに下がった。
運ばれてきたサラダは空色の器の中に様々な色の野菜で彩られていた。客はまず出された料理をじっと見つめ、そして箸を取る。
契約した農家から届けられる朝採れの野菜の味は格別だった。瑞々しさは失われていないし、歯応えも申し分ない。仄かな甘みも感じられる。
かけられているドレッシングもなかなか。野菜本来の味を損なわず、それでいて絶妙なアクセントとして存在感を発揮していた。この柑橘系特有の爽やかな後味……隠し味は柚子かな?
一人サラダについて色々と考えている客の元へ、髭を蓄えた細目で長身の男性が近づいてくる。白色のコックコートを身につけていることから推察するに、シェフか。
と、客が顔を上げて男性に向かって声をかける。
「店長。お昼食べに来たよ」
どうやら声をかけられたのはこの店の店長の安藤。
「七辻……お前、本当にウチの店好きだな」
七辻と呼ばれた客の方も実はこの店で働いている店員だ。普段はウェイターを務める一方、仕事が休みの日には時々こうして客として店を訪れている。
「え、うん、まあね」と七辻は言葉を濁しているが、この店が好きということに違いはないみたいだ。
「ここの店がこの辺りだと一番美味しいし」
その言葉を耳にした安藤はとても驚いた表情を見せた。
「お。懐かしいな、その台詞」
安藤の思わぬ発言に首を傾げる七辻。どこら辺が懐かしいのかさっぱり分からなかった。
「ウチの店ってお客さんの評判も悪くないだろ?」
「いや。昔働いていた先輩がそんな事言いながらよく店で食べていたんだよ」
やや遠い目をしながら話す安藤の顔は、本当に心の底から懐かしさが滲み出ていた。
「へぇ……その先輩って、女の人?」
懐かしさ以外の別の感情が含まれていることを敏感に感じ取った七辻が訊ねた。流石に「好きだった人ですか」とは聞けなかったが。
恋愛事に敏感なのはそういうお年頃なせいなのか、それとも女性の勘か。どちらにしても
「確かに女の人だったけれど、好きだったとかそんなんじゃないぞ」
年の功から七辻の言わんとしていることを察知した安藤がさらりとかわした。とは言うものの、目線が若干天井を向いていることから、真相は果たして言葉通りなのか不明だ。
その答えに対して七辻は深く追求することは無かった。どちらとも受け取れる反応だっただけに、どうとでも考えられる。
最後の一切れを口に運び、綺麗にサラダを平らげた。
「ところで店長、折り入って聞きたいことがあるんだが」
唐突に七辻が切り出す。それに対して安藤は特に怒る訳でもなくニコニコと笑みを浮かべている。
「店長の昔の話を聞いてみたいんだが」
「昔の話……?」
てっきり先程出てきた先輩の話かと思いきや、自分の昔のことを聞きたいとは。安藤は少し驚いた。
これが単なる興味本位から出た言葉ではないことは七辻の瞳の強さが証明していた。
七辻がブランネージュで働きたいと思ったのも、この店の接客のレベルの高さに感銘を受けたからだ。『いつか私もこうなりたい』と胸に誓い、バイトが許される年齢になると迷うことなく求人募集の張り紙がしてあったブランネージュの門を叩いた。
初めてのバイトで右も左も分からない七辻に対して懇切丁寧に指導をしてくれたのが安藤だった。言葉遣いから歩き方、気配りのコツまで多岐にわたった。
最初は失敗ばかりで凹むこともあったが安藤は眉をひそめることなくニコニコと穏やかな笑顔で「大丈夫だから」と励ましてくれた。七辻はその期待に応えようと懸命に頑張り、今では店の常連さんに顔と名前を覚えてもらえるまでに成長した。勿論、七辻はブランネージュにとって欠かすことの出来ないウェイターである。
いつか追いつきたい。七辻は密かに安藤を目標としていた。だが、接客にしても人間としてもまだまだ足元にも及んでないと感じている。
少しでも安藤さんのようになりたい。その気持ちが、安藤の過去について聞いてみたいと思った理由だ。
「……弱ったな、そんな人様に話せるようなことなんかないぞ」
困ったような顔を見せる安藤だが、拒絶しているという風でもない。長い沈黙の後、観念したかの如く一つ小さな溜息を吐いてから静かに語り始めた。
・ ・ ・
この小さな町に新しくレストランがオープンしたという話はあっという間に広がった。
遠前町には商店街があるものの、昔から細々と営んでいる店が多く軒先を連ね、食事が出来る場所と言えば数年前にカレー屋が出来るまでは古くからやっている定食屋くらいしか無かった。
そこにオシャレなレストランが作られた。人々は好奇と期待を携えて店に足を運んだ。安藤もまた家族に連れられて新しく出来たブランネージュを訪れた。最初に建物を見た時に、“洋食屋”というよりかは“レストラン”だなと思った。
初めて味わう本格的な洋食にも衝撃を受けたが、それ以上に安藤を驚かせたのは店員から受けたサービスだった。
ウェイター一人一人が一流ホテルのホテルマンであるように振る舞い、明らかに年少である自分を一人の客として丁重に扱ってくれた。帰り際には玄関先までエスコートされ、店を出てからも頭を下げて見送ってくれた。自分もあんな風になりたいと思うまで時間はかからなかった。
だが、現実はそう簡単に上手くいかなかった。
“無愛想”お客様からもたらされる安藤の印象で多かった意見だ。
自分では笑顔にしているつもりではあるが、他人からは明るい表情に映ってないみたいだった。その為か、人と同じ事をしていてもお客様からの評価はなかなか上がらなかった。
「もう少し柔らかい表情になるといい」と直接言われたことも何度かある。その度に自分がダメだと言われているみたいで、少し凹んだ。
どこをどうすれば良いか分からず、努力しても意識しても改善の見込みすらつかない。一向に良くならない自分の評価に苦しみ、時に悲しくなることもあった。
憧れの姿とは未だ程遠く、失敗やミスで先輩から叱責されることも多い。理想に向かって突き進んでいた自分は、いつしか怒られないよう小さくまとまっているのに気付かなかった。
ある日、ちょっとしたトラブルに安藤が遭遇した。
他の人が注文を受けた料理を席に届けたところ、お客様が怪訝な表情を浮かべ「注文したものと違う」と言われた。オーダーミスだった。
「大変申し訳ございません。すぐにお作り直します」
心の底から申し訳ない気持ちで頭を下げた。しかし、お客様の方は空腹であることも重なって怒り心頭のご様子。
自分としては精一杯謝罪の気持ちを込めたつもりであったが、それは怒っているお客様の心にまで伝わらなかった。
「言葉に心がこもってない!」
どうやら無愛想な態度に取られたことで感情がさらにヒートアップしてしまったようだ。段々と言葉遣いも荒くなり、声のトーンも上がっていく。
「大体、本当に悪いと思っているなら、そんな平坦な顔なんか出来ないはずだ!そういう気持ちでいるから、こんなミスを犯すんだ!あー、お前の顔を見ているだけでこっちがイライラしてくる!」
お腹が空いてイライラしているのは分かる。注文を間違われて腹が立つのも理解出来る。でも、顔だけで悪く言われるのはどう考えても納得がいかない。
ムッとしたのが顔に出たのか、お客様がさらにまくし立てる。一方的にガンガン怒鳴られてこっちも少しイライラしてきた。……どこまで耐えなければいけないんだ。
すると一つの影が安藤とお客様の間に割って入る。
「真に申し訳ございません!!」
間髪入れず腰から直角に曲げて最敬礼。それに倣って安藤もまた深々と頭を下げる。
呆気に取られて立ち尽くすお客様に対して頭を下げた店員がさらに畳み掛ける。
「こちらの手違いでお客様のご注文を間違えてしまいました。只今お客様の料理をお作りしておりますので、もう暫くお待ち頂くことは出来ないでしょうか」
低姿勢でありながらはきはきと、それでいて本当に大変なことをしてしまったという声色でお客様に事情を話す。
真摯な態度に、頭に血が上っていたことに気付かされたお客様が一転してトーンダウンする。
そこへ料理を持って店長が直々に謝罪。その場を穏便に収めることが出来た。
トラブルに巻き込まれて意気消沈している安藤は少し気分を紛らわす為に店の裏手へ出た。
(……一体、オレは何をやっているんだろう)
一生懸命お客様を喜ばせようとしているのに、その気持ちは伝わらない。一方的に罵られて一瞬ではあるがイラッとしてしまった。
あの場で誰かが間に入ってくれなければどうなっていたか分からない。逆上したオレが何かやっていたかも知れない。
何も出来ない無力感と過ちを犯しそうになったことの罪悪感と自己嫌悪が、落ち着いた自分の身へ一挙に押し寄せてくる。感情が昂ぶった影響からか涙が滲んで零れ落ちそうになる。
「よ、安藤」
背中から声がかかる。琥珀色の長い髪の毛に、シュッとした顔立ち。そして力強い大きな瞳の女性。
先輩ウェイターの霧生夏菜。キビキビと動くし頭の回転も速い、それに自分で厨房に立って賄いなんかを仲間達に振舞うこともある。
あの日、ブランネージュに初めて訪れた時にオレを一人の客として応対してくれた人だ。
密かにこの人を目標にしている。バイト未経験の安藤を懇切丁寧に指導してきたのも霧生で、その期待に応えようと今日まで頑張ってきた。
「どうした?そんな暗い顔をして。らしくないぞ」
ニコッと笑うと太陽に向かって生き生きと咲いている向日葵のようで、見ている方も釣られてつい笑顔になってしまう。でも、今日はそんな気分ではない。
らしいって何ですからしいって……霧生さんの目に自分はどう映っているのですか。
「……霧生さん。オレってこの仕事向いていないんですかね?」
思い余って悩みを霧生さんにぶつけてみた。もし『向いていない』と言われたら、スッパリ辞めようとこの瞬間決めた。
続けていくだけの自信が揺らいでいる中、霧生さんからは予想外の答えが返ってきた。
「安藤は向いていると思うよ」
憧れる霧生さんの言葉の意味が、すぐに理解出来なかった。
だって今の今までお客様から無愛想だの言葉に感情が込もってないだのお叱りを受けていたんですよ?
「私だって最初の内は散々だったよ。『言葉遣いが荒い』だの『動きが雑』だのお客様から言われて傷ついて。でも、徐々に私の良い点を見つけてくれるお客様も増えていって、少しずつ自信がついてきたら私のことを酷評する人もいなくなっていったもんだ」
細やかな点までよく気の利く、接客をさせれば店で右に出る者がいない霧生さんでさえそんなことを言われていたとは。今の姿からは想像もつかなかった。
「安藤は腐らずに一生懸命よく頑張っている。大丈夫。その姿勢を貫いていけば、いつかきっとお客様は分かってくれるさ」
霧生さんは言いたいことを言い終えるとスタスタとその場を立ち去っていった。
もしかして凹んでいるオレを励ましに来てくれたのかな。また溢れてきた涙をぐっと拳で拭い、店へと歩みを向けた。
お客様が待っている。少しでも満足して頂けるよう、頑張らなくては。
それから安藤の評価は少しずつ上がり始めた。
“一つ一つの所作が丁寧”“見ていて安心感がある”お客様の間からこうした声が出てくると、それまで挙がっていた“無愛想”というワードは途端に聞こえなくなった。
しかし、悪い声が出なくなったからと言って気を緩めてはいなかった。さらなる高みを目指して日々心を込めた接客をするように心がけた。少しでも霧生さんに近づく為に。
その目標となる霧生さんは色々と事情があって店に顔を出さない時期もあったが、ブランネージュに戻ってきてくれた。
最終的には店を去ることになるが、霧生さんが戻ってきた時にはこれまで以上に店の評判を上げてみせると内心誓い、無我夢中で働いた。
いつしかアルバイトではなく正式な店のスタッフとして働くようになった。
霧生さんがブランネージュを去ってから数年の時が経過した。その頃にはウェイターだけでなく厨房の方に入るようになり、両方を掛け持ちで受け持っていた。
キッチンの方はまだまだ慣れないこともあってベテランコックの足を引っ張らないようついていくのが精一杯だが、ピークタイムもなんとかこなせるまでに成長した。
そんなある日、店長から一人呼び出された。
何事かと思い話を伺うと『今度店を出ることになり、その後釜を君に譲りたい』とのことだった。
始めこの話を聞いた時には固辞するつもりだった。自分よりもベテランのコックも沢山居たし、店を取り仕切るウェイターも居た。そんな人達を差し置いて、自分なんかが店長になれないと思った。
だが店長は続けた。
「経験や技能では君よりも上の人間は沢山いる。でも店長というのは技量だけで務まるものではない。君のひたむきな姿勢は誰にも受け入れられるから、店長にしたいと思った」
その言葉を聞いても、まだ自分には荷が重いという思いが強かった。ホールやキッチンは人並みに出来る程度なのに、店の運営や人の管理など到底無理だと信じて疑わなかった。
後日。ブランネージュで働く全てのスタッフが召集された。パートやアルバイトなど全員が一堂に会すると、フロアがぎっしりと埋まる程になった。そこで正式に店長の退任と後任に安藤が就くが発表された。
この場で誰か反対意見を出した時には潔く店長の座を他のスタッフに譲る、と決めていた。まだみんなから認められてない。その思いが強かった。
しかし―――聞こえてきたのは満座から湧き上がる祝福の拍手だった。
どうして。何故安藤が店長になることを皆認めてくれるのか。それが分からなかった。
困惑する安藤に店長が囁く。
「最初から万事滞りなくやれる奴なんか誰もいない。足りない部分はスタッフに補ってもらえばいいんだ」
刹那、胸の底から込み上げるものがあった。割れんばかりの拍手に応える形で頭を下げると、涙が自然と零れた。
・ ・ ・
「―――……とまぁ、こんな所だ」
かなり端折って話をしてきたつもりだが、時計の針は大分進んでいた。安藤の休憩時間はもう残り少ない。
思えばブランネージュで長く働いてきた。自分よりも長く勤めている人も少なくないが、入った当初から比べればやれることは格段に増えたし、髭も生えた。
話をしていると自分の失敗や苦い思い出も蘇ってきたが、語り終えた後には懐かしさしか残っていなかった。
「店長も最初から何でも上手く出来なかったんですね」
「おう。フロアに居た時も、キッチンに入った時も、店長から店を任された時も、最初は失敗ばかりだった。でも色々な人の助けがあって、何とかやれるまでになった。本当にスタッフのみんなには感謝しかないな」
七辻はグラスに残った僅かな水を飲み干した。水滴が静かにガラスを伝い、テーブルに円い輪を描く。
話を聞いて良かった。“人様に話せることではない”と謙遜するが、この短い時間に語られた内容は傾聴するに値するだけの価値があった。
明日からも、まだ頑張れる。私も店長みたいになれるかな。
と、店の扉に取り付けられたベルが美しい音色を奏でた。七辻がそちらに視線を向けると、ロングの薄い茶色の女性が店内に足を踏み入れていた。私よりも少し年が上だと分かるけど、キラキラと光を帯びて眩しい髪だなと思った。
「いらっしゃいま―――」
来客と気付いて安藤が声をかけるが、その声は最後まで発する前に途切れた。女性の姿を目にした途端、硬直して動かなくなってしまった。
どうしたんだろう?普段目にする店長とは一線を画していて小首を傾げる七辻。
「……霧生さん!?」
フロアに居るスタッフやお客様全員が一斉に安藤の方を向く程に、これまで聴いたことのないくらい大きな声で叫んだ。
霧生さん……もしかして店長の話に何度も出てきた、憧れの先輩?
「よう、安藤。久しぶり」
あまりの大声に驚いた表情を一瞬浮かべたものの、霧生さんは飾らない笑顔で気軽に声をかけた。
その後の店長は完全に舞い上がり、急遽今日のディナータイムを貸切にして霧生さんのお祝いをすると言い出した。七辻に張り紙を扉に張るように伝えると、慌てた様子でキッチンへと駆け込んでいった。これからディナータイムの仕込みに入るとは、相当手の込んだ料理になると見当がついた。
七辻は会計をするために席を立った。隣に腰を下ろした霧生さんは、以前働いていた頃に思いを馳せているのか、店内をじっくりと眺めていた。
憧れていたのはなんとなく分かった。でも好きだったかどうか聞くのは野暮なことだと思って胸にしまっておくことにした。今は空白の時間を埋める方が大事だから。
fin.
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