彼の傍にいた三年間






 彼は島の外から来た人なのに、いつのまにか以前から島に居たような錯覚さえ覚えてしまう。
 人間という生き物は順応性が高いので、住んでいる場所に馴染んでいく能力はある。だが、そういうことがあるにしても、彼は島の住人として自然と溶け込んでいったように感じた。
 色々と言っている私でさえ、時々そのことを忘れてしまうくらいだ。邪険にしているのは私の祖母くらいか。
 なんと言えば良いか……彼を表現するならば、非常に温かいということか。性格や態度など目で見て判断できるものではなく、彼を包んでいる空気が非常に和やかで他の人を引き寄せている気がする。
 もちろん目に見えない何かだけで人が突き動かされることはない。彼は何事にも真剣で、自分の目標に突き進むための行動力と胆力を備えている。
 過酷な運命が彼の思考を止める程の衝撃を与えたとしても、彼は歩みを止めることはなかった。むしろ困難に立ち向かうべく加速していったように思える。
 そんな彼を眺めていることが多くなった。彼を見ていたら心が躍る気分になるからだ。



 [ 彼の傍にいた三年間 ]



 祖母と二人でひっそりと暮らしていたが、ある日を境にその生活は一変する。岬に祀られていた慰霊碑が何者かによって壊されたのだ。
 その慰霊碑は終戦直後この島近くで沈没したあけぼの丸の犠牲者を弔うために建てられたもので、その犠牲者の中に祖母と親しい関係にあった人も含まれていたみたいだ。
 思い入れが強いが故に慰霊碑が壊されたことに祖母は危機感を抱いたが、正直私はいつものことだと簡単に考えていた。
 祖母は何かにつけて他人に不吉なことを吹き込むので島の人々から避けられていた。一部では『不吉ババア』なんて呼び名もあるくらいだから、相当嫌われていたのだろう。
 だが、祖母の懸念は的中した。
 日の出高校野球部が公式戦を終えて島に帰って来た時、彼だけ明らかに困惑した表情で戻ってきたのだ。その後彼はあちこちで聞いたことのない人を捜し求めて島中を歩き回っていた。
 私もその名前の人物について問われたけれど、全く記憶になかった。彼は確かにこの島の人間で、日の出高校野球部のキャプテンだと言い張るが、知らないものは知らない。
 デタラメや法螺を言うような人ではないのでちょっと気になって調べてみたら、彼の言った通りその名前は存在していた。在校生名簿や戸籍にはしっかりとその名前が記されていた。
 だが、現実にはそんな人は島にいない。
 考えられるのは、彼が途轍もない労力と時間を重ねた上での犯行か、その人が島の住人全員から忘れ去られたか、のどちらか。
 これは慰霊碑が壊されたことの呪いと祖母は騒いでいる。慰霊碑が壊れたこと自体知っている人が少なかったのでそのことに対する災いだと言っても皆の関心は低かった。
 彼にもこのことを伝えた。目の前で人が消えた事実と、それを信じてもらえないことに対して彼は心理的に不安定になっていたので、この衝撃は計り知れなかったことだろう。
 そして呪いを解く方法を彼が祖母に尋ねると、はっきりとこう答えた。
 『甲子園出場』
 無念を代わりに晴らすことで怨念は消えて呪いもなくなると言った。日の出高校の野球部は悲しくなる程弱いことも知らず。
 結果的に野球部の一人が消えることになった試合も、県大会予選で弱小の部類に入る高校に惨敗したレベルである。しかも本人達は7回まで試合が出来たと喜んでおり、負けたショックよりも本土で遊ぶことの方に夢中になっている連中の集まりだ。
 こんな状況では甲子園出場など夢物語に近い。彼自身その単語を耳にした瞬間顔が硬直したのが傍目に見てわかった。
 絶望に包まれたまま彼は家路についた。その背中からは哀愁と諦めが入り混じった、複雑な感情が透けて見えた。

 翌日。日の出高校野球部の部室が全焼した。
 幸いにも怪我人は出なかったものの、部室に置かれていた機材は跡形も無く灰と化した。
 警察と消防の実況見分も行われたが火事の原因を特定することは出来なかった。自然発火したとは思えないものの、不審火と断定するには材料が少なかった。
 しかし、元々やる気の乏しい部員にとって部室が無くなったことは一つの区切りと多くの者が捉えていた。部室が焼失したことに伴い部員は次々と野球部を去り、野球部は解散状態に陥った。
 彼にとって追い討ちをかける出来事だったに違いない。茫然自失な彼は暫く部室のあった場所で佇んで動こうとしなかった。

 流石の彼も、ここ数日の出来事は相当堪えたようだ。心が折れかかっていることが誰の目から見ても明らかである。
 夕暮れ時に人気のない海岸で、沈み行く夕陽をただじっと見つめていた姿が、少し痛々しかった。
 でも……ただ立ち止まっている彼に他人事ながら苛立ちの気持ちを抱いた。
 やるべきことはまだあるのに、彼の瞳にはそれが映っていない。目の前の出来事ばかりに気を取られて成すべきことを見てない。
 彼の言い分を充分に聞いてあげた後、私ははっきり自分の思っていることを告げた。
 「呪いはあなた自身の問題なんでしょう?それに諦める前にまだやれることがあるはずです」
 じゃ頑張って下さいね、と言い残して私はその場から去った。これからどうするかは彼自身の問題だし、私がどうこう言う立場にある訳でもない。

 翌日の彼は昨日までの彼ではなかった。甲子園出場に向けて一心不乱に突き進んでいく、これまでの彼とは違った人になっていた。
 島に来た当初の彼は生活に慣れていないこともあって、少し控えめな印象を持っていた。積極的に前に出ようとはせず、常に受身の姿勢だった。
 呪いなんかに負けてたまるか。野球にかける情熱や思いといったものが、今まで以上に強くなった証なのかも知れない。
 そして同時に島の人間とは少し違う彼に対して興味を抱いた。何に惹かれたのかわからない。でも、彼を気にし始めたキッカケは間違いなくこの一件だったことは断言できる。



 時間はかかったが、彼は散り散りになった元部員達を野球部に連れ戻すことに成功した。さらに新学期には新入生一人が野球部に加わった。
 日の出高校野球部は彼の手によって生まれ変わった。前は目的もなくダラダラとしていたが、今は甲子園出場という明確な目標に向かって各自練習に打ち込んでいた。
 甲子園に出場できなければ自らの身も危ういことを知っている彼はガムシャラに練習に明け暮れていたが、その勢いが他の部員にも感染していた。彼が細かな指示を与えなくても各々が考えて動いていた。
 そして挑んだ夏の大会。
 相手は大安高校。この地区では何度も甲子園出場を果たしている強豪校。彼が島に来る前まで通っていた学校でもある。
 新生野球部の初陣にしては相手が悪すぎる。こちらは前の大会で泡沫候補相手にコールド負け、対して甲子園に手が届くレベルの実力校。
 結果は、前評判通りだった。前の野球部から比べれば善戦したと評価されるが、所詮はコールド負け。さらに相手はこちらが弱小校と見て控え選手のみ。
 相手との実力差を嫌ほど見せ付けられた結果となった。
 大会後、クラスの机が一つ多く出ていることに気付いた級友が、余分な机を用具庫に片付ける光景を目撃した。
 おかしなことに机の中には今年発行された教科書が詰まっていた。明らかに最近まで使われていた形跡もあり、級友は気味悪がっていた。
 誰かあの場に居たっけ?と思い出そうとするが、記憶にない。考えるだけ無駄なので、覚えていない程度の人だったと割り切るしかない。
 そしてクラス中の誰もがその席に居た人物のことを知らないので、大したことではないと皆考えていた。只一人を除いて。
 彼はその席に座っていた人のことを覚えていた。
 大会前までその席に居たのは山本という人物だったそうだ。野球部員で、大会終了後に神隠しに遭ったようだ。
 無論野球部員でさえ覚えていないのだから島の人間も覚えているはずがない。またしても知っているのは島の中で彼一人だけだった。
 これで犠牲者は二人目。幸い野球を続けられるだけの人数が揃っているので以前のように野球が出来ない心配はないが、改めて自分が置かれた立場を再認識させられた。
 甲子園に行けるチャンスは残り二回。もう、やるしかない。



 最近祖母の様子がおかしい。
 春先から比べて明らかに体調が悪い。肌の色が黒くなり、頬もやや痩せて、表情も優れない。さらに不気味さが増してきたなんて陰口が聞こえてきそうだ。
 それもこれも最近夜更けにこっそり寝床を抜け出していることに関係しているに違いない。静かな場所なので布団の中にいても微かな物音でも耳に入ってしまう。
 さらに、押入れの中にしまってあったアルバムを出してきて、色褪せた写真を時が過ぎるのを忘れる程じーっと眺めていることが多くなってきた。
 祖母がいない時にそのアルバムをこっそり確かめてみると何枚かの写真が元々あった場所から失くなっていることがわかった。何の写真があったのかはわからないが、それ程思い入れの強い品なのかも知れない。
 自分の体を虐めることが命を削ることだと理解しているはずなのに、何故祖母は寿命を縮めてまで夜半に行動しているのか。そこまでして得られる代償とは何か。
 答えは祖母が常に秘めている写真の中にあった。



 ―――祖母は想い人の無念を晴らすために彼を利用している



 あけぼの丸の犠牲者の中に祖母の想い人が乗っていると聞いたことがある。名前は『河島廉也』。
 終戦後に島へ帰って来る途中、乗っていた船が日の出島近海にて機雷に触れて撃沈。想い人を含む19名が死亡する大惨事となった。
 想い人は野球部に所属していて相当凄腕だったらしく、野球部にも所属していた。当時は戦争もあり練習することすらままならない状況だったが、時間を見つけて一生懸命練習していた。
 戦争が終わってようやく好きな野球を思う存分出来る矢先に起こった悲劇。
 そんな想い人と彼を重ねて見ているのかも知れない。写真で見る想い人と彼の外見は非常に似ており生き写しと勘違いしても不思議ではない。
 しかし現状は予選すらまともに勝てない体たらく。野球をすることが出来ることに対して喜びを感じるどころかお遊び程度にしか考えていない連中ばかり。
 祖母は慰霊碑の件も含めて彼を利用と考えた。
 野球部が負ける毎に一人部員が消える強力な呪いをかけると共に、ハングリー精神を高めるために彼を満足に野球が出来ない逆境に叩き落した。
 全ては想い人の無念を晴らすために。

 でも、そんなことをしたって想い人が喜ぶはずがないし、今やっていることは祖母の独り善がりと言われてもおかしくない。間違っている。
 祖父は亡くなるまでずっと祖母を愛していた。両親がいない私を精一杯の愛で包み込んでくれた。
 それなのに祖母は祖父の想いを蔑ろにして昔叶えられなかったロマンスを追いかけている。自らも故人の気持ちを踏み躙っているではないか。
 今の祖母は過去の想い人と添い遂げることしか考えてない。傷ついているのは自分だけとしか思ってない。
 ……これ以上祖母が命を削っていく姿を見たくない。そのためには私が行動するしか方法はない。
 例えそれが修羅の道であろうとも進んでいくしか道はないのだから。



 秋季大会一回戦。奇しくも一年前と同じ対戦カードになった。
 夏の大会は地方大会の優勝候補筆頭に挙げられた大安高校。聞けば主力を温存していたということで相当ショックだったに違いない。
 新生野球部の門出としては最悪の船出だったが、果たして今回はどうなるか。
 こっそり本土にまで出てきて球場で観戦していたが、薄氷を踏む勝利となった。
 8回まで相手投手に押さえ込まれていたがラストイニングに逆転。見事新生野球部の初勝利を手にすることが出来た。
 歓喜の輪の中で一段と輝いている彼の姿を見ていて、なんだか自分のことのように嬉しく感じた。苦労してきた姿を目にしていただけに感慨も一入である。
 だが、今日の勝利で応援する人の邪魔をしなければならない。負けた場合には手を下さなくても良いが彼の悲しい顔を見なければならないのでそれもまた苦しいのだが。
 翌日準備しておいた物を野球部に届けておいた。みんな根が良い人ばかりなので疑うことなく手をつけてくれるだろう。
 しかし自分一人だけ安全圏にいるのも心苦しいので校舎裏から野球部の部室を観察する。全てを見届けるのも、私に課せられた義務だと想う。
 練習の休憩時間に部室から笑い声が聞こえてきた。尋常ではないくらいに大きな声がグラウンド中に虚しく響く。
 一回戦勝利のお祝いと次の試合に向けての景気づけでキノコ鍋を差し入れた。数種類のキノコや肉に混じって笑い茸を入れておいた。
 笑い茸の毒性は弱いが食中毒には代わりは無い。1週間程度の入院が必要なので次の試合にはどうしても出場できない。
 これで祖母の悲願からまた一歩後退することになる。
 結果として何も知らない甲子園を目指す人達の希望を奪うことになる。
 私は復讐のために夢を潰すのだ。消し去ることの出来ない罪は一生背負っていくことになるだろう……私は祖母同様に業が深いのかも知れない。



 心の底から彼を応援する気持ちと祖母の思い通りにさせたくない気持ちの葛藤を笑顔で隠して、彼と親密な付き合いを続けた。
 世間一般から言えばこれは交際と呼べるのかな。祖母は絶対に認めてくれないだろうけど。
 でも彼と一緒にいる時だけ気持ちが安らぐことに自分でも気付いている。私にはない物を持っている彼に少しずつだが惹かれていった。
 そして彼に近付けば近付く程に己が行っている行為への自責の念が強くなる。
 こうして普通に彼と会うこと自体が凄く悪い気がしてならない。だって私は彼が呪いに負けないように頑張っているのを妨害している。
 そもそも私が誰かを好きになる権利など持ってはいけないと思う。裏で悪事を行いながら表で平然としていられるような図太い神経は持ち合わせてない。
 彼と会う時は確信に触れないように話題には気をつけた。気をつけるというより無意識に避けているという方が正しいか。
 野球の話や呪いの話が彼の口から出てくると心臓がドキリと跳ねる。ついに彼が私の悪事を知ってしまったのか、と。
 常日頃から笑っているようにしているので恐らく私の動揺に気付いていないと思う。むしろそう信じたい。
 でも彼を騙しながら会うのがいつまで持つかわからない。その証拠に何回か自責の念を堪えきれずに彼の前で涙を流したことがある。
 彼が真実に気付くのが先か、甲子園に行くのが先か、祖母の呪いで消えるのが先か。私にはわからない。
 ただ彼と会うことが辛くて嬉しいことであることに変わりはない。一見相反する感情が私の心の中で棲み続けている。



 新学期になると転校生が日の出高校に入ってきた。
 彼から聞いた話によると自分達以上に野球に関する造詣が深く、間違いなく甲子園に行くためのキーマンになると言っていた。
 当初本人は野球をすることに対して抵抗をしていたものの彼が口説いて入部させたのだとか。やはり彼は素晴らしい人だと改めて思い知らされた。
 高揚した表情で話す彼の顔を眺めて聞いている私まで本人になったかの如く嬉しくなる一方で憂鬱な気分にもなっていた。
 彼が惚れ込んだ才能の持ち主が助っ人として野球部に入ったことで甲子園出場に向けて大きく前進したことになる。これは私にとって良いニュースであり悪いニュースでもある。
 予選が始まるまであと3ヶ月弱。今日も彼は甲子園に向けて一生懸命汗を流して練習している。
 今の私に出来ることは遠くから彼の姿を遠くから眺めることだけ。あくまで私は傍観者であり他人なのだから。



 そして迎えた最後の夏の大会。泣いても笑ってもチャンスは一度きり。
 ここで甲子園出場が決まれば呪いの恐怖から解放される。反対に負ければ野球部全員の存在が根こそぎ消されてしまう。
 彼と会うことどころか彼のことを思い出すことも出来ない。前までは特に何も思わなかったけれど、今は胸が締め付けられる。
 一方で甲子園出場を望んでいない自分がいる。予選一回戦の今日、本土に向かう船に常温で何日間か放置して痛んだ弁当を仕込んでおいた。
 でも……当然ながら彼も口にするだろう。例え試合に勝っても二日か三日経過すれば治るとは言えその間彼は苦しむことになる。
 負けて欲しい。でも彼が苦しんでいる姿を見たくはない。
 私は当日の朝に手作りの弁当を彼に手渡した。荷物になるかも知れないが船の中の弁当に手を出すことはない。
 勝たないために精一杯妨害しているけど、やっぱり私は彼が好きなのだ。改めて自分の気持ちを思い知らされた瞬間だった。
 彼の喜びを分かち合う気持ちと祖母を恨む気持ちを心の中で天秤に何度もかけた。その度に祖母の身勝手な思いが最終的に勝って私は彼の行く手を阻んだ。
 祖母への恨みが強いにしても僅差。その僅かな差が私の心にブレーキをかけることが出来なかった。
 でも今は違う。確実に彼への想いが祖母への気持ちを上回る。もう彼がいなくなって悲しくないなんて有り得ない。それ程大きな存在になっていた。
 もしも負けてしまえば彼とは二度と会えなくなる。会えないだけではなく、この島に彼が居たことも、彼と交わした言葉も、彼の顔も、全てが私の中から消されてしまう。
 彼が乗った船が水平線の彼方に消えるまで埠頭で見送った。そして無意識の内に船に向かって手を合わせていた。

 帰宅してからは彼のことで頭が一杯だった。万が一に負けても呪いで記憶を消されないための抵抗かも知れない。
 そんな心配も杞憂に終わった。チームメイトの顔色が一様に悪い中で彼は元気な姿で島に帰ってきてくれた。
 初戦突破を喜ぶと共に金輪際野球部に対しての妨害工作を行わないことを心に誓った。


 
 その後日の出高校野球部は快進撃を続け、遂に甲子園出場を決めた。この快挙に島中は歓喜の渦に包まれた。
 もがき苦しんで掴んだ栄光を裏から見ていたので嬉しい反面複雑な気持ちになった。私は素直に喜んでいいものなのかと。
 私は彼が勝てないように邪魔をしてきた。絶望の淵に立っていた彼を支え、欠かせない存在となった彼を。
 それも負けてほしい理由が祖母の過去との訣別のため。到底許されることではない。
 このまま快進撃を続けていけば何れ祖母の念願である甲子園優勝を果たすことになる。今の彼ならどんな強敵だろうと撃破出来ると確信出来る。
 ……頭で考えても仕方のない話だ。ここまで来た以上は私も全力で野球部を応援することにした。
 呪いも野球部の管理も他人の思惑も一切関係ない。あるのは彼と野球部を純粋に応援する心だけ。


 甲子園出場を成し遂げたことにより消滅の危機は去った。それでも彼はまだ帰ってこない。
 全国の高校球児が憧れる夢の舞台に彼は立っている。これは夢ではなく現実なのだ。
 しかも彼の夢は未だに続いている。遠く離れた甲子園の地から凱旋していない。
 では何処にいるのか?まだ甲子園の舞台に立ち続けている。
 日の出高校の勢いは留まることを知らず、全国の強豪を撃破して今日はいよいよ決勝戦に臨む。
 

 自宅の方から何か倒れる音がした。その倒れた音が妙に鈍くて、音を聴いた瞬間からザワザワと胸騒ぎがしたので家の方に行ってみる。
 確か居間で祖母が今日の甲子園決勝を見ていたはずだ。音の方角と距離から考えて居間から聞こえたものと思う。
 駆けつけてみると……テレビの前で倒れこむ祖母の姿があった。
 彼にかけた呪いが対象者や周囲の人々にまで影響する強力な呪いだけにその維持だけでも大変だった。
 それこそ命を削る行為に胸が痛んで、私は祖母に諦めてもらうために野球部が負けるよう邪魔をした。
 昨年秋の予選を棄権した際には気落ちした表情で佇んでいるのと見た時にはホッとした。これで少しは大人しくなると思い、ホッとした。
 だがそれも束の間、祖母は願掛を止めなかった。寧ろ行為はエスカレートしていった。不甲斐ない野球部の顛末に祖母の心に火をつけてしまったようだ。
 雪がちらつく寒い日に薄着で寒行をしている祖母を見た時には流石に止めに入った。だが祖母は気にも留めない。
 死ぬのは怖くない、逆に知り合いが多くて楽しいかも知れない、と笑っていったが聞いている方からすれば冗談でも笑えない。
 これ以降も祖母は体を酷使し続けた。自らの命と引き換えに想い人の無念を晴らすために。
 そして悲願が達成されると同時に命の限界が訪れた。
 私の声は祖母の耳に届いていない。口にするのは遠い昔に亡くなった想い人の名前。
 色褪せた写真を胸に抱えて、祖母は穏やかな笑顔を浮かべていた。
 ずるい。
 あれだけ自分のことを心配させておいて、他人に迷惑をかけておいて、自分は望みが叶ったら想い人の元へ旅立つのか。
 許せない。
 ふつふつと湧き上がる怒り。
 でも……こんな表情をしている祖母を初めて見た気がする。とても柔らかい笑顔で眠っているようにも見える。
 もう少しこうして見ていたいかも。眠っているのだから邪魔をしたら悪い気がした。
 やがて祖母は長い間離れ離れになっていた想い人の元へと旅立った。その間私は見守ることしか出来なかった。





 祖母の葬儀に日の出高校の祝勝会とバタバタした日々が続いて、ようやく島全体が落ち着きを取り戻した頃。
 私と彼の二人で岬の慰霊碑に向かって歩いていた。何気ない素振りを見せているが、今日は意志を持ってやってきた。
 全てを彼に打ち明ける。それに伴う痛みも、覚悟して。
 呪いによって消された人々も無事戻ってきた。そして居なかった人の記憶も穴埋めされていて、居なかったこと自体が無かったことにされていた。
 でも、確かに呪いは存在していた。
 野球の記録上には消されていた人の出場がない。記憶の上では試合に出ていたことになっているにも関わらず、だ。
 この事実を知っているのは全てを知っている彼と私しかいない。他の人にこの事実を伝えても信じてくれないだろう。
 そして私は謝らなければならない。謝っても許されるような問題ではないが。
 まずは彼に一枚の写真を手渡した。祖母が最期まで手放さなかった想い人と映った写真。こうして眺めていると本当に生き写しのように思える。
 少しずつではあるが、言いたいことを頭で整理しながらゆっくりと語りかける。
 生きている者の方が死んでいる者よりも怨念の影響が強いこと、私が祖母に抱いていた思い、野球部に巻き起こった呪いの副産物と考えられていた妨害工作の裏側。
 最初こそ呪いのおかげで甲子園に行けたので感謝していると話していたが、私の話を聞いていく内に表情が強張ってきた。
 話している私も込み上げてくる胸の震えを堪えきれずに涙が零れてくる。拭いても拭いても滂沱の涙は止まらない。
 その結果、私は祖母を見殺しにした。
 もしもあの時即座に医者を呼べば今も祖母の命はあったかも知れない。私は安らかな顔をして横たわっている祖母を眺めることしか出来なかった。
 罪の独白を静かに聞いていた彼は少し間を置いて微笑みかけた。
 「天本さんは結局おばあちゃんのことが好きだったんだよ。本当は全部おばあちゃんのためにやっていたのだろう?」
 以前彼と一緒に歩いている最中、車に轢かれて瀕死の猫を見つけた。
 小さな体に無残に刻まれた黒いタイヤ痕、道の真ん中で体全体で息をするその姿。普段なら黙って見過ごしてきたけれど今日はそんな気にはならなかった。
 最期を看取ってあげたい。今日ここで会ったのも何かの縁だと思った。
 彼にその旨を伝えると一緒にいると言ってくれた。私は残された猫の体力を少しでも奪わないように気をつけて、優しく猫を抱いて神社へと向かった。
 神社に着いて早々に祖母から「さっさと殺してやった方がそいつのため」と冷たく言い放った。
 確かにそうかも知れない。残された時間は少なく、決して楽なものではない。思い切って殺してあげた方が猫のためになるという祖母の意見も一理ある。
 でも、命ある生物が死ぬ時は誰かが傍にいるだけで違った最期になるとその時は思った。これは単なる私の気まぐれだ。
 他人に強制するものでもなければ他人から止められるものでもない。彼も自分から付き添ってくれたのだ。
 このことを彼に話したら「それが優しさではないか」と言ってくれた。それならば私がしたことも彼が言う優しさになるのだろうか。
 それでも私がやったことは決して許されることではない。私は最低な人間だ。
 すると彼は「全部おかしな呪いのせいだよ」と笑ってくれた。彼の身に降り掛かった様々な災いは全て呪いのせいで、私とは無関係なのだと。
 そして今まで話したことを本気のことだと勘違いする人が出てくるかも知れないから他人にしてはいけないと忠告してくれた。全ての出来事を呪いのせいにしてしまうつもりなのだ。
 ……嗚呼、なんて人なんだ。
 ここまで酷い思いをしてきたのに恨み言一つ言わない彼の優しさが、今の私には一番沁みる。
 視界がぼやけて彼がどんな顔をしているのか伺うことは出来ないもののきっと笑っているに違いない。
 私は彼に背中を向けて元来た道を駆け出した。今のままでは顔向けが出来ないし、彼の顔をまともに見れそうにない。



 その後も私は彼の傍にいる。彼は私の傍に居てくれる。
 あの日以来変わったことが一つある。笑顔が自然に出るようになった。
 これまでは努めて笑顔を作っていた。彼にはニコニコしていれば幸せがやってくるからと言っていたけれど、それもある。
 本当は感情を表現することが苦手なため。無表情だと人から怒っているのではないかと疑われるので普段から笑顔でいるように心がけていた。結果的には他人から自分を守る盾の役割を果たしていたのかも知れない。
 でも、今は彼と一緒にいると意識しなくても笑顔でいられるようになった。心の底から湧き上がって来る思いが素直に顔に出ているからだと思う。
 彼に惹かれたのは、全てを包み込む優しさが全身から滲み出ていたからに違いない。
 私はこれからも彼の優しさに包まれて生きていくことだろう。もう遠くから眺めている存在ではなく、寄り添って互いに作っていくパートナーになっているのだから。





   fin.






 実はこの作品、実はいつもの作品と違った事情がありました。
 pixivで天本さんをメインに作品を投稿している方が居まして、その方の文章が天本さんへの愛情が滲み出ています。天本さんをメインにした以上には比較されることは確実で、作品を書く以上「あ、この程度か」と思われたくないのは作者としての性。私なりに天本さんの魅力を最大限引き出せるように努力致しました。変なライバル意識?自意識過剰?そんなこと言わないで……(汗)

 天本玲泉から見たパワポケ4の流れ、という感じになってしまいました。“しまいました”という表現になったのは、元々の筋と少し意味合いが違った作品になってしまったということです。ちょいと消化不良気味かも。今回も一人の視点でずっと固定しましたけれど、もっと第三者の視点を入れるべきだったのではないか、淡々と自分の想いや感情を書いているけれど他の人との会話を入れた方が良かったのでは、と色々考えが出てきます。
 しかしこの作品はこの作品で良い作品だと私自身は信じています。天本さんの気持ちの動きなどが出ていて良かったかな、と思っています。

 しかしパワポケ4の主人公、器が大きい。あれだけ様々なことがあったのに『全部おかしな呪いのせいだよ』って。カッコイイじゃないですか。この一文を書きたいがために書き始めた作品ですから、上手にお膳立てして書けたのでその点満足。

 (2011.09.23. up.)

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