【あの日、地下鉄の改札で】
――その日は酷く、僕と美由紀を蔑むような雨が降り注いでいた。
シンジュクの町が濡れたネオンに溶け込み、遠く霞んでいく。雫が跳ね返っているコンクリート道路をバイクで突き抜けている僕。自分の後ろには、顔を僕の背中に沈ませながらも、しっかりと両腕を回し、抱きついている美由紀がいる。……僕はヘルメットを被っている。 でも彼女は被っていない。だから、僕の背中は彼女のヘルメットに早変わりするんだ。 本当はキチンとしたヤツを被らなければいけないと、彼女に言ったけれど、頑なに拒んで首を横に振った。『何故?』と僕が尋ねるように首を傾げると、 「だって、ハルちゃんの背中のあったかさは、ヘルメット越しじゃ分かんない……から」 思わず二人して赤面してしまったけれど、腹を抱えながら大黙笑した、僕の家の前。
――そして、今に至る。
途中で降り出してきた冷徹な悪魔にもめげずに、きっと僕らの気持ちも一緒に、何処かへと伸びているであろう、この道を走っている。でも、今はのらりくらりと走っている余裕なぞ無い筈だ。僕は特に問題無いであろう。全身を、ライダー用の防水加工仕様の黒いスーツ姿であるから、雨ニモ負ケズして、バイクのハンドルを握り締めしっかりと運転出来ている。 しかし彼女はどうであろうか。夏物のノースリーブの上着に、ジーンズと全くの私服だ。 私服だけだ。幾ら、僕の背中が雨除け風除けになろうとも、幾ら冬では無く初夏であろうとも美由紀の体は横殴りの雨粒で大いに濡れ、冷えてしまうのは目に見えていた。 アクセルを開けるだけ開いて、彼女を早く地下鉄の駅まで!
美由紀が穏やかな笑顔をしていても、濡れていては泣いているようにしか見えないよ……。 そんな美由紀は見たくはないから、僕はエンジン音を必死に高鳴らせ、走るのだ。 でも、僕の焦りとは裏腹に、彼女は優しく僕にしがみ付いている。彼女に抱き寄せられながら時折軽くスリップしそうになる車体のバランスを確かめながら、僕はシンジュクの交差点を見つめるのだ。彼女も。横断歩道を頭に手を添えながら、手を繋ぎ、そして騒ぎながら走り抜けるカップルを、信号待ちの僕と彼女は見つめていた。彼氏が咄嗟に洒落た言葉を投げ掛けると、彼女は双眸をなるべく細めて笑っていた。そんな何気ない会話を聞く度に、それだけでも僕は湿り気の多い雨のように、陰鬱になる。美由紀も、こんな僕の気持ちを背中越しから感じてくれているのかな。
――信号が青になった交差点を右にバイクを傾ければ、地下鉄の駅はもう直ぐ其処だった。
*
路肩に止めてから、1−Aと表記されている駅出入り口の階段から地下へ。 とりあえず彼女は、ずぶ濡れだった。きっと水滴が体に纏わり付く感じが不快で堪らないだろう。生憎、体を拭いてあげるモノは装備していなかった。心残りも拭い去れないまま、地下に下りた僕と美由紀は改札へと足を着実に進める。何気なく彼女の手を引きながら、さりげなく、彼女の掌を温めてあげようとした。だって……美由紀の体が小さく震えていたから。 白い支柱と行き交う残業帰りのサラリーマンやOLを掻い潜りながら、それでも僕は互いを結ぶ手と手を離さずしていたら、気付けば券売機の場所まで来ていた。改札も目の前である。 僕は慌てたように、困ったように美由紀の表情を覗う。やっぱりその時も彼女は、僕に向けて優しく笑いかけてくれたよ。僕を抉り取るような邪気が漂っていない、はにかみ顔で。 「な〜〜に? そんな陰険な顔してないでさ、ほら! 男ならシャキッとしよう!!」 『いや……君が思い切り濡れているから、心配だよ。少なからず、此処は弱冷房が作動しているから尚更だ。冷たい雨に曝されて、そして冷房に体を冷やされて……』 「ハルちゃんは心配性で几帳面なんだね。大丈夫だよ! 私は平気!! 〜〜〜〜っ!」 美由紀が誇らしげに僕に向いたとした瞬間、彼女は体を震わせながら、大きなクシャミを飛ばした。紛らわすように美由紀は鼻を人差し指で押さえながら、小さく照れ隠しをしている。 僕はそんな美由紀を確認するや否や、焦燥しながらスーツの上着のファスナーを徐に開ける。 脱ぎ終わるとそれを、夏なのに氷像になろうとしていた彼女に羽織らせらた。照れ隠しを打ち砕いてしまったかのように、彼女の顔が赤めいている。上着に体を包ませながら、行き成り僕の 胸に正面から寄り添ってきた。慌てふためき、両腕をジタバタさせたが、今度はどうやら美由紀の方が僕をわざわざ心配してくれているらしい。 「タンクトップじゃ、今度はハルちゃんが寒くって?」 『ん……? 僕は、平気だよ』 黒い素地に右上辺りに小さいロゴのワンポイントが入っているタンクトップが、何とか上着の下に存在していた。変に気遣ってくれているけれど、防水加工のスーツのお陰でそんなには水気は感じない。しかし彼女は上着を羽織っているものの、それだけではびしょ濡れの美由紀を乾かせない。成す術無いようにプラットホームの見える改札口全体を見回していたら、改札機のすぐ横に、位置付けされていた駅員事務室が、僕の定まらない視線を定まらせた。 「どうしたの、ウロウロしちゃってさ」 もしかすると、ひょっとするかもしれない。僕は余りにも突飛な性質で、どのように跳ね返ってくるのかも理解が出来ていない。それは明らかな欠点であるが、僕の頭の中は美由紀で染色されているようだ。ちょっぴり歪んでいるのかもしれない。……けど僕は、彼女の綻びの表情を抱いていたいから。 『ちょっと待ってて』 「えっ、ハルちゃん? そっちは事務室だよ!」 制止させようとする彼女の張り上げた声が、深夜十一時過ぎのプラットホームへと吸い込まれていった。その声は僕の体を颯爽と突き抜けていったと、確信できた。でも、 『うん、大丈夫、大丈夫。拭くモノ……何でもいいから貰ってきてあげるよ』 ただ美由紀の声が響いてこようが、僕は微笑みながら言い返した。 「でも、ハルちゃんは!!」 その場で狼狽する美由紀。そして僕は事務室に向けて、何事も無いように歩みを進める。 何故に彼女がうろたえているのか……本当は嫌に成る程、自分の奥深くに刻み込まれていた。
分かっている、分かっているけど――
美由紀が、僕に普通にそして優しく話し掛けてくれればくれる程に、勘違いしちゃうよ。 偽りだと頭にハッキリ浮かんでいても、溶けるように錯覚の迷路に滴り落ちてしまうよ。 でもね、例えどんなに迷い込んだとしても、美由紀に引かれて僕は走っていると思うよ。
だから僕も、負けずに君の掌を引いてあげたい。 君が僕をゆっくりと揺り動かしてくれる限り、僕は君に何度でも尽くしてあげたいから。 今……この時の僕の行動が、間違いだとしてもね。
『すいません、宜しければ拭くモノをお借りしたいのですが』 改札機を通る乗客を見張れる其処のガラス窓を、小さく作った拳で軽く叩いて合図した。 深夜の改札を眠たげに、暇そうに見守っていた年配の男性が、怪訝そうな表情を投げつけながらも、出入り口のドアノブをゆっくりと捻る。帽子を被り直しながら、僕に尋ね返してくる。 「どうしましたね、お客さん? 何かご用件でしょうか?」 『行き成りですいません。実はタオルか何か体を拭けるモノを、借して欲しいのですが』 申し訳無さそうに短く整髪されている黒髪をポリポリと、人差し指で掻いている僕。 でも、僕の返答を聞くと男性は次の一声が出せないのか、口を半開きにしながら、眉をひそめて実に困った顔をしている。僕も非常に困ってしまった。 『あの、駄目ですか? やっぱり……その――』 まだ続きであった僕に、職員は頭をペコリと下げつつ、開口する。 「申し訳難いが、お客さんの言っている事が、私には理解できません」 『えっ?』 僕の体に無数の画鋲が刺さったような気がした。でもその一つ一つの痛みが段々と重なってきて、確実に蝕んでいく。職員の呆気にやられた顔を見ながら、僕も呆気になりながら、ふと自分の喉に手を宛がう。……そして、次の言葉を言ってみた。言おうとした。
――――――――!!
とんでもなく酷く、喉の気管を擦るような呻き声が唯一の“コトバ”だった。 あんなに活発だった僕は、地下の通気口に生気を吸い取られていく。 今まで信じていた。美由紀との会話も、今こうして目の前で不思議がっている男性との会話も僕の日常の中の一切れだと信じていたよ。でも……それはやっぱり錯覚だった。 確信がついたら何だか頭の中で張られていた一本の細い糸が、プツリと切れた。もう何も出てこないだろう。ただ不確かな言葉の羅列だけが、僕と僕の周囲を困惑させていく。 「…………ぁ、……ぇ……ぅっ?」 無駄だと思えても、何とか身振り手振りで伝えられないだろうか。多分、手話なんて素人には通じやしないから。“拭くモノを借してください”という一言を伝えるために、僕は死にもの狂いだった。でもやればやるほどに、駅員は眉をしかめて腕を組み直すのだ。
その時だ、僕の後ろから……露になった肩をそっと抱いてくれる温かさを感じたのは。 その時だ、僕が懸命にこなそうとしているのを、いとも簡単にこなしてしまったのは。 悲しみを抱く自分を断ち切ってくれるのは、いつも美由紀だった。今も……。
「すいません、何でもないんです……本当に。ね? ハルちゃん?」 頭を下げながら僕に促す美由紀に、僕も軽くお辞儀する。胸に流れる恥ずかしさとやるせ無さがジンワリと氾濫していた。しょぼくれた顔をする僕に目もくれず、駅員は一緒に謝ってくれた美由紀に目を向けた。 「あ! 随分とびしょ濡れのようだけれど? もしよければ、余っているタオルが事務室にあるから取って来てあげようかね?」 広がっている氾濫をさらに広がせるような、追い討ちの一言だった。でも逆に助かったと開き直りをはかる。結局僕は、彼女の手を引くことが出来たのだろうか。出来ているのだろうか。 そんな苦味を喉の奥に突っ掛からせながらも、これで彼女を安心して見送れる事が可能なら、それで良いよ。諦めたように虚ろな眼を浮かばせながら、少しだけその場から後ずさりした。 今度は逆の立場になって、美由紀を遠目から見守る自分がいる。
「要りません!! 結構ですので!! ……失礼します!」 事務室にタオルを取りに戻ろうとした駅員を、美由紀叱責するような口調で止める。振り返る駅員につけこむ隙を与えずに、美由紀は会釈しながら颯爽と事務室の傍から離れた。呆然とする駅員を背に、気のせいだろうか泣いていた。後ろで成す術も無く立ち竦んでいる僕の腕を掴み掛かると、そのまま引き摺るようにズカズカと歩き出す。このまま何処へ行くかと思いきや、すぐ近くに備え付けられているプラスチックで象られたベンチに、僕と一緒に座り込む。 『み、美由紀?』 無論、“失礼します”と強く告げた割には、失礼するに値する距離感は事務室からは無い。 頭を掻きながらどうしようかと迷っている先程の駅員が見ているが、目の一つも配らずに、ただ美由紀は僕の隣りに密着しながら、正面一点を捉えている。別に対象物が捉える先に点在せず 其処にはコンクリートの壁の無表情さが待っているだけだった。やがて、駅員はとうとうそれ以上声も掛けずに、そそくさと事務室内に引っ込んだ。 ドアノブの金属音が消えた瞬間、美由紀は一点を見据えたまま、声量を押し殺して、泣いた。 僕の上着を纏っている筈なのに、どうしてか体の震えが止まらないでいる。僕が思わず、自らの腕を美由紀の肩に回そうとしたら、逆に彼女に思い切りに抱きつかれた。 「ごめん、ごめんね? 私、ハルちゃんに恥かかせちゃった……」 『いいんだよ。僕がちょっと調子付いちゃったから』 そして堰を切ったように、彼女は声を荒げた。僕の“コトバ”を知っているせいで、美由紀は自分自身を責めている。僕を錯覚に陥れている僕自身が、こんなにも憎いものだろうか。“アイウエオ”も芳しく喋れない、発声練習を毎日何時間と繰り返しても喋れないままの僕を寛大に許してくれて。それでも何時しか、君は“コトバ”を知ってくれて。そして今は、その“コトバ”を知ってしまったせいで、理不尽に傷ついて。本当はいいことで、こんなに君が愛しく思えてしまうのに、理解したいが為に、僕が傷ついてしまっていると思って。
――君は、泣いているんだよね。
『少し、休もうね? 疲れさせて君を帰すのは嫌だから』 「ありがとう」 抱きついてきている美由紀を、より一層に抱き寄せて優しく髪を撫でた。瞳を閉じながら、嗚咽している美由紀を宥めさせるように、彼女の呻きのほとぼりが冷めるまで、僕は彼女の好きなようにさせてやる。泣き疲れて、眠ってしまいそうな君を、右肩に凭れて転寝をしてしまいそうな君を、全部受け入れてあげようか。 「ちょっとだけ、ちょっと……だけ」 そう言い放ち終わると、重苦しそうな瞼を閉じる。ベンチに凭れて、僕にも凭れて、そのまま身を委ねてくれた。暫くして横から空気を掻き分けるように、小さな寝息が聴こえてくる。僕が授けた上着を羽織ってるだけでも、きっと充分なのに、美由紀は僕の腕にすがり寄る。そんな彼女が愛らしく、滑稽に見えてしまう僕は非常に不謹慎だと思う。
――どうしようか、終電までに君が目を醒ましてくれなかったら。
駅員事務室と自動改札機が並列している向こう側、プラットホームには、次々に乗客の今日一日の想いを乗せた列車が入って来ている。でも、時刻的に列車の中の想いは少なくなっていて寂しさを感じた。改札機を抜ける人も疎らで、その皆が皆肩をガクリと落としながら、僕と美由紀の前を通り過ぎていく。“あぁ、疲れているんだな”と思えば、それは美由紀にも当てはまる。 ――嫌だった、僕が声帯障害を患ってから、美由紀の疲れの原因はその僕であることを。
行き交う人々の疲れよりも、穏やかに揺れながら、でもせせこましく去っていく列車よりも、彼女の気疲れは大変なものである。いつかした別れ話。それは僕が言い出ししたっけ……。 あまりにも苦労を掛け過ぎた。高校にも行けず一人暮らしで発声練習は進歩無し。そしてその練習にも付き合ってくれる美由紀に申し訳なくて、僕はこの改札口で別れ話をしたっけ。話せていないのに、美由紀は僕の心なんか容易く見透かしていて、軽く僕の頬をつねった。 「私、ハルちゃんと別れたくない! 話せなくても、優しく笑う貴方が、好きだから!」 別れ話なのに、好きの一点張りで押し倒した君を、僕は思わず抱き締めた。僕もやっぱり君が好きで、好きなのに別れて逃げようとした自分が許せなかった。そんな僕を包み込んで引き戻してくれた君に、胸が張り裂けて。蟠りが全身を支配する前に、僕は―― 『僕も、好き。……ごめんね、嘘だよ。……大好きだ』 僕の“コトバ”を分かってくれた君は、背伸びして僕の首筋に手を回してくれた。 「えへへっ、これでまだ両思いだね!」 そう言いながら笑っていたけど、君は目尻に涙を残していたね。
――今もまだ、両思いかな。
また静けさを取り戻してしまったプラットホームの煤汚れている黄色線を眺めつつ、僕は呆ける。まだアイウエオも言えなくて、偽りの“コトバ”でしか気持ちを伝えられない僕を、彼女はまだ許してくれているのだろうか。無理して“言葉”を出そうものなら、扁桃腺がパンパンに腫れ上がって、みっともない掠れ声しか出ないこの僕を。
別れ話をした時のように、目尻に薄らと涙を浮かべながら屍のように寝込んでいる美由紀。 もしかしたら今度は美由紀から、別れ話を持ちかけられるかもしれない。でも僕には、拒否出来る理由が見当たらないだろう。
僕はすっかり喪失感に満たされていた。だんだんと、彼女を抱き寄せている力が弱まって、僕の意識も何だか朦朧となってくる。改札口を照らす蛍光灯が、街中のぼやけたネオンに見えてきて、何故かしらもう駄目かと思えてきた。 「ハルちゃん……、好き……」 肩口から聴こえる彼女の寝言、ぼやけていた頭の中が弾け飛んだ。すぐさま、美由紀に目をやると、少し笑っている彼女の寝顔があって、僕も少し顔を赤らめながら瞳を閉じて笑えた。でも美由紀が僕の腕を刹那、ギュッと力を強めて握ったものだから、今度はどうしたかと思えば、 「好き……だから、行かないで……置いて……いかないで」 寂しげに僕を呼ぶ美由紀。
……そして、僕は何だか悔しくなって、体中に激しい痛みが走るくらいの空洞がポッカリと腹の真ん中に出来てしまったように、そのまま死んでしまいそうだった。死んでしまいそうな痛みの原因は、“コトバ”を分かってくれている美由紀の心を忘れてしまった僕自身。別れ話を唐突にした日、ようやく彼女を理解した筈なのに、それを僕、ハルミチという男が勝手に、蛇口を捻って水道水で薄めていた。……僕は、また彼女を置いて去って行きそうだった。美由紀が今、腕を引き千切らんばかりの力で止めようとしているのを、僕はことごとく振り払ってしまいそうだったね。
『美由紀……』 僕は、君の名前を呼ぶ。君の名前を呟いたら、君の表情がまた柔らかくなってくれたよ。 あれほど、僕の片腕を強く握り締めていたのに、安心したのかな、力を緩めてくれたよ。 『ごめん、もう……何処にも行かない』 君は素直に、僕に笑顔をいつも見せてくれる。その笑顔が、たまらなく僕の不安を取り除いてくれている。僕は愚かしい事に、そんな君を置いてけぼりにしようとした。変な勘違いが僕を嘲笑って、引き離そうとした。でも揺さ振られている僕にしがみついていてくれて、僕の考えを正してくれる、君がいる。 『こんな僕だけれど……望んでくれるのなら』 じゃあ、僕も君を離さない。僕に凭れている君の体を、僕はさらに抱き寄せる。今日起きた事の全部も君との大事な宝物、それも一緒に。今までも、そしてこれからも。君の体の冷たさが消えて、代わりに今度は僕の体温を吸収していく。どんどん、君が温かくなっていく。でも何だか僕のほうが冷たいなぁと思えたら、それは頬を伝う柔らかい雨にも似た涙のせいで、君を抱きながら僕はそれを拭う事無く泣いている。こんな時に、さっきの君みたいに声を荒げられたら、どんなに楽だろうな。僕は声を押し殺すしか出来ないよ。
いつか“アイウエオ”をちゃんと話せるまで、今は君の隣りでそうさせて欲しい。 トンネルからの風がプラットホームを駆け巡り、この改札口を飄々と抜けていくけれど、僕の気持ちはこんな容易く流されるものにならないようにするから。君の隣りに僕を置かせて欲しい。 「……ぅ……ん?」 急に、眼が重くトロンと溶けるように、まどろみを帯びてきた。あぁ、今度こそは頭上の蛍光灯が遠くぼやけて来たな。僕も何だか疲れてしまった。自分勝手な泣き疲れかもしれないけれど美由紀の傍が心地良くて、僕が彼女に体温を分け与えたと同じように、美由紀も僕に体温を分け与えてくれているようで、それが温かくて、すっかり油断してしまう。
気付けば、僕は君の肩に頬を乗せて、蝋燭の灯火を消してゆく。 乾いた君の体に身を託し、重い重い瞼をゆっくりと閉じていった。 『僕も、ちょっとだけ……』 君は僕が好きで、僕も君が好き。この当たり前がずっとずっと変わらぬように、神様にお願いしてみようかな。いつまでも、いつまでも、手を繋いでいられるように。
――どうしようか、終電までに僕と君が目を醒ましてくれなかったら……。
(了)
本格的な恋愛小説……私が最も苦手とするジャンルをいとも簡単に書けるゴズィラさんが凄いと思います。 登場人物の心理描写を見事に描いており、尚かつストーリーに関しても見る人を飽きさせない展開の連続。この作品には読者を惹き付ける何かがあるように思えました。
このような上質な作品を書けるゴズィラさんの腕には毎回毎回脱帽されます……今後も勉強させていただきます。
(当サイト2周年記念)
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