《闇夜の陰》
「今宵の月は機嫌が悪いようだな。」
一人の侍が黒く染まる空を眺めてこう呟いた。
もう既に日も沈んでおり、そろそろ人々は寝支度に入る時間である。しかしこの侍の瞼はぱっちり開いており、欠伸すらない。
空は漆黒の雲に覆われており、月どころか星すらも見せてくれない。
秋が一段と深まる近頃では月の輪郭の綺麗になり、これを酒の肴にして晩酌をする者もいる程である。
しかしこの侍は今日という日の月を酒の肴にしようという考えは毛頭持っていないようであった。
持っているのは酒を入れる器でも、お猪口でもない。小さな火が灯されている提灯だけである。
これが真丸とした満月が夜空を照らしていれば足下を照らす提灯の必要もなくなるのだが、生憎雲が邪魔して辺りは闇が支配していた。
侍の格好はというと、薄緑色をした鉢巻を頭に巻いて深い紺色で染められた上下。腰には刀二本に脇差一本を帯びている。
その内の一本は備前長船の銘が入っている太刀で、斬れ味・見栄え共に一級品の業物である。
この姿で遊郭に繰り出していく輩はいない。遊郭に行くのであればもっと女性を惹きつけるような煌びやかでお洒落な格好をするであろう。
「致し方ない。拙者一人で参るとするか……」
恐らく月をお供に決戦の場へと赴くつもりだったのか。その背中は何処となく寂しさを感じさせる。
ぼんやりと提灯の灯りを身に纏い、侍は闇夜へと消えていった。
ひたひたと侍が履く草鞋が地面を擦る音のみが響く。
日が昇っている頃は活気あふれるこの通りも、日が落ちた今ではその面影はどこにも感じられない。
軒先を連ねる商店の戸は固く閉ざされており、暖簾を掲げている店などほとんどない。
あるとすれば通りから外れた場所で夜に小腹を空かせた客を待っている出店くらいである。
静けさが辺りを包んでいる。遠くの犬の遠吠えもはっきりわかるくらい静かである。
夜の町を抜けるのは容易なことではない。
通りから長屋が続く小道には詰め所が設置されており、火付け・強盗の類が自分達の町に入ってこないように監視している。
少しでも怪しい者であれば即座に捕縛、翌朝には奉行所に突き出そうという魂胆である。恐らく侍がそこを通ろうとすれば宿無し浪人として翌朝には奉行所の檻の中に入れられるであろう。
こうした監視システムや信頼関係が強く結びついている近所間の人間関係が犯罪を抑止している……のかも知れない。
他にも、町の外れには金と欲望と憎愛渦巻く遊郭がある。
日付が変わる時間が近いにも関わらず、まだ多くの女性が客引きをし、男たちは目ぼしい女がいないか物色している。
一夜だけでも莫大なお金が行き来するこの場所。男にとっては夢を買う場所であり、女にとっては意地と権力のぶつけ合いの場所なのである。
そのような場所では当然些細なことで喧嘩になりやすい。事件に巻き込まれたくない今は、遊郭を避けて通るのが無難だろう。
侍は道幅の広い通りを一人で郊外へと歩いていった。一直線に続いている道を提灯の光に導かれて……
暫く一本道を歩くと、目の前に橋が見えてきた。この川を境にして町と郊外の区別がついている。
町側の川沿いには遊郭が建ち並んでいて、明かりがついている家々が軒を連ねている。今でも人の往来はあるようだ
それに対して粗末な家がまばらに点在していて、他は野原が続いている。対岸の賑やかさとは違って静まり返っている。
侍は二つの相反する光景をつなぐ一本の橋を渡っていた。
さわさわと水が流れる音が心に入ってくる。秘かに波立つ心を川のせせらぎによって徐々に落ち着いていく。
死ぬか生きるかの瀬戸際の前の緊張感が心を波立たせているのであろうが、それも少しは波が穏やかになったような気がした。
が、まだ万全の状態ではないようであった。顔色は決戦の地が近づくにつれて硬い表情となり、一歩を踏み出す足が重たげである。
侍は橋を渡りきると、川沿いに続いている河原への脇道を下りていった。
提灯で照らす足下は心許ない。細い砂利道は歩きづらい上に、脇のある草むらはどこまでが歩ける場所なのか把握できない。
ようやく河原に降り立つと、侍は川の方へと歩みを進めていった。
そして水辺にまで近付いてしゃがみこむと、侍は流れている水の一部を自らの両手ですくった。
手杓の中に溜まっている水はとても冷たかった。水に接している掌の色はみるみる赤色を失って白く変わっていく。
両の手で器を真似て水を溜めているが、ゴツゴツとした人間の手を合わせただけでは必ず隙間が出来てしまう。そして暫く器を保っているだけで水は行き場を求めて手の隙間からしとしとと漏れていく。
侍はそれまで手に溜めて温くなった水の表面を見ていたが、それを川に返した後に新たに水をすくってその水で顔を洗った。
冷水は顔の筋肉を引き締める。顔が引き締まれば心も自然と引き締まる。
いままで呪縛のように心を締め付けていた緊張感から抜け出し、代わりに確固とした覚悟が心に座った。
濡れた頬を雫が流れ、その雫は川へと落ちて自らの全てを川の水と一体になって下流へと流れていく。
この水という存在は不思議である。
水は集まると個々の存在は全て統一化されて一つの水になり、その集まった水がさらに集まると大きな存在になる。
そして最も大きい水の集まりは海である。海は生物を誕生させ、現在でも大小様々な生物が生息している。
反対に最も小さい個として存在しているのは水蒸気であり、水はその役目を終えると水蒸気となって天へと戻っていく。この循環があってこそ地球は生命が生きる星になったのである。
水は高所から低所へと移動する場合、一筋の川を形成する。
初めは糸のように細いかもしれないが流れていくうちに太くなり、下流にまで到達すると対岸が見えなくなるまで大きくなる時だってある。そして最後は海へと通じて長い旅を終える。
そして水は個を主張しない。自らの全てを自然の摂理に委ね、決して拒否したり自を保とうとはしない。例え自分の存在が消滅するとしても、その運命を抗うことなく受け入れる。
こう考えると人間など小さな存在にしか感じられない。人間という存在もまた、自然という大きな動きの中の歯車の一部分でしかない。
「……よし。」
侍は自らに喝を入れるかのように呟いた。その表情こそ先程と同じく硬いままであったが、その硬い中には自分への自信が見えていた。
懐から手拭を取り出して顔を拭いていると、空から雨粒が落ちてきた。
ポツポツと疎らに降っていた雨は次第に筋を作り、暫くしないうちにザーザーと音を立てる程の強い雨になった。
秋雨は体を冷やして体を壊す原因になる。体の調子を崩されると自然と集中力も鈍る。
突然の雨に傘を持ち合わせてないため橋の下にて雨宿りすることにした。
提灯を膝と腕で挟むようにして持ち、少し湿り気を帯びている草の上に腰を下ろす。
ぼんやりとした灯りが闇を引き裂き、その柔らかな光を見ているだけで心を安らげてくれる。また心なしか仄かに温かい。
侍はその光を見つめている内にうつらうつらと浅い眠りに落ちた。
なんとも無用心な格好ではあるが、緊張と不安で深い眠りが襲ってこない今では良い休息になったであろう。
眠りから覚めると雨は上がっていて先程まで空を包んでいた雲の一部は遠くへと去っていた。
そして雲と雲の狭間からは漆の上に金箔を塗したかの如く星が散りばめられている。
雨が止むのを草の下で待っていた虫達が無限に続く闇に自分達の演奏を響かせている。
提灯の灯りは、雨宿りの間に蝋燭が少し短くなっていたがまだ持ちそうである。
侍は立ち上がって袴を手で払い土を落とし、背伸びをして再び闇夜の中へと消えていった。
それから一刻程歩いたであろうか。川の場所から暫く街道に沿って歩いていたが、いつの間にか山へと続いていく脇道に逸れて急な坂道を上っていった。
街道の道はきちんと整備されていて非常に歩きやすかったが、いざ間道へと入っていくとごつごつとした石が散乱していて足元が非常に悪い。
そんな道をさらに進んでいくと道の形すら失われ、獣道と同じような状態の道を先へ先へと突き進んでいった。
途中ぬかるんでいる土に足を取られたり蔓が絡まったり、雨露に濡れた草に触れることで足袋が濡れたりしながらも只黙々と歩いていった。
分岐の道からさらに半刻程歩いた頃、突然暗闇の奥に小さな灯りが見えた。
夜明けが近いわけでもなく、間道に入ってから人家など全くなかった。例え人家の類であったとしても住んでいるのは農民で、農作業は朝早くから行うことが多いので高価な油を使ってまで夜半まで起きているなど有り得ないことだ。
周囲は木々に囲まれていてやや傾斜もあり、人が住めるような土地ではない。そのため人家の可能性は限りなく小さい。
そしてその小さな光に向かって少しずつ近付いていくと、その光の光源が徐々に浮かんできた。
その場所は神社の境内で、廃れた神社の入り口にある格子の入った扉から漏れていた光であった。
神社の境内の少し手前から坂道は突然石造りの階段に変わり、その段を上っていった先には石畳がびっちり敷かれている。
脇には白い玉砂利が敷き詰められているが手入れがなされていないため小石と小石の間から雑草が顔を出している。
また境内によからぬ者が侵入してこないように見張っている狛犬も、その形を留めておらず所々が欠けている有様であった。
建物も酷い有様である。欄干は折れ、縁側の床はところどころ抜け落ち、階段にも苔が生えているので到底人が住んでいるとは思えない。
しかし、現実には人がいる。ただ本当の主(あるじ)ではなさそうであるが。
本来であれば宮司なり神主なりがご本尊を守っているのであるが、中には多数の男がいるらしく騒がしい音が聞こえてくる。
侍は気付かれないように静かに近付き、境内の壁面に耳をつけて中の様子を伺った。
どうやら酒盛りをしているらしく、雑然とした場の雰囲気に混じって澄んだ陶器の音が耳に入ってくる。
数までは把握できないが、少なからず十数人から二十人前後と彼の算盤ははじきだした。
と、その時であった。
「何奴ぞ!」
声の方向を見てみると、松明を持っている男がそこに立っていた。恐らく境内の警護をしている下っ端といったところか。
着ている物は麻布の簡素な服で、鉈を持っている他は武器と思われる物は見当たらない。
侍はすかさず自らが帯びている刀を鞘から抜き放つと、そのまま相手との距離を詰めて瞬く間に袈裟懸けを喰らわせた。
相手は侍の動きにその身を対応させることができず、成すすべなく斬られてその場に突っ伏せてしまった。
その異常に三人程の者がその場に集まってきてしまった。幸いにも中にいる者達は酒宴が盛り上がっているらしく外の異常事態にまだ気付いていない。
一方で外にいる者には侍が敵であることは、侍の足元に倒れている仲間を見てすぐさま判断できた。
彼らは手にしている竹槍を改めて握りなおすと暴れ猪の如く侍に向かって突進していった。
鉈で竹を斜めに割っただけの粗雑な作りであるためそれ程穂先は鋭くない。挙句管理が行き届いていないせいか先端も少し丸みを帯びているので刺せるかどうかも疑わしい。
さらに彼らはまともな訓練を受けていないらしく個が先を争って標的に向かって突っ込んでくる。
侍は多少哀れな気持ちになったが、相手に対して情けをかけて自らが命を落としたのでは元も子もない。
上下に揺れて狙いの定まっていないまま突っ込んでくる三本の竹槍を軽くいなし、直後に刀を返して無防備になっている背中を斬りつけた。
その間侍は一歩たりとも動いてなかった。実力の差が歴然と現れた格好である。
見張りの者が突如現れた刺客の刃の前に倒れていることなど全く知らない建物の中では酒宴が盛んに行われていた。
杯で飲むものあらば枡で飲むものあり、終いには器に注ぐことを面倒に思った輩なんかは徳利に口を当てて酒を飲む有様であった。
酔った勢いで慣れぬ舞を踊って場の雰囲気を盛り上げようとしたり、法螺とも嘘とも判別できない話で笑いを誘ったりと場の雰囲気は最高潮に達しようとしていた。
「ぉーぅ、ちょいと外の者の様子見てくるわ。」
一人の男が立ち上がっておぼつかない足取りで外の方角へと歩いていった。片手には徳利をぶら下げ、反対側には酒器を持っているため無防備極まりない格好だ。
それ以前に足取りは右へ左へ揺らめき、舌はまわらない。五臓六腑にまで酒が染み入っているので当然脳にも酔いが廻っている。
恐らく外にいる者達に酒を分け与えようとする心なのであろう。その警備をしていた者達が既に殺されているということも知らずに。
男はおんぼろな格子戸を開けた途端に血の気が引く思いになった。階段下には複数の仲間が斬られて倒れている姿が目に飛び込んできたのだ。
足はガクガクと震え、背筋は凍り、喉から声を発することもできず、それまで悦楽に浸っていた脳は一気に現実へと引き戻された。
この状況をすぐさま背中にいる仲間へと知らせねばならなかったのだが、口は開いているだけでその奥から言葉を引き出せない。足が固まって振り返ることすらできない。
男は木偶人形の如くその場に立っているだけで動けなかった。その直後、男の体は林の中から突然飛び出してきた竹槍にその身を貫かれてしまった。
縁の下に潜んでいた侍が竹槍の先端を削って威力は高めてあったが急所は避けている。しかし当分は痛みで起き上がれないだろう。
倒れている男を尻目に階段を上りきって侍の姿が目視できるようになった時、宴に酔いしれていた一同がようやくその異変に気付いた。
それまで雑然とした雰囲気がこの侍の出現で大半の者が一所に緊張が走ったのである。
ある者は傍らに置いてあった刀を手にとって侍の一挙手一投足に注目し、またある者は身近に置いていない自らの獲物を探して目が泳いでいた。
しかし一部の者は違っていた。異変に気付いていながらただ静かに腰を下ろして酒を酌み交わし杯を置かない連中がいた。
建物の奥に位置して御神体を祀っている神棚の目の前に座っている大男などは特にそうであった。肴の干鰯を口にして酒を水のように飲む姿は正しく豪快である。
大男はようやく顔を上げて真正面に立っている侍の姿を見た。
見ながら杯に並々と酒を注いで目を逸らすことなく杯の酒を飲み干すと、大男は突然口を開いた。
「見慣れない野郎だな。流れ者か?」
侍は答えない。ただ真っ直ぐに立っているだけである。
大男は自らを大門と名乗り、再び杯に酒を注ぎながら大門はさらに言葉を続けた。
「流れ者の一人身で此処まで乗り込んでくるとは大した度胸だ。ウチの者供が何人かあんたの厄介になったが、それは腕が良い証拠だ。あんた、俺と組まないか?」
大門の目は真剣であった。浴びるほどに酒を飲んでいても少しも瞳は淀んでいないし、舌も廻っている。思考回路も別段変わりない様子であった。
「最近では用心棒を雇う輩が多くなって仕事がやりにくくなった。だが、あんたみたいのがウチにいると大助かりだ。悪い話じゃないだろ?」
「下らん。」
侍は吐き捨てた。が、大門は未だにその言葉の真意を理解できないのか顎鬚をしゃくしゃくと触っている。
「己は町に下りて乱暴狼藉を働いて弱者から平穏な日々と貴重な財産を奪い、時には平然と無抵抗の民を殺めるその所業、最早万死に変えても尚償いきれない。」
そう、今この宴に参加している者達は大門を頭(かしら)とした盗賊団であった。
範囲は街道筋を中心とした四里の距離の村や町を狩り場として被害も甚大だと言われている。この所業を奉行所に届け出ても自らに火の粉がかかるのを恐れて対策を講じようとしない。
恐怖される理由として組頭格から上の人間が武士並に強いことである。特に盗賊団の頭の大門は賞金二百両がかけられている大物首であり、それだけの額の懸賞がつく程であるから相当強い。
その略歴だけでも凄まじい。二十になった頃に当時仕えていた家の者を一人で五人斬り殺して出奔、その後も十年に渡って各地で略奪と殺人を繰り返し一年前にこの土地に行き着いた。
街道で人の行き来が多く、その癖田園風景が広がっている土地柄に大門の性格にあっていた。大門は早速仲間を集めて付近の村々を襲撃すると想像以上の収穫があったため住み着いてしまった。
村々も手を拱(こまね)いているだけではなかった。武装団を結成して大門盗賊団から自分達の村を守ろうとしたが、突然津波の如く襲ってくる盗賊団相手に付け焼刃同然の戦力である武装団に勝てる見込みはなかった。
「……あんた、奉行所から雇われたのか?俺の首目当てか?それとも俺を倒して名声を買おうというのか?」
侍は黙って首を横に振った。大門はまた理解できなかったらしく目を丸くして訊ねた。
「金でもなければ名誉のためでもない。あんたは何が目的だ?」
「“義”のためだ。」
金も、名誉も、時に自分から人の道を捨てて欲望を満たそうとさせる効果がある。それはいずれ自らを滅ぼすことにつながる。
しかし“義”は違う。人として正しい道を生き、決して自らの欲望に負けたりはしない強い自制心がそこにはある。
侍は語気を強めてそう語った。
一方釈然としない顔で聞いている大門は理解に苦しんでいた。
これまで金と欲望のために生きてきた男だけにこの“義”という概念について理解できないのである。『生きるために盗る』という彼の中にある概念との差は埋めがたい距離にあり、理解する方が難しいかも知れない。
「……どうやらあんたと俺とでは住む世界が違うようだな。」
大門は後ろの壁に置いてあった斧を手に取ると、それに反応して一座の者も各々の武器をとった。
斧と言っても木こりが使うような普通の斧ではない。子どもの身の丈程ある大きさの刃で付け根に向かっていくに従って細くなっていく特別な斧であった。
当然そんな斧で木を切るわけでもなく、振り回したり邪魔者を斬り殺したりする時など暴れたい時にのみ使う代物なのであろう。
侍は咄嗟にその身を後ろへ跳んだ。その直後に大門が持っている斧が縦を割って振り下ろす光景が目に入ってきた。
斧が床を抉(えぐ)った衝撃で社は大きく揺れ、床は無残にも大きな穴が開いてその破壊力をまざまざと見せ付けていた。
しかし侍にはその破壊力をじっくり見物している暇はない。四方八方囲まれているこの状況を打開すべくすばやく社の外へと脱出した。
その後から続々と武器を持った大門一家の子分が出てきた。彼らの顔は酒宴の影響で皆々赤く色づいている。
機敏さと正確さは侍に利がある。勇ましく突進してくる相手に流れるような体裁きと的確な斬撃で瞬く間に三人を倒した。
その鬼神のような動きに一同は恐怖を感じて一斉に足が止まった。
「囲め!お前等じゃ相手にならねぇ!」
社から出てきた大門が大声で檄を飛ばす。金縛りにあった足が大門の檄によって再び活動を取り戻し、侍を囲むような形になった。
侍は再び囲まれる形になった。しかし顔色は特に変わっておらず、危険と思っていないらしい。
一通り囲んでいる形相を眺めていると突然足首を掴まれる感触がした。
先ほど切り伏せた内の一人が最後の気力を振り絞って侍ににじり寄り、両の手でしっかりと侍の足首を掴んでいるのである。
しかも片方の足首ではない。両足とも掴まれているため侍の体裁きに大きく支障が出る格好となった。
これには頭領の大門もしてやったりの顔をして満面の笑みで侍の足元にいる者達に声をかけた。
「よくやったぞ!お前等には後々たっぷり褒美をくれてやる!」
口ではこう言っているが、傷の状況などから判断すると侍を倒す頃にはこの二人の命が尽きている可能性は高い。なので結果的には二人の命を引き換えにして侍を倒すという風に捉えている。
この行動は仲間にも影響を与えた。死を恐れず向かっていく仲間の光景に発奮され、大いに勇み立った。
「そりゃ、かかれー!」
大門の号令の下、一斉に侍の方向へと津波の如く押し寄せていった。皆々その瞳には見返りに対する期待と大門の恐怖が秘められていた。
次々と襲い掛かっていき、暫く経たない間に土煙が上がって様子が見えなくなってしまった。
大門は確信はしていないが勝利を予感した。いくら剣の腕が立つと言ってもそれは一騎打ちでの話、大多数でかかれば技量すらカバーできると考えていた。
また囲まれることは人間の心理に少なからず悪影響を与える。囲んでいる相手が敵であれば尚更そうである。
土煙に包まれて詳しい状況がわからなくても、多数の犠牲はやむを得ないと考えて侍を討ち取ることだけはできると直感した。
そして物音は一切止んで、土煙が徐々に晴れて状況が見えてきた。濛々と立ち込める土煙の中に一筋の影があるだけで、他には人影らしきものは見当たらない。
予想と反していることに大門の脳裏に悪い予感が走った。
“あれだけの人数を一人で倒せるはずがない。”“あれは何かの間違いだ。”“心の奥底にある不安は取り越し苦労だ。”
大門は半ば祈る気持ちでその煙を見つめた。
そして完全に煙が晴れた時、その予感は確信へと変わった。
先程まで取り巻いていた者達は全て地面に伏しており、逆に足首を掴まれている侍はその場から一歩も動くことなく仁王立ちしていたのであった。
「化け物か……」
その図体から発せられたとは思えないくらい小さな声で呟いた。そこから先の言葉はあまりの驚きで喉に詰まって出てこない。
侍は自らの足に絡み付いている手を解くと、そのまま境内の方へとゆっくり歩みだした。
大門の動揺は目に見えている。勝ちを確信までしなかったものの討ち取れる自信があっただけに大門の心は大きく揺さぶられた結果、体中からは冷や汗が噴きだして手は細かに震撼している。
だが全ての手駒を動員して勝負をかけたため残ったのは自分一人だけである。引くことも手下を当たらせることもできない。
残された手段は生きる道を自らの手で切り開くこと―――。
「うぉぉぉぉっ!」
先程とは一変して獅子の咆哮に似たような叫びを上げて向かってきた。その両手には先程社の床を真っ二つに割った大斧がしっかり握られている。
階段から駆け下りて大きく体を捻るくらい大きく振りかぶり、そのまま平然と歩いている侍が斬撃圏内に入ると力一杯振り切った。
風圧で木の葉や砂は宙に舞い、小さな石も風圧に耐えられず転がっていった。だが肝心の侍の身にはかすりもしていない。
大門は我武者羅に大斧を振り続けた。かわし続ける侍相手に攻撃の隙を与えないことが唯一の防御策なのである。
圧倒的な攻勢にも侍の表情は涼しげだった。余裕とまではいかないが冷静に筋が見えているため難なく攻撃をよけることが出来る。
傍目からすれば大門が押しているように見えるが当事者側からすれば形勢は逆転していた。
大斧を扱うに相応しい体格ではあるが、威力重視で素早く立ち回る相手には当たりにくい武器の特性がここに来て大きく表れている。
既に追い詰められた大門にとって活路を見出すためには大斧で侍を倒すしか方法はなく、そのためには無我夢中で大斧を振るしか道はなかった。
だが運命の悪戯によって突如立場が逆転した。
大斧の刃筋を見切ってかわしたはずの侍が、板で仕切られた薪置き場の壁の隅に追い詰められてしまったのだ。
大門にとっては千載一遇の機会だった。これまで紙一重でかわされてきたが今回ばかりは紙一重でさけようにも逃げ場がない。
「がはは……やっと追い詰めたぜ。」
肩を大きく上下させ、息が荒い。汗も全身から噴き出しているが、大門には勝利の笑みが滲んでいる。
「あんたはなかなか強かった……だけど、俺はあんたよりも上だがな!」
ビュッと音がなるくらい渾身の力を込めて大斧を一閃した。その衝撃で風は渦巻き、板壁は無残に破壊された。
しかし、本来大斧から伝わってくるあるべき感触が伝わってこなかった。
大斧が侍に当たった感触が。
よくよく見ると目の前にいたはずの侍の姿はなく、大斧の餌食となった板壁だけが残っていた。
「眼前の勝利で浮かれているようではまだまだ詰めが甘い。」
後ろから声が聞こえた直後、後頭部に強烈な痛みが起こった。その衝撃で体は均衡を保てず前へと倒れていく。
柄の末端で打った一撃はなかなか応えるものだった。打たれた箇所は延髄より若干上の位置で、気絶こそしないが体の自由が制限される。
大門は山積みになった薪の中から這い上がって手元に落ちている大斧を取ろうとするが、全身麻痺しているかの如く動きが鈍い。握力・腕力も正常とはほど遠い状態で到底大斧を扱える状態ではない。
朦朧とした意識で立ち上がろうとするも足元もおぼついて上手く立てず、またしても薪の山へ倒れこんでしまった。
ぼんやりとした視界の中には消えた侍の姿があった。無論両足が地に着いている状態の。
侍は大門が大斧を振りかぶった直後に背後にあった板壁を利用して真横に一閃した大斧の上を跳び越え、逆に相手の背中を取って柄打ちを喰らわせたわけである。
この点では侍の方が数枚上手で尚且つ只者ではないことを伺わせる格好となった。
「ぐ……がぁ……。」
舌が廻らないのか発音がはっきりしなくて何を言っているのかわからない。だが表情や唇の動きから推測すると命乞いをしているように思われる。
だが侍の表情は険しく、目は鋭く切れ上がっている。
「部下には何の躊躇いもなかったのに自らの命になるとそんなに惜しいか……愚かな。」
その手に握られている太刀の柄をしっかり握り直すと、大門の表情はいよいよ慌てた様子になった。
今まで感じなかった恐怖・不安・苦しみなど様々な負の感情が心の底から込み上げてきているのだろう。だが侍の表情は厳しいまま変わらず、そして何も話さない。
体の奥底から湧き上がってくる不安から来る震えが止まらず、瞳からは恐怖から涙が溢れ出てきた。外見は一見すると鬼のような男も、今では赤子の如くただ怯えるしかなかった。
侍は黙って刀を持っている腕を高く振り上げた。大門の瞳には絶望と恐怖が浮かび、半ば諦めの表情も入っていた。
・
・
・
ごすっ、と鈍い音がした。
血飛沫は上がってないし、何より侍が持っている刀は天を向いて大門の体に刃は触れていない。
鳩尾(みぞおち)に一発柄打ちを喰らわしていたのだ。大門は口から泡を吹いて気を失っており、斬られた跡もない。
侍は手にしていた太刀を懐から取り出した塵紙で拭きつつ、その日初めて会った大男の変わり様を見て小さく呟いた。
「貴様を殺めることは簡単だ……だが、それではただの人殺しにすぎない。他の者は急所を外しておいた故、命に別状はない。」
誰一人として聞く者がいない闇夜は、少しずつながら空が青白くなりはじめてきた。
侍は備前長船の銘が刻まれている太刀を静かに鞘へと収めると、鳥居から街道へと続いていく道へ降りる階段を一歩ずつ下っていった。
その場に残されていたのは無数の怪我人と、無残に破壊された社と、闇夜を包んでいた静寂だけであった―――
侍は一人夜が明けてきた道を歩いていた。
街道に出ても来た時と同様に人気などなく、若干靄がかかっている道を行灯片手に街へと戻っていった。
街へ戻った後には匿名の書状を奉行所に放り込んで今朝方の状況を報告し、大門を頭とした盗賊団を引き渡さなくてはならない。
全て自らの得になることではない。手柄や名声など目的で行っているのではなく、一眠りすれば宿を発ってまた根無し草の旅を続けるつもりである。
これ程の腕があれば大名家に仕えれば優遇されるであろうし、道場を開けば門下生が集ってその門を叩くだろう。それを捨てて全国を放浪しているのだがらなんとも奇特な侍である。
暫く歩くと先程社へと向かう時に顔を洗ったあの川に差し掛かった。靄で先こそ見えないが、橋を渡れば街に着く。
しかし侍は街の方向へ足を向けず、またしても川へと下る道を下りていった。
靄で視界が確保されていないため火を入れた行灯を手に持っているが、空は既に青白さは薄れてきて白色へと変化しつつある。そんな状態では行灯は効力を成さない。
そして水が流れる音を頼りにして川の近くにまで歩み寄り、しゃがみ込んで再び手杓で水をすくった。
すくった水は前と変わらずやはり冷たい。しかし同じ水でも前より仄かに温かいように感じられた。
そのすくった水で顔を洗い、そのまま顔を上げると強烈な光が射し込んできた。
白く輝いた太陽が強烈な光を伴って姿を現したのである。
懐から手拭を取り出して濡れた顔を拭き、その強烈な光が作り出す光景を瞳というレンズにその日初めて通した。
「……美しい。」
つい言葉が漏れた。漏れたというよりこぼれたという表現が正しいだろうか。
何もかも闇夜の中とは違う。水も、空も、雲も、草も、石も、この世界に存在する物体全てが。
太陽の光に照らし出されることによってそれぞれが景色の一部分として形成され、その集合体である景色が時に人の心を大きく揺さぶり感動を与えてくれる。
朝日と靄に包まれた山河の光景に侍は心が洗われる気持ちになった。そして朝日の温かさに心身とも安らぎを覚えた。
侍は暫しの間柔らかな日差しにその身を包まれ、その場にしゃがんだ状態で瞳を閉じた。
その表情はまるで赤子が寝ているかの如く穏やかな顔であった。
次に目が覚めた時には靄は晴れ、日は若干高く昇っていた。街道には疎らながら人が行き来する姿も見える。
侍はゆっくりと立ち上がり、大きく欠伸を一つしてから街へ向けて歩き出した。その歩みは別段急ぐ仕草はなく、散歩をしているかの如くのんびりとした歩調であった。
宿に戻ると宿の主人に頼んで筆と硯を用意させて奉行所宛の文をしたためると、その文を宿の主人に託して自らは宿代と手間賃を手渡してさっさとその場を引き払ってしまった。
侍は風のように去った。この街の住人の大半はその侍の存在こそ知らないであろうが、『平穏』という侍が残した唯一の置き土産は住民の誰からも感謝されているであろう。
最後に宿の主人がこの先何処に行くか訪ねた時のことを記しておこう。
「お侍さんは何処へ参るのですか?」
「はて、拙者自身にもわからぬな。風の赴くままに旅を続けて参るさ。」
そう言うと侍は本当に風に吹かれるままに旅立って行ってしまった、とな。
了
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