【紅い瞳】
とあるホテルの一室。そこに二人のカップルがいた。
繁華街の一角にあるカプセルホテル。駅からも近いこともあってサラリーマンが多く利用している。
チェックイン締め切り間際に入ってきて慌てて手続きを済ませるとそのまま人目を避けるようにして部屋へ。
従業員の目から見てもその様子は只ならぬ雰囲気であったという。
冷たい雨が降っている中、その二人は寒いのにも関わらずコートを着ずにアタッシュケース一つで駆け込んできた。
当然雨に打たれたのだから衣服は濡れている。だが拭おうともせず、二人はただ寡黙にホテルの部屋に入っていった。
まるで何かから逃げているように……
部屋に入った二人はアタッシュケースの中から薬が詰まった小瓶を取り出した。
両者共に顔には生気がなく、非常に疲れている様子だった。
濡れている服を脱ごうともしないで、ただ二人は沈黙している。テーブルの上に置かれた小瓶を挟んで向かい合って座っている。
「……これ、飲むの?」
女性が話しかけるも、男性は黙ったままである。
壁にかけられた時計の針がコチコチと部屋中に響く。それ以外には自分たちの吐息しか音がない。
この部屋にあるのは重苦しい静けさだった。
男性は大きく息を吸い込んで、肺からの空気と一緒に言葉を吐き出した。
「あぁ……。」
目の前に置かれている小瓶に男性が手を伸ばすと、それまで硬く締められた蓋を開けた。
そして中に入っている外の空気と遮断していた無色透明なビニールの布を取り出す。小瓶の口からは数え切れないくらいの白い錠剤が見える。
小瓶を傾けると、中にあった錠剤が拒むことなく受け皿になっている男性の左手に山積になっていった。
「これを飲めば……楽になれるのね。」
「そうだよ。これが僕と君だけしかいない楽園への切符さ……」
男性は諭すような口調で女性に語りかけた。
小瓶を再びテーブルの上に置くと、その右手は左手の上に山になった錠剤から手掴みで彼女に渡した。
が、女性の顔にはまだ不安が色濃く残っている。
男性は立ち上がって洗面所にいくと、近くにあった2つのコップに水を入れて持ってきた。
コップの中に入っている水は小刻みに震えている。この男性もまた不安があるのである。
女性にコップを渡すと男性は大きく深呼吸をした。
「……良いね?『いち、にの、さん』で一緒に飲み込むんだよ?」
女性は静かに首を縦に振った。
片手には先ほど渡された水が入っているコップ、反対側には山積された錠剤。同じように男性の手にも錠剤とコップがある。
「じゃあ……いち、にの、さん」
ほぼ同時であった。錠剤を口の中に含んで一気に水で流し込んだ。冷たい水がのどを唸りながら胃へと流れ込んでいく。
(嗚呼、これで楽になれる。僕と彼女が一緒になれる……)
そして意識が朦朧としてきた。まるで人形のような表情になった二人はその状態を保つことができず、しばらくしてバタンと倒れこんでしまった。
その衝撃で机の上に置いてあった小瓶がテーブルの上から転がり落ちる。
横になった小瓶からは中身が無常にも出てきていた。その錠剤は誰にも拾われることなく、元の中身に戻されることもない。
小瓶の側面には一枚のシールみたいなものが貼られている。細かく羅列された文字列も見る人にとっては重要な情報なのかもしれないが、この二人には関係なかった。
なぜか。二人はそんな文字の羅列を見ることなく、ただ特定のキーワードが書かれた小瓶を捜し求めていたからだ。
そのキーワードとは―――“睡眠薬”
男性が再び目を開けたときには別世界が見えていた。
幸か不幸か確かにその場所は先ほどまでいたホテルではなかった。が彼女の姿は見当たらなかった。
その場を見回したが周りが暗いせいで遠くまで見渡せない。歩いていると靴の音が反響していることから限られた中に囲まれた空間だとはわかる。
もし一緒に来ているのなら必ずこの音に気付いてくれるはず。歩き回れば確実に見つかるであろう。そんな思いで彼はひたすら彼女を探し続けた。
だが彼女の気配すら感じられない。物音は自分の出している音だけで他はまったく聞こえない。
さらに重鈍な空気が彼の心をさらに追い込む。焦りと不安が心の底から嫌なくらいに湧いてくる。
普通の速さで歩いていたはずが徐々に不安が足にも移って次第には知らず知らずの内に走り出していた。
そしてついに息が切れてその場で進むのを一旦止まった。
息は荒く、肩が上下に激しく動く。胸が苦しい。汗が全身から噴き出してきて、湿った肌に衣服がまとわりついてくる。水蒸気でも出るような勢いで体の底が熱かった。
それも当然である。彼は必死になって気付かなかったのだが、彼はこの空間を30分ほどひたすら歩いて走っていたのだ。
ふと顔を見上げても、地面を向いても何もない。星も見えないし、地平線すら見えない。
(一体ここは何処なんだろうか……。)
彼の脳裏に疑念が浮かんだ。
それまで現世から解き放された開放感から何も感じなかったが、今冷静になって考えてみるとその場所が何処なのか検討も付かなかった。
再び周囲を見回してみるも同じであった。何もなく、ただ闇だけが存在する空間。
そして成すことなく立ち尽くしていると突然強烈な不安が体全体を襲ってきた。全身はブルブルと震え、背筋に悪寒が駆け巡り、心臓が圧迫される感じである。
先程整った呼吸がまたしても荒くなりだした。心臓が圧迫されているにも関わらず鼓動は早まるばかりで細胞の酸素供給量が欠乏しているようだ。
気持ちを落ち着けようと努力するが、不安は募るばかりで留まる気配すらない。
このままの状態だったら自分の心が壊れてしまう。そんな思いに駆られる程であった。
精神的に辛いのである。先が見えず、何も聞こえず、自分だけしかいない世界。あまりにもそれまで住んでいた世界と違っていた。
「そろそろ苦しみはじめたかな。」
とても驚いたときに“寿命が3年縮む”という表現をするが、正にその気持ちだった。
今まで誰もいなかった自分の後ろからいきなり声がかかってきたのだ。そんな驚きは体に良い影響を与えるはずがない。むしろ寿命を縮めるだけである。
だが声がして暫くすると、それまでどうしても静まらなかった不安が何故かすーっと消えていった。
震えも止まったし、背筋に走っていた悪寒も止まった。心臓の鼓動は驚かされた分だけ早くなっているのだが。
「き、君は誰!?」
「僕の名前はラク。この空間の支配者さ。」
その姿を見ての第一印象は非常に物静かな印象を持った。
性別がわからないが、女性のような優しい顔をしている。話し方も澄んだ声をしているが、ゆったりとしている。
タキシードを身に纏っているせいか体付きは細く見える。どちらかというと体を使うことより頭を使うことの方が多いのかな、と想像した。
だが少し変わっている所もあった。髪の毛は銀髪で瞳の色は深紅、さらに肌は真珠のように白い。
碧色の瞳なら見たことはあるが燃えるように紅い瞳というのも何だか不気味であった。つい血を連想してしまう。
だが、それを除けば実に美しい人だった。男であれ女であれ惚れてしまいそうになる。
しかしながらラクの言動に若干引っかかる部分もある。
(苦しみはじめた……空間の支配者……?)
今の自分には到底理解できる単語ではなかった。それにただ違和感を覚えただけで、その言葉に対して深く考えようとも思わなかった。
それよりもまず慣れない環境に順応していくことが先決だった。そうしないとどうしようもないからである。
「それで、君は何故この空間に来たの?」
何故、と問われても答えるのに困った。別に望んでこの場所に来たわけでもないのだし、どうやってここまで来たのか過程もわからない。
睡眠薬を飲んで、意識が朦朧として、次に目を開けた時には既にここにいたのだから覚えているはずがない。
そして重大なことを思い出した。
彼女がいないのだ。
確かに意識がなくなる直前まで一緒にいたはず。さらに一緒に睡眠薬自殺を図ったのだから近くにいないわけがないいはずだ。
キョロキョロと辺りを見回すがやっぱりいない。
その様子を察知してラクは何かを思いだしたように言葉を発した。
「あ、君の探している人はここにいないよ。」
それは突然の宣告だった。彼にとってそれは地獄のどん底に突き落とされた気分にさせるのに充分すぎる言葉だった。
その短い言葉はラクにとっては何の効果も影響もない。だからこそ無表情でそれをさらりと言えたのであろう。
だが人間の思考というのは悪いことを良い方向に持っていこうとする。事実を事実と受け取らずにねじ曲げてしまうのだ。
無論彼も同じであった。
思考回路は当然パニック状態である。今まで信じてきたことをその一言だけで全て水に流されてしまったのだから改めて思考回路を練り直さなければならない。
(嘘だ……嘘に決まっている。何か隠しているんだ。きっとどこかにいるはず……。)
彼の頭が限界の限りを尽くしてはじき出した答えがそれだった。
そうと決まれば善は急げとばかりに走り出した。どれくらいの大きさか知らないまま、途方もなく広いかもしれないこの世界を。
そんな彼の後ろ姿を黙って立ち尽くしているラク。追うこともせず、止めることもしない。ただその顔には不思議そうな表情が浮かんでいた。
何分走っただろうか。夢中になっているせいか覚えていない。
時計も携帯も持っていない。ただ感覚だけで時間を察するしか方法はない。
(砂漠の中に落ちているゴマ粒を探すほどの確率でも良い。彼女に会えればそれで良し。後のことは後から考えよう。)
走りながら恐らくそう考えているのであろう。今はどこかにいるかも知れない彼女を捜すことが最優先だった。
そして走り続けた成果がようやく見えた。闇の奥遠くに微かな人影が見えたのだ。
彼はその人影が誰だかすぐにわかった。彼女だ、そう違いないと。
さっきまでいたラクはその場から一歩も動いていなかったし、例え地平線の彼方から走ってきたとしても追い越せるはずがない。だから答えは一つしかない。
ラクが言っていた『ここにいない』はずっと先にいるという意味だったのかも知れない。そう解釈すると遠くにいる人影は間違いなく彼女だと断定した。
だが、その希望も近付くにつれて絶望に変わっていった。
後ろ姿が明らかにおかしいのである。黒のタキシード姿に白くふわふわとした髪の毛。闇の中で際だつ白いうなじ。
面と向かって見なくても結果はわかる。紛れもなく先程まで目の前にいたラクの姿であった。
ここまで懸命に走ってきた足もラクの場所に近付くにつれて鉛のように重くなってくる。気分も比例するように重くなる。
彼の頭は真っ白になり、瞳にはいつの間にか涙が浮かんでいた。
最後にはラクの目の前へ行き着く前に全身の力が抜け落ちたように膝から地面へガクッと落ちた。涙は瞳から頬を通って地面に滴り落ちる。
「……探しても無駄。例え一緒に死んだ人がいたとしても、人間死ぬ時は誰でも一人なんだから。」
ラクは諭すような口調で語りかけてくるが、それがまた彼にとっては惨めでもあった。
「……全ては釈迦の掌の上か。」
彼はぼそりと呟いた。この場所がどのような場所なのか徐々にわかってきたような気がしたのだ。
わかることはこの世界には限りがあって、その範囲も狭い。恐らく走って数分といったところか。そして存在するのも自分とラク以外誰もいないこと。
たったこれだけを知るために何十分かかったことやら。その数十分も全て無駄な時間だったのだが。
例え足掻いてもそれは無駄なのである。今の自分はまるで掌に乗せられた蟻のような存在なのだろうか。
もう抵抗しても無駄なような気がしてきた。彼は直感ながらラクは自分の全てをわかっているように感じた。
ラクも彼がようやく抵抗しなくなったのを見計らっていたらしく、再び穏やかな口調で話し始めた。
「君に伝えておきたいことがあるんだ。」
「……。」
魂を抜かれたような表情で話に耳を傾けている。その裏側では諦めと絶望が渦巻いていた。
返事を返す力も抜かれていた。ただただ人形のように黙って聞いていた。
「君の彼女の話さ。」
“彼女”というキーワードに彼は咄嗟に我に帰った。
当然である。あれ程彼女を思い、力の限り捜し回り、彼の優先順位で最上位にある彼女である。
彼女との愛を阻む障害が数多く、そのために人生を捨てたのだ。彼女の居所などは藁にも縋りたいくらい聞きたいのである。
顔色はみるみる生気を取り戻し、眼は水を得た魚のように活き活きし、心持ち姿勢も上がってきた。
「彼女は!彼女は何処にいる!?」
必死の形相だった。
つい先程まで死人のような眼をしていたはずが一転して真剣な眼に変貌している。あと少しで掴みかかるくらいの勢いで迫っている。
そんな様子にラクは動じることなくマイペースにのんびりとした表情を浮かべている。
そして、どこからか取りだした一冊のノートを手にとってページをめくっていく。
非常に分厚いノートである。軽く百科事典や六法全書並の厚みに加えて大きさも半端ではない。
紙の色は長年使い古した物らしく黄ばんでいる。だが、紙質は悪くないものを使っていた。
彼はその中を密かに覗いてみたが、何が書かれているかさっぱりわからなかった。
文字が読めないだけでなく、初めて見た文字であった。
アルファベットにも、日本語にも、漢字にも、ハングルにも、アラビア文字にも、その他の文字にも該当しない。その文字はまるで暗号のように奇妙な形をしていた。
ラクの傍らには羽の部分が紫色に染められた羽ペンと黒インクが宙に浮いていた。
宙に浮いているなんてマジックか無重力な映像でしか見たことがないので素直に驚いた。が、ラクの表情は全く変わらない。
「……一つ言うけれど」
その時ラクの表情は初めて変わった。
「これを聞いても絶対に嘘だと思わないで。今から言うことは全て事実だからしっかり受け止めてね。」
目が真剣だった。先程までの雰囲気とは一転威圧的なムードがピリピリと伝わったくる。
彼はコクリと小さく頷くとラクは大きく深呼吸をして、唇を動かしはじめた。
「……彼女は相当の咎人だよ。」
それを聞いても彼には今一つ理解できなかった。
これまで一緒にいた中でそのようなことは一回もなかったし、とても罪を犯すような性格ではないのを十分承知している。
「まず、これまで見せてきた彼女の顔は表の仮面だよ。」
(え?そんなまさか―――)
これまで様々な驚きに直面してきたが、これ程のショックは体験したことがなかった。
驚きを通り越してただ呆然とするしかなかった。何にも言葉が出てこない。
彼女の顔……つまり、これまで接してきた彼女には何か隠された裏の顔を持っていることを示していた。
社長令嬢、大和撫子、可憐、温厚、八方美人、性格器量全て良し、何をさせても華がある、みんなのアイドル。これら全ては偽りだったのか。
しかしこれは序の口だった。ノーガードな状態でさらに追い打ちをかけるように次々と新たな事実が浮き彫りになっていく。
『自殺直前まで5人の彼氏を持っていた。』
『欲望願望が強くて、特に金銭に関しては異常な執着を持っていた』
『自分の行く手を遮る者があろうなら、どんな手段を使ってでも排除してきた』
『実に演技が上手で、嘘も多数。無論彼女の経緯もほとんど嘘同然』
次々と繰り出される真実にノックアウト寸前であった。
これまで信じて培ってきた印象が瓦解の如く崩れ去っていくのである。一度崩れ始めたら止められないのである。
だがそんな彼に最後のトドメとも言える真実が告げられた。
「彼女は君対象で複数の生命保険会社に加入していた。無論受取人は彼女。君を毒殺しようとしていたのだよ。」
正しく一撃必殺であった。
それまでどうにか保ってきた理性がその瞬間に一気に吹き飛んでしまったのだ。
辛うじて意識は保っているが、思考回路は完全に使い物にならないくらいの大ダメージを受けている。
だが、そんなボロボロな状態になっても彼女に対する愛は変わっていなかった。
「で、でも、あの時彼女はちゃんと睡眠薬を飲んだよ?」
これは事実である。掛け声と同時に口の中に睡眠薬を放り込んだことはしっかりこの目で見ている。
もしも彼を毒殺しようとするのならば飲まないはずである。保険金目当てなのに自分まで自殺してしまっては意味がないからである。
無論少量の睡眠薬ならば普通に眠りにつくだけだが、あの時は山になるほど積まれていた。
「うん、確かにそうだね。そこが今回彼女が唯一犯した失敗なんだ。」
彼は固唾を呑んでラクの話を聞いている。
「君のようなケースは前までに何回かあったが、彼女は毎回飲んだように見せかけて相手が寝込んだ頃に睡眠薬を吐き出していたんだ。そして自分は生きて身代わりになった相手の保険金を受け取って一丁上がり、なわけだ。」
だが、今回のケースでは違っていたとラクは話す。
「今回、君が渡した薬の量がこれまで以上に多かったんだ。しかも水まで渡された。飲み込んだは良いが、戻すことが出来ずに水と一緒に飲んでしまった、と。」
自業自得だよ、とラクは吐き捨てるように最後の言葉を結んだ。その表情は僅かながら怒気を含んでいた。
だが彼の精神は小さな砂山が風の力に負けるように脆く、そして静かに崩れていった。
もう何を信じて良いのかわからなくなった。自暴自棄になって自分の存在すら見失っていた。
思い出も、記憶も、自分自身も全て消えてしまえば良いのに―――そう思っていた。
しかし、彼の瞳には枯れていたはずの涙が浮かんでいた。まだ心の片隅には彼女を想う気持ちが残っているのであろう。
何もかも失い、人生まで捨ててでも守りたかった彼女に裏切られた。正気を失った。自分自身すら見えていない。それでも、である。
ぼんやりと見えている世界の中で、彼は呆然と時間を過ごしていた。
もう半日は経過したであろうか。膝をついて、全身の力がなくなって座り込んでいて動かなくても彼は彼だった。
その間ラクは先程の分厚いノートに忙しく筆を動かし、雑事に追われていた。時々息抜きにハーブティを飲みながら彼の様子を窺っていたりもした。
だが、そんな立ち直る兆しもない彼を見ていて遂にラク自身が我慢できなくなった。
羽ペンをノートの間に挟むと、彼の方に歩み寄っていく。彼はラクが近付くまで微動だりしなかった。
そしてラクが彼の目の前に立つとようやく顔を上げてラクの顔を見上げた。
「……君は此処に居ても邪魔なだけだ。」
ラクは指を鳴らすと、彼の背後に大きな扉が出現した。
扉が勝手に開くと、扉からは眩しいばかりの光が射し込んできた。
が、ラクはその光から顔を遮るように手を出している。どうやらラクは光が苦手なようである。
「この扉を通ると別の空間に出る。行き先は僕にはわからないけれど、君を必要とする世界に辿り着けるはずさ。」
彼を促すように話しかけると、意外にも彼は即座に立ち上がって何の迷いもなく扉を潜っていった。
そして彼の体が光の中に包まれて見えなくなると扉が自動的に閉まって、それと同時に扉自体が瞬時に消えてしまった。
扉が消えたのを確認すると、再びラクは筆を取ってまた何かを書き始めた……。
彼が次に目を開けた時に見えた光景は現実世界であった。
視界に入ってきたのは何処かの天井のようであった。真っ白に塗られた漆喰壁が妙に心を落ち着かせてくれた。
「気が付いたかね。」
声が聞こえた方向に顔を向けると、傍らには白髭を蓄えた白衣の老人が立っていた。
そして周りを見てみると、どうやらその場所は病院のようだった。すぐ隣には誰もいないベットに綺麗に畳まれていたシーツと枕が整頓されて置かれている。
反対側に目を向けると小さな戸棚の上に、黄色く咲いた花が花瓶に生けられていた。
その花は名も知らないのだが、とても清楚で可憐に見える。一本だけ一輪挿しになっているのもまた良かった。
さらに目を上に向けると大きな窓から心地よい風が病室の中に入ってくる。なんとも言えぬ安らぎが彼の精神を穏やかにさせた。
「……若いのに早まったことをするものだ。あれ程多くの睡眠薬を一度に服用しても生きているなんて奇跡としか言い様がない。」
意識が朦朧としている中で老人の言葉は胸に響いた。知らず知らずの内に瞳には涙が溜まっていた。
だが、決して涙を止めようとはしなかった。止めたくなかった。
なんだか涙と一緒に悪いものも一緒に流れていくように感じたからだ。
「警察は自殺未遂の疑いで書類送検するそうな。まぁ、罪償いで自分が犯した罪を感じるのも良かろう。」
老人は独り言を喋るような口調で話していた。それが何を意味するかは自然と察することができた。
「だが……人生万事一本道ではない。これを機に下手に自分の命を絶とうなどと考えるなよ。」
彼は胸がいっぱいになる思いで、一言も発することが出来なかった。老人から精一杯のエールに感極まったのである。
そして横たわりながらも頭を下げた。それが老人に伝わったか伝わらなかったかは定かではない。
その後、彼はあの空間にいた時の記憶を断片的でしか保存していなかった。
そして時間の経過と共にその記憶は風化していった。まるで風に削られる砂の塔のように―――
だが、この話はまだ終わらない。
暫くして彼が居た空間に一人の女性が迷い込んだのである。
「……も〜、ここどこなのよ!歩きまわって足いたいし、つかれたし、まっくらだし。」
出てくる言葉は愚痴・文句ばかり。一生懸命彼女を想っていた彼とは大違いである。
既に足元はおぼつかない状態で、疲弊しきっている。化粧も汗で落ち始めている。
そんなとき、目の前に誰かが現れた。先ほどのラクである。
彼女はその姿を見つけると、これ幸いとばかりに猫なで声で近づいていった。
「ねぇ、そこの人〜。ここはどこなんですか〜?」
女優顔負けとも思える迫真の演技だった。
自分が普段隠している顔を、一瞬にしていつもの可愛げのある顔に変貌させてしまった。まるで女優が本番で見せる芝居のように。
しかしラクの表情は険しいままである。これには彼女も困惑した。
これ程甘えているのに相手は依然として表情が険しいのである。これまで経験してこのようなことは一度もなかった。
彼女は動揺すると共に心の底から怒りがこみ上げてきた。
(なによ、コイツ。なんでこんな顔しているのよ。)
ラクは溜め息を一つ吐いて、ようやく口を開いた。
「……まさかこの場に至るまで猫をかぶるとは。実に馬鹿馬鹿しい。」
その言葉の一つ一つに棘があった。
だが初対面の相手にこんな言い草をされて怒らない人などいない。自分の全てを知っており、見透かされていることも理解していない状態で。
「あんた、だれ?」
つい素が出てしまった。
「名前なんて存在しない。……が、いつも僕に対してみんなはこう呼んでいる。“エンマ”と。」
その名前を聞いた瞬間、彼女は体全体が萎縮するように感じた。
当然である。小さいころから『嘘をつくと、死んだら閻魔大王様の所に行ったら舌を抜かれる』と言い聞かされいた本人が目の前にいるからだ。
物事がわかるにつれてそのような迷信は信じなくなったが、その恐怖が今になって一気に吹き出してきた。
「え……えんまってあの?」
「君は罪を犯しすぎた。欲望に惑わされ、巻き込むべきでない人を殺してまで我欲を満たそうとした。その罪は非常に重い。」
エンマの口調は落ち着いているようであるが、その一つ一つの言葉は非常に重く彼女の心に突き刺さる。
目を見開いて彼女を睨みつけると、彼女はすっかり勢いを失ってしまった。
その瞳は彼を見ていたときのように透き通った赤ではなく、業火の炎を思わせるような紅に変化していた。怒っているのである。
そしていつの間にか罪を裁く者としての威厳が体全体から出ており、その細かな仕草一つにまで尊厳を与えていた。
彼女はこの場所がどのような場所かようやく気がついた。
「もしかして……ここは地獄?」
「そんな世界は存在しない。ここは天国でもあり地獄でもある。死んだものが次の生のために待っている場所であり、それまでの罪を清算する場所だ。」
この空間の支配者、つまりエンマはそれを取り仕切る人であった。
もっとも、彼は好んで支配者になったのではない。他の住人からエンマの博識ぶりと冷徹・温和な性格を使い分けることが評価されていつの間にかそんな立場になっていたのだが。
普段は温和で誰隔てなく優しい人でお茶を片手に読書にふけるのだが、いざ彼が怒りだすと別人のように冷徹で恐怖を与える。二重人格ではないかと思わせるくらいに豹変するのである。
だからこそこの空間の住人はエンマを推薦したのかも知れない。
彼女は瞳に涙を浮かばせ、懇願した。
「……ねぇ、ゆるして?おねがい、一生のおねがい。」
しかし、エンマの表情は変わることはなかった。それどころか先程以上に鋭い目つきで彼女を睨んだ。
「『許して』などというその考え、万死に値する。」
指を鳴らすと彼女の周りにどす黒い雲が発生してきた。
何が起こるかわからず、精一杯の悲鳴を叫ぶがエンマの耳には聞こえない。雲が音を吸収しているである。
そして雲がすっぽり彼女を覆うと、一塊になった雲は上へ上へとゆっくりとした速度で昇っていった。
一方雲の中にいる彼女はその中の環境に気が狂いそうであった。
何も見えず、何も聞こえず、何も発せず、何も触れず、さらに自分自身が重力から解放されて水の中にいるような状態であった。感覚が全て麻痺したのである。
彼女は必死になってその雲から抜け出そうとするが思うように動けず、ただ体が回転するだけで気分が悪くなるだけだった。
そして見上げるようにして雲の塊を見つめるエンマの目は、怒りから哀れみに変わっていた。
「……無感の雲に一ヶ月ほど篭って自らの行いを悔いるのだな。」
エンマはそのまま後ろを向くと、一度も振り返ることなく闇の奥向こうへと消えていった。
その後、その空間で彼女の姿を見たものも彼女の行方を知るものも誰もいなかった。
ただ現世では彼女に関しての情報は大々的に知らせていた。
『ホテルでカップル睡眠薬自殺 一人死亡一人重体』
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