とある地方球場。秋風が人で埋まったスタンドを爽やかに駆け抜けていく。
スタンドにいる人の多くは高校生であり、グラウンドにいるのも高校生である。高校生に混じってちらほらと大人がグラウンドの一挙手一投足に注目している。
太陽も刺すような夏の日差しと比べて大分柔らかくなってきたが、まだまだ暑い。スタンドで応援する学生達も制服を汗で濡らし、額の汗をハンカチで拭う。
スコアボードには黒板のような深い緑色に映える白色で高校名が書かれたボード。『バス停前高校』『恋恋高校』と書かれていた。
恋恋高校。2年前に男女共学となった高校で、男女比は1対9と圧倒的に女性の方が多い。野球部も昨年になって新設され、男子生徒の約8割が入部している。
創設2年ながら実力は地区の中でも相当なレベルである。今夏行われた大会でも準決勝に駒を進める快進撃を見せつけた。
キャプテン・佐治を中心にして個々の特性を生かした野球と、まとまったチーム力が売りであった。特に佐治に関してはプロ球団からも注目されており、佐治がいなければここまで強くなれなかっただろう。
その佐治が今打席に立とうとしていた。ベンチに背中を向けた背番号2に、一人の女性が熱視線を送っていた。
名前は早川あおい。後ろに下げたおさげがチャームポイント。マネージャー登録で入っているがベンチに座っていることはほとんどなく、身を乗り出して部員に声援を送る。
今はマネージャーだが、今夏まではちゃんとした野球部員であった。実際にマウンドに立っていた。ユニフォームも着ていた。恋恋のエースナンバー1も彼女が背負っていた。
しかし彼女はユニフォームを脱がなければならなかった。全ては暑さが厳しい夏に始まった―――
【彼女はエースナンバー】
*
話は数ヶ月前に遡る。
場所は同じ地方球場。マウンドには先述した早川が登っている。
スコアボードの上部分は1回から8回まで0が刻まれており、今は9回の表で2アウトである。
2塁上には四球で出したランナーが一人いるが、早川の瞳には捕手である佐治のミットしか見えていなかった。
早川はサインに頷くと体を深く沈めて重心を低くし、腕を地面スレスレにまでしならせてボールを放つ。
白球は打者の手前で曲がり、完全にタイミングを外されたバットは空をきった。その瞬間、準々決勝の試合が終了した。
この試合では早川の持ち味である変化球が敵の打ち気を上手く散らした。変化球のコントロールが通常以上に利いていた他に佐治の好リードが光った。
初めての公式戦にも関わらず部員の中に浮いた気持ちは全くなかった。普段通りのプレーを心がければ、準々決勝の敵もそんなに手強いとは感じなかった。
早川自身もマウンドに上がると胸が張り裂けんばかりに緊張していたが、マスクを被っている佐治がニコッと笑みを浮かべたことで、肩の力が少し抜けた。
一巡目はストレート主体の投球、二巡目からは変化球を織り交ぜた投球でスコアボードに0を次々と刻んでいく。
そして打線も奮起した。動きが硬い相手のエラーにつけこんで初回に2点を先制すると、3回・6回にも1点を追加して早川を援護。理想的な試合運びであった。
エースナンバーを背負ったチームのエースは準々決勝終了直後、興奮を抑えずに佐治に話しかけた。
「ねぇねぇ、もしかしたらボクたち甲子園に行けるかも!」
瞳をキラキラと輝かせて話している姿は完全に女になっていた。普段男っぽい所が多い姿からは想像できない。
甲子園は全国の高校球児憧れの地であり、早川も佐治もその一人である。特に早川は甲子園出場に関しては人以上にこだわりがある。
小学校、中学校と女であるが故にチームメイト達から差別や偏見の目で見られていた。特に中学では男子に混じって練習しているにも関わらず選手登録すら許されなかった。
実力はそこら辺の男子部員よりは上であった。直球の球威は負けるが、コントロール・変化球は決して劣らないばかりか地区内でも指折りの実力があった。
中学の進路選択の時でも、野球をやる気満々だった早川だったが、高校では入部すら難しい現実が否応なしに突きつけられた。
周りの環境に正直飽き飽きしていた。固定観念が強すぎるのか、既成概念が作られていないせいなのか。どちらにしても早川にとって野球をする環境としては非常に悪い状況には変わりは無かった。
この環境を打破するには方法は一つだけであった。(甲子園に出て、見返してやる!)この強い思いが早川を支えた。
だが中学からは試合に出ることすら出来ず、高校では入部すら困難である状況に絶望的な状況となった。
そのため半ば野球を諦める形で早川は恋恋高校を受験、見事合格した。
しかし幸か不幸か、恋恋高校に入ったことが早川自身の運命を変えることになった。スポーツ推薦で入学した男子の佐治が野球部同好会を結成したのであった。
偶然にも同好会発足に尽力していた佐治とは同じクラスであった。早川は全てを賭け、佐治に声をかけることにした。
「ねぇ……ボクも野球部に入れてくれないかな?」
「ん?いいよ。むしろ人がいなくて困っていたんだ。」
「……でも、マネージャーじゃないんだよ?」
「大歓迎さ!選手足りないから助かるよ!いつから来てくれるの?」
佐治の言葉に迷いもなければ、『女』という性別の話も出てこない。
今までとは全く違った。小学校の時も、中学校の時も、野球をやろうとすると必ず『女なのに?』という言葉が出てきた。そういう反応が来た時には(いいじゃん、女が野球やって悪いのか)と内心反発に近い思いがあった。
その言わば“男尊女卑”の体質は入る時だけに留まらない。練習中でも、試合の時にも、周りは変なモノを見ているような目をしていた。
だが佐治は違った。偏見も無ければ、早川という価値を低く見ていない。一人の野球人として見てくれていた。
放課後に、実際にグラウンドに行ってみると佐治が待っていた。早速ユニフォームを渡され、着替えさせた。無論誰もいない部室で。
着替え終わると佐治は早川を簡単に土を盛ってあるマウンドに案内した。自らはさらに歩いてホームベースの少し後方にしゃがみ、マスクやレガースをつけ、ミットを早川に向けた。
「まだブルペンは作っていないんだ」と先程まで笑って語りかけていた佐治の顔も、一度ミットを構えると捕手としての、そしてキャプテンとしての顔になっていた。
目の前にいる早川がどのような球を投げるのか、制球力はどのくらいあるのか、持ち球は幾つあるのか。その厳しい眼差しは早川を捉え、彼女の実力を確かめていた。
変化球を交えて30球ほど投げたところで、佐治が腰を上げた。ミットを外した顔には笑みが浮かんでおり、マウンドの方へ歩んできた。
「なかなかいいボールだったよ。球速は男性には負けるけれど、コースを突いていけば簡単に打たれない。これからよろしくな、早川。」
佐治はすっと手を差し出してきた。早川も手を差し出して、互いに握り締めた。
ここに全国で唯一の女子高生ピッチャー、早川あおいが誕生したのであった。
話はその時から1年後の夏に再び戻る。
準々決勝の試合を完封した早川も、流石にスタミナが限界だったのか投げ終わった直後は疲れきっていた。
明日は休養日だが、明後日には準決勝・明々後日には決勝が控えている。大事な試合が続くため疲れはなるべく残さないように配慮が必要である。
部員達はユニフォームから制服に着替えると、スタンドへと移動した。準々決勝二試合目の勝者と明後日に対戦することになるため、相手チームの研究が必要なのである。
スコアボードの高校名には『あかつき大付』の文字が見える。甲子園の常連高として名を馳せており、実力も選手層も設備も恋恋高校とは桁違いである。当然地区予選でも向かうところ敵なしである。
さらに今年はあかつき大付属史上最強のチームと言われ、全ポジションにおいてスター選手がおり、尚且つ控えも他校で活躍が見込まれる選手が揃っている状態であった。
試合は終始あかつき大付属の一方的な試合展開であった。打っては初回から6点をもぎ取り、守っても好守を連発、投げてはエースの登板ではないにも関わらずランナーをほとんど出さないピッチングを繰り広げている。
まるでスペインの無敵艦隊を彷彿とさせるチームだ、と佐治は感じた。早川も、頭の中でどうやって攻めていこうかと必死にイメージを繰り返していたが、なかなか見つからない。
そうこうしている内に18-0の5回コールドで試合が終了した。
「やっぱ凄いな〜、あかつきは。簡単に勝てそうもないよ。」
佐治は呟くように早川に言った。その体が小刻みに震えている。
それはあかつきという強大な敵を前に怖気づいているのではなく、得体の知れない敵との対峙に武者震いしているようであった。実際、表情に曇りは一切ない。
「大丈夫だよ。ボクが1点も与えないで、みんなが1点を奪えば勝てるって。負ける気しないもん。」
励ますように早川は語りかけた。彼女自身もまた内から湧き上がってくる闘志が抑えられないようであった。
「おっ、言ってくれるね。もしも打てなくて負けたら後でグーが飛んでくるかもな。」
「もーっ、ボクはいたって真面目だよ。佐治君こそ打たないと承知しないよ。」
「はい、はい。わかってます。頼みますよ、エース。」
二人は学校へ一度戻り、ブルペンで軽めの調整をした後に家路についた。だが、翌日に待っている悲しい運命を誰も知る由も無かった……
翌日。恋恋高校のグラウンドには全部員の姿があった。
朝早くから練習を始めている部員の表情は非常に明るい。夏の地区予選が初めての公式戦であるにも関わらず、準々決勝まで勝ち進んでいる自分達の実力に自信がついてきた証拠である。
昨日完投した早川はボールを投げずに学校の外を走っていた。キャプテンの佐治は部員が少ないため打撃練習のピッチャーを務めていた。
投げるのにも疲れて一段落しているところに佐治は校門からグラウンドの方へ歩いてくる一人のスーツ姿の男性の姿を発見した。
当初スカウトの人かなと思っていた。実際に何人かのスカウトが恋恋高校に来て、選手の動きを見てメモをとっていることは部員全員が知っていた。今回もスカウトの一人だと軽く思っていた。
そのスーツ姿の人は一年生の部員に話しかけると、今度は一年生の部員が佐治の方向に向かって走ってきた。
「佐治さん。なんか高野連の人みたいなんですけれど……」
高野連。日本高等学校野球連盟の略称で、高校野球を維持・管理する重要な役柄であった。
この漢字にすると三文字になる短い言葉を聞いた瞬間、背筋が凍る思いになった。
佐治はそのスーツの人の元へ走っていく。高野連の人がこの場にまで来るとは只事ではないからだ。
帽子をとって「恋恋高校キャプテンの佐治です」と大きな声で挨拶をした。スーツの人は眼鏡をすっと直すと「高野連の竜村です」と言った。
「なにやら貴校の野球部には女子部員が所属しているみたいですね……。昨日の試合拝見しましたが、マウンドにいたのはどう見ても男子の高校生ではないですよね?」
眼鏡越しに遠い目でどこかを見つめるその表情。遠い言い回し。そしてグラウンドという聖なる場所には場違いなスーツ。この男の態度が気に入らなかった。
佐治は唇を噛んで込み上げてくる感情を抑えて黙って聞いていた。竜村と名乗った男はさらに続ける。
「高野連の規定では女子の高校生が試合出場は勿論、選手登録すら許していません。よって貴校にはそれ相応のペナルティとして 無期限の対外試合禁止 とさせていただきます。」
無期限の対外試合禁止、という言葉を聞いた瞬間、その場に居合わせた部員達は時が止まる思いになった。
大会開催中で、尚且つ準々決勝まで勝ち進んだ状態での対外試合禁止はあまりにも酷としか言いようがない。
今日の今日まで明日のため、明後日のため、そして甲子園のための練習を続け、調整をしてきたのに。女子部員が一人いるくらいで何故そんなに重いペナルティを背負わなければならないのか。何故もっと早くに通知してくれなかったのか。
あまりの衝撃に佐治は言葉を失った。言葉が音になって喉から出てこない。
竜村と名乗った男は言うだけ言うと「それでは」と短い言葉を残して、その場から離れていった。グラウンドにいる部員はまるで蝋人形のように固まったままその後ろ姿を見送るしかなかった。
校門を出て行く際に、学校外のロードワークを終えて戻ってきた早川とすれ違った。すれ違い様に男はちらりと彼女の方を見て、姿を消した。
その後、早川は何が起こったのかを佐治から聞かされた。彼女はどうして良いかわからず、膝を折って泣き出してしまった。
普段から男勝りな性格の早川が弱々しく泣いている様に、皆つられて涙が込み上げ、それを必死に堪えるしかなかった。
次の日。準決勝が行われるはずだった球場。
いつまでたっても恋恋高校ナインに、観客や対戦相手に戸惑いの色が見え出した頃、一本のアナウンスが流れた。
『恋恋高校が一身上の都合により、出場が抹消されたため、あかつき大学付属高校の不戦勝が決定しました。繰り返します―――』
夏休みに高野連から対外試合禁止の解除の通知が届いた。しかし文面には『女子部員の強制退部』が記されており、正に交換条件のように書かれていた。
部員達は反発した。しかしこれ以上自分のせいでチームのみんなに迷惑をかける訳にはいかないと早川自身が部員ではなく、マネージャーに転身した。
*
そして今、ベンチでただ応援している現在の早川がいた。ユニフォームではなく、恋恋高校のジャージを身に纏って。
ふと我に返るとわっとベンチ内が湧いていた。佐治がヒットで出塁したのだ。
ベース上で大きく腕を突き上げるその雄姿に、早川はただ拍手を送るしか今は方法はなかった。
打線は佐治のヒットから続けない。変化球でタイミングをずらされ、打ち損じた打球は内野を越えられずにミットに収まった。
佐治はこの回に一塁ベースから先に進むことはなく、小走りでベンチに戻ってきた。
だがその表情は冴えなかった。戻ってくる時にも、守備につく時にも、特に早川の顔を一度も見ない程である。
これ程まで厳しい表情をしている佐治を見るのは初めてであった。夏の大会の時はベンチにいるとどんな時でも笑っていたのに、人が変わったかのように顔が違っていた。
試合内容は最悪であった。1回戦にも関わらず中堅レベルの高校に苦戦を強いられ、乱打戦の様相を呈していた。
早川が抜けた穴は相当大きかった。投手が早川だけだったので外野手の一人を即興で投手に仕立て上げようとしたが、時間があまりにも足りなかった。
フォームは固まっていない、変化球はほぼゼロに近い、ボールはミットから大きく外れることがしばしば。付け焼刃の投手は脆くも打ち込まれた。
打線も取られた分を取り返すシーソーゲームの展開になった。両チーム共に5回までに二桁得点・二桁失点と酷い有様である。
しかし後半から恋恋高校は窮地に立たされる。見るに見かねた相手チームが三番手の投手をマウンドに送ると、それまでの勢いがピタッと止まってしまったのだ。
此方も投手交代をしたいのは山々なのだが、生憎控え投手がいない。選手層の薄さがここに来て致命傷になった。
新米投手の疲労も重なって点差はどんどん広がっていく。打線も攻略の糸口が掴めない。
そして最終回。スコアボードに赤色のランプが2つ灯った状態で、打席には今日獅子奮迅の活躍をしている佐治。
ヘルメットの下には鬼気迫る瞳でマウンドに立っている投手を突き刺すように睨んでいた。その鋭い眼光に圧されたのか、相手投手の制球が乱れてストライクゾーンにボールが入らない。
ノーストライク3ボールからの4球目であった。ストライクを取りに来た甘い球を佐治は見逃さなかった。ボールを捉えた時の澄んだ金属バットの音が球場に響いた。
が、球場が沸き返ることはなかった。偶然出したグラブに白球が吸い込まれるように入ってしまったのである。
バッターボックスから数歩歩いた時点で、自分の思いが僅か数メートル先で阻まれたことに気付いた。そこから一塁ベースまで歩くことも出来ず、暫くの間呆然と立ち尽くすしかなかった。
選手達は次々とロッカールームに引き上げていくが、どうも戦意に乏しかったのか悔しさが顔には出ていない。
まだ次の大会がある、と楽観視する部員が多いからなのかも知れないが、キャプテンの佐治だけは違っていた。
佐治はイライラした様子でロッカールームに入るなり、声を荒げた。
「お前ら、少し気ぃ抜けているんじゃないか!?」
張り詰めた空気。驚きの表情を見せるナイン達。その中に早川の姿もあった。
「なんなんだ、あのダラダラとしたプレーは。本気で勝ちにいこうとするチームの姿なのか?ふざけんな!」
確かに佐治の言うことは筋が通っている。
点差が広がってしまった7回辺りから選手の顔には諦めの色が出てきており、プレーにも覇気が無かった。
そのため決定的な追加点を許し、相手投手の攻略の糸口を掴めずに大敗を屈してしまった要因になった。しかし選手にはその自覚がなかった。
静寂に包まれた空気の下、さらに佐治は言葉を続ける。
「俺達には確かに来年の夏がある、だが早川は不本意な形でユニフォームを脱がされる結果になってしまった!早川は試合に出たくても出れない気持ちをお前達はわかってやれないのか!?」
佐治はこの大会に人並みならぬ意気込みを持っていたのは周知の事実であった。この試合でも唯一最後の最後まで諦めていなかった。
特に夏休み期間中に行われた合宿では他の部員以上に練習を重ね、マネージャーである早川が止めなければ疲労で倒れかねないまで続けていた。
何故佐治をそこまでさせるのかは誰もわからなかった。佐治も他の部員に話していない。だが、佐治の心には一つの信念を持って練習を重ねていたのである。
“早川を連れて甲子園にまで行き、もう一度彼女にエースナンバーを背負わせてやる”という強い信念を。佐治はそれを今みんなの前で口にした。
早川はごめん、と言い残してロッカールームを後にした。佐治は思いの丈を全て吐き出すと、顔を真っ赤にして長椅子に座って俯いてしまった。
重苦しい雰囲気に佐治の嗚咽がロッカールームに響く。失った刻は戻らないが、この悔しさをバネに必ず早川を甲子園に連れて行こうと全員の心に刻み付けたのであった。
その日の夜、恋恋高校のグラウンドに一人の影があった。
夜間照明もなく、真っ暗闇の中でただ黙々とフェンスに向かって白球を投げ込む。その影は黒一色に塗りつぶされて誰なのかを判別できない。
部員全員は球場で自主解散したのも数時間前の話。こんな時間になっても練習する人などほとんどいない。
手元にあるボールがなくなると、フェンスに当たって転がったボールを掻き集めて再び投げ込む。単調な行程が何回も何回も繰り返され、既に肩で息をしている状態であった。
「こんな時間にどうしたんだ?一人で練習して寂しくないのか?」
影の後ろから声がかかった。ボストンバックを抱えているその正体は佐治であった。数時間前と同じユニフォーム姿である。
ロッカールームにいた時と違い、いつもの佐治に戻っていた。見えない影に向かって優しく語り掛けるが、影は声を出さない。
佐治はボストンバックの中からキャッチャーミットを取り出し、それを左手にはめるとベースの方向へ向かって歩き出していった。
暗闇であってもホームベースの位置は判別できる。佐治は普段座っている場所に腰を下ろすと、再び影に向かって声をかけた。
「そんな場所でフェンス相手に投げ込むようなヤツじゃないだろ?君の定位置はそこだろ?」
マウンドを指差してそこまで来るように指示した。影は佐治の言われた通り、マウンドに登ると雲の隙間から月の光が差し込んできて、その姿が露になった。
その影は恋恋高校野球部のユニフォームを着用していた。だが背番号は入っておらず、欠番といった所だろう。年季の入ったグラブに砂のせいで少し白くなっているスパイクからは相当量の練習をしてきている証である。
髪の毛は後ろで三つ編みにしており、プレーに支障が出ないようにしている。しなやかな細い指に華奢な体つき。
影の正体、すなわち早川あおいであった。
早川の右手にあるボールは既に薄茶色のベールがかかっているくらいに汚れており、目の下は若干赤くなっていた。
「……なんでボクがここにいることがわかったの?」
「夏休み明けに偶然見たんだよ。早川が真っ暗な中で一人黙々と練習している姿を。」
夏休みが明けて間もない頃であった。補習のため練習にも参加できずどっぷり日が暮れた時間に、誰かがフェンスに向かってボールを投げているのを佐治は見たのだ。
部員はグラウンド整備も終えて既に帰宅している。こんな時間に誰が、という気持ちで暗い中を凝視してみると、見覚えのあるおさげが目に飛び込んできた。
そして決定的だったのがその投球フォームであった。普通の人ならば上から投げ下ろすはずであるのに対して、その影は下から投げているのである。
アンダースローの場合、相当な慣れがないとフォームがばらつき、まともに投げることすら難しい。体が覚える程のフォームであるからして、相当な練習量を積んでいる人なのであろう。
その直向きな姿勢に佐治は心が痛んだ。部活の時には献身的なマネージャーとして頑張っている早川も、人気がいなくなってから練習しているとは思いもしなかった。
完全に野球の道を絶たれてもなお、選手として戻った時に能力が落ちていないように努力しているその姿を見て、佐治の心の中に一つの思いが湧き上がった。“早川を連れて甲子園にまで行き、もう一度彼女にエースナンバーを背負わせてやる”と。
その後も早川が一人で練習している姿を見守っていたり、自分が挫けたり気が入らない時には夜に一人で練習している早川の姿を思い出して気を引き締めていた。
月明りが差し込むグラウンドで、ボールが手元から離れた時の音とミットに収まる音、グラブに球が戻る音しか聞こえない。
早川が投げる球を、佐治が何も語らずに全てを受け止めた。二人の間に会話はない、いやいらなかった。
マウンドにいる早川がふと手を止めた。
「……あの言葉、嬉しかった」
佐治は腰を上げた。
「だから私ももっと頑張らないと、って思ったの。みんなに頼ってばかりだと自分が情けなくなっていて……だから。」
早川の目から、月光に照らし出された雫がポロポロとこぼれてきていた。
佐治は黙ってマウンドに歩いていくと、静かに早川の体を抱いて、何も言わずに頭を撫でた。
「何も言わなくていいよ……誰もいないから好きなだけ泣いても良いよ。」
佐治の胸の中で嗚咽がさらに激しくなった。溜め込んでいたモノが全て涙となって瞳から溢れ出てくるのを、佐治はただ優しく抱いていた。
全ての思いを吐き出すと、早川は涙をユニフォームの袖で拭って笑ってみせた。
「ねぇ佐治君、実はとっておきの球があるんだけれど、見てくれない?」
もちろんさ、と佐治が答えると小走りで元の位置に戻っていった。
早川はポケットに入れておいたロージンを手につけ、セットポジションになって大きく深呼吸を一回した。
そして体を小さくたたみ、腕を大きく振り上げ、その細い腕を目一杯しならせて白球を佐治のミット目掛けて投げ込んだ。
早川の細い指から放たれた白球は、佐治が出したミット目指して飛んでくる。
だがホームベースより少し手前辺りで白球はシンカー方向に急激に変化した。球の軌道は早川の武器であるシンカーに似ているようが、違っていた。
初めて見る球の軌道に、佐治のミットは白球を捉えることが出来ない。白球がミットに当たると、捕ることが出来ずに佐治の足元に落ちてしまった。
「『マリンボール』。色々と試行錯誤してシンカーを改良してみたら、やっと武器らしい球になったよ。どう思う?」
はじいてしまった球を拾い、早川に戻すと佐治は笑って答えた。
「素晴らしいよ。こんな球持っているの全国、いや世界でも一人しかいないよ。」
早川は照れくさいのか、フフッと笑った。
「じゃあボクがプロに入ったら、佐治君が専属キャッチャーね。約束だよ?」
「あぁ。絶対プロに入ってやる!約束した以上、守らないとハリセンボンね。」
「ひどーい!」
誰にも邪魔されない世界。真夜中のグラウンドに、和やかな笑い声が響いていた。
地区予選を一回戦敗退という惨敗にチームの士気は一気に高まった。これまで以上に練習に力を入れて取り組むようになり、『甲子園出場』を目指して一途に頑張っていた。
その一方でもう一つ秘密裏に行っていることがあった。高野連への署名運動である。
早川に見つからないように注意を払いながら、野球部員が街頭に出て署名運動を展開していた。時には街頭演説もした。パンフレットも配った。
地道ではあるが、徐々に問題が浸透していき、女性の社会問題を取り上げるNPOも協力したこともあって年末には相当数の署名が集まった。
その署名を高野連に直接届け、高野連もこの問題に対して真剣に考えることの約束を果たした。
頂点で女子部員参加について議論を交わしている間も、恋恋高校野球部に休む暇はなかった。室内でトレーニングを重ね、基礎体力や精神力の向上に励んだ。
早川も勿論これに漏れない。普段はマネージャーとして活動しているが、部員がみんな帰ってからは佐治を相手に自主トレを続けていた。
再びマウンドに上がった時のことを考えて―――である。
そして春がやってきた。
桜の花びらが舞う季節、再びあの男がやってきた。
眼鏡をかけ、上下をスーツに身を固め、明らかに事務系の顔をしたあの男……竜村と名乗った高野連の人である。
進入部員も入って、活気にあふれている中にまた恋恋高校のグラウンドに姿を見せたのである。
竜村という男は「キャプテンをお願いします」と進入部員に頼むと、進入部員は佐治の方向へ向かって一直線に走っていった。
佐治は竜村という名前を聞いてすぐに誰なのかが察しがついた。早速部員達に練習の指示だけ与えて竜村と名乗る男の下へ走った。
竜村と名乗る男は前回同様「高野連の竜村です」とロボットのように自己紹介をした。佐治も同じように簡単な挨拶をした。
「なかなか頑張ったみたいで……私自身感心しております。」
竜村と名乗る男の淡々とした口調に、恐縮ですとしか答えられない。
佐治の言葉が聞こえたのか聞こえなかったのか、言葉を継いだ。
「高野連で協議した結果を本日伝えに来ました。もっとも、当事者を交えて話すのが妥当かと思いますが……」
眼鏡をかけなおす素振りが、少しムカついた。
佐治は早川を呼びに行き、マネージャーの仕事をしていた早川は事態もわからないまま竜村と名乗る男の下へ連れてこられた。
竜村と名乗る男は再び簡潔な自己紹介をすると、話を続けた。
「この度高野連では女子部員の選手登録に関して議論を重ねました。そして結論を申し上げますと―――」
緊張の一瞬である。ここまで積み重ねてきたことが水泡と化すのか、はたまた万事元通りになるのか、この男の発言如何によって決まってくる。
竜村と名乗る男は一呼吸置いて、口を開いた。
「女子部員の選手登録の認可が下りました。よって恋恋高校野球部における早川選手の登録は可能と相成りました。」
間。
歓喜の歓声。
笑顔。
嬉し涙。
ようやく長く辛いトンネルを抜けた、という感であった。この喜びはなんとも言えない感動がそこにはあった。
「おめでとうございます。早川あおい選手の今後のご活躍をお祈り申し上げます。」
竜村と名乗った男はそれだけ言うと、背中を向けて元来た道を戻っていった。
早川は興奮冷めやらぬ状態で部室に駆け込むと、男子部員がいることもお構いなしにジャージを脱いで急いでそこら辺に落ちていたユニフォームに着替えると、そのままグラウンドへ駆け出していった。
そしてブルペンへと猛ダッシュで走っていくと、そこには待ち構えていたかのように完全装備を済ませた佐治が腰を落として待っていた。
「おかえり。」
佐治が声をかけると、涙を浮かべたままの早川は満面の笑みを返した。
また野球がやれる、また試合に出れる、また同じ舞台で甲子園を目指していける……様々な感情が浮かんでは消えていく。
選手として戻ってきた早川を祝福する言葉はこれ以上いらなかった。あとは甲子園に向かって邁進していくだけなのだから―――
7月。空にはまた灼熱の太陽が昇っていた。
早川・佐治にとって最後の大会がこの球場で始まる。泣いても笑ってもこの大会が最後である。
久しぶりに袖を通した背番号1のユニフォームに感極まる部分もある。だが、この背番号1という愛着あるユニフォームをいつまで着れるかの保障もない。
早川にとって実戦は1年ぶりであるが、気負いはない。何故なら彼女はエースナンバーを背負うに値する投手なのだから。
主審がプレイボールを宣告すると、早川は誰にも荒らされていないマウンドの上でセットポジションに入った。
この瞬間から、最後の夏が始まる。結果がどうなったかは知らないが、この2年は彼女達にとって最も楽しかったに違いないだろう―――
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